小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

雪が解けるまで 1

2005年12月18日 | 雪が解けるまで
 チーン。
 モーターが息を吐き出すように止まり勝手に終わりを告げる。キッチンでコーヒーを淹れている最中になり電気ポットを押す手を止め振り向き電子レンジに近づく。
「あーまた、三十秒で諦めてるし、まったく根性見せろってんだ」
 すっかり働く気のないレンジの横をボンと叩いてみる。
「何?またレンジに八つ当たりか、もうおじいちゃんなんだからさあ三十秒で褒めてやれば」
 仕事場から顔をだした風間が古いレンジのかたを持つ。私はレンジをあけ中に入っている温め切れていないピザを出し風間が見える範囲のカウンターに載せる。
「そうだね、レンジを労わってあげよう、まだちょっと凍っているけどせっかくだから食べてあげてね、風間さんの昼だからさ」
 風間の態度は一変し部屋から出て腕まくりをしながらレンジに近づきそれを両手で抱えて側面、底面などを三百六十度念入りに調べ始めた。
「買わないと駄目かな、もう、十年もたっているからなあ」
 あんなにレンジのかたをもっていた風間は結局自分に降りかかると話しは別のようで直せるはずもないレンジと格闘した後元の位置に戻す。
「十年も経ってないよ、だって、あのとき、ホームセンターで買ったやつでしょ」
 このレンジは大学を卒業して地元に戻りしばらくしてからホームセンターでレンジの箱を抱える風間に再会したときのものだ。三回、レンジのコンセントを入れなおしリセットしていく。そのたびに液晶がピコピコと点滅する。
 レンジはあてにならなそうなのでフライパンを出しコンロにかける。ピザはフライパンで焼くことにする。

 焼きあがったピザとコーヒーをテーブルに載せると同時に風間が席に座り食べ始める。その姿を見届け出かける準備を始める。洗面所から戻ってくると風間はテレビの天気予報をピザを口に運ぶのを忘れたまま見入っている。自然と私の視線も天気予報に向く。
「寒いはずだよね」
 十二月だというのに爆弾寒気が日本列島に張り出し日本海側は各地で例年以上の大雪を記録していた。太平洋側にいる私たちですらその寒さに気づき例年よりも早く厚手のコートや手袋、マフラーなどの防寒具を必須アイテムにしていた。
「今週末は、ひとまず落ちつくみたいだな、良かったな」
「休みの日に落ち着かれてもなんら意味がないような気もするけど、それに、こっちは寒いだけで雪降らないしさ」
「まあな、でも、ほら、ささやかな気持ちだよ」
 風間が何を言いたいのか良くわからないまま出かける準備を続けた。準備をしていると風間が暖かい格好で行けよと声をかけた。ただの友達との飲み会であるのにその気遣いは過保護であり不自然だった。
「じゃあ、行ってくる、今日はここに泊まるんで内鍵を開けておいてね」
 風間は天気予報から私へ視線を移し頷いた。鞄を持ち部屋を出ようとしたとき、風間が私を呼びとめたけれど何も言わずに持っていたピザを皿に落とし立ち上がろうとしたがそのまま椅子に沈んだ。私は待ち合わせの時間が迫っていたのでそのまま部屋を出る。

 車を走らせる。ダッシュボードの上に置かれた一枚の葉書が吹き出る暖房にフルフルと震えている。朝自宅を出るとき、ポストを確認するとこの法事を知らせる葉書が入っていた。そのまま持ち去り車に乗り込んだ。

 なぜ、私へこの葉書が送られてきたのだろうか。その意味がまったくわからず動揺するほかなくどう受けとればよいかも見当たらない。考えることをやめ信号待ちをしているときその葉書を取り鞄の中へ入れた。ラジオへ手を伸ばしDJの話に耳を傾けながら空を見ていた。夏のような背の高い山のような雲が町の所々の上空に浮かんでいる。その周りには薄い綿菓子のような雲がぼんやりと纏わりつく。雪雲だろうか。気がつけば町の向こうにある山肌は白く色を変えていた。


 ガラスのような夕焼けが濃紺に色を変えた頃、絶品と噂されている焼き鳥屋のカウンターに二人で並んで座り午後に買い物したものは車に詰め込み再び店へと繰り出していた。
「風間さんと付き合ってどのくらいになる?」
 砂肝をひとつ呑み込みもうひとつ食べようとしたが串を持つ手がぴたりと止まる。どう答えれば良いか戸惑う。これは友人の嫌がらせだろうか。出会ってどのくらいと聞いてくれればずっと答え易かったはずで、付き合うというのは恋人同士になってという事だろうし単純に考えれば二人がそれを認識したときでその月日を答えればよい。ところが、レンジを持った風間に再開してから今日までたった一度も言葉でそれらしい事を交わした事がなく私たちの関係は曖昧の中にいた。でもそれは傍から見れば恋人同士に見える。だからこそ、この事を話すのは友人でも抵抗があった。けれど、私は風間を必要としたし今の私があるのは間違いなく風間と再開したからだろう。でも、こんな状態はこれから先続くはずがないことも分かっていた。
「わからない、付き合っているのかって聞かれても答えが見つからないよ」
 持っていた串を置き生ビールへ手をかけ一口飲む。友人は何もいわずに枝豆の皮を皿の上に投げ捨てため息をひとつついた。
「なんでそんなの事聞くの」
「確認だよ」
「何の確認?」
 友人の答えは何もなく、手持ち無沙汰にビールを飲み干すともうひとつビールを注文してくれ今日は飲めと店員から受け取ったジョッキを目の前に置いた。友人は珍しく飲まず私の車を運転して帰るつもりのようでもくもくと焼き鳥を食べ続ける。友人の分も飲まされ途中からすっかり記憶が飛び私は酔いつぶれた。眠りに落ちる前、こんな感覚は前にあった、いつだろうと考えてみたが勝手に頭の中の何かが鍵をカチャリと掛けなおしてしまった。

「え・・・」
 顔がひりひりと痛む。息を吸い込むたびに鼻の中が痛い。何が起こっているのだろうかと重い瞼をゆっくりと上げる。クモの巣が張った蛍光灯がチカチカと音をたて今にも切れそうだ。どうして蛍光灯が瞬いている。瞼が完全に開いたとき汚れた天井と目の前にある鉄製のバス停があり私の体は木製のベンチに座らされている。その椅子とバス停をすっぽりと覆うように屋根と壁がある。音。車のエンジン音が突然聞こえる。いや、認識したのだろう。私の車だった。運転席のドアが開き友人が姿を現す。何が起こったのかさっぱり理解出来ず、考える要素すら見つからない。友人が近づいてくると、その顔が切れそうな蛍光灯の光にちらちらと照らす。友人の顔色は悪く目の下に立派な隈を作っていた。
「じゃあ、このへんで。荷物は横にあるから」
 友人は呆然としたままの私になんの説明もせずに背を向け車に乗り込み走り去っていった。ハンドルを握った友人はベンチに座る私に一瞥もなく通り過ぎ、車の先にあったのはどこまでも広がる真っ白な世界が色を変え始めた空にぼんやりと照らされていた。驚きのあまり座っているにも関わらず腰を抜かしずるりとコンクリの上に滑り落ちバス停に書かれた文字が飛び込みふいに目を閉じてしまった。今のは見間違えたのかもしれないと恐る恐る瞼を開きその文字を読む。
「うそでしょ・・・」
 それは焼き鳥屋から高速道路・一般道を七時間走り続けなければ辿り着けない町の地名だった。夜が明ける直前の出来事だった。



次回に続きます。

短*メッセージ

2005年09月01日 | 短編
 人込みに溢れた駅ロータリーの周りは、開発中のビルが高く立ちはだかりロータリーに掛かる歩道橋の上を中心に空へとぽっかり穴を開けている。
 ふと足を止めた青年の背中は丸まり汗でワイシャツを濡らしている。握り締めていた詰め込みすぎの鞄はふいに手元から離れ、鉄棒。そう鉄棒にぶる下がりついに力尽きて落ちるように鞄もぐしゃりと音をあげた。

 夏、真昼間の太陽が容赦なく光を降り注ぎ、すべてのものは熱を発散し、アスファルトの上はゆらゆらと蜃気楼を作り非現実的な世界を作り上げていく。青年をじりじりと照らす光の中に小さな黒い水溜りのような影が足元に落ちへばりついている。
 青年の額から頬を伝い、大粒の汗が次々に落ちる。うつむいたままの青年は、蛇口がうまく閉まらない水道のように、適当な間をあけポツリポツリと噴出す汗を落としていく。
 落ちた鞄も拾うことが出来ない、噴出す汗も拭くことが出来ない。ただ立ち止まり俯き背中を丸めたまま固まっていた。荒く息苦しい呼吸、耳障りな雑踏の音、バスの排気ガスの匂い、行き交う人々の足音とさまざまな匂い、青年を取り残し次々に通り過ぎてゆく。

 もう駄目だ。もう、動けない。気付いていない振りを続け厚い蓋をしてきたけれど、突然、詰め込んでいた箱にヒビが入り壊れ噴出した。青年の足は錆びついたようにギーギーと音をあげやがてすべてを止めた。その錆びが、この太陽のようにジリジリとすべてに侵食していく。

 空気を振動させ弾く音。青年の肩が、ぴくりと動く。閉めたネクタイが、ひらりと風に煽られた。
 立ち並ぶビルに反射しどこからともなく響かせる。聞きなれない音が近づいてくる。一つの音に似たものがいくつも重なっている。それはしだいに、行き交う人たちの足音をかき消し、雑踏の騒音までも消し去った。近づく音は、やがて爆音へ変わる。どこかへ向かっていた人たちも何事かと足を止める。青年は、あごをあげ辺りを見渡す。どこを見回しても戸惑う人々しかいない。

 耳にしたことがない音だが、何かが震えるような知っている音。何かが、起こる。そんな直感が青年の胸に浮かぶ。無数の方向から聞こえていた音は、空からかもしれない。青年は、信じ切れないまま、上げた顔をさらに上げぽっかり空いた空へ目をやる。
 ビルに付けられた珈琲の看板から、五つの青い飛行機が同間隔で並行して飛び出し、まっすぐ反対側のビルの向こうに消えていった。

 青年は声ともならぬ声が漏れた。なんだろう。セスナにみえたけれど、本当に飛行機だったのだろうか。ロータリーにいた人々はどよめき、セスナが現れ消えたビルを呆然と見上げたままだ。青年も、自らみたものを疑っている。夢か現実か。
 セスナの音が、一旦遠ざかり再び近づいてくる。ビルの間をセスナの音が走り抜け飛び交う。
 青年は、口を開けたまま、乾ききった喉をゴクリと鳴らす。
 ビルの避雷針がピカッと光ったかと思うと、五つの青いセスナが、太陽の光に反射し光りながら同間隔で並行し飛びだした。セスナの尻から、一斉に真っ白な雲が噴出す。歓声があがる。行き交う人々、ロータリーで客待ちをしていたタクシーの運転手は慌てて外へでて、白い手袋をした手で光を遮り空を見上げ、出発する予定だったバスは、いまだ停まったまま、乗客は、窓側から空を覗き上げている。運転手も立ち上がり広い窓から空を見上げ、駆け寄った客と共に口が開いていることを忘れたまま白い雲を見つめる。

 青年が見た記号のようなもの。ビルに囲まれたロータリーの上に広がり空いっぱいに描かれている。青年の胸が、徐々に大きく動き始める。ドクドクっと高鳴る心音。だらりと垂れたままの腕から掌へ力を伝える。動き始めた指先は、力強くコブシを作る。青年は、見上げていた視線を下ろし、体を一周させ辺りを見回し、一点、目的の場所を捉える。落とされたまま倒れている鞄を拾い上げ、迷う事無く地面を蹴り前へ走り出す。誰もが立ち止まる中を、青年だけが全速力で駆け抜ける。歩道橋を駆け下り、ビルの中へ飛び込み階段を駆け上がる。
 飛び散る汗が目に入り染みる。空いた手で何度も拭う。息は切れ、口の中が痛く何度も咽るが、駆け上がる両足を止めるわけにはいかない。走りながら、締めていたネクタイを無理やり緩めワイシャツのボタンを外す。

 誰もいない薄暗い階段に、青年の足音と息遣いだけが反響する。頭に酸素が行き渡っていないのか、視界がうっすらと曇り、壁に体がぶつかる。頭を振りすべてを払いのけ、再び駆け上る。ヒビの入った壁の中に青い錆びた鉄の扉が表れ、ドアについた四角い曇りガラスの向こうにぼやけた空が透けている。
 もつれる足を無理やり前へ突き動かし、踏み出し、銀色のノブへ手をかけ、まわし、押し出す。錆びたドアが音をあげ開くと、真っ白な世界が飛び込みやがて鮮明な姿を現す。
 照りつける太陽の下へ三歩踏み出し青年の小さな影が地面へ落ちると同時に空を見上げた。再び鞄が地面へどさりと落ちる。
 真っ青な空に、五機のセスナの姿はもう何処にもない。響かせていた音も聞こえない。けれど、抜けるような真っ青な空いっぱいに、記号ではなくメッセージが浮かんでいた。青年が見た記号は、記号ではなく逆さになったアルファベットのAだった。

 POCARISWEAT

 果てしなく続くキャンパスに白い雲で描かれている。五機のセスナが突然現れ描いていったものだ。
 青年は、沸きあがる何かを心に感じそれを迷いながらも信じ、その思いを空へ向ける。
 顎が外れるほど大きく開いた口は、カラカラの喉奥までみえ、震える心の振動は熱い何かをさらに奮いたたせ弾き出されるように、擦れ唸るようなものからやがて叫びへ変わりあの空へと響き渡っていく。
 空に浮かぶ白い文字は、上空の風に流されゆっくりとその形が崩れ、やがて、姿を消した。青年の声も擦れ消えていたが、空を見上げたまま緩めたネクタイを首元から外し手にしたネクタイへ視線を落とし、きゅっと握り締めふいに力を抜き、屈伸するように体を沈め、靴底が減った革靴で力強く地面を蹴り上げる。浮き上がった体が、汗を撒き散らしながら回転していく。崩れた文字から青いドアへとかわり、影が張り付く地面へと移り、目の前にある屋上を囲むフェンスが見える。一周し地上へ着地した両足が力強く音を上げて地面を踏みしめると、その衝撃が体を痺れさせる。久しぶりのバクテンの痺れ具合に一人噴出し笑った。なお噴出す汗を拭い踵を返しドアの向こうへ力強く歩き始める。真夏の太陽の光が後押しするように、背中を照らしていた。

 thank you・・・


 あとがき

 残暑お見舞い申し上げます。

 この短編は、残暑お見舞いです。夏の太陽に負けんな!!というメッセージを込めてみました。読んでいただいた方は、あるCMを思い出すと思います。あるといっても、ポカリスエットというのは、文章に出てきているので一目瞭然ですが。
実は、これを書いたもうひとつの理由は、8月31日まで、各所でやっていたこのスカイメッセージのイベントをうっかり見過ごしてしまったところにあります。一ヶ月以上やっていたにも関わらず、一回も見れませんでした。非常に残念、しかも、周りにもそれをみたという人が見当たらない。本当に、五機のセスナがやってきて上空三千メートルに文字を浮かべあがらせたのかは定かではない状況。

 そんなわけで、悔しさをバネに、このようなものを書いてみました。おそらく、上空三千メートルを飛ぶセスナは、物語に出て来るような爆音はしないだろうと思います。けれど、なんとなくそうしたくて、このような形になりました。また、物語を書いている間は、ミスターチルドレンの四次元をリピートしていました。

 さて、秋の風が交わり始めた今日この頃の夏、こんな形で残暑お見舞いを送らせて頂きます。小説連載の方はもうしばらく、のんびりしたいと思います。
それでは。          三日月より

夏休み

2005年07月27日 | Weblog
梅雨が明け、台風が初上陸し、本格的な夏がやってきた今日この頃。
照りつける暑さに、空を見上げ、目を細め、夏の日差しはこんなにも暑かっただろうかと毎年の事ながらうんざりし、木陰を求め、少しでも涼しいところを探してしまう。

そんなわけで、どんなわけで、分かれめなわけで、もとい、焼きつくような日差しの下、夏にめっぽう弱い私は、僅かな木陰で背中を丸め、ひっそりと秋がくるのをじっと待とうと思います。

したがって、小説は、秋まで、不定期更新になります。

ところで、台風が去った今日、山の向こうには、発達中の入道雲がモクモクと背丈を伸ばしていた。それをみて、思うのは、もし、私が巨大化することが出来たなら、あの入道雲を相撲のように出来抱え、根元から引き抜き場外へ投げ飛ばしてみたいし、もしくは、顎が外れる一歩手前まで大口あけて、噛み付いてみたい。そうしたら、きっと、ざくっと音がし、歯茎に染みて頭がキーンとなるんじゃないかと思う。

あまりにも暑い日中に、入道雲と私を並べたら、タバコとダニが背丈を比べるよりも、ずっと小さいに違いなく、それでも、入道雲を目の前に、可笑しな妄想にふけてしまうのであった。

妄想話は、このへんで、みなさん、夏はのんびり過ごしましょう。
自分に言い聞かせているようにも聞こえるが・・・。

以上、管理人からお知らせでした。

短*君(後編)

2005年07月16日 | 短編
 君は、私の事を憶えているだろうか。
 この季節になると、私はいつも、彼が桜の傘を持つ姿を思い出す。今でも、彼はあの桜の傘を持ち歩いているのだろうか。共に過ごした梅雨の後に、過ごせなかった夏も彼は、桜の傘と共に過ごしたのだろうか。私は今でも彼は、桜の傘を持ち歩いているのではないかと考える。だから、信号待ちをしているときも、駅のホームで待っているときも、バス停でバスを待っているときも人が持つ傘をみては、手元が桜のポリエステル100パーセントの深緑の傘を探してしまう。
 似たような傘があると、見惚れてしまったり、違うと判るとひとつふたつ溜息をついたりする。つまり、あれほど腹立たしかった出来事でも、今となっては懐かしく思い、再び会えるものなら会いたいとも思っている。

