「やい!石原知事よ。自分の息子が余人に変え難いなど詰まらないことなど言わないで都内の歩く者が分かり易くなるように整備をしろ!」
「なに!」
「田舎のくそ爺のためにそんなことなど出来るか!」
「まァ そういえばそうだがな~ァ?」
と 途端にト~ンが下がる くだらない“くそ爺”である。
やっとのことで広い大通りの反対側に出た。
暫く引き返したところに、「ナントカ六本木ホテル」があり、道路から少し奥まった場所に入り口が見えた。
そばに行くと自動ドアーが開き広いロビーがあり、ロビーの天井は有に14m~15mはあろうか?と思われる。
凄い ゴージャスな造りだ。
向こう側に受付カウンターが見える。建物は想像以上に豪華だ。
電話ではビジネスホテルだという話だったが、コリャ帝国ホテル並だ。
と言っても我輩は帝国ホテルなどには縁がないから言えることだが・・・。
受付で紙切れを見せて
「この方は宿泊していますか?」
と尋ねると即座に調べられて
「確かにご滞在しておられますよ」
「お呼びしますか?」
「若しお部屋に居られましたら呼んで頂けますか?」
「ハイ分かりました」
「直ぐに、こちらに来られるとのことです。其処の椅子でお待ち下さい」
椅子に腰掛け彼を待つ・・・・。
あえば60年ぶりかな?と昔のことを思いながら・・・。
暫くして、ふと振り返ると昔より太目の彼が近づいて来た。
「・・・・・」
「・・・・・」
なんと言ってよいのやら・・・。
無言の握手とつい涙が滲む。
「昔と変わらないね。面影があるよ」彼の第一声である。
「Nさんは少し太めだな~」
「昔と変わらないよ」
「よく来てくれたね」彼の目にも涙が滲んでいた。
カバンから我輩に来た昔のS中学、高校時代の仲間の手紙と写真を見せる。
彼は旧制中学を卒業してからか?或いは新制高校になってからか?
渡米した時期は定かに覚えていない。
一緒に瀬戸内海で泳いだり、よく遊んだことは覚えているが・・・。
彼が昔の仲間の中学時代の名前を出すが全部は我輩にも判らない。
彼がアメリカにわたり朝鮮戦争に参戦した時は我輩は既に東京に来て下宿生活をしていた。
彼との文通はこの頃も続いていた。
前線からの彼の手紙も読んだが戦況に付いては何も書かれていなかった。
かれは朝鮮戦争に付いては何も語らない。
カルフォルニアのハイスクールでは英語には苦労したようだが環境が英語圏なので日常会話はこなせるようになったとか?
それでも、今も「英語は難しいよ」と言ったことには驚いた。
朝鮮戦争から帰国して米国で日本のT銀行に勤めカルフルニア支店長を初めとして長年勤めあげ定年後も66歳まで働いたとのこと、真面目な彼の様子がよくわかる。
今はラスベガスの「シニア なんとか」に住んでいて、其処は24時間警護されている限られた一郭と言う話だった。
ラスベガスは世界中から人が集まっていて流石に治安は良いとはいえないらしい。
然し彼の住む一郭は別のようだ。
施設もよいし、気候は夏暑く冬寒いが、それも空調で室内は快調とのこと。
砂漠の中であるが空気が乾燥していて夜の星が実に綺麗だとも語っていた。
積もる話がひとしきり続いたあと記念写真をデジカメで受付嬢に頼み共に撮る。
彼の持っているデジカメと私のデジカメのメーカーが同じものだった。
な~んだ。同じものだね。
思わず笑が零れた。
「私は、このデジカメをまだ使いこなせないんだよ」
と言うと
彼はこの度 日本に来るために購入したばかりだという。
お互いよく似ているなとも感じたが彼のほうがデジカメは使いなれているようだ。
「帰ったらメールで家などの写真を送るよ」
「うん、楽しみに待っているから・・・」
「部屋に来ないか?家内を紹介するよ」というわけで部屋に伺い奥様にもあう。
中々の美人だ。奥様の実家は日本橋だそうだ。
時間が遅くなるとラッシュアワーとなるので早々(?)と辞去するが彼は名残惜しそうに玄関から地下鉄入り口まで送って戴く。
お互い姿が見えなくなるまで手を振る。涙が溢れた。
前を向き“上を向いて”歩き始める。
③に続く

