小説 ONE-COIN

たった一度、過去へ電話をかけることが出来たなら、あなたは、誰にかけますか?

十一月の出来事 2

2005年05月07日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の二】→→→ 泡のついた浴槽をシャワーから噴出す水飛沫が洗い流し排出口に吸い込まれる。腕まくりをした優希が、洗い流された浴槽の内側を人指し指で摩りキュッキュッと音を立て、それを確認するようにシャワーを止める。

「なら、しょうがないよ、諦めるしかないじゃん」

 澄ました顔をした優希はちらっと、風呂場の入口の壁に手を掛けながら、券をひらひらとさせている私をみて鏡の横に置かれたシャンプーなどをタイルの上に置く。シャワーを再び出しシャンプーなどの跡が残った部分へかけ持っているスポンジでゴシゴシと擦る。

「なんで、折角取ったのに勿体無い、年末休みでしょ?それとも、どこか行くの?」

 鏡の横から風呂場のタイルを泡立てはじめている優希は、温泉よりも風呂をきれいにする事の方が大切なのだろうか。けれど、今はそんな優先順位であっても風呂さえきれいにしてしまえば、突然行きたくなるに違いなく、そこで予約を入れたくとも出来ないでは必ず後悔するに決まっている。

「休みだし、どこにも行かないけどさあ」

 タイルを擦る音と、石鹸の匂いが充満している中、優希はいまだに乗り気でないようだ。考えてみれば風呂掃除をしている優希の表情だってこの話題になる前となんら変わっていない。もしかすると、風呂掃除が嫌いなのだろうか。なんだか、タイルを擦る優希の姿は、鉄骨のサビを落とさんばかりに力が込められていて、棘を削り取っているようにも思える。風呂掃除に、こんなに力はいらないだろうしもっと、肩の力を抜けば良いのにと感じていた。

「なら、行こうよ、今、電話して空いてるか聞いてみて、空いてたら行こう、あっでも二枚しかないから、もう一人分取るようだ」

 息が弾んで肩が揺れている。それでも、タイルを磨くスポンジは止まらない。なんとなくどうでもいいと思うときは誰でもあって、優希にとって今がそうに違いないなら、ここは、無理やりにでも強引に押し進めるべきだ。

「いや、キックは温泉好きじゃないから行かないよ、だから二人分でいい」

 ようやく、顔をあげた優希のスポンジを持つ手は力が入り過ぎたのか赤くなっている。けれど、ちょっとだけ行く気になってきたかもしれない。嫌な風呂掃除しながらでも、温泉の話をしていたら、きっと白い湯煙や桶がぶつかる音や硫黄の匂いを想像して胸が騒ぎ出すに決まっている。もう一息だ。

「たしかに、風呂なんか家で入るのが一番気持ちいいとか言いそう」

 出来るだけ軽やかに投げかけると優希は頷きながら、立ち上がりシャワーでタイルの泡をざっと流し、そのまま私に背を向けたが、緩んだ表情を鏡越しに受け取った。

「よし、じゃあ電話するよ」

 一歩前にでて風呂の中に乗り出すと声が響く。普通よりテンションが高く、エコーがかかる。優希は、鏡を擦り始める。泡がたち二人の姿は消えていく。

「たぶん、空いてないとだろうけどね」

 乗り気でなかった声が、少し高くなっているのを確認し、要らぬ闘志を燃やし風呂場を後にした。
 携帯は使わず優希の部屋の電話をとり、券に書かれた番号を押すと、ツーコールで相手の受話器があがり、男性の声が聞こえる。券を持つ手に力を入れたまま、年末の予約が取れるかどうかを聞くと、男性は一度受話器を置き確認へ行く。受話器からカノンが流れている。
 電話の横に転がるノック式ボールペンへ手を伸ばしカノンを聞きながら、カチカチと手持ち無沙汰に繰り返す。
 プツリとカノンが消え、再び男性の声が聞こえ、やや背筋を伸ばし、受話器を耳に押し当てボールペンをノックする指を止める。
 うれしい男性の声に、メモを取ろうと近くにあるチラシを引き寄せ持っていたボールペンで控えよとしたが、最後のノックがペン先を閉まっていて、折り目のような線しかつかず慌ててノックしてペン先をだし、もう一度確認するようにチラシの角にペンを走らせ、男性の感じのよい声に気分を良くし電話を切る。
 私が控えたメモは、チラシの枠の余白角でジグソーパズルのように文字が埋まりそれは、直角に並びを変えていた。これでは、自分で何を書いたのか解らなくなりそうだったので、改めてメモ用紙を探し出しそれに書き写しながら、足元はそわそわと動いていた。
 書いたメモを、目の前にあるポストカードなどが張られているボードの空いたスペースにピンで留める。

「取れた取れた、二十八、二十九、取れたぞお!!」

 ふっふっ、やったーやったー取れた、取れた、言葉と心で、はしゃぎながら振り返り優希に知らせに向かおうと二歩前へ出たとき、うれしさに弾んでいるはずの足は、心とは裏腹に実際は弾んでいなかったらしく、短距離走のスタート直後に躓くアスリートのように走った体勢のまま宙を飛んだ。
 体が前に傾き床がみるみるうちに近づく、一瞬早く床に手をついたが、絨毯がずれつるりと滑り、跳び箱を飛ぶように体が横に押し出されたが、それは床であるわけだし、飛べない箱で結局そのまま顔から床に激突する事になる。運が良かったのは、床の上には、掃除のために弾かれていたクッションがあった事で、そこへ体ごと顔から突っ込んでいた。

「イテテテテテテテテ・・・」

 音飛びしているCDのように繰り返す。
 埋もれたクッションの中から顔を上げると目の前に裸足が二本、二本で一人。近すぎてピントがすぐに合わず、揺れる頭が落ち着き始めると、くるぶしの数センチ上の真ん丸に水滴が付着し、その中に何かが黒いものがあり、ほくろを水滴が覆っているのかと、確認するために顔を寄せると、その中には広がった自分の顔が映り込んでいる。それをみた瞬間足が動き、水滴がくるぶしを滑り、床へ落ち、もう一方の足が水滴を踏み、その足が動くと水滴は、べたり床に押し潰されていた。

「ああア!!なんで踏むのよ!!」

 自分の顔を踏みつけられたような気分になり腹が立ち顔を無理やり上にあげ声を張り上げる。

「何がよ!!のりこそ、なにやってんの!!足にコード巻きつけて、絨毯なんでこんなになってんのよお、クッションに顔突っ込んで何探してるのさあ!!」

 コード?床に寝たまま足元を見ると掃除機が転倒しコードが足に絡まり、私の体の下では絨毯がブルドックの顔のようになっている。優希の言葉どおりに確認し状況を飲み込んでいくが、最後の言葉は飲み込んだ振りをして吐き出す。

「さ・・・探してないよお!!」

 お互いが声を出すたびに覆い被すようにボリュームが上がる。私は、動きづらい倒れた体を起こし、巻きついたコードを解いて、ひとまず絨毯から離れ、絨毯の端を両手で握り強く引く。
 ブルドックの額から、元の絨毯に戻ろうとしたとき、優希の右足が偶然そこに乗っていて引っ張ったときにそれに気づいたけれど、頭で考えても体に中止の命令を拒否し、左足がバナナの皮でも踏むようにずるっと前へ滑り優希は大きく後ろに体勢を崩し傾き、倒れるかとおもいきや、軸足になっていた濡れた右足が、思わぬ力を発揮しバネのように体が引き戻された。