*蟹股トリオ*
 中々梅雨が明けずに、あるものすべてがじっとり湿り始めた頃、世間の人たちが夏を待ち望んでいたけれど、私は出来ることならもうしばらく梅雨が続いてくれればよいと願っていた。彼は私と会うときにたった一度も桜の傘を忘れた事はなかったから、万が一梅雨が明け夏がやってきたとしても、彼は桜の傘を手放さないだろう。彼と会った数だけ桜の傘が付き纏い、嫌な思いも何度かさせられたけれど、彼が持っていて良かったと思った瞬間があった。そう、それは、本当に瞬間的な思いだった。
 晴れたと思えば湿気一杯の雨が降り、そのつかの間の晴れ日、どこまでも真っ青な空が果てしなく続きどんよりとした雲はどこかに姿を隠しているにも関わらず、彼は疑う事もなく桜の傘を持っていた。
 それを見かけた人は、彼が持つ雨傘をみて僅かに嫌な顔が表情に表れる。せっかくの晴れに見飽きた傘を持ち歩くなとも思っているのかもしれない。多くの人は、夏服でこの晴れを存分に楽しんでいた。
雨の日よりも人出が多い。私と彼は時々すれ違う人や立ち止まった人を避けながら歩いていると前方をつま先から頭の天辺まで不良一色のトリオが半径一メートルをテリトリーとしながら見事な蟹股でのっしのっしと肩を揺らしやって来た。向かって右側の男はサングラスにアロハシャツに短いチノパン、真ん中の男は、派手な帽子を斜めに被り大きすぎるTシャツに大きすぎるジーンズ、左の男はスキンヘッドにピアスだらけの顔に所々にジャラジャラと重そうなアクセサリーを付け捲くり一歩歩くたびにゆらゆらと揺れる。蟹股トリオを異色なオーラがドームのように取り囲んでいる。近づく蟹股トリオから、視線をはずし、言葉数も少なく、透明な雰囲気を装い通り過ぎようとしたとき、どういうわけかスキンヘッドの男から、ジャラジャラと金属が擦れ合う音が聞こえた。何かにぶつかったような音だ。
「おう」
 高い声。合唱団に入っていたなら間違いなく高音を歌わせられるだろう。この声は私に掛けられたものなのだろうか。彼の足がぴたりと止まり踵を返す。絶望的な気分が押し寄せていた。あんな素っ頓狂な高い変な声がもしスキンヘッドの男の声でなかったなら、頬は、にやけ噴出し、あんたどこから声出してるのさ、腹からだしな、なんて言っているかもしれない。けれど、今は、頬が引き攣るばかりで私は、恐る恐る振り向くと、スキンヘッドの男の口元が動き、眉間に皺がより、手で肩を摩りながら、当たってんだよとあの高い声を出した。
 おそらく、避けたはずの彼の肩にわざとスキンヘッドの男が当たってきたのだろう。彼は、咄嗟に適切に謝ったけれど、この男のぴかぴかした頭は、どうやらトリオのスイッチだったらしく、それは運が悪い事にピンポーンと押されてしまったようだ。彼の前に止まった蟹股を広げ罵声を上げ始めた。私は、彼の背中に隠れた。歯向かったところで勝ち目は九割方無いに違いなく、とりあえず、何かが武器があればそれで防御して・・・そう考えたとき彼の手元がピクリと動いた。このときほど、傘があってよかったと思ったことは後先ない。もしかすると、彼は傘の武道の達人かもしれない。だからこそ、いつでも肌身離さずに持ち歩いていたのかもしれない。淡い期待が、ボコボコと湧き上がってくる。あのスキンヘッドに一本なんてこともありえるのだから。彼は、私を背にしたまま持っていた傘を手元で持ち帰えた。蟹股トリオは、自然とその傘へ視線を動かし体を僅かに強張らせ、太陽の光に反射したスキンヘッドがキラッと輝いた。戦闘態勢に突入したのかもしれない。三対一。一発でも攻撃が効けば、その隙に逃げればよい。通りすがりの人は、誰も立ち止まらずに文字通り足早に通り過ぎていく。彼が傘を持つ腕が上がり構えるように一歩後ずさりすると、びゅんと風が巻き起こる勢いで私へ振り向いた。そして振り上げられた傘は私の胸に押し付けられた。
 反射的に傘を受け取り呆気に取られていると彼から送られてくる視線は、何かを決意し、桜柄の傘を頼んだぞと言われているような決意がひしひしと感じ取れた。やはりこの傘は、雨を防ぐものでしかなく、晴れた日には不必要なもので、忽ちがっかりと肩を落とし、深いため息まで漏れてしまった。今までの緊張感はあっという間に蒸発し、息を呑むこの状況がどうでもよくなり、それどころかこの渡された傘で自ら前にでてスキンヘッドの男の光る頭をベシベシと叩いてやろうかと言い知れぬ怒りが湧き上がっていた。
 彼が再び歩み寄り私が、彼を押しのけて前へ出ようと右足を踏み出したと、反対車線の歩道から声が上がった。振り向くと警察官だった。蟹股トリオは、誰よりも早く一瞬開かれた蟹股に力が入りやや内股ぎみに、くるっと踵を返し、ビデオ再生を早送りしているように蟹股でつかつかと歩き細い路地へ逃げ込んだ。
 振り向いた彼の顔は、固まってしまっているのか今だ強張り、額に玉の汗がポツポツと付き、心臓がバクバクと激しく動いているのか呼吸も荒い。彼は、私が抱えていた傘へ手を伸ばし、自らの手で桜の柄を握り締めると風船が一つ膨らませる程、息を吐き出した。
 彼は私を守るために体を張ろうとしてくれたとは思えず、いつもより過剰に握り締めている桜の傘を守るために体を張ろうとしたのではないかと疑わずにいられなくなっていた。
 私は、そんな彼に労いの言葉をひとつもかける事無く、何事もなかったかのように歩き出した。

*紫陽花*
 突然電話をかけてきて、遅咲きの紫陽花を見に行こうと言ったのは彼だった。結局これが彼に会った最後の日になるのだけれど、まだその時は最後になるとは思っていなかった。
梅雨明けが西から徐々に迫り数日のうちに関東も開けるだろうと予報され梅雨最後の雨を降らしていた日だった。朝、家を出たとき空を見上げると、見るからに雨模様で傘を持ったほうがよいと分かっていながら、彼が傘を持っているから待ち合わせの場所まで持てば後は彼の桜の傘に入れてもらえば良いと考えていた。案の定、彼は傘を持っていたし二人で歩き出すとポツポツと雨が降り出し私は桜の傘の下に入った。
 紫陽花は、寺の参道沿いにまっすぐと並び、すべて青紫一色に咲き揃っている。雨が少しだけ強くなり、金色の露先からポツポツと大きな雫が落ちる。二人の会話と共に雨が傘を叩き傘が音を上げる。立ち止まって雨を浴びる紫陽花を眺め参道を歩こうとしたとき、彼の足元は動かず私だけが一歩踏み出し露先から落ちる雫が私の腕を濡らした。声をかけると彼は、そわそわと左右を見て何かを探している。そして、寺の裏へ続く道を示す看板に書かれたトイレのマークを見つけると私に傘を頼むといい、私が手元をしっかりと握るのを確認すると駆け出していった。私は、その場に残される。男物の長傘は、本当に大きいなと雨がポツポツと打ち付ける傘の裏を見上げ、立てていた傘を倒し中棒を肩に付けくるっと手元を回すと傘に弾かれた雨がパラパラと吹き飛んだ。深緑の傘は、雨を吸うともう少しだけ濃くなる。傘の骨を伝い雨が弾かれる音が掌に感じる。桜の手元は、今迄で使っていた傘のすべてが敵わない程しっくりと手に馴染む。なんだか不思議な心地よさがじわじわと体に入り込んでくる。傘を差してうれしくなるなんて子供の頃以来かもしれない。再び、肩に掛けていた中骨をまっすぐとすると、一層、掌に雨の振動が心地よく伝わり、それはアコギが軽快にリズムを刻んでいくような感覚だ。
そんなことも作用したのか、私は桜の傘を差しながら誰より目の前に続く紫陽花に見惚れ、この傘を差しながら参道を歩きたくなり、彼を待たずに歩き出していた。

 紫陽花に雨の雫が乗っている。紫陽花が揺れるたびに、ポツポツと音を立て落ちていく。そんな雫に潤された紫陽花は、花びら一枚一枚が活き活きとしている。雨に打たれる、この傘のようだった。この傘には、やっぱり雨が似合う。雨を遮ってくれるおかげで、私は、紫陽花を眺めることが出来る。この傘は、自らの仕事をしっかりとこなしながら紫陽花のように活き活きとしているように感じられる。
 丁度半分程参道を歩いたとき、後ろから敷き詰められた石畳を誰かが駆けて来る音が聞こえ、振り向くと彼が水飛沫をぴちゃりと飛ばしながら近づいてくる。
 少し雨に打たれ肩や髪が濡れている彼は、私に近づくと、ゴメンねと謝り傘の手元へ腕を伸ばした。そのゴメンネは、私にだったのか桜の傘にだったのかは、今はもう分からない。私は、素直に彼に傘を譲り再び、桜の傘の下へ納まった。
 わざわざ彼に、私とこの傘どちらが大事なのなんて言葉すらかける気も起こらない。なぜなら、答えは聞かずとも分かっていた。嘘のような本当な話であるのだけれど、間違いなく彼は傘を選ぶだろうし、もうそれでも構わないと心が受け止めていた。けれど、それは覚悟とかではなく諦めで終わりを意味していたのかもしれない。だから、紫陽花を見終わり参道から寺の中庭へ足を踏み入れたとき、私は、彼に別れを告げてしまったのだろう。

*逃走*
 歯医者の予約を入れていた。時間はすでに過ぎていて急いで入口に駆け込み横に置かれている傘立てに濡れた傘を差し込む。乱雑に差し込んだ傘の手元が、隣にあった傘の手元にコツンと当たる。自動ドアが開き私が通り過ぎるの待っていたが、私はその音に足を止めてしまいを見てしまい、痺れを切らした自動ドアが音をあげ閉まり、再び開いた。傘立てに納まる傘に視線は釘付けになり、ドクンと心臓が波打った。傘の前へ駆け寄り、刺さった桜の手元を引き抜く、紛れも無くポリエステル百パーセントの深緑の傘だった。束ねられた露先は、六本すべて色が違い、ひっくり返して付けられている。

 彼の桜の傘だ。

 もう、会えないかもしれないと心のどこかで諦めていた。別れてしまった事を後悔していた。けれど、こんな形で再び出会えるとは思ってもいなかった。桜の手元にそっと触れると、懐かしい気持ちがじわじわと広がり胸がドキドキと高鳴る。ドラマチックな出会いに、衝撃を受けつま先から頭の天辺までドクドクと血が流れる。その時、閉じられた自動ドアが突然開く。男性の足が一番に目に映り、徐々に視線を動かしていくと、それは彼だった。彼が、自動ドアの真ん中で呆然と私の顔を見てゆっくりと手元へ視線を移動していく。私は、無意識に、桜の手元をきつく握り締める。掌に汗を掻き持つ手がぬるっとし緊張の為か痺れている。お互い言葉が一言も出ない。あまりにも、出会いが唐突に訪れたためだろうか。まるで、三角関係の男女が鉢合わせてしまったようだ。私は、握っていた桜の傘を胸に押し当て抱え、重なり合う彼の視線を外し、くるっと踵を返し床を蹴った。濡れた床は、きゅっと音を上げる。
 一目散に建物から飛び出し駆け出す。胸に抱えていた桜の傘を左手に持ち替えバトンを運ぶように、腕を振り足を高く上げ全速力で走り続ける。街中を、無我夢中で全速力で駆け抜けるなんてドラマのロケか、追われている人ぐらいだろう。そうだ、私は追われているだろうか、彼は、私を追ってきているかもしれない。もしくは、呆気に取られて呆然と立ち尽くしている間に私は、彼を撒いたかもしれない。けれど、どれだけの人が私の全力疾走に振り向こうとも止まるわけにはいかないのだ。

 全力で左の歩道へ曲がろうとしたとき、雨で濡れた歩道の上を靴がずるりと滑った。私は、バナナの皮を踏んだ体当たりな芸人のように一瞬宙で足をバタつかせそのまま歩道に転がった。握っていた傘は、手元から離れスルスルと歩道沿いの店先に滑っていく。私は、歩道の上に仰向けに雨に打たれ荒い呼吸で胸を上下させている。雨が全身を濡らし服はべっちょりと体に張り付き、前髪が目に入りチクチクと痛い、見るからに近づきずらい無残な姿になっているのは察しがついた。周りに人の気配はするけれど誰一人近づいてこない。痛む上半身を起こし目を擦り桜の傘を探し見つけると、ふらふらと店先に転がる桜の傘に近づきそっと手に取りその場にへたり込む。
 ショウウインドウに映される自らの姿は、想像しているよりも酷い姿だった。通り過ぎる人々は見て見ぬ振りで歩いていく。私は、桜の傘が今の衝撃で壊れなかっただろうかと心配になり広げて見ることにする。
 再び、この傘に触れるときが来たのだ。こんな惨劇的な状況でありながら心の炎は灯されたまま消えるどころか火は大きく膨らんでいく。
 懐かしい桜の手元を確かめるように掌で感じ、頬に当て感触を確かめ、下ハジキを外し押し上げようとしたとき、近づいた足音がパタリと止まった。目の前のショウウインドウに移る彼の姿。肩が上下に激しく揺れているけれど、穏やかな気持ちとは掛け離れていることは直ぐに分かる。
「なんなんだよ、嫌がらせか?」
 久しぶりに聞いた彼の声は、私が知っている声よりもずっと低かった。彼は、言葉切れ切れに私を見下ろして苛立ちを表す。そんな彼を見るのは始めてで私には考えられないほどの怒りが弾けそうなほど湧き上がっている。けれど、引くわけにはいかない。
「ち・・・違うわよお!!」
 ずぶ濡れの私は、雨を滴らしながら声が裏返る。半径三メートルには、彼しかいない。彼は私の激しい声に仰け反る。
「じゃじゃじゃ・・・あ、ななななんだよお!!」
 仰け反った体を再び戻し、怒り顔が動揺顔へと変わり表情がひっちゃかめっちゃかになり眉毛まで太くなっている。私は、へたり込んだ体に力をいれ中途半端に開いたままの桜の傘を持ったまま、ぐったりと立ち上がり傘を彼の前に突き出した。彼は、咄嗟に手を出しその傘を掴もうとしたけれど、私はひょいっとその手を透かした。
「桜の傘に会いたくて仕方なかったのよお!!」
 今まで募り募った告白だった。傘の中に震える手をいれ、半開きの傘を豪快に下ロクロを押し上げ開く。傘に付いた水滴が彼のズボン目掛けて飛び散る。私は、彼の細長くなった目を見つめ彼も私の目を見つめ沈黙の渦にぐるんぐるんと巻き込まれていき、歩道の横の道路を走る車が飛沫をあげ走りぬけていく。
 彼の目を見つめふと気になることがある。彼って目の横にホクロがあったっけ?それに彼、背が縮んだ?

 *再会*
 君に再び出会えるとは思ってもいなかった。私は、君を忘れていなかったし、手に触れた感触も懐かしく思えて、いつになく幸せだった。
 君との再会に嬉しくて喜びの渦にゆらゆらと巻き込まれ浮かれていたけれど、ひとつだけとても驚いたことがあった。
 それは、君の持ち主がいつのまにか入れ替わっていたことだ。私は、歯医者で自動ドアから出てきたのは、てっきり彼だと思い込んでいたけれど、落ち着いてみれば、かみ合わない会話や多くの不一致でようやく別人だと気づいた。
 けれど、私が見つけた桜の傘は、間違いなく君で、それがなぜ、ホクロの彼が持っていたのか気になり、お互い話をすることになった。
 ホクロの彼と君の出会いは、ホクロの彼の部屋だった。二日酔いの朝、気づくと君が枕元にしっかりと布団が掛けられ横たわっていたらしい。ホクロの彼が言うには、前の日、酔って電車に乗りうっかり君を持ってきた可能性が高い、らしい、そう、実際は、酔い過ぎてどこで君と会い持ってきてしまったのか分からない。
 盗まれた彼の気持ちを考えると、気の毒の何者でもないけれど、責める気にはならず、むしろ少し嬉しくなった。ホクロの彼の桜の傘への思い入れは、かなりの愛着を抱いていたけれど、使い方は人並みで君を雨模様もしくは、雨の時しか持ち歩かない。君もその方が嬉しいんじゃないかな。休みたい時だってあるだろし。
 私としては、そんなホクロの彼に君が出会えて本当に心の底から良かったと思える。

 それと、もうひとつ嬉しいことが。
 ホクロの彼は、以外に良い奴のようで、始めは、雨の日限定のデートだったけれど、いつしか晴れの日も、君なしで会うようになり君に抱いていた恋心は、どうやら紫陽花の花のようにホクロの彼へと移り変わっていった。
 けれど、雨の日は、いつも君が私達を雨から守ってくれている。


おわり・・・

短*君(前編)

2005年07月10日 | 短編
 君といたこの景色を見るたびに、あの雨の季節を思い出し鼻先に匂いを感じる。それは、今でも懐かしくて心がキュッとなり愛しくて、またキュッとなり、切なくて、またキュッとなる。
 この道から真直ぐ寺へと伸びる参道沿いに並ぶ紫陽花。寺へと向かう参拝者は思わず足を止め、躊躇うことなく一斉に青紫に咲き誇る紫陽花に目を奪われていく。
 私はこの道を通るたびに、そんな光景を前にしながらいつも、君と過ごした日々を思い出す、君に苛立ったり呆れたり寂しくなったり君に触れたやさしい感触をじんわりと思い広がっていく。
 そして、再び出会うことをどこかで願い、そのときをじっと待ち続けている。


*出会い*

 この傘の手元は、桜の木で出来ているんだよ。

 彼が持つ傘に視線を注ぎ込んでいると、彼はそれに気づき傘の手元を指差し恥ずかしそうに照れながらそう教えてくれた。私は目を丸くして彼の顔と桜の手元を交互に視線を注いだ。なぜなら、私は別に傘の手元が何で出来るのかを考えていたわけではなく、どちらかというとそんな事はどうでも良いことで、いや無関心で彼の答えがなぜ、これだったのだろうかと不思議に思っていた。ならば、何を考えていたのかというと、彼はなぜ、傘を持っているのだろうと頭の中に汗を掻いたのではと思うほど考えあぐねていた。
 周りを見渡しても、長い傘を持ち歩いている人は誰一人いない。けれど、初めてのデートで万が一の雨に備えての事なのだろうか。折畳みなら、分からずもないが、果たしてそんな用心深い人はいるのだろうか。空は、曇っているけれど雨を感じさせる気配はない。それどころか、晴れ間すら覗かせそうだった。昨日から西日本の方は、梅雨に入り始めていて、ここ二、三日の内に関東も入るだろう。それとも、もう入ってしまったのだろうか。今朝、家を出る前に新聞もテレビも見ていなかったので、見過ごしてしまったのか。
二人で並んで歩きながら、通り過ぎていく人たちの何人かは、自然と彼が持つ傘へ視線を移していた。彼は、そんなことに気づく素振りもなく、手元を握った傘を歩調に合わせてコツコツと軽く地面をつきながら歩いている。私の足音と、彼の足音と彼が突く傘の音が共に響き続けた。
 しばらくすると、空が暗くなり始め濃いグレーの雲が薄いグレーの雲に覆い被さるように広がり、街路樹の葉が、ユサユサと揺れ始め、ポツポツと小さな点が地面を濡らしていた。私は空を見上げ、頬にポツリと雨が落ち少し安心し彼に関心する。
 雨、降ってきたね。と彼に笑いかけると、そうだねと彼は同じように空を見上げて言った。
 雨の匂いが漂う。風が強くなると共に、ポツポツと落ちていた雨が、間隔を狭まりやがて隙間すらないほどに、降り始めた。突然の雨に彼は、梅雨に入ったのかもなと、ぽつりと呟いて照れくさそうに、ゆっくりと傘を広げ私の頭の上に傾けてくれた。疑問は、この空とは対照的に晴れていき、触れ合う肩が、心臓をドクドクッと跳ね上がらせ、気持ちが高鳴り、彼は天気に詳しいのかなと思いながら、ちらちらと傘を持つ彼の顔を見上げていた。周りにいた人たちは、突然降ってきた雨に駆け出したり、雨宿りへ急いだりと慌てていて、そんな中を私達は、やや自慢げに桜の手元の傘の下をゆっくりと歩いた。