「なに!」

「田舎のくそ爺のためにそんなことなど出来るか!」

「まァ そういえばそうだがな~ァ?」

やっとのことで広い大通りの反対側に出た。
暫く引き返したところに、「ナントカ六本木ホテル」があり、道路から少し奥まった場所に入り口が見えた。
そばに行くと自動ドアーが開き広いロビーがあり、ロビーの天井は有に14m~15mはあろうか?と思われる。
凄い ゴージャスな造りだ。
向こう側に受付カウンターが見える。建物は想像以上に豪華だ。
電話ではビジネスホテルだという話だったが、コリャ帝国ホテル並だ。
と言っても我輩は帝国ホテルなどには縁がないから言えることだが・・・。
受付で紙切れを見せて
「この方は宿泊していますか?」

「確かにご滞在しておられますよ」
「お呼びしますか?」
「若しお部屋に居られましたら呼んで頂けますか?」

「ハイ分かりました」
「直ぐに、こちらに来られるとのことです。其処の椅子でお待ち下さい」
椅子に腰掛け彼を待つ・・・・。
あえば60年ぶりかな?と昔のことを思いながら・・・。
暫くして、ふと振り返ると昔より太目の彼が近づいて来た。
「・・・・・」
「・・・・・」

なんと言ってよいのやら・・・。
無言の握手とつい涙が滲む。
「昔と変わらないね。面影があるよ」彼の第一声である。
「Nさんは少し太めだな~」

「昔と変わらないよ」

「よく来てくれたね」彼の目にも涙が滲んでいた。
カバンから我輩に来た昔のS中学、高校時代の仲間の手紙と写真を見せる。
彼は旧制中学を卒業してからか?或いは新制高校になってからか?
渡米した時期は定かに覚えていない。
一緒に瀬戸内海で泳いだり、よく遊んだことは覚えているが・・・。
彼が昔の仲間の中学時代の名前を出すが全部は我輩にも判らない。
彼がアメリカにわたり朝鮮戦争に参戦した時は我輩は既に東京に来て下宿生活をしていた。
彼との文通はこの頃も続いていた。
前線からの彼の手紙も読んだが戦況に付いては何も書かれていなかった。
かれは朝鮮戦争に付いては何も語らない。
カルフォルニアのハイスクールでは英語には苦労したようだが環境が英語圏なので日常会話はこなせるようになったとか?
それでも、今も「英語は難しいよ」と言ったことには驚いた。
朝鮮戦争から帰国して米国で日本のT銀行に勤めカルフルニア支店長を初めとして長年勤めあげ定年後も66歳まで働いたとのこと、真面目な彼の様子がよくわかる。
今はラスベガスの「シニア なんとか」に住んでいて、其処は24時間警護されている限られた一郭と言う話だった。
ラスベガスは世界中から人が集まっていて流石に治安は良いとはいえないらしい。
然し彼の住む一郭は別のようだ。
施設もよいし、気候は夏暑く冬寒いが、それも空調で室内は快調とのこと。
砂漠の中であるが空気が乾燥していて夜の星が実に綺麗だとも語っていた。
積もる話がひとしきり続いたあと記念写真をデジカメで受付嬢に頼み共に撮る。
彼の持っているデジカメと私のデジカメのメーカーが同じものだった。
な~んだ。同じものだね。
思わず笑が零れた。
「私は、このデジカメをまだ使いこなせないんだよ」

彼はこの度 日本に来るために購入したばかりだという。
お互いよく似ているなとも感じたが彼のほうがデジカメは使いなれているようだ。
「帰ったらメールで家などの写真を送るよ」
「うん、楽しみに待っているから・・・」

「部屋に来ないか?家内を紹介するよ」というわけで部屋に伺い奥様にもあう。
中々の美人だ。奥様の実家は日本橋だそうだ。
時間が遅くなるとラッシュアワーとなるので早々(?)と辞去するが彼は名残惜しそうに玄関から地下鉄入り口まで送って戴く。
お互い姿が見えなくなるまで手を振る。涙が溢れた。
前を向き“上を向いて”歩き始める。
③に続く
二階でストーブを燃やしながらコメントを書いています。
友と再会で、無言の握手良く分かります。私も昨年
高校の親友(茨城)に旭川で再会した時は無言の握手でした。しばらくして話をはじめるとその時代にワープしているから不思議ですね。
静ではあるが、お互い何時しか饒舌になりました。
もう私が生きているうちに再び会うことはないでしょう。メールを送ると言ったので今後はメールのやり取りでしょう。便利な世の中になりました。