「おおおお」

 体操選手のような巧みな技が目前で繰り広げられ、驚きの声を上げる。下の階に迷惑が掛かるほど、大きな音が、ドンと響く。優希の戻された足が床にも戻されたのだ。肩で息をしている優希は一歩前にでて、私の上腕部分を二回指の第二関節で突付く。激痛が腕から体へ駆け抜ける。地味な嫌がらせであるが、腕のツボをピンポイントで力を込めて突付いてくるのは、かなりのダメージがある。それをよく理解した攻撃だ。私は、痛みに歯を食いしばりながら腕を熱いほどに摩り痛みを紛らしながら顔を上げる。
 優希は、してやったりな顔をこちらに向け、横目で口角をきゅっと吊り上げ、鼻から息を漏らし、背中を向け掃除機を片付けようとその前に屈む。
 コードを巻き上げるボタンが押されたらしくコードが反動でビクンと動く。それが先端にまで届こうとしたとき、咄嗟に投げ出していた左足のつま先を、引き戻される寸前のプラグにバレリーナのつま先のように力強く押し付ける。ピンと張られるコード、震えるつま先。止まった優希の背中。その背中が、異変に気づき動き出し後ろを振り向こうとした瞬間につま先をプラグから離すと、プラグは跳ね上がり押されたままになっていたボタンが早急に仕事をはじめ、コードは荒れ狂ったように波うちながら巻き上げられる。その先端のプラグが優希の手を弾き、乾いた音が上がり声が漏れる。私は、力を緩めた瞬間攣りそうな脹脛を心配しながらも視線を窓の外へ意味もなく向け知らん振りを決め込む。
 足に痛みが走り攣ってしまったのかと視線を戻すと、いつのまにか優希の足が絡まっていてそれは、数字の四に似ている。私の足はその四の中にあって、優希の四がしっかりと完成すると声をあげずにいられず、悶えるほどの痛みが体を強張らせた。

「イッタッタッタッタッタ」

 後ろへ倒れ床をバタバタと叩き顔を歪ませる。むせ返りそうな痛みはまだ続き、自然と口元は、痛みを訴える言葉から、ギブという二文字を繰り返し叫ぶようになる。
 優希の足が緩み四が崩れると、全身に痛みを残したまま体に入っていた力が床に溢れるように抜けていく。顔は、肩を揺らし音を立てて息をし歪んだ表情から悲しげな表情へと変わり唇に力が入り、鼻をなんどか啜りながら起き上がり、足を投げ出したまま、上半身は前へ向き両腕を絨毯につき力なくうな垂れ髪がだらしなく垂れ下がる。完全な敗北で、けれど、いったい何を勝負していたのか誰にも説明出来ない。

「何してるの?」

 世界七不思議を聞くよりも不思議そうな声を出し冷たい視線を送り続けるキックが、部屋の入口で立ち私達を見下ろしている。私は、キックに赤、もしくは青い顔を向ける。

「うわっなんで泣いているの?」

 心配する素振りはなく、むしろ笑いを交えながら何があったか知りたくて仕方ない様子がまじまじと見て取れる。
 この質問に答えたのは勝ち誇った顔の優希で、立ち上がりリングの上でステップするように軽い足取りを披露して、掃除機を持ち上げ、キックに遊んでいただけと言いながら、ステップを止める事無く廊下へと消えていく。
キックは、随分と激しい遊び方だといい、捲り上がったままのコタツを整え始める。私は、一人乱れた服装と体勢で取り残されている。

 締め付けられた足を大げさに引き摺りながらコタツに入り、寒くもないのに電気のスイッチを入れる。コタツの横に立っているキックが財布の中から細長い紙を出しひらひらとふって見せ、テーブルの上にひらっと落とした。滑り落ちたチケットが見の前で止まる。重なりあっている三枚のチケットは、チケットらしいチケットでしっかりと印刷されていて、見覚えのあるロゴが描かれその横にはナイターフリーパス引換券と書かれていた。遊園地のチケットに足の痛みとへこんだ気持ちがすっかり吹き飛んだ。

「どうしたの?これ」

 目を輝かせてキックを見上げると、得意げのキックがにんまりと笑う。

「お客さんにもらった」

 立ったまま話すキックと座った私の間にステップを踏みすぎたのか息を切らした優希が戻り顔をだし屈むようにチケットを見て、内容を確認すると声を上げた。

「おお!!ただ?」

 キックは、もちろん、無料だともとどこかの貴族のような話し方をする。ちなみに、貴族になんて会ったことがないけれど。何気に時計をみると、只今の時間午後七時を丁度回ったところで明日は三人とも仕事で、たとえば、今から行ったとしたら、遊園地は午前五時まで営業なので十分遊べるのは違いないけれど、明日の事を考えると卒倒したくなるような過酷な一日になるのは間違いなく、されど、キックの手から落とされた三枚のチケットは私達三人の心を捉えたまま離さなかった。


thank you
つづく・・・

十一月の出来事 1

2005年05月04日 | FILM 十十一十二月
みえないもの【十一の一】→→→ 「きっくううううう!!何しているのおおおお!!」

 街を真っ二つにする川の板チョコのように均一に並ぶブロックの一つの上にキックが立ち川を正面に腕をバタバタと動かしている。その川には、街を繋ぐ橋が掛けられ多くの人が主要道路として利用し夜中以外は混んでいる。橋を渡るとそれぞれ両岸の砂利道へ降りれる道があり、その脇には、生茂った草が連なり所々に空いた隙間から川へ降りる事が出来た。釣り人などは、その砂利道に車を停め自然と掻き分けられた草むらを通りながら目的地へ向かう。
 数分前、渋滞中の橋の上から川を眺めていて、その中の一台に見覚えのある車が停まっていた。優希の家に向かう途中であったけれど約束をしているわけでもないので、寄り道をし、川へと降りる砂利道へ車を走らせる。アスファルトから砂利道へ入ると、ハンドルに不規則な振動が伝わり、車体と体も揺れる。砂利を擦るタイヤの音が響き、砂埃を上げる。見慣れた車の後ろに車を止めエンジンを切り外へ出て、辺りを見渡すとブロックの上に十字架のように腕を広げてすくっと立っているキックを見つけ叫んだ。
 キックをよく見ると、右手に何かを持っている。手帳のようなものに見える。
 私の声に気づいたキックは、振り向きそのブロックから他のブロックに石飛でもするようにポンポンと渡っていく。ブロックとブロックの間はただの溝で水が流れているわけでもない。砂利道とブロックの間には背丈程の斜面になっていてそこは草が茫々と生えている。数メートル先のキックの場所まで行くには、もうしばらく橋下方向に歩いて下りる必要があるために、わざわざ降りていく気にはなれず、少しだけ背伸びをして出来るだけ顔を出すようにしてみたが、たいした効果はなく、キックが出来る限り近くに来るのを待つ。

「こんなところで、何してるの?仕事は?配達カー置きっぱなしだし」

 配達カーの置かれている方へ腕を上げる。キックは、適当に頷き右手に持ったものを私へ見せ左手で指差す。

「てばさきしんこう」

 やや大きめな声で小さな本をもっとよく見えるようにかざす。

「てばさきしんこう?」

 てばさきしんこうとは一体なんの事だろう。あの手の動きといい、「てばさき」はともかく「しんこう」というのは、列車が出発するときの最新の号令だろうか、聞きなれない言葉で聞き間違えたのだろうかと、訳が分からない顔を投げかける。

「手・旗・信・号」

 声を出さなくとも、口の形で解りそうな程唇がはっきりと動いたが、私にはなぜ、手旗信号をやっているのかが解らず、結局疑問は膨らむばかりで思案に暮れた難しい顔をしていたに違いない。