*脱臼*

 二回目に会ったときも、彼は傘を持っていた。桜の木を使った手元で深緑の傘。たぶん、前回持っていた傘と同じものだろう。色は思い出せないが手元は同じような気がする。
私は、彼が持つ傘をみて自然と空を見上げていた。空は、梅雨の合間の晴天でどこに雨を降らす要素が隠れているのか探したが、くまなくみてもそんな要素はどこにもなくそれどころか雲ひとつない真っ青な空しかなかった。間違いなく降水確率ゼロパーセントの空を見た後、左手でしっかりと握られている桜の手元から丁寧の織り込まれた深緑を眺め、これは、日傘ではないだろうし、間違いなく雨傘だ。

 これは、ポリエステルで出来ているんだ。

 私の視線に気づいた彼は、またしても何を勘違いしたのか、傘の素材を話始めた。多くの傘は、ナイロンで出来ているけれど、ポリエステルの方が持ちも良いし使い勝手が良いのだと、時々、ポリエステル100パーセントの深緑の傘を見せながら説明を続けた。どうやら傘に注がれる私の視線にはえらく敏感のようだ。
 もちろん私は、その傘の素材を知りたくて傘を眺めていたわけではなく、こんな晴天の日にどうして雨傘を持っているのだろうと、冷ややかな気持ちで眺めていただけで、それ以外理由も何一つなく、この間のデートで二人でこの傘に入って歩いた大切な思い出すら、ザーザーと砂嵐のように薄れていく。
 そんな降水確率ゼロパーセントの日、彼は、この間と同じように桜の手元を握りしめ、自分の歩調にアクセントをつけるようにコツコツと地面を突いていく。この再び現れた疑問を、どう処理するべきか考えながら、彼との会話をポツポツと交わしているとき、突然、彼が何かに引き寄せられるように腕から体ごと反転した。彼は、傘の先を歩道の排水溝の網に取られ、傘を持つ腕だけが取り残され、グキッと肩が嫌な音をあげ、うっと絶句し、顔を歪めていた。私は、すぐに気づかず数歩進んで彼がとなりにいない事に気づき振り向くと、肩を抑えた苦悶の表情の彼がいた。私は、呆気にとられ口をだらしなく開けたままだった、何か言葉をかけようと探していたのだけれど、一文字すら思い浮かばない。仕方なく、口を閉じピクリとも動かない彼の体の後ろに回り込み、排水溝の網にしっかりと挟まった傘の先を引き抜いた。彼は、自分が引き抜かれたかのように、うっと声を漏らしたまま、相変わらず、非常口の緑の人みたいに固まったままだ。
 私は、手元が桜の傘を持ち前へ周り、歯を食いしばる彼の顔を見上げる。彼は、肩が外れた。と苦しそうに痛みを堪えながら私に訴え、近くの病院へ向かうためにゆっくりと歩き出す。彼が、息を切らしながら、私に、ゴメンね、こんな事になってと申し訳なさそうに謝り、私は、彼の体の事を本当に心配していたので大丈夫だよと返すと、彼は、本当に傘持たせてごめんねと言った。
 その言葉が、脳に届いたとき、傘が網に嵌っているのを思い出し、傘の骨がボキッと折れてしまえばよかったのにと本気で思い始めていた。
 この傘のおかげで、楽しいデートが台無しになり、桜の傘に苛立ちを覚えていた。
 桜の傘の馬鹿。


*涙雨*

 三回目に会った日は、うれしい事に梅雨真っ只中の雨で胸を撫で下ろしていたのだけれど、彼にとっては大変な出来事が起きた。
 芝居を見に行こうと駅を出て、二人がそれぞれの傘を差そうとしたとき、彼が桜の傘を斜めに傾け下ハジキの部分を外し下ロクロを押し上げようとしたとき、スルッとカバンを持ったサラリーマンが通り過ぎていきそのカバンが運悪く彼の傘に直撃した。傘が要らぬ方向に膨らみ彼の小さな悲鳴に等しい声が漏れたが、サラリーマンは振り向く事もなく、バサッと傘を広げスタスタ歩いて行っていった。

 彼は、傘を恐る恐る開くと綺麗な六角形の一角がぺろんと外に捲り上がっていた。
 ため息が漏れ肩が落ち目を潤ませながら、私の顔を見つめ、私は傘を閉じ再び駅の屋根の下に入る。
 隣に寄り添うと、沈んだ声で、下ハジキを外してなければこんな事にならなかった。桜の傘の下ハジキを自らの指で確かめるように押し、傘の骨組みを念入りに見上げ、受骨がどうとか、ダボがどうとか親骨がどうとか、イチイチ私に説明を入れながら確かめていく。おそらく、私に傘の名称を教えてあげようと思っての事ではなく、自らの気持ちを少しずつ落ち着かせ、説明しながら他に壊れたところがないか確かめているに違いない。
 すべてを確かめた彼は、突然座り込み濡れた床の上で何かを探し始める。人通りの多いせいか、すぐに諦められたらしく立ち上がり、ないなと呟き、携帯電話を取り出し、どこかへ電話を掛け始める。呼び出しベルが微かに私の耳にも届き、その音を聞きながら呆然としていると、彼はそこでようやく私の存在に気づいたらしく、ごめんねと言った。果てして、このゴメンネは私に向けられたものなのだろうか。
 彼は、相手が電話に出ると、捲し立てるように用件を告げ何度も頷くと電話を切り、傘屋に行ってもいいかなと私に気を使いながら言い、私は選択することも出来ずただ頷いた。
 
 傘屋へ向かう道中、彼は私の傘を持ち二人で一つの傘に入っていた。駅を出るとき、彼が私に頼んだのだ。壊れた傘は、彼がしっかりと持っていたが、どうしてそうするのかは聞く気も起きなかった。三度目のデートにして、嫌な沈黙が続く。これから先、私は、きっと彼にこんな言葉を投げかけてしまう日が遅かれ早かれやって来るかもしれない。
 私と桜の傘、どっちが大事なの?と。彼は、なんと答えるだろう。まさか、選ぶことなんて出来ないよ、なんて言ったりするだろうか、そんなはずはないと思うが確信はどこにもない。私は、彼の心配顔を見上げた。いや、躊躇わずに傘、なんて答えられてしまうかもしれないと不安になった。
心配事でいっぱいの彼と芝居をキャンセルしてまで傘屋へ向かい、三畳ほどの狭い作業場に足を踏み入れた。彼と店主は顔なじみらしく言葉を交わしていく。その場で修理をしてもらい、彼は心配で仕方ないらしく落ち着かない様子で眺めていた。私は、修理をしている職人の手先を見ながら、ぼんやりとその動きを見つめる。
 しばらくすると彼は、治っていく傘に安心したのか私のその視線にようやく気づいた。そして、再び勘違いし、目を輝かせ要らぬ説明に突入する。同じ露先は、ほとんど無いんだ。だから、出来るだけ近い露先を選んで、ああやって付けるんだ。そのとき、ただ糸で縛っただけだとすぐに切れてしまうから、あらかじめ蝋で固めて、括るんだよ。先を逆に付けるのは、出来るだけ緩まないようにするためで、職人の知恵ってやつだ。
 彼は、三回のデートの中で一番饒舌に話す。傘が治っていくのがうれしいのかもしれない。もちろん私は、傘の治し方を親身に心配しながら見ていたわけではなく、どうして、壊れた傘をこんなに心配するのだろうと彼を怪しみ始めていたのだ。
 六本ある骨の先は、同じ色であるのは二つしかなく、他の四本の先はすべて色が違い逆に付けられている。彼は、少なくとも今日を入れて四回以上は、こんな風に傘を心配し治るのを、待ち望んでいたのだろう。
 傘を治して外に出ると雨は止んでいた。まるで回帰祝いのように、笑顔でこれから食事にでもいこうと誘われ、本当はこのまま帰りたい気分だったけれど、断る理由を見つけるのすら面倒でそのまま付いていくことにした。
 店に入り、彼と向き合って席につき、彼の隣には桜の傘が立掛けられ、なんだか私は彼らの邪魔をしているのではないかとふと考えてしまった。彼がぐいっとビールを飲み干し満足げに呼吸をしたとき、おもわず、あなたの横にいる桜の傘の分のビールも注文しなくてよいのかと聞きたい気分だった。そんな事を巡らしているとこれから先、私と彼は、やっていけるのだろうかとすっかり自信が無くなっていた。真新しい金色の露先がきらりと光る。

thank you

後編へつづく・・・

短*雨宿り

2005年07月02日 | 短編
 夕方、ポツリポツリと降り出した雨に帰宅を急ぐ素振りも見せなかった小学生達は、突然、ゴウゴウと降り出した雨に悲鳴が上がり混乱し騒然としている。あっという間に、全身ずぶ濡れの小学生が一斉に駆け出していく。

 すごい雨。
 キッチンからカップを二つ持ち窓の外を見る私へT子が話しかける。私は、そんな雨の気配に気づき通り道だったT子の部屋に避難していた。案の定降り出した雨の下、小学生がパニックになっていたとT子に教える。T子は、カップをテーブルの上におきクッションの上に腰を下ろし、私はそれに続いた。屋根を叩き付ける突然の豪雨がテレビの音を掻き消すほど音を上げ、画面だけで芸人が口をパクパクと開き馬鹿笑いをしていた。T子は、リモコンへ手を伸ばしボタンを押すと、プツリと画面は暗くなる。小学生がランドセルを揺らしながらバシャバシャと川になったアスファルトの上を駆けて行く音が、ゴウゴウと降り落ちる雨の音に混じる。

 全身ずぶ濡れの小学生がドアの向こうにいたら、あなたどうする?

 T子は、カップから上がる湯気を見ながら、しばらくけたたましく叩きつける雨音をじっと聞き、こう切り出した。立ち上っていた湯気が、T子の吐息で歪む。

 覗き穴からみても、黄色い帽子と背負った赤いランドセルしか見えなくて、一度も顔を上げる事無く、伸ばされた腕だけが、チャイムを押し続けるのよ。もちろん、見たこともない見ず知らずの子。あなた、どうする?

 私は、T子の話を想像し、背筋に冷たいものを感じ息を呑む。それは、たとえ話なのか、それとも、誰かが体験した実話なのか気になり恐る恐る聞いてみると、T子は、依然住んでいた部屋で起きた自らの体験だと笑み一つ溢さずに静かに言い、その日、自分に降りかかった出来事を話し始める。

 空は雨模様で、今日のように突然、バケツをひっくり返したような雨が落ちだした日だった。買い物の帰りに降られ、一瞬でびしょ濡れになり、道路は見る見るうちに雨が川を作り、排水溝へ流れ込んでいた雨は瞬くまに溢れ、ボコボコと音をあげ始めていた。ピンクの何かが水圧に押されビョンと飛び出て流れる道路に弾き出された。ピンクの布から突き出した錆びた棒。プラスチックのヒビの入った柄。折れ曲がった傘だ。なぜかは判らないが、気味が悪かった。排水溝が逆流し、生臭い匂いが雨の中を漂っているせいだろうか。ぼこぼこと吐き出す排水溝は、異様で普段真っ暗な闇の奥底で息を潜めていたなにかが、こんなように溢れ出てくるのではないかと頭を過ぎる。立ち止まりかけた足を、無理矢理前へと出し続け走り続ける。アパートにつき入口のフロアに駆け込み部屋へと向かった。
 自分から滴り落ちる雨が、足跡でもつけるように部屋と続く。濡れた廊下を振り返り、このことで誰かが滑って転ばなければよいなと、罪悪感を感じながらも、全身ずぶ濡れで一刻も早く部屋へ帰りたかったので、目を瞑りカバンの中から鍵を出し濡れた手で穴に差込み部屋へと入り、ぐっしょりと濡れた靴を脱ぎ捨て風呂場へ向かう。
 置かれたままのバスタオルを取ったとき、何かが聞こえた。タオルを持ったまま廊下へ顔をだすと、もう一度チャイムの音が鳴り響き、来客だろうかと分りながらも、滴り落ち濡れた廊下が気になり、後で拭かなければと思いながら玄関へ引き返す。こんなびしょ濡れの姿で、出るのも気がひけたので、覗き穴で誰が来たのかを確認し、出る必要がないのであればこのまま居留守を決め込もうと、サンダルを踏みドアにへばり付き、小さな穴を覗く。ポツポツと髪から水滴が滴る。

 白い壁。すぐには、気づけなかった。本能的に、避けていたのかそれとも、偶々目に入らなかったのかは判らない。けれど、結果的に小さな丸の中にそれを見つけてしまったのだ。
 黄色い帽子。赤いランドセル。すぐに、小学生だと理解した。このアパートに小学生はT子が知る限り知らない。T子自身も、小学生に心当たりはない。でも、何か用があるからこそチャイムを押しているのだろう。覗き穴から消える事もなく、いたずらでもないようだ。一歩下がり、ノブへ手を伸ばし握る。

 回せなかった。体が回すことを受け付けない。不思議な感覚。再び、チャイムが鳴り響く。ノブに触れたまま、覗き穴へと近づく。
 レンズの円の中の、下の部分。下瞼のような部分に黄色い帽子と赤いランドセルが変わらず映し出せれている。ランドセルは、赤黒く滲み、黄色い帽子はぐっしょりと濡れている。唾を飲み込む自らの音に背筋が凍る。あの不思議な感覚は、恐怖だったことに始めて気づく。
 再び、チャイムが鳴り響く。触れられていたノブが掌に擦れる。ノブが回されている。咄嗟にノブを強く握り、鍵が閉められていないことに気づく。手に汗を掻いていてうまく握ることが出来ずノブが回りきる。
 全身から、熱くもないのに汗が噴出す。鍵へ手を伸ばすことが出来ず、両手でノブを握り、回りきってしまったノブを、無我夢中で内側へ引っ張る。外へ引かれる抵抗が伝わってくる。踏んでいたサンダルは、ずるっと擦れ、いつのまにか手から落ちていたバスタオルがタイルの上に落ち、濡れた足元、裸足のままタイルを踏みしめる。

 全身が悲鳴をあげ、頭から出される指令を聞かなくなり、見る見るうちに力が抜け、濡れた玄関に崩れ落ちた。頼りなく握っているノブは、外へ向かわずカチャリと元へ戻る。小学生はどうしただろうか。ノブを握っていた手を鍵へ伸ばし捻る。ぐったりと腕が落ち掌が床へつき玄関に出来た小さな水溜りの中に、ぴちゃりと音を上げ掌が濡れた。

 音。ドアの向こうから足音が聞こえる。パシャッパシャッと同じ間隔で響く。耳を塞ぎ、体を丸める。音は近づいてくる。パシャッパシャ。水が弾ける音。ノブに手を伸ばし力をいれ、動こうとしない体を無理矢理起き上がらせ、ドアに寄りかかりながら、再び穴を覗く。
 真っ白な壁。円の中には、それしか見えない。小学生はいない。けれど、音は近づいている。血がドクッドクッと音を上げ体がピクリと細かく震える。
 バシャッと音がすぐそこまでくると、濡れたモップが現れ、廊下を左右に動き作業着姿の管理人が姿を現した。息を吐き出すことを忘れていてせいか息苦しい空気を吐き出し、鍵を開けドアを開けた。管理人は、突然開かれたドアに驚き声をあげたが、T子は、引き攣った笑顔で小学生の事は触れずに話しかけた。自分が知っている人と話がしたかったのだ。一言二言交わし、管理人に、濡れた体を指摘され風呂へと促され部屋へと戻った。玄関に落ちたままのタオルを拾う。白いタオルの一部には泥が滲みこんでいた。玄関に落としたからだろうか。払いのけられる土は指先で引っかきながら落とし、玄関から風呂場へと続く濡れた廊下を見て、タオルを丸め風呂場を背に屈みながら濡れた廊下を後ろ向きで拭いていく。廊下はぐっしょりと濡れ、色を変えている。タオルで拭いても、しっかり拭き取れず伸びた水が細かく丸まり水滴を作っている。それでも拭かないよりは、ましだろうと一歩一歩、風呂場を背に下がっていく。風呂から出てくる頃には乾いているだろう。

 濡れた廊下。壁の低い部分に泥が付いていることに気づく。まだ乾ききっていない茶色く滲みこんでいる。排水溝が詰まったような匂い。それにしても、随分と汚れているなと考え、風呂場の入口が足先に触れたとき、強くなる匂いと濡れた床の染みに違和感を感じる。何かの模様がある。それが何であるか理解すると同時に体は硬く力が入り嫌な汗が再び頬を伝いポツリと床へと落ちじわっと染みた。

 子供の靴跡とドブの匂い。

 風呂場の中でぴちゃりと何かが弾ける。
 気配。背中を伝い気配を感じる。振り向くどころか、よつんばになったまま動く事すら出来ない。
 傘を貸して・・・。
 消えそうな小さな声は、すぐに雨音に掻き消される。
 あの折れ曲がった傘が頭に浮かぶ。
 なぜ、雨音が部屋の中でこんなに聞こえるのか。
 ピチャピチャピチャピチャ・・・ポトポトポトポトポト・・・バシャバシャバシャバシャ・・・ドドドドドドドドドド・・・。
 足元が冷たい水に触れ、瞬く間に水が風呂場から溢れ、流れは手元を通り越していく。逃げようと、ようやく手足を動かしたが、滑ってしまいぐるっと体が反転し風呂場へ視線が投げ出された。

 空気を引き裂く悲鳴が、頭を振るわせ、見開かれたT子の目には、水が滝のように流れ落ちる黄色い帽子がバシャバシャと音を撒き散らし、じわりじわりと上がり始めると思考が自らシャッターを下ろしていた。

 T子が淹れてくれたコーヒーは、とっくに冷めていた。
 その後、いったいどうしたのだろう。ゴウゴウと降り続ける雨音がゆっくりと弱まり始めている。その事に、ほっとし冷たくなったコーヒーを口にする。なぜそんな事が起きたのか語られる事はなかった、おそらく、T子自身もその答えを見つける事が出来ないのだろう。だからこそ、こんな雨の日は不安になり話す事で、自分を守ろうとしているのかもしれない。
 雨が止むのを確認しT子の部屋を出ようとノブに手をかけたとき、チャイムが鳴り響いた。咄嗟に、そのノブを強く握った。

「雨、止んだよね」

 ノブに力を注ぎ込んだままT子へ振り向き、そう問いかけるとT子の喉元が動いた。

 あの傘を見つけたところで、女の子が亡くなった事を知って、すぐに傘を探したけれど見つからなかった。だから、ピンクの傘を買ってあの場所に置いて来たのだと、T子は話した。
 

thank you
終わり・・・

短*アイスココア

2005年06月18日 | 短編
 昨日は、夜中まで仕事で、朝目を覚ましたときは案の定体が起きる事を拒否した。けれど、そんな事は許されずに無理やりだるく重い体を起こしソファーから立ち上がる。体の節々が痛くいつもの事だが、ベットで眠ればよかったと後悔する。
 のそのそとキッチンへ向かい金物屋で買った銀色のヤカンに水をいれコンロの上に置く。ガスをつけ青い炎が出ているか覗いて確認し後にする。
 水きり台に置かれたままになっているスプーンを口に銜え、数年前に温泉で買って来た藍色のマグカップを取り、棚の上に置かれた金色の蓋のココアの瓶へ手を伸ばす。
 出窓にマグカップとココアを置き、窓の外の天気を伺う。雨が降りしきる音は聞こえず、溜まった雨水がポタポタと垂れる音だけが聞こえる。けれど、雨が降っているのは確かだ。外の景色は音を立てないような細かい雨に霞んでいる。

「いやな雨だな」

 くわえたスプーンをカップに入れ呟く。銀色の蓋を捻り、瓶をカップに傾けトントンとカップの淵に当てると、粉がどさっと落ち小さな山がカップの底に出来る。置いたココアの瓶の金色の蓋を閉める。振り向き、ヤカンから白い蒸気が噴出している事を確認し、カップを持ちコンロへ向かう。
 沸騰したヤカンのお湯を、カップの五分の一だけ注ぎスプーンでかき回す。ドロドロとしたココアに粉残りがないか確かめ冷蔵庫の中からミネラルウオーターを取り出し五分の四まで注ぎ再びかき回しながら、髭の伸び具合を確かめ、冷凍庫から氷を三つ取り出しココアの上に浮かべる。スプーンを流しの中に置きカップを持ちソファーへと向かった。

 甘いけれど、疲れているときは、この甘さが堪らなく愛しくひんやりと喉を流れ落ちる時の感触がとても気持ちが良い。疲れた体にじわじわと滲み込み力を取り戻していく。色は、あまり好きではないけれど、特に差し支えるような色ではないので気にしないようにしている。
 健康ブームで、毎日ココアを飲む事が流行っていた時期もあり、甘くないココアなんてものまで登場し華やかな時代を迎えたときもあったけれど、結局、平常に戻ったようだ。ココアといえば、冬に湯気をフーフーと吹き飛ばしながら、少しずつ飲む事が多いだろうけれど、私は、断固ココアは、アイスである。夏はもちろん、冬もコタツでアイスココアである。
 なぜ、ホットよりアイスなのか、基本的に甘いものがあまり好きでなく、同じ砂糖の量でも、ホットよりアイスの方がすっきりとしている気になるのだ。以前友達に話したとき、その友達も同じ理由で、ホットの方を好んでいたので、人によって甘さの感じ方は違うのかもしれない。ちなみに、その友達も、時々堪らなく飲みたくなるらしい。

 もしも、この世界からココアが無くなったらどうなるだろう。

 ある日を境に突然ココアが滅びてしまったら、もうひとつだけでも多くココアをストックしておけばよかったとまず、思うだろうし、ひと粉もなくなったときは、空になった缶を捨てずに貯金箱にでもして記念に取っておくかもしれない。
 溜まらず、ココアが飲みたくなったらどうしよう。どうすることも出来ずに、ココアが飲みたいなあとあった頃のことを羨ましげに思い浮かべるしかない。それでも飲みたくなったならばどうする。きっと、そのようなことを考えるのは、私だけではないはずで、世界のココアファンは黙っていないだろうし、もし、ココアの製造が可能ならば、製造を求め、プラカードを掲げ、ココアを作れと行進する。けれど、製造事態が不可能ならば、これまた熱狂的なファンが、ココアに変わるものを夜も寝ないで開発に勤しむに違いない。
 私自身は、熱狂的ファンでもなく、ファンという部類に属せるかどうかも微妙であるが、心の中では、あったらよいなと切望しているのは間違いない。

 とりあえず、ココアに変わるものが出てきてそれが、ココイになるのか、ソコアになるのか、新ココアになるのかはわからないが、そんな類似品が出てくれば、それを買って飲むに決まっている。でも、もしかすると、慣れたココアの味とは、少し違ってそこがやけに目だって、冷水に溶ける新ココアの元を見ながら、昔のココアはよかったなとぶつぶつ文句を言うだろう。けれど、ある程度その新ココアを飲み始めてしまえば、いつしかそれも気にならなくなり、愛しいココアの味を忘れ、思い出すことも出来ずに新ココアの味に慣れてしまうのだ。
 万が一、奇跡が起こって一杯だけココアが飲める事になったとき、期待して口にしてみると、案外今の新ココアの方がおいしく感じてしまうことだってあるだろう。

 やがて、ココアを知る人は消え、忘れられてしまうに違いない。
 もし、ココア博物館があるなら、とびきりのココアマニアが博物館に寄贈し、カチコチに固まった絶対飲むことが出来ないココアが飾られるかもしれない。

 今、考えてみればココアは意外と幸せ者ではないか。

 もちろん、これは、オレ自身の想像もしくは空想でしかないけれど、オレが考えるココアは、間違いなく幸せの部類に入る。世の中の人に予想以上に愛されているではないか。愛している者がいるからこそ、動いてくれる人がいる。でも、一方的に愛されただけで、果たしてこれほどまでの展開になるだろうかとも思える。必然的に考えれば、ココアも愛を送っていたのではないか。いうならば、送られた人がココアに魅了され結果的に愛した。
 しかしながら、この世の中には、一方通行の愛も山ほど存在するわけだし愛とは言えない可能性が高い。ならばなんだろう。好きとも違うな。思い入れがあるからこそ忘れられない人もいて、ふと思い出し懐かしむときがあるわけだから、なるほど、思いだ。ココアは、お湯を注がれ、水を注がれ、牛乳を注がれ、時には、ありえない液体を注がれていたかもしれないが、いつだって、飲む人へ思いやりを何が注ぎ込まれようとも共に送ろうとしているのではないだろうか。

 ココアは、自分を愛そうとしたからこそ、飲む人を思いやり、やがて思われるようになっていく。ココアが消えても、その思いを受け止め捧げようとした人々が、動くことが出来たのだ。

 あの心地よい感触は、そこから来ていたのだろう。

「ココアって、偉いよな、俺も人を思いやる人間になろう」

 カップをテーブルの上に置き、ソファーに体を沈めた瞬間に眠りの世界に落ちていた。けたたましく鳴り響く電話のベル。開かない瞼で電話を手探りで探し耳に押し当てる。
「もしもしい!!ちょっとお!!何時だと思ってるのよお!!」
 電話の向こうで、オレと待ち合わせした彼女が怒りまくっていた。開かなかった瞼が突然ぱっちりと開き、慌てて立ち上がり仕度をしようとソファーから離れようとしたとき、左足のすねがテーブルに強打し、揺れるテーブルの上でカップが倒れ、カップの中から溶けて小さくなった氷の欠片がテーブルの上に流れ零れた水の中で溺れるように溶けていく。
 服だけ着替え、オレは部屋を飛び出した。外は、いつの間にか雨は上がり青空が出ている。


 散々なデートとからぐったりとした体で帰ってくると、堪らなくココアが飲みたくなり、座ることもせずに準備を始める。倒れたままのカップを手にし、テーブルを拭き流しへもっていき、カップを漱ぎ、ついでに、スプーンも洗う。洗ったままの濡れたスプーンを口に咥え、水が滴るカップを持ち棚へ手を伸ばすがココアの瓶がない。辺りを見渡すと、朝、出窓で入れた時のまま置かれている。出窓へ移動する。

 カップに咥えたままのスプーンを入れ、ココアの瓶を取り蓋を捻る。
 蓋は回らず、手が滑り、もう一度握り直して捻る。

「あれ?」

 気の抜けた声が漏れ、オレは、ココアの蓋を開けられない程まで憔悴しているのだろうか。力を込めても蓋がどういうわけか、開かない。朝、そんなにきつく閉めただろうか。再び、力を込めて回してみるが、手が滑り赤くなるばかりで、ぴくりとも動かない。中のココアだけが、無常にもカサカサ動くだけだ。

「くそお!!」

 布巾を床に叩き付ける。布巾で捻ってみても、全身全霊を込めて捻ってみても無駄だった。息を切らし、開かないココアの瓶を右手で持ちながらだらりと力なくぶる下げ、肩を落とす。
 オレは、ココアにも見捨てられたのだろうか。ココアへの思いやりが足らなかったのだろうか。だからこそ、自分自身がこんな惨めな姿になっているのか。俯いた顔をあげ、出窓に映る情けない姿を眺める。
 窓に映る高く上がり続ける白い蒸気。ヤカンが怒り狂って蒸気を噴出していることに気づき慌てて火を止める。持ったままの瓶をコンロの上に置きしばらく呆然と立ち尽くす。
 蒸気が納まりつつあるヤカンの横に、思いやることが出来なかったココアの瓶。
 振り返りソファへ向かおうとしたとき、コンロの上で、ポンと何かが音を鳴らした。
 踵を返し、コンロを見つめる。今の音は、ココアの方からした、もしかすると、もしかするぞ。ゆっくりとココアの瓶を、やさしく包み込むように手に取り、金の蓋を捻る。いつもの抵抗の後、ゆっくりと蓋は回る。懐かしいココアの匂いが鼻をやさしく擽る。

 ソファーの上で、アイスココアを飲み干すと、電話の受話器をとり、彼女の番号を押した。カップの中の氷が、崩れ小さな音を上げる。


thank you
おわり・・・

短*印象的な景色

2005年06月11日 | 短編
 なぜここにいるのだろうか・・・。

 深く息を吸い込み肺に冷たい空気が満ちた事を感じ、瞼が上がり眩い光が飛び込んだときは、どちらの方が先立っただろうか。思い返してみても、息を吸い込む方が早い気もするし、瞼を開けた時の方が早い気もする。眠っていて目が覚めたときは、いつでもこんなものかもしれない。どこからが目覚めでどこからが眠りなのか境界線はハッキリとせず滲んだ雲のようにかすれているに違いない。

 けれど、そんな事を考えていたのは束の間で、吸い込んだ空気を吐き出すのを忘れてしまうほどの美しい景色に釘付けになっていた。目の前に広がるのは、コバルトブルーの小さな湖を膝丈ほどの草が囲み、向かいの岸には森があり高い木々が空へと向かい、木々の間には朝霧が漂い、もうじき上がる太陽は森の向こうから光を出し始めているのか、木々の隙間にいくつかの光の筋が浮かび上がっている。そこから、湖まで漏れた光が、湖面をキラキラと光らせる。森の上にある群青色の空は、もうじき光を取り戻し始めるだろう。 風がなく、森はひっそりと朝を迎えるのを待ち、湖面は揺れることなくガラスのように透き通り、反射する光だけがキラキラと輝いている。

 夜でもなく朝でもない静かで幻想的な景色は、目を覚ました時に味わった気持ちとどこか似ている。この美しい景色は、もうじき朝を向かえ、鳥達が起き出し賑やかな姿へ変えていくだろう。

 もし、絵筆とキャンバスを持ち合わせていたら、間違いなくこの草むらにキャンバスを置き、絵筆を持ちこの景色を描くだろう。自分がそれらを持ち合わせていないことが、悔しく思える。それほど、目の前にある世界は、美しかった。

 知らずうちに目が覚め、偶然居合わせた、あまりにも美しい景色に一歩も動かずに立ち尽くし、ただ感動し見惚れている。そんな景色を何かに納めようとするならば、今自分に出来ることは記憶に残すことだけだ、ならば、太陽が昇るまで、それほど多くない時間を、この景色が続く限り、このままでいようと決める。空っぽの心が何かに満たされていくのを感じながら出来るだけ満喫しよう。なぜ、目が覚めた時、ここにいたのかなんて、それから考えればよい。そんなことは、以外に簡単でただ寝ぼけていただけというのが落ちという可能性が強いが、そんな味気ないことは後回しにする。

 なぜこんな事がなっているかということよりも、大切なのは、目の前にした今をどうするかの方が、ずっと大切で重要ではないのか。ましてや、たった一人でこの景色を独り占めしている事が、誇らしく優越感に浸り始めていた。頭の中で、どこからとも無く朝を迎えるのに相応しい音楽が流れ始める。どこかで聞いたことがある記憶が、この景色に刺激され呼び覚ましたのだろう。実に心地よく気持ちが良い。

 湖面に散りばめられた眩い光に、突然、なにか違和感を感じる。それは、頭で響く音楽の中に不協和音が混じるような不快な出来事だ。この完璧に思えた美しい世界に、ほんの一瞬でも感じた不快と違和感が、心を動揺させる。何が、そう感じさせているのだろうか。気のせいだったのかもしれない。けれど、不安は消えず立ち尽くしたまま、あるはずがないと思いながらも何かを探している。
 対岸の少し手前の光。不自然に白く光っている。白。頭で理解するよりも早く、心臓の鼓動が早く打ち続ける。あれは、光ではなく白い何かだ。それが湖面に浮かんでいる。いや張り付いていると言ったほうが相応しい。あの白は、何だろう。不安が色を濃くし新たな不安が現れる。
 太陽はまだ森に隠れたままだが、こんなに太陽が昇るのは遅かっただろうか。森の木々の隙間に走る光の角度も変わっていない。湖面も同様だ。感激していたあまりに、時間が進む感覚が酷く遅く感じているだけかもしれない。
 木々を見つめる。風が吹かないせいか鬱蒼とした緑の葉は、揺れることがなく緑が重なったままで、ざわめく事もない。まるで、塗り固められているようだ。

 森を包む白いベールのような朝霧が、いつまでも晴れない。それどころか、濃さも変わらず流動することもない。足が竦み一歩も動くことが出来なくなっていた。言い知れぬ不安が、足を鉛で固められているように重い。言葉も失い、目覚めたときの疑問が、再び姿を現し答えを求めてくる。先ほどまでの晴れやかな気持ちは、暗雲に飲み込まれていく。
 なぜ、ここに居るのだろう。なぜ、誰もいない。なぜ、立ったまま目が覚めたのだ。何一つ解決の糸口を見つける事が出来ない。記憶喪失にでもなってしまったのか、誰かに助けを求めた方が良いだろうか。あれほど、一人で居る事に優越感で満ちていたにも関わらず、突然一人で居ることが恐ろしく思い始める。

 そんな湧き上がる気持ちを、掻き消す為に、ひとつでも落ち着ける証拠を探し求める。

 湖を囲む膝丈ほどの草。対岸にあるその草の先が、掠れている。掠れる?そんな言葉がなぜ浮かぶ。草が掠れるとはどういう事だ。空に雲が掠れるならば理解もするが、草が掠れることなどあるはずがない。けれど、よく見れば見るほど、似たような掠れは、草だけでなく、木々の葉も掠れている。それは無数に存在していた。まるで、細い筆で描かれているように、掠れているのだ。湖面に光っていると思ったものは、光ではなく、白が掠れているだけかもしれない。あれほど、美しいと思っていた景色が、景色ではなくなり無数の色の塊にしか見えなくなる。自らの目が、そうさせているのか、誰かに騙されていたのか。
 ここはどこだろう。なぜ、目が覚めている今も、何も思い出さない。頭はとっくに覚めている。いったいどうなっているのだ。包まれた恐怖に耐えられなくなっていく。一刻も早くこの場から立ち去りたい。そう思ったとき、発狂したくなるほどの不安が押し寄せる。
 目が覚めてから、一度も振り向いていない。それどころか、一歩も動いていないのだ。背中に神経を集中させ、僅かでもその先にあるものを感じてみるが、何一つ伝わる事がなく、溜まらず想像し、森や、草原や小高い丘などがあるだけだろうと満たしていく。
 振り向けば、すべては明確になる。けれど、背後の景色を見ることが怖いのではなく、振り向くという動作が不安や恐怖になり、体の隅々まで掻き立てる。
 瞬きをしただろうか、首を動かしただろうか、手を上げただろうか、鼻を啜っただろうか、そんな当たり前の動作を憶えているはずもないだろう。この景色に見惚れ動かさなかっただけなのだと、何度も反芻する。動けなかったのではなく、動かさなかっただけなのだ。この偽者の景色に絶望し一歩も動けずにいるけれど、動こうとすれば動けるに決まっている。
 脳みそが悲鳴をあげ、かあっと熱くなり、急速に冷やされていく。呼吸が上手く出来ない、すべてのピントがズレ、狂乱し恐怖が渦巻く。動くはずだ、動くに決まっていると足に言い聞かせ、振り返ろうとするが体が反応しない。その度に何度も、動かさなかっただけだと反芻する。
 ガンガンと頭が鳴り響き何も考える事が出来ない、目が眩み気が遠くなる。僅かにある記憶が、次々に壊れあの霧のように掠れていく。薄れる神経が、背中で何かを感じ取る。涼しげな風の音、誰かの足音が響く。夢だったのだろうか。今感じているものが、現実の世界なのか。ならば、夢から覚め現実の世界に引き戻されていくかもしれない。目を閉じた。

 冷房の効いた館内を興味なく歩いていたが、あるひとつのところで視線が釘付けになり、あまりの美しさに見惚れ、足を止め、いつのまにか酔いしれている。興味が次々にわき、額の中に描かれた立ち尽くす男の後姿をみて、小さく声を漏らす。

 この男は・・・(冒頭へつづく。


thank you
おわり・・・いや、永遠に続く。

小説は一週お休みです。

2005年06月01日 | Weblog
こんばんわ、管理人です。
今週の週末あたり、関東は梅雨に入るそうです。
また、じめじめとした季節がやってきます。
喜んでいるのは、傘屋とアジサイぐらいでしょうか。

さて、今週は、真に勝手ながらお休みとさせて頂きます。
尚、しばらくは、週一、土曜日更新とさせて頂きます。

次回更新は、六月十一日です。

それでは。

十二月の出来事 4

2005年05月28日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の四】→→→数秒の間が待ち遠しくいったい何が起こったのかと、心臓の運動が激しくなる。どうしたのか、問いかけてみたが返事はなく、聞こえるの雑踏の音のみ。もう一度問いかけようと言葉を吐き出そうとしたとき、優希がようやく口を開いた。

「歩道橋の上にキックがいる」

 電車がホームに滑り込んだらしく時間がないのか早口で告げる。駅のホームを思い浮かべる。あそこから見える歩道橋は一つしかない。ならそこにキックがいるというのか。

「え・・・何してるの?キック」

 キックは、駅へ駆けつけようとしたが、間に合わないと思い、ホームが見える歩道橋から見送ろうとでもしているのだろうか。それとも、優希に聞かされる前に、優希が帰る事を知っていてこっそりと見送りに来たのか。青春ドラマのように、何かを叫んだりするだろうか。キックなら人目を気にせずにやりかねない。それにしても、なぜキックは、歩道橋にいるのだろうと、つかの間に巡らせてみたが検討をつけることが出来ない。