「誰に?」
「はい?誰にじゃなくて、いざという時に誰かにやるために練習しているんだよ、わかる?」

 憤慨したように、やや声を強張らせながら今一度手にしている本を私に見せる。
 私として見れば、川岸で、キーボードのボタンのようなブロックに十字架みたいに立って、本を参考にひたすら手旗信号の練習をしているキックすべてが疑問の塊だ。
 これが職業に必要ならなんの疑いも抱かないだろうけれど、キックは文房具屋だ。たとえば、万が一でも危険な目にあって誰かに何かを知らせなければならなくなったとき、これがいざというときだ、手旗信号で知らせるしかない、なんて意気込んでかっこよく言葉を体で表していくとして、その言葉をどれだけの人が理解することが出来るのだろうか。少なくとも、私の周りで手旗信号で会話をしている人も見た事がないし、それを大いにフル活用している人も見たことがない。果たして、誰にでも出来る手旗信号ブックを買ってマスターすることが、意味があるのかどうかいえば、意味なんてこれっぽちも感じず、それどころか無駄でしかない気が強いのだけれど、キックにとっては、それをこれから先たった一度も使う機会がなくても、そこには何かしらの意味があるのだろう。
 私は、誰でも出来る手旗信号本のページが所々折られているのをみてそんな事を思っていた。

「なるほど、頑張ってね」

 キックの表情がやや明るくなりやる気を漲らせていくのが判る。私にどこへ行くのか聞き、私は優希の部屋へ行くと答えると、キックは、頷きながら本でパタパタと腿を叩きながら配達が終わったら自分も行くと言い、また、溝のブロックに落ちないようにピョンピョンと飛び跳ねていき、再び太陽に反射してキラキラと光る川を前に、本へ視線を落としてから右手でそれを持ってバタバタと腕を動かし始める。
 しばらく、そんな姿を眺めていると人の気配を感じ横を振り向くと、太りすぎで水風船のように弛んだ体をした芝犬が私の靴の上に腰掛けていて、その首輪に付けられたピンクの紐を背の低い老人が持ち手旗信号を眺めていて、口元が動いていく。老人の口元とキックの手旗信号を交互に見る。

「ふ・く・や・ま・ま・さ・は・る」

 柴犬が、重い腰をあげ立ち上がり、ぶらぶらと肉を揺らしながら歩き始め、それに気づいた老人も体を川から道へと向ける。この人は、キックの手旗信号を読んでいた。キックの手旗に合わせて言葉を呟いていてからそうに違いない。となれば、たった数分の間に一人手旗信号を理解する人が現れたわけだから手旗を理解する人は多いのかもしれない。もしくは、私が知らないだけで手旗信号のブームがやってきているのか。
 キックは、私が見ている間ずっと似たような動作を繰り返していて、それが間違っていなければ、延々と福山雅治と信号を送り続けていることになる。
 私は、目の前で繰る広げられるメッセージの嵐を見ていながら、根本的な意図をみることが出来ずにいて、このまま時間が経過したところでそれが明らかになる事がないだろうと声を掛ける事無く車へ戻り、優希の元へ向かうことにした。


 公園に車を停め、少しだけブルーの空が色を変え始め、太陽も傾き西日が建物を照らし強い光を浴びせ車道を走る車はその光を反射させてはどこかを照らしていた。そんな中を車の鍵についているキーホルダーを指にひっかけクルクルと回しながら歩いている。コンビニの前へ通りかかると自然と視線はそっちに移動しウインドウ越しに並べられた雑誌を眺め、そのひとつの温泉マップ本をみてひとつ忘れかけていたことを思い出す。今年前半、スノーボードへ行ったとき、スキー場主催の大会に出て副賞で温泉旅行ペアー券をもらっていた、そういえばこの券を使っていない、たしか年内期限だったはずで、今年も残すところ一ヶ月ちょっと、これは使わなければならないと、速る気持ちがのんびり歩いていた足取りの回転数をあげるが、信号は赤にかわったばかりで立ち止まり、青に変わるまでの間中、あの券はどこの温泉だっただろうかとか色々考える。

 目の前をトラックが風を巻き起こしながら通り過ぎ、後方を走っていた乗用車が後を続く。淀んだ排気が、冷たい空気が巻き上がり肩を竦める。横断歩道の信号は、青に変わっていてトラックはともかく乗用車は信号無視だろう。ため息をひとつ落として、白いストライプを踏みだす。温泉の事ばかり考えていたせいか、風に吹かれて初めて肌寒いことに気づき、どうやら季節は冬へ変わってしまっているようで、だからこそ温泉の事を思いだしたのだろう、正確にいえば、季節に敏感なコンビニに並べられた雑誌をみて思い出したのだが、きっかけはどうあれ、冬がやってきたということが少しだけ時間の重さを背中に感じていく。
 国道沿いの歩道から脇へと逸れ、住宅が並び塀から覗くもみじの葉は、枯れ落ちている。じれったくぶら下がる葉が、僅かな風に煽られるとくるくると回っている。
 優希の住む部屋が見え、そのベランダには洗濯物が干されていて、ブルーのバスタオルが物干しに掛けられ洗濯バサミ二つでとめられている。その下を通り過ぎ階段を上る。

 チャイムを鳴らすと、しばらくしてカギが開きノブを捻りドアを開けた。腕まくりをした優希の後ろ姿が風呂場へ消え、私は、靴を脱ぎ部屋へ上がる。
 洗面所と風呂場の前で立ち止まり中を覗くと優希は、風呂の淵に手をつき、中へ体を乗り出し浴槽を泡まみれにしながら力強く洗っていてその背中に話しかける。

「キック後から来るって」
「うん、わかった」
「ねえねえ、スノボーでとった温泉旅行どうした?」
「あるよ、テレビの下の引き出しの中」

 考える暇もないほど素早い返答をしたということは、忘れていたわけではないようだ。優希の手元は止まる事無く動き続けているので、断ることなくテレビの下の引き出しへ向かう。優希の部屋はなんだかとても乱雑で大掃除の途中のようだった。掃除機は捲り上がったコタツの横に置かれ、コンセントの下に落ちたプラグとコードが引き出されたままで実に中途半端である。風呂の掃除をする前に、先にこっちを片付ければいいのにと思う。けれど、私は実家暮らしなので文句を言える立場ではなく、放置された雑巾と掃除機を跨ぎ引き出しの前に立つ。

 引き出しを開けると、光熱費や電話料金などの請求書や多くの封筒が束にされ入っていて、その横には、ホッチキスやハサミなどの文房具が入れられている。副賞は見つからず、今年始めのものだから下の方かもしれないと請求書の下の方に手をいれ探してみたけれど、それらしきものは挟まっていない。覗きこんで、もう一度始から探してみたけれど見つからず、他の引き出しなのではないかと疑い始めとなりの引き出しに移ろうとし上体をあげたとき、引き出しの一番手前に一回り大きい封筒に入った副賞を見つけた。一度視線が捉えると、どれよりも一際目だっていて、どうして探せなかったのだろうと不思議に思える。言い訳がましいが、どんなものでも近くで見るよりも一歩ひいた時の方が見えるときもあるという。これが、そんな感じだったと無理矢理解釈する。

 封筒を取り出し中身を出す。箱根温泉旅行ペア券と書かれた素人がプリンタで作ったような頼りない紙が入っていて、子供が作る肩叩き券の方がよっぽど豪華に見えるのではないかと思うほどのもので、果たして、この紙切れは、本当に二人を無料にしてしまうほどの威力を持っているのか不安なる。
 ひっくり返すと、注意書きが印刷されていて、期限は、予想通り年内、記載されている青雲館に自ら連絡をとり予約をいれなければならない。紙を持ちながら壁に貼られたカレンダーを捲る。年末は、誰もが忙しい時期で、休みなんて取れない、行くなら仕事終わりの年末しかないのだけれど、今から予約がとれるだろうか。これは、一刻を争う。