「背筋をピンと伸ばして、バタバタ腕を振ってる」

 目の辺りにしている優希もキックが何を考えているのか判らない様子で実況をする。

「腕・・・。それって、手旗信号?」

 バタバタと腕を振っている言う優希の声に、頭の中である光景が思い描かれる。先月、橋の上で配達カーをみつけたときのキックの姿。あのときと同じメッセージを送り続けているのか。いくらなんでも、そんな馬鹿なことはないだろう。けれど、中村が言うとおり私達は、その部類に入るらしいので、一概にないとは言い切れない。あれから一ヶ月も経っているのだから、もう少しマシな一つや二つのメッセージは憶えているだろう。

「なんで?なんでキックは、手旗信号をやっているの?あれ、私に送っているのかな?」

 優希は、キックの手旗信号を初めてみたせいで、自らに送られていることを上手く飲み込めないようだ。私はそんな優希に、それは間違いなく優希に送られているメッセージだと言う。

「歩道橋の上、人だかりが出来始めてる。携帯で写真取られているっぽいよ。それにしても、理解不能・・・熱いメッセージが伝わってこないけれど、必死感は伝わる、でも、なぜに手旗信号?」

 そりゃーそうだろう。手旗信号を目の前で見た事がある人なんて多くないはずで、ましてや駅へ続く歩道橋の上で真剣に誰かにメッセージを送ろうって人間は、万に一人ぐらいではないだろうか。歩く人も、危険を感じなければ足を停めるだろうし、何かの撮影かと勘違いしている人がいれば、携帯で写真をとる人だっているかもしれない。優希は、おそらく熱いメッセージを送られているはずなのだが、本人は、時間が経つほど冷静さを取り戻していき、呆れた声に変わっていく。今まで培われた対処方法だ。
メッセージを言葉に変換出来れば、熱く込上げる何かがあるだろうけれど、優希は、それを読み取るすべを知らない。

「たぶん、いざって時が来たんだよ」

 優希の問いに、答えになっていないだろうが、これしか思い浮かばなかった。キックが手旗信号でメッセージを送るのは、いざという時なのだ、今回はそれに当てはまるのだろう、もちろんキックにとってはだが。優希が、どこまでキックの思いや行動を理解したのかはわからない、いや、一割も理解していないだろう、私だって判らないのだから。けれど、優希は、それを楽しむように嬉しそうな声で、そうだねといい、その向こうから列車のドアが閉まるときに鳴る空気圧の音が聞こえると電話は切れ、ツーツーと電子音が鳴り続けた。
 キックが、優希に何を伝えようとしたのかは、おおい気になるがこれから先、自ら聞くことはないだろう。それは、私に送られたものではなく優希へのもので、私が知る必要なんて微塵もないのだ。

 一筋の太陽光も通さない曇った空の向こうで、再び罅割れた光が走り遅れて鈍い音が空気を振動させていく。少し近くなっているかもしれない。それが合図だったのか、ぽつぽつと芝生が音をあげ透明の欠片が弾け、服に当たった粒は生地の色をかえ滲ませる。大粒の雨が落ち、風に色濃く雨の匂いが混じると数秒後には激しく落ち始め、辺り一面一斉に色を変え、青いベンチも紺色に変わり流れる雨が滴り落ちる。飛沫を高く上げるほどの激しい雨が降り、歩道を歩く人々は、駆け出していく。
 肌に当たる雨は、冷たくて痛いのか大粒で痛いのかは判断できず、されど、凍るような冷たさは変わらず、なら避けるように屋根のある場所へ駆け出せばよいのだが、そんな気持ちは微塵もなく、私にはその中で立っていることしか出来なかった。服は、乾いているところがないほど濡れていて雑巾のように絞れば足元に大きな水溜りが出来るほど雨を吸い込んでいる、大粒の雨は、頭からシャワーを浴び続けているのと変わらず、成すすべをなくし、忘年会の時のガラスに触れた冷たさを思い起こしていく。数時間の間に起きた出来事を考えれば、これくらいの冷却をした方がよいのかもしれない。

 持ったままになっていた紙飛行機がぐっしょりと濡れている。もう、飛ばないだろう。この紙をどうするべきか。広げて鶴にでもするべきか、いや、そんなものをあの嘘つきに作ってあげる筋合いなどない。でも、捨てるのも心が引ける。座り込み体を丸め、上半身で僅かな雨避けを作り、膝の上で折り紙を折り始める。強くひっぱると切れてしまい、ぐったりとうな垂れたものしか出来なかったが、とがって飛び出た両端を組む。
 折られた紙の端を両手でそっと持ち、駅があるだろう方向へ向け目の前に翳し、ある瞬間を待つ。
 グレーの空が光った瞬間、紙を開くように真ん中を前へ押し出すと、組んだ紙が解け開かれた。ゴロゴロと空気を振動し音が続く。

 ファインダーの中に見たのは、キックの手旗信号と、最後にそうだねと言ったときにしただろう優希の笑顔だった。

「くわあ、さむ!!」

 ぶるっと全身が震え鳥肌が模様のように浮き立ち、髪から滴り落ちる雨が、頬を伝うと冷たく傷みさえ感じる。体は見る見るうちに体温を奪われその証拠に、白い湯気が上がっている。ようやく屋根のある場所へ向かおうと溜まった雨を踏み潰すように振り向くと、雨が踊るように弾かれる赤い傘を差し白いタオルを抱えた中村が滝のように降りしきる雨の中にたっていた。傘に弾かれる白い飛沫が、バチバチと音をあげ飛び散っている。中村の足元は濡れている。
 また、馬鹿と言われるに違いない。そういえば、キックはどうしただろうか。街を包み込んだ大雨にずぶ濡れになっているのではないかとふと頭を掠めた。
 大きなくしゃみが一つ二つと続き、キックの事も吹き飛んでしまった。服から雫がどさっと音を上げ落ちる。光のないグレーの雲が唸る空に、今まで一番大きな閃光が描かれた。薄暗い世界が本当にフラッシュでもたかれたように光が放たれ影が浮き上がったかと思うと、空が割れ地球まで割れてしまいそうな馬鹿でかい音が轟いた。病棟のガラスが、ギシギシと振動している。肩を竦め頭を抱えようとしたとき、視界に入ったのはくるっと踵を返し傘から落ちる雨を振りまきながらひき帰す中村の背中だった。

「せめて、タオルだけでも渡してくれればいいのに・・・」

 中村よ、おまえはそういうやつだったのか。びくびくしながら、出来るだけ低い姿勢でぬかるんだ芝生の上を足早に中村の背中を追う。一人分突き出した屋根ではこの豪雨を遮る事は出来ず、中村は傘を差したままで私を待っている。花壇を飛び越えそのまま屋根の下に入り込む。僅かに乾いている足元コンクリは、私から落ちる雫ですぐに水溜りを作った。風向きが変わるたびに雨が顔まで吹きかける。中村は、持っていたタオルを渡し、受け取った私はとりあえず頭から顔にかけて拭く。

「ところで、明日の温泉どうする?」

 白い息を吐く中村。予想もしていなかった言葉に私は拭く手を止めボサボサの髪の間から顔を出す。

「へ?」

 気の抜けすぎたまぬけな声が漏れたのは、明日の温泉の事を忘れていたのもあったが、それだけではなかった。なぜ、中村が温泉の話を知っているのか、優希が言ったとしても、この言い方だとどうも不自然である。そんな疑問が中村が答えを出す。

「三人で行くはずだったのに」

 私のまぬけ顔を確認しても関係ないとでも言うように中村は、残念そうな顔をしている。どうなっているのだろうと、考えてみる。もちろん、二人分の予約しか取っていなかったことを優希は知っているわけで、それを優希は三人で温泉に行こうと誘っているということは、覆る事のない確信的な犯行だ。中村は、まだ気づいていないが優希に騙されていたのだ。明日温泉に浸かりながら、のんびりと手の込んだ裏切り話のタネにしてやろう。

「もちろん行くさ、おもいっきり浸かってやる」

 手に持ったままだった濡れた折り紙を見た中村が、それは何かと聞き、私はだらりとうな垂れるカメラを模った折り紙を見せる。無理矢理、折り紙の端を接合し中村に向けシャッターを切って見せようとしたとき、再び空を引き裂くような稲妻が走りフラッシュがたかれ、窓が軋み空気が振動し腹を突き上げるような低い音が轟に響き渡る。二人は、肩を竦め短く声を上げた。

 キックは、雷に打たれていなければよいなとふと思う。優希が乗った電車は停まって立ち往生しているかもしれない。明日は晴れればよいなと唸る空を見上げてから、中村が差す傘の淵からポトポトと落ちる雫が私の右足を濡らし続けている事に気づいた。


thank you
終わり・・・


 エピローグ

 初夏な日。遠くの山を覆い被すような入道雲が空へと発達を続けて、中央高速道路のサービスエリアから見渡す景色は、まさに夏を現し高い山々と共に絵葉書に納まりそうな絶景だった。
 その景色に目を奪われた人は、車からカメラを取り出しその景色をカメラに納めている。もちろん、携帯を翳しシャッターを切る人もいる。私も、その人たちの仲間入りをしたいのは山々だったのだけれど、生憎カメラも持ってなければ、携帯にもカメラが付いてない。したがって、絶景を前に店で買った高原ソフトクリームを舐めながら、歩道に刺さる車止めの円柱に腰掛け眺めている。老若男女、その景色に何かしら心を惹かれているらしくそれぞれ、満足しながら立ち代り入れ替わりやってくる。カメラに納めていく人は、あの景色をこれから先どうしようとしているのだろうか。この景色をバックに誰かを撮るなら、それはその人の為でもあり分かれないでもないが、景色だけを収めていく人は携帯の壁紙にしてみたり、大きく引き伸ばして部屋に飾ってみたり、そんな感じだろうか。もしくは、撮ることに満足していて、あとは多少の話の種にしてしまうという具合だろうか。どちらにしても、カメラに収めるのも、私が濃厚なソフトクリームを舐めながらジワジワと記憶に焼付けていくのも、さほど作業は違わないのではないだろうか。

 けれど今はそうかもしれないが、これから十年、二十年、三十年先、私はこの景色を思い出せるだろうか、そう考えると自信がない。ところがカメラに収めた人は、この写真さえ保管することが出来れば、三十年後にひょっこりと箪笥の引き出しから出てきて、手に取り、この景色はきれいだななんていいながら、これはどこで撮ったのだろうかなんて考えて、もしかするとシャッターを切ったときを思い出すことが出来るかもしれない。となれば、それは確率の問題だ。私が、この景色を何かの拍子で思い出す確率と、この写真をみて記憶の引き出しが開き思い出す確率は、それほど変わらないはずなのだ。   

 それならば、何十年先、今広がる景色を収めた写真が手元にあろうが、今広がる景色を思い出すことができなければ、なんら意味が無いのではないか。それは、私が、思い出せないのと同じ事なのだ。順調に舐め続けたソフトクリームは、コーンの中に納まりつつある。これからは、様子見で、コーンと共に食べていくことにする。

 試しに一年前の夏は何をしていたか、思い出してみる。

 酷い揺れの中、突き進んだゴルフを思い出す。今のところ、記憶は鮮明で、私の中にあるカメラが、数え切れないほどのシャッターを切り続け、その音は鼓動ともに胸に響き、フィルムに焼き付いていたようだ。連想する様に去年の暮れを思い出す。中村へ向けた雨に濡れた折り紙のカメラ。シャッターを切ったとき、とんでもない閃光のフラッシュがたかれ、私の中の記憶というフィルムに焼きついた。

 いつかは、写真のように色あせていくだろう。写真を手にしても思い出せないなら、ないほうがマシではないだろうか。
 ソフトクリームより白い入道雲は、最高頂まで伸びてしまい行き場を失い、今度は斜めに傾きはじめ、随分とかっこ悪い形になり始めている。
 目の前を高そうな一眼レフカメラを提げた人が、残念そうに戻っていく。コーンの中のクリームは溶けてしまい液体のようになっている。溢れ出ないようにコーンをざくざくと齧っていく。
 カメラを否定していながらも、本当は少しだけ後悔している。実は、私達はここ数年の間、たった一度もカメラを持たなかった。山ほどいろんなことがあったというに、たった一枚すら納める事がなく、一枚くらいあっても良かったのではないかと考える。なぜ、シャッターを切らなかったのだろう。
たぶん、それは、三人とも、うっかり忘れていたからに違いない。それ以外の理由は思いつかない。カラーコーンを縮小した程度のコーンになり、最後は一口で口の中へ放り込んだ。コーンが崩れ中から、冷たくて甘いクリームが広がり口から飛び出さないように注意をした。

 中央道をおり、一般道をひた走り、高い建物がなくなり、一番高いものといえば、火の用心とかかれる鉄骨で組上げられた矢倉のようなものだった。地図を確認するために、路肩に車を停めても誰の迷惑にならない程の交通量で、のんびり地図を広げる。目印なんてものは、ほとんどなく、見渡す限り青々とした田んぼが広がる。なんとなく、そんな景色に魅せられ、冷房を切り窓を開ける。夏の暑さは変わりなかったけれど、田んぼを駆け抜ける風が水と稲の匂いを載せながら車内を通り過ぎていく。細かく書かれた地図も目印がなければその精密さは発揮することがなく、単純な地図と変わりない。交差点の数とそこから三本目の道を左と覚え、誰もこない車道へウインカーも出さずに走る出す。
 心地よい風が頬にあたり、ドアに腕を乗せ気持ちよく走り続ける。左へ曲がり、あとはずっと直進のはずで、相変わらず田んぼに挟まれた道をゆっくりと進む。田んぼの真ん中に数本の高い木で囲まれた一軒家が見え始め、次第に近づいていく。表札を確認しようと探してみたけれど、見当たらずそのまま敷地に車で入っていく。中は、納屋があり、その前は砂利でひき詰められ広く車は一台も停められていない。適当な場所に車をとめ、庭の向こうにある平屋を見る。誰かいるだろうかと、窓を開けたまま外へ出た。

「あら、のりこさんかい?」

 振り向くと、手ぬぐいを被ったお祖母さんが、農作業姿でたっていて、両手には、鍬と大根を持っている。前に病院であったときとは、随分と印象が違う。あのときよりも、もっと田舎らしい温かみを増しているように思えた。この景色のせいだろうか。

 土間を上がり、家の中はひんやりとしていた。クーラーがはいっているわけでもなく、家の作りがそうさせているのだろう。お祖母さんに、先に上がって待っていてくださいと言われたままに上がっていた。とにかく、静かで今聞こえる音といえば、お祖母さんが外で使っているだろう水が流れる音と、私が歩く音だけだ。
 廊下から、開けっ放しの畳がひかれる居間に入ると、大きな仏壇が一番初めに目に飛び込んだ。いくつかの写真が並べられ、小さな器に入ったご飯が置かれ、仏壇の花には似合わないひまわりが飾られている。自然と足がそっちへ向き、埃ひとつない仏壇を前に座った。
 後ろを振り返る、静まり返っているだけでお祖母さんは家の中に入ってきていないようだ。体を戻し仏壇に置かれているマッチをとり、一本出し箱の側面にこするとシュッと音を上げながら炎が揺れ、蝋燭の芯に添える。燃え続け短くなったマッチを三回振り消し利用済みマッチ棒入れの小さな穴に落とす。線香を二本とりオレンジ色の光が灯り小さく落ち着くとゆらゆらと一本の白い煙が昇り、柔らかい灰の中に差し込んだ。
 チンと音を鳴らし反響する部屋の中で手を合わせる。
 廊下を伝わり土間の方から、引き戸が開けられる音がし、廊下の板が軋む音が近づく、やがて足音が消え背中に人の気配を感じる。合わせた手を外し、顔をあげ後ろを振りぬく。

「うわっ・・・その麦わら帽子」

 驚いて後ろに仰け反ってしまい正座をしていた足の一方が崩れお尻が畳に付くと体のバランスが崩れた。突然現れた優希になら、これほどまでに驚かないのだが、問題なのはその格好だ。麦藁帽子を被り顎の下に白い紐が垂れている。ここでは麦藁帽子が流行っているのか、それとも、開放感から、夏だからという理由で被っているのか、目の前にいる優希は、白い肌が少し焼けているように見える。

「あの手旗信号、麦わら送る、だったらしいよ」
 
 優希は、麦藁帽子に止まったままの視線に気づき、帽子の鍔を指で示しながら笑った。手旗信号、麦藁帽子、二つの単語が頭の中で結びつくと、大きく頷いて見せる。以前、ゴルフの洗車をしたときキックが被っていた麦藁帽子、なぜ、キックは優希に贈ろうと思ったのだろうか、そして、歩道橋の上で、なぜに、このメッセージを熱く送り続けていたのだろうか。半年以上経ち、メッセージは解読された今であるけれど、再び疑問が現れ結局補い続けているようだ。

「ちょっと、この葉書」

 優希は、居間の棚にたち、何かを持ち私に差し出す。それは葉書で、宛名に、優希の名前が書かれ、その横に小さく私の名前が書かれている。だからといって私の家に届く事も無く書かれている優希の現住所に届けられているわけだが。その理不尽な葉書を受け取りヒックリ返すとそれは写真だった。どうやら写真に住所と名前を書いて送ったらしい。そこに写っていたのは、白い歯をくっきりと見せた満面の笑みのキックと、なぜかその横で微笑む降谷。これはいったいどういった事で、何が起こってこの組み合わせが写真に納まったのだろうか。想像を絶する展開に言葉を失った。凍りついた私を見ている優希が、腹を抱えて馬鹿笑いを始める。

「どうなってんのよおおお」

 畳の上で、叫ぶ私をみた優希のお祖母ちゃんは驚いてお盆の上に乗せていた三角に切られたすいかを畳みの上に落とし、三角の先の部分が、ぱかりと割れた。

 二人の後ろに、幌がついたジープが写っている。これは、今のキックの愛車だ。それにしても、またひとつ疑問なのだが、このジープも見たからにおんぼろで、それどころか、今度はドアまで吹き飛びそうな車だった。


ー完ー

これにて、フィルムは完結になります。
お読み頂きました皆様方、ありがとうございました。
  

十二月の出来事 3

2005年05月25日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の三】→→→ 一番遠い駐車場へ回され正面の道路を通らずに、中庭を抜け正面の玄関を目指そうと足早に進んでいく。

「僕に何か出来ることがありますか?」

 突然飛び込んできた声に歩調が緩み、ぱたりと歩みが止まる。
 病棟前、茶色の歩道沿い、花が咲いていない花壇が続く。花壇向こうのベンチに座る大きな背中は肩を落とし、小さな背中は頼もしさと優しさが滲み出ている。二人は、芝生が広がる中庭を前にしている。黒のダウンジャンパーを着た青年。紺色のカーディガンに、ベンチから覗く足元の白いスカート。突然、飛び込んできた一言でも、ダウンジャンパーの青年がどんな立場なのか大まかに予想が付いた。患者の家族か、友人か、恋人か、助けたい人がいて、自分に出来ることを探している。それをナースに相談しているのだろう。私は、前にいる二人に気づかれないように、二歩前へ出る。聞き耳をたて、悪いと思いながらもその答えが知りたかった。真直ぐ前を見ていたナースが、俯きぎみに少し前を見続ける青年の方へ体を向け斜めに座り直す。ナースの横顔が青年を見つめた。