「優希!!優希!!期限が今年中だよお!!」
 
 一人興奮し叫んでみたものの風呂場からはなんの返答もなく、聞こえてくるのは、浴槽を流しているだろうシャワーの音のみで、仕方なく風呂場へ向かう。


thank you
つづく・・・

十月の出来事 3

2005年04月23日 | FILM 十十一十二月
アンテナ微弱【十の三】→→→ 鉄板の前でしゃがみ込んだ優希は、豚のロゴが印刷されたスーパーの袋を左腕に提げていたが、袋は地面に付きその役目は、船を停泊させるブイのようなものだった。そんな左腕を気にしながら、箸は勢いよく進む。
ポケットに入れられた肉袋の口部分がひらひらと風に煽れていることに、何も感じていないキックの箸も止まる事無く動き続ける。

 私は、低い姿勢を保ったままアヒルのように体を揺らしながら荷物へ向かい手探りでフランスパンを探していた。
 一瞬だけでも、キックの光が欲しかったが、箸を口に銜えたままだったので声がだせずに、片っ端から手を入れていく。包装紙が当たり、それを掴み、硬くて軽い、しっかり握っていなければ吹き飛ばされてしまうだろうフランラスパンを引き抜いた。
 たしか、このフランスパンを買うとき、バーベキューの素材の話を三人でしていてそれを聞いた店員が、バーベキューでフランスパンなんて、とてもおしゃれで羨ましい言っていた。しかもそれを夜の海でやると聞くと、細い目を尚も細めながら、一人空想の世界に入り頷いていた。あの店員は、今頃、空想のような世界に三人が浸っていると思っているだろう。まさか、こんなおぞましい状況に陥っているなんて考えもしないに違いない。そう思うと、可笑しくいつの間にか頬が緩んでいた。

 フランスパンを持ちながら、アヒル歩きで戻る。

「何笑ってるの?」
 
 優希が、何も起きていないのに笑っている私を不思議に思ったのだろう。

「なんか、おもしろいなあと思ってね、この状況がさあ」

 店員の話はやめて、そう返す。持っていた皿を、優希に差出すと受け取った。
 フランスパンを長い袋から出し、袋を丸めてジーンズのポケットへ詰め込み、パンを適当に三等分に引き千切った。

「端と真ん中どっちがよい?」

 考える事もせずに、二人は同時に答え、同じ言葉でなかったので、そのままキックに真ん中を、優希に端を差し出す。
 三人は、片方の手にパンと箸を持ち、もう片方に皿を持ち、鉄板へ箸を伸ばしては、握ったパンを噛み切った。

 バッサーン!!バッサーン!!と、波が岩を叩きつけている。その度に、風に乗った潮が頭を掠める。

 ウインナーを誰よりも多く食べたキックが、喉の渇きに気づいたようで、振り返り自分が岩に挟んだペットボトルを探す。すぐに照らされたペットボトルへ、キックが体を捻り手を伸ばす。キャップ部分を摘み上へ力強く引き上げる。手元にもってくるとキャップを取り、一リットルのペットボトルの口を唇につけようとしているとき、キックの握った側面が不自然に思えた。そして、徐々に傾けられていくペットボトルから、雨の道筋のような線がキックのライトに反射したように見えた気がした。

「あ」

 誰も聞き取れない声が漏れ、ペットボトルの口がキックの唇に触れ傾けられたとき、側面にキックの指がブスリと刺さり歪んだ。

「ぼこぼこぼこ」

 風呂の栓が抜けたときの音が聞こえ、あっというまに流れのよくなったペットボトルの中身はすべて零れ出る。
 飛び散った中身が、鉄板の上にも届きバチバチと音を上げる。
 風呂栓が抜けたときの音に混じり、蛙が潰れたような声が漏れ、手元から皿が落ち箸とフランスパンが転がり、一旦水圧でエビゾリになった体は、強力な腹筋でくの字曲がった。ペットボトルが飛び、石に当たりプラスチックが割れる音がしてバウンドしながら風に飛ばされる。へんな音をだしながら咽返るキック。
 フランスパンを齧ったまま目の前で起きていることを、眺めていた。
 むせ返る回数が減ると、全身で喘息のようにヒューヒューと何度も息をする。

「溺れ死ぬところだった・・・」

 ヘッドライトが鼻の頭まで斜めにズレ落ち呼吸をするたびに揺れ、搾り出した声は、長い間プールに潜っていて耐え切れず水面に向かい顔を出した瞬間のようだった。

「大丈夫?」

 鉄片に並べられた肉をひっくり返しながら、優希が言い、キックは依然苦しそうで息を切らし、私は優希につられ同じセリフを言ってみる。
 キックはヘッドライトを外し手で持つと表情が照らされる。本当にプールから浮かび上がったときのように、前髪は、真ん中でぴっちり分かれ額に張り付き、髪を伝う雫が、顎へと流れポツポツと落ちる。

「馬鹿力で引き抜くから、ボトルが割れて、それを知らずに握るから、そんな事態に巻き込まれるんだよ」

 滴るお茶を拭うこともせずに、キックの手は、鼻の下の爪楊枝程のニキビに突付いている。私は、そんなキックを見ながら、なぜこんな事になったのか、自ら言葉に出しながら理解していく。

「いちいち説明すんな!!」

 突付く指先が、イライラと動いている。

「初めてみた、お茶で溺れている人」

 キックが優希に、わざとライトを向け被ったタオルの水玉が妙に浮き上がり優希が眩しそうに背けながら片目を閉じる。

「でも、牛乳とかドロドロトマトジュースとかでなくてよかったじゃん」

 鼻と下唇にマッチ棒をつけたら一芸出来てしまいそうな優希に向けられていたライトが私へ向けられる。持っていた皿で光を遮り肩が震え笑いが零れ始めていた。優希は、私の言葉に同意し、口の端が何度もくいっと上がる。
 交互に照らされたライトがチカチカと細かく明滅し、キックがライトを叩くと再び光を放つ。

「もう、人事だと思ってさあ、冷たい奴らめ」
「さあ、そろそろ焼きそばにいきましょ」

 潮の匂いが滲みこんだタオルを頭から剥ぎ取りキックの頭に押し当てると優希は焼きそば作りに取り掛かる。アヒル歩きで、荷物置場まで向かいそばの準備をし、私は、まだ鉄板の上で置き去りにされている水分が飛びきり炭化している野菜や肉の破片を隅の方へ寄せ、ゴミ用ビニール袋を作りそれに入れる。
 お茶でまみれた髪を乱雑に拭き、そのタオルを美容院のように肩にかけているキックが鉄板の上へ新たに油をひき、ポケットの中から肉袋を取り出し鉄板へ落とし始め、じわっじわっと細かな音を上げている。優希から野菜袋を受け取った私は、肉のとなりで袋から野菜を落とし、少量になった野菜袋をパーカーのボケットに入れる。甘い匂いと香ばしい匂いがたちこめ、鼻をくすぐる。
 野菜をかき混ぜ、肉をひっくり返すと、鉄板は更に賑わい、二玉のそばがドサリと落とされた。

 若干一名、ハプニングがあったにせよ、なんだかんだかバーベキューがうまく進んでいることに安堵し、カップめんの焼きそばは、どこのメーカーが好きかなんて話に花を咲かせながら、手元だけは動いていて、ふとあることに気づき手を止める。