「たくさん笑うと、免疫力を上げることがあるんです、まだ、実証されていないんですが、そんな症例があります」

 淀みのない疑いすら浮かばない、青年に向けられる視線のように真直ぐな言葉。躊躇うこともなく続け、微笑んで見せた。青年が大きく肩で息を吸い込み吐き出した。空気は、吐き出されたけれど、萎んだ背中に空気が入れられたように見える。すくっと立ち上がり、座るナースと向き合い照れながら笑顔を薄っすら浮かべた。俯いていた頭が真直ぐと前を見据え、その中に私が偶然入り込むと、私がナースに用事があるのかと勘違いしたらしく、ぺこっと頭を下げ、ナースにお礼をいい立ち去った。ナースは、立ち上がりながら、後ろを振り向く。
 優希にとってお世話になった人は、病院の医師や看護士で担当の方に会えば、優希と遭遇するのではないかと考えていた。間違ってはいなかった、けれど肝心な事が抜け落ちていたらしい。どうして、もっと早く気づかなかったのかと、益々自分が情けなくなる。優希が一番お礼を言いたかったのは、おそらく目の前にいるナースだろう。隠されていたのか、それとも、また、騙されていたのか、ただ、言いたくなかったのか。今となっては、分からないし、知る必要もない。

 向かい合う二人の間を、白い何かが横切る。視線は奪われ咄嗟に追う。花壇の上を通り抜け、芝生の上を低空飛行し、突然の風に煽られた紙飛行機は体勢を崩し巻き上げられ芝生の上に突き刺さる。今更目の前にいるナースと話す事などない気がし、優希は、もうこの病院にいない予感もする。優希を追うパワーもなく、虚無感が占領していく。花壇を乗り越え、ナースの横を通り過ぎ、柔らかな芝生の上を歩き、先が芝生に突き刺さる紙飛行機を拾った。先の部分が潰れている。紙飛行機を手にしたまま後ろに振り向き、病棟に開いた窓がないか探してみたけれど、どこから投げられたものなのか分からない。

 近づいてくるナースのカーディガンが風にぱたぱと揺れ、胸元についてる中村と書かれた名札がカチカチと音をたてている。

「優希、長野へ帰ったよ」

 強くなり始めた風、後ろから吹き抜け中村の髪が前へ流され顔に触れると右手で押さえる。

「過去形?」

 潰れた紙飛行機の先端を爪をいれて出来るだけ伸ばしてみるが、衝撃が強かったのか跡は消えずに、戻ろうとする。

「駅まで飛ばせば間に合うかも」

 中村は腕時計をみながら、時間を計算している素振りを見せ、私は紙飛行機の軸を指先で持ち、二、三回飛ばす素振り見せる。

「飛ぶわけ無いじゃん、ちょっとの風に煽られてすぐに庭に落ちる紙飛行機なんかさ、届くわけがない」

 紙飛行機を突き出し、中村の前へ翳す。冗談にもならない言葉しか発せられず、虚無感を埋めるのは苛立ちしかなく、徐々に占領を始めていく。

「現実逃避か」

 紙飛行機は無視され、私を真直ぐに見据え大きくため息をつくような言葉が吐き出される。

「所詮、こんなものだよ」

 苛立ちを見せるのは、大人気ないし出来るだけ隠しておきたくて笑いたくもないのに、笑って見せると、中村は、私を見透かしたように嘲笑い目を細め腕を前で組み肩を振るわせる。しばらく笑いが続き、突然腕が解かれると、ぴたりと止まり、表情は一変し仏頂面になり、水泳の息継ぎのように空気を吸い込んだ。

「何をどうしたかったわけ?支えてあげようとか、決心していたりしたの?もともと、出来ることなんてたいした事ないでしょ?」

 こんな中村は初めてで、いつもより二倍のスピードで言葉が飛び出している。一瞬、驚き固まってしまったがすぐに解凍した、なぜなら腹が立っていたからだ。

「随分とはっきり言ってくれるね!!そんなの分かってるよ、私は、医者でもないし、看護婦でもないし、家族でもない、現に優希が長野へ帰る事すら知らなかった訳で、気づくことすらなかった、ペアルックを着ちゃうようなやつに、いちいち言われる筋合いはない!!」

 中村に怒りをぶつけるのも筋違いだというのは、片隅で理解し、大人気ないぞとも、もう一人の自分が言っていたけれど、止める事は出来ずに、捲し立てるしかなく、声を荒げている自分を恥ずかしく思いながらも、掻き消すように尚、張り上げる。

「ぺ・・・ペアルック?何言ってんの?馬鹿じゃない!!あたしがここの看護師だって事も知らないすっとこどっこいが、優希に何をしたかなんて分かるわけ無いじゃん。それとも、何?知って知らぬふりでも決め込んでた?ぜひとも言ってみてよ、ペアルックがどうして悪いのか、私が優希に何をしたのかをさあ、さああ」

 ナースは冷静な判断を要求される職業ではないのだろうか。少なくとも数分前までは、立派なナースが目の前にいたはずだ。あんな心遣いはどこにも見えないどころか、まるで別人である。これほどまでに怒り捲くるナースも、中村も今だかつて見たことが無く、気が付けば呆気に取られ、吹き抜ける冷たい風が、辛うじて私を引き戻してくれる。中村は高揚し体全体に力が漲っていて立ちはだかる壁のようだ。

「知るかああああ、そんなのおおお」

 叫ぶ前に、遠くの空に光が走り、語尾のところで、ゴロゴロと地響きのような音が鳴り、それに驚いた私は、肩をビクつかせ声が裏返ってしまう。咄嗟に恥ずかしさを補うように右手で中村の左肩を押すと、予想以上に力が入っていたのか、掌がつるりと滑って宙に浮いてしまいそのまま引き戻す。

「私は、優希がこの病院に来る前から、ここで働いていたんだよ。ここに、私が居たから、優希は色々話しただけで、馬鹿な二人みたいに、一緒に泣く事も叫ぶことも、笑うことも出来なかった。してあげることは、幾らでもあったけど、することは出来なかったんだよ。優希はねえ、馬鹿な二人だから言いたくても言えないことだってあったはずで」
「馬鹿ア??」

 馬鹿という言葉に過剰に反応し、言葉を遮り中村の目を睨みつけると、その目には、溢れんばかりの涙が溜まり、今にも、ぽろぽろと流れ落ちそうだ。私が泣かしたのか、いや、泣かされるのは私ではないだろうか。それとも、ペアルックがあまりにも悔しいのだろうか。

「馬鹿じゃん、大馬鹿だ。優希が、どんなに塞ぎ込んでいようが、無理矢理笑わせて、立ち上がらせて、いつの間にか、動かざるおえなくなって、優希は、いてもたってもいられなくなって、その繰り返しで、苦しい時間も、少し短くなって、忘れさせて、おまけに馬鹿の一人は、病状聞かされて、私とぶつかっても、気づかない程、動揺しているし、それでも考えて、苦しんで、叫んで、車をへこませたり、でもさあ、いろんなことあるのに、傍からみたら羨ましく思うほど、楽しそうに過ごして・・・笑って・・・」

 怒鳴られているにも関わらず、羨ましがられているとは、冷たいものと温かいものを一度に口で含んだような戸惑いがあったけれど、中村の何度も途切れながら放ち続けた言葉の単語が、辞書を引いたときのように心に入り込み重さを感じさせていく。中村は落ちそうになる涙を堪えながら、話し続け、大きく息を吸い込み吐き出した。

「これが、馬鹿以外なんのよおおおお」

 瞬きを堪えていたが耐えかねたらしく瞼が閉じ、開いたときには、一筋の涙が猛スピードで頬を伝い流れ落ちるかどうかのとき、中村の手が涙を拭い線が崩れ、次に涙が溢れそうになると背を向け肩で息をしながら、ズカズカと、芝生を削り取る程の勢いで怒りを撒き散らしながら病棟の方へ歩いていく。反論する暇もなく、言われるだけ言われ続け、幕が一方的に下ろされていた。
 吹き下ろす風当たりが尚、強さを増す。病棟の間を音をあげ抜けていく。いつの間にかすべての窓が閉められている。辺りを見渡せば、今にも大泣きしそうな空を避けるように、誰もいなくなっていた。覆い尽くす雲はめまぐるしく流動し一層、グレーの上にもっと濃いグレーが塗りつぶしていく。
 みもふたもないほど打ち砕かれ粉々になった虚無感と苛立ちをなくし、深夜放送を終えた後の砂嵐の前のカラフルな画面のようになっていた。そこへ、緊急ニュースの画面に切り替えられたように、大変な事を思い出した。うっかり忘れていたといえばそれまでだが、優希はもう、この街を出てしまっただろうか。

 自らの不甲斐なさを反省していると、ポケットがブルブルと揺れている事に気づき携帯を取り出すと優希からの着信だった。
 随分とタイミングが良いじゃないかと受話ボタンを押し、何も発せず、耳に押し当てる。

「のり?」

 始めに話したのは、優希だった。

「うん、長野に行くんだって?中村に聞いた、随分酷いやつだな」

 いつもと変わりなく会話をする自分が不思議に思える。出来れば、今さっき中村に懇々と言われ続けた事を伝えたい気分だったが、そんな時間はないだろうし、伝えるのも迷惑だろう。したがって、確信的な若干の八つ当たりを言葉の節々に織り交ぜながら続ける。優希はなにも言わない、自分の事で怒っているのだと勘違いしているのかもしれない、けれど、一概に間違ってもいないので、あえて訂正するのをやめる。

「優希」

 今まで何回この名前を呼んだのだろうか。優希の名を始めて呼んだのは、いつだったか、始めは苗字で呼んでいて、一緒に居る時間がちょこちょこと増え始めたくらいからきっと、優希と呼ぶようになった。呼びなれた名前を呼ばなくなると、よそよそしくなったり、忘れてしまったり、するのだろうか。

「優希、あの本、あの意味もなく分厚い本。あれ、読み終わった。それで今日返してきた、というよりも佐々木に押し付けてきた。まったく、最後の一文字まで感動もなにもありゃしない、最低の本で最高につまらなかった、間違いなく今まで読んだ本でダントツのワーストワンだ。どこの誰だか知らないけれど、誰が何の為に書いたのか疑うよ、きっと金の力で無理やり本にしただけだな、あれは、ただの自己満足だよ」

 話しているうちに、また別の怒りが顔をだし、佐々木のメッセージ、一生忘れませんなんていう言葉も怒りの炎の燃料へ変化し、怒りがふつふつと湧き上がり、ぶつぶつと受話器に向かって重なる怒りをぶつけ続けていると、まるで落語でも聞いているかのように、随所で優希の笑い声が上がる。

「あのねえ、笑ってる場合じゃないよ、どれだけの時間を費やしたと思っているのさあ、一時間や二時間、三日や四日じゃないんだからあ」

 足元の芝生の中の一部が切り忘れた髪の毛のように伸び放題で飛び出している。二つに分けて先端を結んだら、誰かが躓くだろう。中村が躓けば良いなと勝手な想像をする。左足で、おもいっきり掠るように蹴り上げるとパサッと音が鳴る。

「のり。私達は、自己満足を手にしたんだよ、分厚い本を読んだっていう」

 私達。優希も読んでいたということなのか。と、なれば、またひとつ騙されていたということだろう。今更驚きも落胆もなく開き直って聞くことにする。

「私達?読んだの?」
「もちろん」

 やはり、そうだったのか。何気にあの本を私が気づくように置き、食いつくのを待っていたと考えても不思議でないだろう。

「つまらないって教えてくれれば、多くの睡眠や自由な時間を手に出来たと思うんですが?」

 優希は、つまらないという事を知りながら進めたのは、無意味な時間の多さを誰かに体感させたかったのか、あまりにも退屈な時間の連続で、八つ当たりでもするように私に同じ思いをさせたいがために勧めたのかもしれない。

「あはは、それはどうかな?頭が痛くなるほど爆睡して、何をしたかも憶えていない時間が増えただけだよ。うん、間違いない。あっ電車来たからもう切るよ」
「うん。じゃあ、また、って、おいっ!!こらあ!!」

 まるで、昼休みの電話のようだ。優希の声が聞こえず、切られてしまったのかと受話器に耳を傾けていたが、電子音は聞こえず雑踏だろうノイズが聞こえる。優希は、何も言わずにただ携帯を握っているようだ。その中で、電車を知らせるアナウスが聞こえる、優希が切れないなら私が切ろうと耳元から携帯を放そうかと考えていた。

「あっ」

 篭ったアナウスの音に混じり優希の何かをみつけたような声が漏れると、離しかけた携帯を再び握り直し耳に押し当てた。


thank you
次回、ラストへつづく・・・

十二月の出来事 2

2005年05月21日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の二】→→→「忘年会?」

 サラリーマンサンタがビルの隙間に隠れ見えなくなり、となりの優希が息を吸い込み吐き出す音が聞こえ、一時置き、ぽつりと声を出した。優希を見遣ると、いつもと変わらない雰囲気へと変わり、居心地の悪さはこのフロアからくるものだったのだろうかと思いなおしていた。

「そうそう、奥の居酒屋。そっちは、忘年会兼送別会?」

 ほっとした気持ちがじわりと広がり、不安な気持ちが消え、話しながら後ろにある長いすに腰を下ろす。

「佐々木ちゃんが寿退社」

 優希は、私のとなりに座る事無く視線は、いまだにガラスの外へ向けられている。

「へーそうなんだ」

 笑顔で頷いて見せる。佐々木といえば、車上荒しにあったことを思い出す。私にとっては、勝手にコーラ事件と格付けていて四月の苦い経験をも呼び起こす。そういえば、佐々木は未だに、シートに飛び散ったコーラは泥棒が飲んだものだと思っているのだろうか。今度会ったら聞いてみようと決める。

「鉄板焼きかあ、羨ましいなあ」

 ガラスに映る優希に顔は、白い頬だけがはっきりと見えたけれど、目や口元は影が出来ていて、見て取れない。髪の毛から覗く白い首元と、少しなで肩の肩と真直ぐ伸びた背中を眺めていると、突然、不安な気持ちが、心の中で膨れ上がってくる。優希は、振り向き背中をガラスに預け、一度フロアへ視線をやり、私の顔へ移すと人数が少ないからと続けた。その時、私の中で不安が絶頂に膨れ、その視線を離さぬまま一瞬間が開き、大切な事を思い出したように口にする。

「そうだ、あれ、どうだった?」
「あれって?」

 優希は首をかしげ、私を見下ろしたまま、何も言わずにガラスに寄りかかっていた背中を浮かせ直立に立ち私の答えを待っている。

「検査・・・検査するって言ってなかった?」

 優希は、あれの意味することを知っていたかも知れない、私が検査の事を口にする事を望んでいなかったのだろうか。いや、望んでいなかった。それでも、私は、戸惑いながらも、びくびくと口に、その答えを待っている。

「ああ・・・。言わなければいけない?」

 やっぱりかと確認するような失望混じりのため息をつき、背にしたガラスから斜め前にいる私へ体を少し向け左掌がガラスに触れる。

「そういうわけじゃないけど、なんか気になったから」

 威圧的な態度に完全に押され続け、どういうわけかも分からぬまま気持ちと動揺に口元もしぼみ、しどろもどろになっていく。

「これから先、結果が出るたびに言わなきゃいけない、今回は、こうだったとか、ああだったとか言わなければいけいない?」

 周りを気にする事無く響き渡る優希の声は、まるでジャブを数回喰らい、いきなり強力なアッパーを喰らって吹き飛ばされる程のノックアウト顔負けだった。不安をきっかけにふとした疑問が言葉にでて、優希を傷つける結果になった。今、言葉を一つでも吐き出せば、必死で堰き止めているものが溢れ出てしまう。そんな事態は絶対にあってはならないと、長いすの淵を力の限り握り締め、目頭に力をいれ一分一秒でも早く優希がこの場から去る事を願う。
 エレベーターが開く音が鳴ると、そこから足音が出て優希の名を誰が呼ぶ。

「御免なさいね、遅れてしまって」

 少しだけ顔をあげ、振り向く事無くガラス越しに伺うと、コートを着た年配の女性が優希に笑いかけ待っている。優希は、いくつか言葉を返し、ガラスに付けていた掌がコブシへ変わり付け根の関節が強く浮き出てそこから離れていった。窓に映る優希の後姿が、年配の女性と共に遠ざかっていき店の中へ消える。あのコブシで出来るなら、私を殴りたかっただろう。もし、エレベーターが開かなかったならば、そうなっていたかもしれない。
 掌を囲むように白く曇っていたガラスが、見る見るうちに崩れ、何もなくなった。
 このまま、座っているわけにもいかず、仕方なく立ち上がりガラスの前に立つ。
 優希と同じように、掌をガラスにつけてみると、ひんやりと冷たく、その温度が少しずつ体に入り込んでいくように感じる。
 その温度を意識しながら、気持ちを整えていく。今にも溢れそうだったものが、徐々に引いていく。目を瞑り、深い呼吸を何度も続ける。頭が前へ傾いたとき、ゴツンとおでこがガラスに当たり、鈍い音とじんわりとした痛みが頭に響く。目を開けると、何度も吐いた息が、ガラスを白く曇らせている。
 優希の言葉に、膝を落としてうな垂れるほど酷く傷ついた自分がいて、それを見下ろしている自分もいた。優希の言葉は、落胆するほど冷たくあっけないもので、おまえなんかに関係の無い事だと面と向かって罵られているようだった。
 たしかに、私の言葉すべてが人事そのものだったのだ。謙遜とかそんなものでもなく、こんな大切な事は、友達に気軽に話せることでもないはずで、友達よりも家族の方がずっと深刻でその代わりなんて甘っちょろいことは出来るはずもなく、私は、ただ、良い結果を期待し安心したかっただけなのだ。
 けれど、それは私が頼りないとかそんな事が原因なわけでもないだろう。誰よりも頼りがいのある友人であっても同じ結果になるに違いない。なぜなら、友人というのはそんな役回りなのだ。結局一番になることはありえないように、重大であればあるほど首を突っ込みづらくなり、何か言おうとしても言葉を詰まらせるか、気休めなものしか掛けられない。たとえば、家族を犠牲にしてまで友達を守ろうとしないだろし、たとえ逆のパターンはあってもそれはなく、平気でなくとも犠牲にすることは出来る。
 だからこそ、こんな忘年会の前に偶然あって、立ち話でこんな事を簡単に口ずさんでみたりするのだ。
 こんな事を考えながらも、優希の言葉にダメージを受けても優希には煮えくり返るほど腹が立ちおもいっきり怒鳴ってやりたい衝動にかられても、それと同じくらい自分自身も罵倒したい気分なのだ。

 エレベーターが、また人を運び込んだ。そこから出てきたのは同僚達で、駐車場がどうだとか騒いでいる。一人が、私に気づき声をかけ、私は、人並みの笑顔を彼らに投げかけ、何食わぬ顔でその中へ入る混み、鉄板屋の前を通り過ぎ、目的の居酒屋に入っていく。私が曇らしたガラスは、もう、跡形もなく元の姿に戻っているだろう。


 年末休みに入り、明日はスノーボードの大会でもらった一泊二日の温泉が控えていた。コタツの上に置かれている本を遠くから眺めて、寝不足でシバシバとする目を擦りながら、大きな欠伸をし本へと近づき手を伸ばし抱え、旅館から送られてきた湯気が立ち上る露天風呂が印刷された四つ折りパンフレットを載せ車の鍵を取る。
  助手席に置いた本と四つ折りパンフレットと共に、正月準備に忙しく動き回る人々をみながら図書館へ向かう。
 駐車場は、想像していたよりも年末という事もあってか混んでいて空いている所を探し車を停める。本を抱え車から降りると、どんよりと低いグレーの雲で空は覆われ冷たい風が音をあげ吹きぬけていく。夕方までには、雨か、霙が降るかもしれない。雪が降るには寒さがいまひとつ足りないだろう。冷たく低い空を見上げながら一週間前の痛みを感じていた。あの夜から優希とは連絡を取っていない。一週間連絡を取らないことなんてざらにあったので気にすることもないのだけれど、お花見のときのような気まずさがしっかりと残っている。
 とりあえず、あの件はあやふやにし、この本を返し明日の温泉の話でも、さり気無く持ちかけてみようかと考えていると、パンフレットを助手席に置き忘れたことに気づいたが、戻るのが面倒くさくそのまま歩く。
 借りた本を持ちながら、館内を見回す。優希の姿は見当たらず休憩に入っているのかもしれない。

「あら?」

 自動ドアを抜けると、暖房が効いていてそれが頬に当たる。静かな図書館は、いつもよりも賑やかだった。当てもなく通路を歩いていると、棚の整理をしていた佐々木がびっくりした様子で手元を止めたまま顔を上げる。驚かせてしまったのだろう。驚く佐々木を前に、私は、あの事を聞いてみようと閃く。

「こんにちは。あの、突然なんですが、コーラ事件、あれ、犯人分かりました」
「え・・・コーラ事件」

 きょとんとした佐々木は、何のことだか分からず困り果てた様子で動きを止めたままで、仕方なく車上荒しの事だと説明すると、大きく頷き、サルだったんですよねと続ける。

「あの後すぐだったかな、優希さんが教えてくれたんですよ」

 明るかった佐々木の表情が曇り、何か悪いことでも言ってしまったのかと気になり明るい話題を探す。

「あっ結婚おめでとうございます」

 表情は、どこか上の空で辛うじて返事は戻ってきたが、益々曇っていく。仕事中に話しかけた事を後悔し、その場を後にしようと考えていた。

「優希さん、送別会の写真を取りに先ほどまでいらしていたんですけど、この後もお世話になった方に挨拶にいくって行かれちゃいました。本当なら、一緒に辞めたかったんですけど、なんか気を使ってくれたのかなとか思ったり、優希さん、最後まで優しい人でいろいろ気を使ってくれて、私感極まってあまり感謝を伝えられなかったんです。だから、優希さんに会ったら、一生忘れませんって伝えてくれませんか?」

 なんなんだ、この懇情の別れのようなメッセージは。薄っすら涙を溜めた目で、そんなわけのわからない事を言われても何がなんだか理解に苦しむ。けれど、聞き捨てならないのは、優希は一足先に仕事を辞めたという事だ。あの時の送別会は、優希のものでもあったということだ。でも、なぜ、辞めたのだろう。

「優希には、ちゃんと伝わっているよ」

 どれだけの感情が詰まっていたのかは量れない、持っていた本を佐々木に手渡しそこを後にした。そんな事は、自分で伝えればよい。私にだって、伝えたいことはある。人のことなんて考えていられない。気が付くと走り出していて、館内にいる人々が気づくと視線を向けていたが、そのまま、外へ駆け出していた。

 車にエンジンをかけ、点灯したランプが消えサイドブレーキを下ろし、ブレーキからアクセルに踏み換えようとしたが躊躇しブレーキを踏んだまま考えを巡らす。携帯には着信はない。なら掛けてみるべきか、それは得策ではない気がする。優希の行き先、私やキックの元ではないのは、明らかだろう。なぜなら、何も知らされていない私達のところへ行けば話はややこしくなるに違いない。部屋にいくべきか、思い当たる挨拶にいっただろう場所へいくべきか二者択一、直感を信じアクセルを踏み走り出す。

 これは、酷い裏切りか、それとも私の思い過ごしか。今ある事実は、図書館を辞めたということのみだ。いったい、辞めてどうしようというのだろう。何かの理由で転職して驚かそうとでも考えているのだろうか。もし、そうなら、言わない理由も理解でき、明日の温泉旅行ででも言おうとしているかもしれない。もちろん、それなら、騒ぎ立てることもなく、その時を待てばよい。けれど、そんな様には、どうしても思えなかった。なら、明日の温泉はどうなる。キャンルか?それとも、明日の約束は守られるのか?いや、今日の夜、温泉の仕度をしている優希を信じる事はできない。私は、おそらく、まんまと騙されている。


thank you
つづく・・・

十二月の出来事 1

2005年05月18日 | FILM 十十一十二月
曇りのち雨【十二の一】→→→ クリスマス直前の十二月二十二日、仕事へ出かける前、ティッシュを一枚取り鼻をかみながらテレビの前を通ると十二星座占いのランキングが流れていて、ちょうど視線を向けたとき十二位の星座が映しだされていた。目の前のゴミ箱にティッシュを投げたが淵に弾かれポロリと落ち、舌打ちしながら拾って捨てる。廊下を歩き、玄関に据わり靴を履きながら、大きくため息を吐き出し、今晩行われる忘年会の事を考える。占いの結果が後を引き気持ちが重い。せめて、十一位だったらと考えたけれど、もしそうなら、占いは見ていなかっただろうし、最下位だからこそ、タイミングが合ってしまったのだ。つまり、そのくらい運気が悪いぞと言われているような気がしてならない。知らなければ落ち込むこともなく、眠い目を擦りながら何も考えずに出かけられたはずなのに、占いのおかげでとんだ迷惑を被った。それでも何も起こらずに通りなれた道を進み、いつもの場所で渋滞に巻き込まれ、いつもどおり出社し、時間は過ぎていった。


 思ったとおりに物事が進まず戸惑い、居場所を失うでしょう。ラッキーパーソンは、イルミネーション。朝、見てしまった占いをふいに思い出し、窓に写る浮かない自分の顔と目が合う。鼻息が、その顔を曇らせる。曇った顔の後ろには、横にいる同僚南の横顔があり、その後ろには南の体から生えているかのように白く細い足が二本出ている。それは、南のふくよかな体ではなく、その横に座る日下部のものだ。

 七人乗りのミニバン、異様な空気が漂う車内の三列に並んだ座席の真ん中に、三人は座っている。右端の日下部は、時々足を組み替えている。真ん中の南は、私の座席に半分体をはみ出していることに気づく様子もなく、前にいる二人の会話に相槌を打ち、半分になった座席に左ドアと南の壁に押し潰され、まさに占い通り居場所を失い続けていく。

 仕事をそうそうに終え、第一陣は忘年会が開かれる居酒屋へ向かう。酒を飲まない同僚の車に乗り込んでいた。
 会社から出て、乗り込んだときは、真新しいシートの匂いがし、ルーフ部分は電車の窓のようにおおきくガラスが張られ、たしかCMで、家族が楽しく街の中を走り後部座席に乗る子供が、上を見上げ満面の笑みを浮かべているのを思い出し、まさにファミリーカーの典型だ。助手席にタバコを吸いたがってウズウズしている三浦、真ん中の座席、運転席後ろに、いつもよりも香水の匂いを撒き散らしている日下部、助手席後ろの私、日下部と私に挟まれる、巨漢だけれど、顔が小さく可愛い笑顔、米粒のようなピアスをつけている南、その後ろの座席に悠々と座っている一番年下だが一番のプライドの持ち主の眉毛が細い加藤、気が小さい上に、広がったおでこの皺から苦労が耐えなくありそうな四十歳を越えただろう田中さんが、幹事加藤に気兼ねしながら、さりげなくアドバイスを伝授していく。ハンドルを握るのは、三十五歳にして四人の子持ちである茶色の淵眼鏡をかけた立花さんで、きっと、家族で楽しく使うはずだったマイカーを、課長の一言で出すはめになり、貼り付けた笑顔の下には、耳を塞ぎたくなるほど悪態をつき続けているに違いない。なぜなら、どうみても、このメンバーは、この車には不似合いで、車のイメージまでも落としかねない。
 冬だというのに、空調からは冷たい風が流れ出し湧き出る異様な空気を出来る限りかき回している。

 車体が揺れるたびに、南の密着した肉がブルブルと振るえ伝わる。車が右折するときは、重心が反対側にズレ圧力が弱まり、締め付けられた体が弛められるのだが、逆に左折するときは、最悪で南の口答で聞いた体重より一割増しの体重が私を押し潰そうとする。この際、九十度の右カーブをおもいっきり曲がって、少しでも隙間を作りたい気分であるが、もし本当にそんなことになったら、反対側にいる日下部の足と体はぽきりと音を立て折れてしまうに違いない。
 そんな妄想にふけながら窓に写り込む悲惨な状況を見過ごし、その向こうにある景色を無理やり見ながら、息苦しさを考えないように心がけ、十五分の移動が一秒でも早く終わることを願い続ける。

 車が立体駐車場に差し掛かると緑色の矢印マークがハンドル越しに点滅を始めると徐行し、アスファルトから二階駐車場へ続く繋ぎ目にタイヤが音を上げたとき、小さな段差だろうが少しだけ車体が揺れ、南も揺れ、その波動が私にも遅れて伝わる。シートベルとの金具が腰に食い込みずきずきと痛む。
 駐車場は、忘年会シーズンということもあり多くが、停められている。助手席にいる三浦が、似たようなバンがライン擦れ擦れに停めてありその横の空いたスペースを指差し立花へ知らせるが、立花は、申し訳無さそうに、あそこは、狭くて入りませんといい、タバコが吸いたくて仕方ない三浦が別の場所を探す振りをして窓の外へ顔を背けたとき小さい舌打ちをするのが、助手席シートと壁の隙間からイライラを募らせた表情がアカラサマに見えた。
 一番後ろに座っている加藤が声を張り上げる。

「立花さん、向かう通路の真ん中が空いています」

 全員が、その方を向く。立花もそれを確認し、アクセルを踏む。車ががくんと前のめりになり、南の体もやや前へくの字になり浮き上がる。そのとき、私はシートに持たれたままで反動で戻ってくる南の巨体が右肩に乗っかる。南は、気付かず駐車スペースがあったことを喜んでいる。私は身動きがとれず、車は、スペースへバックし始め、このままでは、サイドドアを開けることも出来ないので、意を決し南へ顔を向ける。

「これじゃあ、他のやつらも苦労するかもな、やっぱりバスを借りるか、徒歩でいける場所にすりゃー良かったかな」

 南の「み」を発しようとしたとき、おもいきり絵の具の黒を塗られてしまったかのように言葉を、三浦が踏み潰す。南の小さな顔ごしに、幹事加藤の不満顔と視線があう。加藤は、表情を戻すことなく視線を外し、口元がぶつぶつと動いていた。

「み・・・」

 冷たく気持ちよい風が、背中に当たり車内に吹き込み言葉を飲み込む。カタリと音をあげたドアが勝手にスライドし開いた。南が私越しにドアを外をみると私たちは向き合い視線が合い南はそのまま降りる体制に入り体を前へだし、押しつぶされ押し花に成りかねなかった右肩が血の気を取り戻していく。
 南は、私の顔を見つめたまま私の言葉を待っている。

「ついてよかったですね・・・」

 南は、考えることもせず適当に頷く。それもそうだろう。会社から十五分の移動でついてよかったですねはない、エベレストの登頂に成功したわけでもないのだから。南が私を外へ促したので固まりかけた体を動かし肩を擦りながら外へ出る。


 エレベーターの表示を見上げていた。他の乗客もいたので特に会話もなく、光った十五につくのを待っている。十三階に差し掛かるとドアが開きエレベーター内の視線が一斉にフロアにいる三人のサラリーマンに向けられ、先頭にいた男性が前へ進み乗り込もうとしたとき、何かに気づいた様子で引き下がった。乗客が詰めさえすれば乗れたのではないかと思ったが、そのサラリーマンは、ひとつ頭を下げ閉じるのボタンを押した。次に開いたのは十五階で次々に降りていき、最後の南だけが人の間を抜けるのに苦労している。私は、エレベーターを降りてから、南が降りるのを待つ。数メートル先で、日下部が表情ひとつ変えずに振り返り足を止める。男性社員は、加藤を先頭に目的の店へ向かっている。私が立ち止まっている事に気づいた南が、体を揺らしながら駆け寄ってくる。

「途中で止まったとき、もう冷や冷やしちゃった、あの人と目が合って、私思わず首を振って訴えちゃった、乗らないでえって」

 南のつぶらな目が、少しだけ三日月のようになる。なぜそんな事をしたのか分からないまま、南の照れ笑いに答えるように、はにかんでみせ、二人並んで立ったままの日下部の下へ歩く。

 十五階のフロアは、エレベータを降りると向かって左に伸びていて、右側は薄暗い階段と長いすが二つ置かれているだけでその前には一面ガラス張りになっている。左右に店が並び、パスタや鉄板焼きや韓国料理などがあり、私達が向かっているのは、一番奥の居酒屋だ。
 鉄板屋に差し掛かったとき、二、三歩奥まった入口に何人かの女性が固まっていた。全員が後姿であったけれど、直感のようなものが勝手に働き歩調を緩め、目を留め続ける。女性の集団から定員と話す男性がひょっこり顔を出し、何度か女性達に向かっては話している。集団が前へと足を進めたとき塊が崩れ、声も漏れ聞こえ、送別会がどうとか話していてその中の一人が偶然後ろを振り向いた。

「優希」

 ぱっちりと開いた優希の目が、私を捉え数秒だけ時間が止まったのではないかと勘違いするほど見合わせている。南と日下部が立ち止まり私を呼んだことで秒針が動き始め、優希が列から逆流すると同時に、二人へ先に行っていてほしいと伝えると二人の背中は居酒屋へ向かっていく。
 エレベーターのドアが開き、人が溢れ出て賑やかになる。二人はそれを避けるように誰もいない階段の前の長いすの方へ歩く。

「どこかで、みたことある軍団だなあって、エプロン掛けてないと分らないものだね」

 一団が、店へ入っていき辺りは、店内の賑わいが響き伝わってくる以外は、静まり返っていて声が階段の方まで響き少しトーンを落とす。
 優希は、長いすに座らずガラス張りで眼下に広がる街を見下ろしている。なんとなく居心地の悪さを感じながらその横に立ち止まり、歩道に並ぶ植樹が色とりどりのネオンで飾られている姿を眺める。一度優希の横顔を見たけれど、視線は変わらずに下に注がれているばかりで、私は次へ続く言葉を捜しながらもう一度キラキラと光るネオンを眺めた。ネオンで飾られた木々の下を、サンタが歩いている。息苦しそうな髭をつけ、大き目の赤い服に帽子、どこからどうみてもサンタなのだが、ひとつ違和感があるのは、間違いなく、荷物が皮のカバンだからだろう。サンタだ、と呟くと優希が、あのサンタ、サラリーマンと兼業なんだねと言い二人は、くすりと笑った。もちろん、そんなわけはなく忘年会のためにどこかで買って着ているのだろうけれど、僅かでも今ある空気を変えたかった、けれど、寂しくなるだけで何も変わらない。


thank you
つづく・・・

十一月の出来事 4

2005年05月14日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の四】→→→「あのお、もうすぐ終わりですか?」

 不気味な手術室を作り上げたフロアの真ん中に、天井からの白いライトが手術台を浮かび上がらせ、その上に覆い被さるように、一人のお化けがいた。私の足音にぴくりと体を動かし、ぐいっと顔を上げる。セメントのような顔、額にべっとりと血がこびり付き汚れた白衣を振り乱しながら、だらりと腕を垂らし肩を力強く動かし不自然に進み続け、半分白目の眼球がぐるりと私へ向けられ、いよいよ悲鳴をあげなければならない状況にも関わらず私はこんな問いかけをした。
 平日深夜のお化け屋敷は、客がまばらで入る時間がずれていれば他の客と出会う事もなく、孤独を背負って進まなければならない。本来なら非常に楽しい状況の中、友達同士だけで恐怖を味あうのだが、生憎、私は一人で悲鳴をあげたところで動悸が激しくなり無駄な体力を使うだけであって、それを楽しむ事など出来ない状況に置かれている。
 セメント顔のお化けの目は明らかに困り果てた人間の目に変わり、左右に黒目が動いている。私を脅かそうとした顔の頬がぴくりと痙攣している。

「友達がリタイアしてしまって、なんか一人じゃただ怖いだけでつまらなくて・・・」

 申し分けない気持ちを表しながら話しかけてみたがセメント顔のお化けは、犬が唸るように声をあげ垂らしていた両腕を前へあげ、私の喉もとに手を掛けるように、空中で動かしている。私の言葉は届いているだろうか。近づきすぎたお化けは、すっぱい匂いと黴臭い匂いがし、思わず、一歩後ずさりセメント顔を覗き込む。低く唸っていた声が、時々妙な高さに上がり、口の周りに皺ができセメント顔に筋が入る。

「うううう・・・真直ぐ行ってえええ・・・角を左に曲がれば出口だあああああ・・・」

 背が高いお化けは、私を覆いかぶすように体を動かしながら、これからの進路を教えてくれている。このお化け屋敷は、廃墟した病院がモチーフになっていてその中を歩き回る設定になっている。そのためか、一本道を歩いてすぐに出口というわけにもいかず、入り組んだ通路を通っていかなければならない。人によっては、なかなか脱出出来ずに時間が掛かってしまったりする。そんなわけで、たった一人で、この中を歩き回るのも、非常に不気味でただ怖いだけでなんの面白みもなく勇気を振り絞って話しかけやすそうなお化けに聞いてみたのだった。案の定、シチュエーションを出来るだけ壊す事無く教えてくれたのだろう。しかしながら、かえって不自然というか場違いというか、私がこんな質問をしたこと事態間違っているのだろうけれど、聞いてしまったのだから仕方ない。

「ありがとおおおお」

 行き場を失い覆いかぶさったまま停まっているお化けをすり抜け、背を向け教えてくれた道をひた走る。三人のお化けが声を上げる暇もないほどの勢いで気にせず走りぬけ、一直線に出口から飛び出した。走りながら外へ出たせいか肺に入り込んだ冷たい空気に体が驚いて咳き込むと、入口のレンガの上に座り込んだ二人が振り向き空いた手をあげている。
 歩調を緩め、切らした息を出来るだけ整えながら近づく。二人の横には、それぞれ缶ジュースが置かれていた。ジュースでも飲んで気持ちを落ち着けようとしたのだろうか。