「あれ、さっきひっくり返した肉、片面全然焼けてないような?」

 キックのライトが、私の箸を中心に照らす。随分前にひっくり返したにも関わらず表面は明らかに生である。

「なんで?」

 疑問と共に優希の手元が止まる。たとえば、この状況がテレビで流れ、それを見ているオヤジがいたら、優希のなんで?なんていう質問に、おいおいそれは火力が弱まっているだけだろ、つまり、ガスが終わったんだろよ。なんて突っ込みながら、茶の間で寝ころがって、鼻でもほじりながら、おまえら、前兆があっただろう、コンロの火が弱まって焼きが甘くなっていた事に、話に夢中で気づかなかったんだよ、なんて言っているに違いない。

 けれど、現実はそんなに冷静でなく混乱が判断を鈍らせる。
 音がまったくしなくなった余熱だけの鉄板の下のコンロを、キックが覗きこむ。

「火がついてない、風かな?」

 キックは、点火ダイヤルを何度もカチャカチャと捻ってみたものの、虚しく音がするだけで炎が灯されることはなかった。
 鉄板は、急速に冷えていき、波と風の音が突然大きな音をあげたように、耳へ届く。
 荷物がバタバタと揺らされ、上に乗せた石がぐらぐらと動いている。

「ボンベ替えはないよね?」

 優希が問い、キックのライトが上下に動く。

「やきそば、そろそろ、食べれないかな」

 突然の打ち切りに、こんな事を言ってみたけれど、食べれるはずはない。肉も焼きそばも生そのものだ。
 肉をもう一度ひっくり返してみても、すでに鉄板から音が上がることもなく、変化のないオセロだ。

「どうする?」

 鉄板を照らし続けるライトが深刻さを伺わせる。不自然な明滅。チカチカと冷めた鉄板へ送られていた光が、不安定な光になり始め、次々に明るさを変えていく。

「うそっ」

 嫌な予感が、脳天に突き刺さる。
 優希も同様だったのか、キックのライトを前から掌で叩くと、バチンと音がし、キックの頭がぐらりと前後に揺れる。
 それでも、ライトは絶頂時の明るさに戻ることがなく、それどころか、徐々にフェイドアウトするように光が薄れていく。
 うろたえている間に、光はすべて消えた。
 最後に映したのは、一番慌てふためいたキックの眉毛と真ん丸の目だった。

「うっわああああ、暗いいいいいい」

 キックが叫んだところで何も変わらず、叫びは瞬く間に強風に掻き消されていく。


「きゃああああああ!!」

 ドアが開いたことに気づいたウエイトレスがメニューへ手を伸ばし、それを取り客へ体を向けた瞬間、笑顔がべたりと顔に張り付きメニューを手から落とし、フロアにひらりと落ち、貼り付けた表情の口元が僅かに開くと、ヒクヒクと頬が動き目を剥き一歩後ずさりをしながらレジカウンターにぶつかり体勢を崩しフロアに倒れると、全身に力をいれ、鼓膜が切れそうな声を張り上げた。
 夜中のファミレスは昼間と客層が変わるだけで同じように賑わいざわついていたけれど、この悲鳴でぴたりと静まり返る。

 男性従業員が、厨房から血相を変え駆けつける。
 入口を見つめたまま、緊張感が体を固まらせ後を追いかけてきたブラシを持つ従業員に少しだけ顔を向け、小さく口元が動いた。警察、そう言った。キックが、慌てて一歩踏み出すと、駆けつけた従業員が身構え叫ぶ。

「動くな!!」

 キックの足元がぴたりと止まったが、右手が発作的に鼻の下へ伸びていく。

「動くなあああ!!」
 
 声が裏返る。

 ファミレスが緊張に包まれ、三人が強盗扱いされている中、こんな切羽詰った空気を打ち破ったのは、優希だった。
 クツクツと肩を震わせて笑い始めた。従業員は、呆気にとられ何が起こったのか飲み込めないようだ。目を動かし答えを求めている。
 キックの後ろから前へすり抜ける。キックの指は、アンテナを鈍らせているらしいニキビを触れたままだった。笑いが喉に詰まって音をあげそうだったのを、ぐっとこらえ比較的真面目な顔を装う。

「すいません、強盗ではないです。海でバーベキューをしていて、ライトが消えてしまって、辺りが真っ暗で、それで・・・色々ありまして・・・とにかく、ここで休ませて頂けますか?」

 パーカーのポケットから野菜袋が顔を出していて、身振り手ぶり説明している拍子に、千切られたピーマンや、キャベツが、パラパラとフロアに落ちる。優希は、無理やり笑いを押し込めている。従業員が、私達三人の体を下から上に食い入るように見上げていき、ため息をつく。

「申し訳ありませんが、お客様の迷惑になりかねませんので今回はお引取り頂きたいのですが」

 明らかに平静を装う従業員が、頭を下げる。私達は、そうですよねと従業員に同情するように後にした。
 外へでて、車へ向かいながらふつふつと湧き出す笑いが外へ漏れ、腹を抱えガハガハと体を捩らせ、バッティングドームでホームランを打ったときのファンファーレのように駐車場に響き渡り反響する。
 駐車場の蛍光灯の下、優希の髪はどこが分け目なのか分からないほど乱れ絡まり上着には、べたりと模様のようにおたふくソースがしみこみ、キックの右のポケットからはナイフの柄が出ていて、左のポケットからは血に染まった肉袋が顔を出している。髪はお茶まみれでぐっしょりと濡れ、上着の肩から胸元に掛けては黄緑色の染みが出来ていた。そして、三人からは、強烈な潮とバーベキューの臭いがムンムンと放たれている。

 車の中を覗けば、車を二、三回転がした後のように、散乱している。座席の上には、ビニール袋に詰められた生ゴミ、いや違うあれは、後で作り直そうとした焼きそばで、臨時に入れられたものだった。道理からいえば、あのまま、フライパンの上にいれ、そのまま火を通せば焼きそばが完成するはずなのだが、間違いなくこれから先作られる事がない気がする。これから、この車に乗る込むわけだけれど、我を取り戻した今、きっとこの車内は、とんでもない臭いが漂っているだろう。
 三人の様もそうだが、それは嵐が残した爪痕のようだった。

「まったく、今日一日、その爪楊枝の先っちょ程度のニキビのおかげで酷いめにあった」

 優希が、ニキビの悪影響をふいに認めてしまい、私も認めざるおえなかった。キックが、鼻の下をつつきながら、悠長に言い放った。

「でしょ?」

 私の尻のポケットからしっぽのようにフランスパンの袋がダラリと垂れ下がっていることに気づかず、絶句するような車内に乗り込みドアを閉めると、尻尾が挟まり十センチほど車外に袋が出ていて走るたびにバタバタと揺れていたことに気づいたのは、信号を十五個ぐらい過ぎた頃だった。
 

thank you
終わり・・・


十一月の出来事 1は、一週二回休みのため、五月四日更新です。

十月の出来事 2

2005年04月20日 | FILM 十十一十二月
アンテナ微弱【十の二】→→→ 街路灯が、真っ暗な港を所々浮かび上がらせ、並ぶ船が波に揺れている。見る限り人はいない。信号を左折し、町の集落から外れ、港沿いの道をひた走る。静まりかえった港を後にし、車は緩やかな上り坂に差し掛かり、しばらくすると、右へ左へカーブが現れる。辺りは、一層寂しくなり、海は見えず鬱蒼とした木々に囲まれている。時々、現れる街路灯がそれを浮かびあがらせる。昼間なら、木漏れ日が地面に落ち気持ちよく通り過ぎるのだろうけれど、闇に覆われたいまは、僅かな光に照らされるすべては不気味でしかなかった。
 ヘッドライトの光は、上向きにしても深い闇の中に次々に吸い込まれていく。ぼんやりとヘッドライトに照らされた公園駐車場を知らせる白い看板が現れ、閑散とした駐車場へ車を入れた。ステレオに光る時計は、九時二十五分を示している。
 車内から、駐車場を見渡す。駐車場の隅には、潰れたペットボトルが転がっている。車は、点々と三台停まっていて、二台は、人のいる気配は感じられない、一台は、カップルの影がステレオの光でぼんやりと確認出来る。その車は、私達が現れるとエンジンをかけ、車を走らせた。辺りは、私達以外誰もいなくなったようだ。

「なんかさあ・・・」

 闇に襲われそうというのは、こういう事をいうんじゃないかとふと思い、二人に伝えようとしたとき、それを察したかのように優希が言葉を遮る。

「準備準備!!」

 声が裏返っている。前に座る二人は、同時にドアをあけ外へ出る。冷たい風が音をたてて渦を巻くように入り込み、思わず肩をすくめた。
 トランクが開けられ車が揺れる。二人はせっせと準備を進めているので、闇への不安を振り払い後部座席に置かれている食材やその他の荷物を運び出す。
 車の外は、三百六十度木々に覆われ、風に煽られる葉がカサカサと音を立てて、それに混じりキーキーとどこからともなく鳥の叫びが聞こえてくる。ホラー映画の冒頭のシーンで十分使えるのではないだろうか。暗闇の中に車をとめ、怖いものしらずに歩き出し、踏み入れてはいけない世界に踏み入れ、タイトルがでて登場人物の名前がクレジットされていく。要らぬ想像を膨らまし続けたあげく、勝手な鳥肌まで腕にたち、慌てて楽しい夜のバーベキューを想像する。花火は失敗に終わり、今度こそ海を前に、火を灯しのんびりとバーベキューをしながら語らう。これを我慢すれば、そんな世界が待っている。
 気を取り直し、持ちきれるだけ荷物を抱える。優希とキックもそうしていた。

「海岸まで歩くから、忘れ物ない?」

 優希が、上着を着込み後部座席とトランクを順番に覗き込みながら問いかけ、私達は、根拠無く頷く。駐車場にあるたった一つの街灯は、チカチカと不規則な明滅を繰り返し、今にも電球が切れてしまいそうだった。そんな中、確かめるほどの明るさはない。唯一頼りになるライトは、キックの額についているヘッドライトであるが、キックの視線の先を飛びかっている。
 キックが車をロックし、鍵をジーンズについている金具に繋ぐと、その右手が再び鼻の下へ伸び、首を傾ける。しっかりとは見えないけれど、間違いなく、爪楊枝の先っちょ程のニキビを触っているに違いない。私の視線に気づいたらしく、ヘッドライトが私を捉え眩しくて眉を細めた。キックは、光を遊歩道へ向けそのまま歩き始める。
 
 石造りの遊歩道が続き、急な階段が始まる。相変わらず辺りは、真っ黒な木々が覆いかぶさっている。闇の階段を降りている錯覚に陥る。鉄板が、コンロに当たり音を上げ跳ね返った鉄板が、腰に当たり痛みが走る。途中見晴台が現れ空を覗かせた。けれど、星ひとつなく嫌な風が吹きつけていた。土産でも売っているのだろう小屋が、その風にバタバタと煽られている。深く見ず横目で通り過ぎ、再び、石段へ足をだす。
 背にした小屋の方から、何かがドサリと倒れる音が体を固まらせた。

「きゃっ!!」

 優希は、敏感に反応し悲鳴をあげ震え上がり、ばさっと何かを落とす。私は、親指を潰しそうになるほど押していた。
 キックが振り向き優希の足元を照らす。何かをいれたビニール袋が落ちていて、それを拾いあげ優希の手元へ乗せる。

「キック、後ろ照らしてみてよ」

 私は、小屋へ振り向いたけれど、真っ暗で何も見えない。唯一照明があるキックをうながしてみたが、キックは、怖いからという理由でそれを拒否し、階段を下り始めた。確認しない方が恐いのではないかと反論してみたけれど、耳を貸さずに降り始めたキックの後を仕方なく続いた。

 三人は一列に並び、揺れる一筋の光を頼りに一段ずつ確かめながら下り続け、ようやく、波の音が耳へと届く。最後の階段を降り、木々に覆われた闇のトンネルを抜け、肩を撫で下ろした。張り詰めた気持ちを、揉み解す。
足取り軽やかに進み歩道から、足場の悪い海岸に変わる。その時私達を待ち受けていたのは、闇のドームを吹き荒らす、海からの突風と強烈な潮の匂いだった。

「おいおい」

 漏らした言葉は、出鼻を挫かれる、いや違う、予想と掛け離れた悪状況にあっけに取られた末に、知らずうち、にやけてしまいそうな自分自身への突込みだった。


  今日の災いは、すべてキックから始まっているようにも思える。バッティングセンターは優希の要望で、ハプニングなく楽しめたし、キックが提案した、ラーメンから四つ石まで災いが続き、これから、バーベキューが決行されれば、この災いは継続するのだろうか。もしくは、三度目の正直で逆転か、それとも、二度あることは三度あるで、悲劇の継続か、ここは、キックの強運を信じ前者を願いたいものだ。ただ、気になる事といえば、キックの鼻の下にある爪楊枝の先っちょ程度のニキビが、直感を鈍らせているという真実味も出てきているということである。

 持っていたビニール袋が旗のようにバタバタと煽られ痺れ始めていた指先に負荷が掛かる。時折高い波が押し寄せるのか、白い飛沫が巻き上がり風に吹き飛ばされ肌に当たる。

「ううううう」

 肩をあげ再び全身に力が入り唸るような悲鳴が漏れる。優希とキックも同じような状況の中、絶句している。
 私の横を、カランコロンと喧しい音を立てながら優希が前へ五歩進み立ち止まる。

「とりあえず、この風に耐えられるような準備を整えよう」

 優希の声は、すべてを聞き取る前に波と風に瞬く間に吹き飛ばされる。それでも、撤退と言った様には思えず、決行だと認識し踏み出した。キックの揺れるヘッドライトを頼りに比較的大きな石の風下を探そうと足場の悪い海岸を風に煽られながら歩き続ける。どういうわけか、ヘッドライトの光すら風に流されているように思えた。
 一寸先は闇。そんな言葉を身をもって実感する。
 私の肩ぐらいの背の高い石をみつけ、その風下にある転がる石を足で退かし、三人が抱える荷物を一纏めに置く。

「まいったね」

 この最悪な状況に苦笑する。キックの灯りが一畳に満たないスペースを照らしそれを眺め考える。優希は、風下からややはみ出ていたので、髪がバサバサと巻き上がり片手で押さえ座り込む。