「もう、一人じゃただ怖いだけだよ」

 うな垂れ、憔悴した二人に話しかける。優希とキックは、入口に踏み込む前から極度に緊張し、私を軸に巨峰の房のように密着していたが、中へ入って最初の非常口が目に入った瞬間に、房から零れた粒のようにお化けを蹴散らしてまで一分一秒でも早く脱出するために駆け出していった。滞在時間は、たった数分でしかないはずなのに、目の前で座り込む二人は随分とテンションが低く力なく私の言葉に反応が遅い。

「あんなの耐えられない、というか設定が病院ってどうなの?少なくとも私は一年前入院とかしていたわけでさあ」

 優希は、恐怖を怒りへ変えながら、自分の入院話にまで結びつけようとしている。たしかに言われて見れば、不謹慎であるかもしれないが、本人も今更気づいた訳でただの八つ当たり以外の何者でもない。優希は、空き缶を数メートル先にある屑篭に頬リ投げる。缶は、ゴミ箱を掠めることもなく通り越し暗い木々の中へ見えなくなった。私は、缶を取りに林へ振り返ろうとしたとき、キックが持った缶がぐにゃりとへこみジュースが飛び出すと、体が地面の方へ屈み濁音交じりの音がキックの口から漏れた。
 考える暇もないほどの速さで飛び跳ね一歩後ずさりし見守る。キックは、吐き気だけで収まった様子で肩で息を整えながら顔を上げると、お化けに負けないほど顔色が悪い。

「駄目だ、あの匂い、鼻と口の奥にへばりついているみたいで気持ち悪い」

 優希が驚いた顔をして、耳を疑ったのかキックに聞き返している。匂い。そういえば、薬の匂いというか古い病院独特の匂いで支配されていたお化け屋敷で、キックは、これを一番の理由としてリタイアしたというのだろうか。まあ、ありえない事でもないかとカバンの中からティッシュを出しキックに渡し、林の中の缶を拾いに行き屑篭に捨てる。

「さてと、なんか、あったかいものを食べるか飲むかしようよ」


 ハンバーグセットについていたアスパラだけ残し箸を置き目の前にいる二人に今の時刻を聞くと、優希がキックより早く一時半と答える。

「一時半かあ、今日は昨日になったわけだ」
「今は今日だけど、さっきは昨日」

 優希はエビフライセットのコーンスープを残して食べ終え、皿の上に海老の尻尾が乗っている。右手でカップを持ち時間をかけて啜っている。

「そういえば、昨日の話しなんだけど、病院に行って検査したんだあ」

 優希は、カップをクルクルと回しながら底についているコーンを浮き上がらせている。私は、揺れる黄色いスープから目を放せずにいる。

「大丈夫、まだまだいけるよ、全然死ぬようには見えないもん、保障するよ」

 キックは特製釜飯定食を米粒一つ残さず食べ最後に残されたきゅうりのお新香を口に放り込み噛み砕いたところで、何かを思い出したかでもあるように言い放ちその言葉に私は思わず、再び箸を取り、大嫌いなアスパラへ伸ばし口に入れていた。
 横にいる優希の目を一時も離さずにひとつ頷くキック。私は、アスパラの味が分からなくなるほど混乱し、鼓動が胸を通り抜けて対面する二人に聞こえてしまうのではないかと心配になる。

 キックは、医者でもなく医学生でもなく、保険屋でもなく、預言者でもなく宇宙人でもない。この言葉を裏付けるものは、何一つないはずで、医者ですら、検査を繰り返して出来る限りの推測をしているにも関わらず、躊躇い無く言い切ってしまい、それどころかどんなものかは知らないが勝手な保障までして見せた。
 何も考えてない馬鹿なのか、よほど自分自身の感に裏付けるほどの根拠があるのかどちらかに違いない。もし、この場しのぎのものだったら、私は一生キックと話をすることはなく人間性を疑い、ゴルフのカーステレオを引き出してアスファルトに投げつけ、ボディにもうひとつ窪みを作るかもしれない。
 ところがキックからは、淀みない百パーセントの確信が全身から出ている。そう信じているのは間違いない。もしも、今日の検査の結果が思わしくなかったらキックはいったいどうするつもりなのだろうか。そういった事は、考えないのだろうか。いつもの三倍くらいキックの頭の中を疑って、考えれば考えるほど腹が立ち、私には、軽率な言葉にしか思えない。

 言葉は、何も出てこない。箸が手から落ちトレーの上に転がるのをみて、窓の外のスケートリンクへ顔を向ける。聞こえないように深呼吸をした。
 万が一検査の結果が思わしく無かった場合傷つくのは優希か、いや少なくともこの言葉に関しているならキックなのかもしれない。間違いなく自分を責める事になる。なら、その事を覚悟しての発言か。私は、そんな勇気もないまま、自分自身が悔やむのを恐れているのだろうか。スケートリンクから二人へ視線を戻す。
 キックは、冷めたお茶を啜り、優希は、空になったカップの中にへばりついたコーンをホークで差し全部食べ終え、ホークを置き、僅かに緩んだ口から泡のような笑いが浮かび上がっては零れて、そうだねと言い、キックがそうだよと続けた。私は、どんな表情を浮かべているのだろうか。普通の表情になっているだろうか。今の自分の顔を鏡で見たらきっと、がっくりと肩を落とすだろう。分かってはいてもどうする事が出来ない。二人はポツポツと会話を続けていたが、私に向けられることはなかった。
 声以外の雑音が聞こえ耳障りで、椅子を引く音や、厨房から片付けを始めたのか何を擦る音が響く。音のする方をみても、壁で隠されまったく見えない。閉店へ向けブラシで何かを洗っているのだろうか。その時、風呂掃除をしている優希の後姿が脳裏を掠める。
 検査が終わって、不安だったのかもしれない。だからあんな掃除を始めた。思い過ごしかもしれない、聞かなければ本当のことは分からないけれど、私には、聞く事が出来なかった。キックなら平然と聞いているかもしれない。尚更、キックの言葉を肯定することが出来ずにいた。

「ほら、行くよ」

 二人はいつのまにか立ち上がり、キックは伝票を持ち、優希は持っていた荷物を私の頭の上に乗せる。意味の無い行動に、その荷物を見上げそのまま立ち上がり荷物がずるりと落ちる。優希の横にいる何食わぬ顔をしたキックを睨み付けると睨まれた本人はなぜ睨まれているのかと不思議な顔を浮かべ出口に向かう。後に続き横にいた優希の肩がぶつかり、私はよろめき元に戻ると腰の部分をぱしりと叩かれた。

「温泉旅行は、内緒にしてやる」

 よろめきながら呟くと、優希は、くすくすと笑う。大人気ない事は重々承知であるけれど内緒にして、お土産を突然渡してやろうと決意していた。

このご時世何が正しくて何が間違っているかなんてなかなかはっきりしないものだ。

 一連の出来事で多少テンションは落ちていた。けれど無理に上げる必要はないだろう。真夜中のリンクを滑りながら、時々立ち止まっては、デカイモミの木を見上げたり、目の前を通り過ぎていく人を観察したりしながら、それぞれの立場でそれぞれの事を考えていたのかもしれない。
 それでも面白い話は笑えたし冗談も言える。見えないものは、相変わらず見えず、偶にもどかしさを感じるけれど、訳の分からないものを、手探りで受け止めて見たり、ただ見過ごしてみたりと少しずつ、受け止められるようになっていた。

 季節より早く飾られたツリーはどんと立ち時折吹き付ける風に揺らされては飾り付けられたベルたちがからからと安っぽい音を奏でていく。一足早いクリスマスが一年という年月の流れを早く感じさせていた。丁度一年前、私はゴルフを蹴り上げていて、いまだに治さず窪んだままで最近では気にする事も無くなり、ゴルフの一部のようにも思えていたが、この考えは私だけかもしれない。
どこに生えていたかもわからぬツリーを見上げながら、車の事は忘れ、あのツリーが普通に過ごしていただろう森を勝手に思い描いていた。


thank you
おわり・・・

十一月の出来事 3

2005年05月11日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の三】→→→ 連なる山の中を一本の有料道路が引かれそこを延々まっすぐに突っ走ると眼下に広がるのは、散りばめられた灯りと、無数の光が集合する街が一際煌びやかに見える。そのほぼ中心には、ビルや住宅などの光とは比べ物にならない程の多色のネオンや真直ぐと空へと伸びるライトが、ぐるぐると旋回しどこよりも光を放ち続けている。中には、器用に動き回っているものもあり、きっと何かのアトラクションだろう。次第に車は、その光の中へ飲み込まれていき闇は、随分と高いところに離れていってしまったように思えた。
 車を止め外へでると、目の前に無数の柱が器用に組まれ首が痛くなりそうなほど高い所からジェットコースターが振動と悲鳴をあげ風の如く走り抜けていく。しばらく、その姿を目上げていたが、乗っているわけでもないのに、なぜか立ちくらみがした。優希は、ちらちらとコースターをみながら、首に暖かそうなマフラーをし、こまめに防寒対策をとり、目を輝かせている。
 吐く息が、白く色を付けている。風も冷たく耳が少しだけ痛みを感じる。まだ十一月の下旬だというのに、ここは一足早く冬に包まれているように思える。でも、真冬になれば辺り一面は、数十センチの雪に覆われてしまうのだろうから、地元の人たちは、私が感じているほど冬とは思っていないのかもしれない。
 ジェットコースターの下を潜るように入場する。周りは、色鮮やかな電球で飾られていて、正面の入場口には、団体客が写真を取る為の記念撮影用に並べられた長いすが並び、誰かを待っているのかぐったりとしていくつものビニール袋を抱えた客が端に座っている。私達は、その反対側のチケット販売口へ向かい引換券を差し出しチケットを受け取り腕に付ける。
 入口を抜け、どちらかというと地味な通路を歩く、両サイドには壁があり連なる蛍光灯と遊園地やアトラクションを告知するポスターがびっしりと貼られている。音楽も何も流れてなく足音と話し声だけが聞こえ、帰るものは、この歩道で現実の世界に戻され、行くものは、現実の世界からどこかの世界に迷いこんでしまったのではないかと思わせる。何人かの帰り客とすれ違ったが、誰も私達の方を振り向かずにひたすら出口へ向かっていた。
 両側の壁が途切れ木々に覆われた歩道へと変わり道の先からは、真っ白な光とアトラクションの音とざわめきと篭ったBGMが聞こえ始め、心臓が、そのリズムを楽しむように早く刻んでいく。三人は、正面広場に足を踏み入れた途端ぱたりと止まり、びっくりするほど高い木を見上げていた。

「デカクナイ?」

 なぜ、こんなにデカイ木がここにあるのだろうと考えながらも、括りつけられた飾りをみてクリスマスのイベントなのだろうと納得した。あまりにも大きすぎてどのくらいの高さなのか検討が付かない。とにかく、小さいビルよりも高い。

「もみの木?星あるし」

 優希の言葉に、一番上の部分を見ると黄色の星型の電飾が煌々と光を放っている。飛行機が着陸出来るのではないだろうか。

「こんなのどこに生えてるんだろう」

 下の方は、ラジオ体操第一で行われる手を左右にブラブラとするみたいに、風が吹くとゆっさゆっさと様々な形の装飾品と共に揺れている。作られた小さな丘に埋められている根はしっかりと大きな幹と葉と装飾品を支えているようだ。しかしながら、こんなに大きなもみの木が日本のどこからか運んできたものなら、なんというか、そのままにしてあげればよかったのにとふと思う。こんなうるさい所に埋め立てられ、訳のわからないものを付けられ、オチオチ光合成もしていられないのではないだろうか。これでは、ほくろの上に生えてしまった毛のようではないか。

「・・・キック、生えるって、たとえがおかしいよ。へんなこと想像しちゃったじゃん」
「はい?ただの素朴な疑問を勝手に想像するのが悪い」
「ところで、何を想像していたのさあ」

 優希が私の顔を覗きこんでいるが、なんだかほくろの上に生えた毛を想像したと言うのが無償に恥ずかしく言葉に詰まると、顔が赤くなっていくのが自分でわかり視線を逸らし、前へ進み、再び首が痛くなるほど、もみの木を見上げる。後ろで優希とキックが、赤くなっているよとあれこれ言いながらちゃかしている。もみの木の下から照らしているライトの横にスピーカーが付いていて、そこから真っ赤な鼻のトナカイが流れ始める。
 私の今の顔は、暗い夜道で隠すことは出来るが、ぴかぴかに照らす事は出来ない。したがって、役にたたないだろう。風に吹かれた金色の鈴が、カサカサと揺れている。
 ツリーの向こう側には、真っ白なスケートリンクに煌々と照明が当てられ白く輝いている。

 アトラクションの配置が印刷された看板の前で何に乗るのか検討する。後ろでは、色とりどりのコーヒーカップがぐるぐると回っている。

「夜も更けてきたしお化け屋敷にいこ」

 私は、お化け屋敷が大好きで、とくにここのは面白いと評判をよく耳にしており、一番に提案してみる。ただ、二人は、こういったもの全般が大嫌いである。後ろのコーヒーカップが回転を弛め音楽が止まりブザーが響く。楽しんだ乗客が次々に狭い出口の階段を降りていく。
 私の正面にいたキックが、私を通り越した視線を後ろに送っている。私は、その視線に体をいれ遮るとお化け屋敷へ行こうと再び訴えるが、キックの耳には届いても認識もしないまま抜けていっているようで、仕方なく優希の方へ向き、怖くないから行こうと誘う。
 後ろではコーヒーカップの従業員が、客を呼び込んでいるが、なかなか乗り手が見つからないらしく周りにいる人たちに声を掛け始める。いよいよ焦り始めた私は、優希の腕に自分の手を絡ませ黒くぼんやりと浮かび上がるお化け屋敷の方へ踏み出す。

「そこのお姉さん達、乗っていかない?」

 従業員が柵越しに笑みを浮かべている。

「はーい」

 頭を振り抵抗を試みたが、どこから出してんだと確かめたくなりそうな可愛い声を両脇の二人が上げてしまい、掴んだ腕はあっというまに掴み返され、もう一方の腕にもキックの腕が絡んでいた。

「いやだあ」

 声を上げても聞き入れられずに、二人は、悪魔のような薄ら笑いを浮かべ、そのまま前へ強引に進み、体は、そのまま背を向けたままずるずると引き摺られていく。コーヒーカップへと上がる階段すら、前向きにしてもらえず、三段ある階段で三段ともかかとをぶつけ緑のコーヒーカップに座らせられる。この寒さにも関わらず、額からは冷や汗が噴出し、従業員がそれぞれのカップを回り鍵を閉めていく。
 私は、往生際が悪くこの場に及んでカップの淵に足をかけ乗り越えようとしたが、キックに引き戻され押し潰される。

「無理無理、回るの駄目なの、知ってるでしょ」
「大丈夫だよ、ほら、あんな小さな子だって乗ってるんだよ」

 焦りが滲み出た声とは対照的な優希の声がひどく冷たく感じられる。ブーと始まりを知らせるブザーが鳴ると、ゆっくりカップが動き始める。取り押さえられた体が、ようやく自由になり、優希が示した子供をみると、その子は、騒ぎ捲くる私を見ていたらしく視線が合い、満面の笑みでピースサインを出し、真ん中に取り付けられているハンドルを自慢げにぐるぐると回し始める。

「ほら、のりも回した方がいいよ、自分でやれば楽しめるって」

 キックが、銀色のハンドルを指差している。確かに、何かに没頭していた方がいいかもしれない。私は、両足をしっかりと床につけ両腕をトラック運転手のようにがっしりハンドルを握り思いっきり力を込めた。
 騙されたと思ったときには、見るものすべてはアインシュタインの相対性理論の中に溶け込んだようで、ブレーキなんてものは、もちろん付いていなくて、ハンドルを握ったまま振り落とされないようにカップの側面にへばりついているしかなく、両手をあげ、髪を降り乱しながら優希とキックはケタケタと笑い続けている。幼い時に読んだ童話を思い出していた。ちび黒サンボの周りを猛スピードで回り続けるトラが溶けてバターになってしまうというやつだ。軽快な音楽の中飛び込んでくる周りの景色は、先ほどの女の子もニコニコと笑っていて、苦しそうにしている人や、泣いている人はいない、なぜ、みんな笑っているのだろう。ぐらぐらと他人の笑顔が伸びたり縮んだりする中、本当にバターになるかも、もしくは、バターを吐き出すかもしれないとぼんやり考えていた。

 大人一人なら十分乗れる小銭をいれてぐらぐらと揺らして楽しむ遊具の一つ、路線バスの中に押し込められいる。体を斜めにし側面に体を倒し足はハンドルの方へ投げ出している。このバスは、止まっているけれど、私の頭の中はいまだにぐるぐると景色が回っている。バスの中で微動だにしない私を通りすがりの人が横目で見ていくが、そんな事は気にしていられず、窓から入る夜風に辺りながら体力の回復を待っているのだが、どうしてこんなところに運ばれたのかが、バツゲームに近いこの状況に納得できずにいる。
コーヒーカップに乗っていて終了を知らせるブザーがなんとなく聞こえ速度が徐々に緩んでいったのだが、私が目にするものは余計に加速し、目にするものは変形を繰り返していた。もちろん、立てるはずもなく、行きも帰りも優希とキックに抱えられその場を後にし、なぜか、ここへ押し込められる結果になった。
 抵抗をする余裕もなく押し込められて何分が経っただろうか。もう十二時を過ぎただろうか。遠くから伝わるジェットコースターが走る抜ける音や、アトラクションのモーター音がいつのまにか聞こえなくなっていた。
 目を開けてバスの小窓から外を覗く。騒音が出るアトラクションは十二時までの運行と決められていて、私の体調の回復を待っていたのでは、乗れないアトラクションが出ることが明らかになり、二人は、私を置き去りにし駆け出していった。
 体調も回復してきたし早く戻ってこないかなあと考えられるようになり、一時の感情とは裏腹に、ここは多少の風避けにもなり、予想以上に居心地が良い事に気づく。恥ずかしいとか気にせずに、二人が来るまでここにいようと決める。

「出発進行!!」

 車体ががくんと揺れ、スキップしたくなるような音楽と共にバスのスピーカーから運転手の声があがり、ゴトゴトと揺れ始める。バスの前と横に二人が笑いながら立っている。

「リハビリだよリハビリ」

 キックが、運転席に手を伸ばし色々なボタンを押しその度にクラクションやらバス停を知らせる声やらが鳴る。

「何個乗った?」

 揺れる車内から、二人に話し掛けると、カタカナの名前をズラズラと並べ始め、あれはすごかったとか、これはいまいちで私でも乗れるなど言い始め、いつの間にか、バスは停車していた。体は、調子を取り戻し立ち上がると屋根がないバスから体半分が飛び出て、体重を移動させるとぐらっと傾く。

「よーし!!お化け屋敷に、はいるぞおおお!!」

 大きく息を吸い込み、言葉と共に吐き出す。気持ちを入れ替え不思議な国のアリスで出てくるような小さな出入口を潜り、地面に立つ。重力のある地球にしっかりと足をつけている実感を再び取り戻す。顔を顰める二人の横にたち今度こそ二人の腕を取り、闇の道へと向かう。


thank you
つづく・・・