「焚き火は無理だから、コンロでやるか?」

 キックの放つ光の真ん中にコンロが置かれている。私と優希は、迷う事無く同意する。

「よし準備しよ!!」

 優希が、スポーツタオルを取り出し、立ち上がりながら、それを頭に被り顎の下で結び威勢の良い声をだす。
 周りに転がる石を出来るだけ一畳余りのスペースから退かし、小さな池の淵のように積み上げていく。平らにした砂地に押し付けられたコンロを置き大きめの鉄板を乗せ、ダイヤルを回しガスが出る音と、カチカチと着火させる音が響き、青白い炎が作られる。度々入り込む風に揺らされては勢いを取り戻す。キックは、優希の手元を中心に照らしていて、光の中では、小さなまな板を石の上に置き野菜が置かれ、一歩後ろに置かれたままになっていた果物ナイフを取ろうと振り向いた隙に、キックの声と共に、無数のキャベツが闇の中へ飛び立った。結局、キャベツを追う様にモヤシ数本とピーマンが飛び立つと優希はまな板をしまい、果物ナイフの刃をケースにいれ、キックへ手渡し、それが大きめのポケットに仕舞われるのを確認すると、用事を言いつけた。キックの光が別の場所を照らすと、優希は、ビニール袋の中へ野菜を詰め込みガサゴソとし始める。私としてはレタスは手で引き千切っても許せるが、キャベツや玉ねぎは幾分抵抗がある。けれど、この不足の事態にそうも言っていられず、そんな思いを振り払った。ところが、それに気づいたキックは、わざわざ優希に向かって何をしているのかと問い、優希は、見過ごしてくれと歯切れ良く言い放ったが、なぜかこそこそと背を向ける。キックは、こくりと頷き身近なビニール袋を持ち作業に戻った。作業を終えた優希はビニールの中から手を取り出し、風船のように膨らませ、今度はしゃかしゃかとシャッフルし始める。たとえば、このビニール袋を箱の中にいれ、箱の天井面だけ腕が入る穴をあけ何が入っているのでしょうかゲームをしたら、きっと難題に違いないだろう。
 鉄板に手を翳すと、熱が掌に当たるのを確認し油を滲み込ませたキッチンペーパーで鉄板を擦る。

「鉄板おっけーだよ」

 風除けの石に当たる風が、ヒュウヒュウと音をあげ、パチパチと音を上げる鉄板を通り過ぎ、その風を避けながら三人で囲む。

 優希のもつビニール袋が傾けられ、バラバラと鉄板の上に落ち残った水分が跳ね上がる。キックがいつのまにか持っていたビニール袋が斜めに傾けられる。けれど、何もでてこない。何が入っているのか聞こうとしたとき、キックの手は、詰まった物を出すようにビニール袋の中身を振り落とそうとし、何度か繰り返すと鉄板の上にどしゃりと物体が撥ねをあげ、崩れ落ちる。食欲不振に陥りそうな嫌な音だった。キックのヘッドライトに照らされたものは、十分な明かりの中にないせいか、赤黒い肉の塊に見えた。
 あまりの醜さに、声を失ったが気を取り直し、持っていた割り箸で、恐る恐る塊に触れ絡み合った肉を一枚一枚剥がし、出来る限り並べていく。そうすると、幾分食べ物らしく見え、音と共に、香ばしい匂いも鼻の奥へ届き始める。このとき、数時間ぶりに空腹を知らせるアラームが、頼りない音を上げていた。

 優希が、手探りで、バタバタと風を受ける石の下に置かれた荷物から、使い捨ての皿を取り出し、闇に浮かぶ僅かな明かりの中へ戻る。焼肉ダレを、石と石に挟み私とキックに皿を差し出す。立ち上がりながら受け取ると特大スーパーボールを、掬えなかったかのように、指で触っていた皿の淵を残し、あっけない音を立てながら風に吹き飛ばされた。偶々、風に飛ばされていく皿の道にいたキックが咄嗟に手を伸ばしみごとにキャッチをしたが、皿には五本の指の痕がくっきりと残り使い物にならなくなり、結局新しい皿を貰ったのだけれど、なぜか石の上に置かれ、その中にはコブシぐらいの石が入れられていた。わざわざ入れられた石を取り出し出来るだけ風に背を向け刺さった焼肉ダレを注ぐ。ゴマが混じった茶色いはずの液体は、どちらかというと黒に近く泥なのではないかと疑いそうになる。

「ウインナー入れた?」

 準主役のウインナーの行き末が気になり、二人に聞く。キックは、ライトの明るさのせいで、口元のあたりしか見えず、一層表情が見えにくい。

「入れたよ」

 キックの口元が動き、手に持っている肉袋を振る。野菜をかき混ぜていた優希の手元が固まり、キックのヘッドライトがゆっくりとビニール袋の移動していく。見たくないと、心が拒否反応を起こし、咄嗟に鉄板へ視線を背ける。

「ウインナーあった、ほら、野菜の中」

 私よりも早く優希もの線が鉄板へと戻っていて、ウインナーを見つける。キックのヘッドライトがようやく鉄板へ向けられほっとする。

「ウインナー、こんがり焼こうね」

 さり気無い言葉を出してみたものの、心の中では、焼きすぎなくらい火を通そうと硬く決めていた。それから、野菜を担当していた優希の箸は、頻繁にウインナーを転がすようになる。

「いい匂いだ、バーベキューになってきた」

 一人テンションが上がり続けているキックは、わざわざ立ち上がり、頭の上を強風が掠めている事もきにせず、嬉しそうに言い、飲物の準備を率先して始める。

 一リットルのペットボトルが岩の間に挟まれ、風に吹き飛ばされることなく、コンロから僅かに漏れる明かりに照らされる。皿を持ちながらコップを持つことは不可能だったので、飲むときはそのままラッパ飲みすることになった。

「そろそろいいんじゃない?」

 目を凝らし鉄板を見つめながら、焼き加減に自信を持てない優希が同意を求める。キックのライトが出来る限り隅々を照らし、野菜が撓り、焦げ目がつき弾けたウインナーと、手ごたえがある肉を確かめた。
 三人の箸が、同時に動き、私と優希は野菜へ伸び、キックは迷わずウインナーを取る。
 キックは、箸で挟んだウインナーを風が遮られることなく通り過ぎる場所へ、ひょいと出し、自動冷まし機、しかも天然塩風味と、楽しそうに言い、自分なりの加減で口へ運びポキッと噛み切った。
 私と優希は、もちろんそんな事はせずに、弾け過ぎたウインナーへようやく箸を伸ばし味わい、うまいと呟いた。

 不思議なもので、海岸へ降りたときの不安はいつのまにか身を隠したのか、消えたのかは定かではないけれど、こんな状況の中、バーベキューを始めてしまった今は、頼りない灯りでも、慣れればなんとも思わず、ゴーゴーと不吉な音を鳴らす風や、ベタベタした潮風にも気を取られる数が減っていた。
 ウインナーと肉が入った袋をみてもそれ程のショックを受けることもなく、薄暗い中で食材を手探りで取り出すのに多少の時間がかかっても急ぐわけでもないので、待てばよい。いつの間にか、気にする事が減っていたのだ。どうにもならない状況で、出来ない事をすっぱり諦めてしまうと、不便な事でも、不便でなくなるようだ。
 キックは、二人よりも早くその世界に順応していたのかもしれない、私と優希は、一歩送れてようやくこの狭い空間を楽しめるようになっていた。

 キックのヘッドライトの灯りがそんな世界を作り出していた。光の外にあるのは、どこまでも続く闇と荒れる海で、その存在すら忘れていく。


thank you
つづく・・・

十月の出来事 1

2005年04月16日 | FILM 十十一十二月
アンテナ微弱【十の一】→→→ バッティングドームの中に、快音が鳴り響く。八十キロのエリアに入り、液晶画面に移る弱そうなキャラクターが投げるまねをし、液晶に開けられた小さな穴からボールが飛び出し、網で挟まれるボックス目掛けてやってくる球を金属バットで力任せに叩く。

 もちろん、野球経験などなくスイングは、プロ野球の延長時に、次に始まるドラマを待ちながら、なんとなく見たものを参考にする。しかしながら、良いスイングをすることが目標でもなく、これから、野球サークルに入部する予定もない。私が求めているものは、ストレスの発散と、適度な運動と、斜め上に掲げられたホームランマークを目指すことだった。私を挟んで、左側には、私と変わらない考えの優希が、子供用の短く軽いバットでスイングを続けていた。右側では、バットを持たずに、トヨのような溝を転がってくるボールを握り、大きく腕を振り被り、なぜか大リーグで投げていた佐々木投手の真似をしながら、鋭い眼差しで、並べられたパネルに向かいキックは投げ続けている。キックのホームをみて、あっ佐々木選手の真似をしている、なんて思う人は誰もいないだろうけれど、パネルを見つめる眼差しは真剣そのものなので、あえてその事に触れない。このストライクアウトを以前、私も挑戦した事があったが、そのとき半分はパネルに届かず、山形に投げて辛うじてパネルに触れる程度で、肩がきしきしと痛みだし、おもしろくもなんともなかった。ところが、キックは、山形ボールなど一度も投げずに、振り被った腕からは、まっすぐな直球がパネルに向かって突き刺さる。ちなみに、野球の経験はまったくないので、フォークのようにボールが沈むことはない。それどころか、野球を見ないキックがフォークをしっているかも疑問である。今、見る限り、何球投げたかは定かではないが、九枚中、四枚のパネルが開けられている。けれど、ひとつだけ違う点があった。それは、し切りに鼻の下辺りを気にし、手で摩っているところだ。疑問に思いながらも、そんな姿に、ただ、関心するばかりだ。

「球、勿体無いよ、無心に振るべし」

 背中越しの、優希の声とスイングの音で我に返り、躊躇なく穴から飛び出る球が、キャッチャー代わりの緑の網に受け止められていた。バットを握り直し、構えボールに集中する。ボールが当たると、ずしりと重くなり腹に力を込め前へと押し出す。低い位置にまっすぐ飛ばしたときは、特に重く、逆にホームランマークへ飛んだときは、その抵抗も少ない。テレビで、力じゃなくタイミングだと聞いた事がある。まさしく、それに近い。そして、そんなときは、溜まらず気持ちよく爽快な気分になる。
 当たりは良かったが、明らかに力がなく高くホームランマークへ目指すものの、ふらふらとしていて、それを追い抜かしていくボールが一つ通りすぎ、マークを揺らす。私の放ったフラフラボールは、山を下るように落下しメカピッチャーの上にある緑の屋根に落ち、ぼこりと音をあげ弾んでいた。
 誰かのボールが当たり、音の割れたファンファーレがドームに響き渡る。
 隣で、優希が声をあげ喜んでいる。見て見ぬ振りをし、バットを振り続けたが気が散ってしまい、網に突き刺さるボールの数は増え、当たりがないまま、液晶画面がプツンと終わりを告げた。
 後ろを振り向き網越しに、優希が喜ぶ姿を見る。ホームランを聞きつけ店員がかけより、一回無料カードを、笑顔で手渡す。

「勝ったぜ」

 優希は、ひらひらとカードを振ってみせ、にんまりと笑う。私は、負けたと気の抜けた言葉を発し、網に掴まりながらうな垂れた。このバッティングドームにはよく出入りしていて、そのたびに、私達二人は、一番遅い球のスペースに入り、ホームランを競っているのだ。

「さて、喉も渇いたことだし、ジュースをおごってもらおう」

 胸をはり、金属バットを筒の中に差しフロアを指差す。これも、恒例である。私は、はいはいと同じ返事を繰り返し、ピーピーと喧しく鳴るバッティングカードの排出口からカードをとり、フロアへと繋がるドアを開けた。
 腕を回しながら、自動販売機へ向かう。カバンの中から財布をだし、小銭を握り販売機に入れる。

「お好きなものをどうぞ」

 バスガイドのように、撓った掌を灯りがついたボタンへ向ける。優希は、一瞬迷ったが、結局スポーツ飲料のボタン押す。がたっと音がすると同時に、手を伸ばし缶を取り出し優希に手渡す。続けて小銭をいれ自分のコーラを買い、キックが、いまだに投げ続けているスペースの後ろのソファへ向かい腰を深々と下ろした。

「プロ野球選手にでも、なったつもりなのかな?」

 休む事無く投げ込み続けるキックの後ろ姿をみながら、冷たい缶を爪であけ、音が上がりチリチリと缶の中でコーラが弾ける音を聞きながら優希に投げかけた。
 優希は、笑いながら、きっとキックにしか分からないおもしろさがあそこにはあるんだよ。と返す。

「なんかお腹空いたなあ」

 コーラが、喉を流れ胃へ辿りついた途端に、空腹に襲われる。シュワシュワが胃を刺激しているに違いない。優希は、腕時計をみる。私は、それを覗き込む。六時を回ったところだった。

「何食べる?」

 優希の問いにしばらく考えを巡らす。目の前のドアが開き投げ込みを終えたキックの右足がフロアについたところだった。息をきらしたキックは、両掌でコブシをつくりぽきぽきと揉み解しながら鳴らしている。手を止めると、何かを思い出したように、ややしかめっ面へ表情が変わり、右手が鼻の下へ伸び、今度は、ちょんちょんと早いスピードでクリック擦るように指が動く。
 その指の動きを止め、座り込む二人の前に立つと、多少の汗臭を漂わせながら言う。

「スタミナが切れた。ラーメン食べに行こう!!」

 ソファーに座る二人は顔を見合わせ頷く。夕食は、ラーメンに即決である。

 自動ドアから出ると街は、夕映えの中にあり、冷たい秋の空気が、熱を発する体を冷やしていき、肌寒く思える。空腹優先で、夕日を気にすることなくゴルフに乗り込み、キックがうまいと絶賛する最近出来たラーメン屋に向かう事にする。
 国道を十三分程走り、キックが指差した先には、真っ黒な建物の屋根に赤く長細い看板がのった一際目立つ店が現れる。店先に三台止められる駐車場があり、今現在、一台も止まっていない。普段は、運がよくない限り、めったに駐車できないと十三分の間に話していたが、すべて空いている。店の外に、並べられている椅子も、夕日に照らされ、駐車場へ陰を伸ばしているだけである。嫌な予感が走る。車は、ウィンカーを出し、駐車場に入ったけれど、案の定暖簾も出ていなければ、入口のドアに赤い楷書文字で定休日と書かれている札が掛けられ揺れている。

「どうみても、休みのようだけど」

 助手席に座る優希が、札をみながら漏らす。キックは、ハンドルから右手を離しその指先を鼻の下へ持っていき、小さな円を描くように触れている。ブレーキを踏んだまま、考え事をし、指が鼻の下から離れると、無表情から少し晴れやかな表情になる。二つの表情を写真にとってテーブルの上に並べ見比べてみたら、多くの人はこっちの方が、なんだか明るい気がするというだろう、その程度の差では有るが。

「バーベキューしよう!!」

 キックは、目を輝かせ、変更、変更と口ずさみ車をバックさせ、走らせる。ゴルフのエンジン音も俄かに軽やかに思える。そんな雰囲気の中、反論の声が上がることもなく、決定となる。
 車は、一路キック家納屋へと向かう。以前洗車した空き地に車を滑り込ませ、エンジンを掛けたまま、キックは、飛び出していき、壁の向こうにある納屋からゴソゴソと物がぶつかり合う音が聞こえ、しばらくすると、バーベキューセットを抱えたキックが現れた。トランクの下におき、今度は、優希を連れて納屋へと向かう。残された私は、トランクをあけ、箱が瞑れたセットを、持ち上げ押し込める。鉄板と、いつ利用したかも不明な炭箱と薪を無理やり詰め、もしものためのカセットコンロも入れようと試みたがスペースがなく、後部座席に放りなげ、トランクを閉めた。優希が、キックに何かいうと、キックは踵を返し家へと戻り、厚手の上着を抱え車に乗り込む。
 空は、太陽が沈み、薄明へと変わっている。三十分も過ぎれば、濃紺の空から夜へとなるだろう。金星が、ちかちかと存在感をアピールしていた。

 そんな空に見向きもせず、テキパキと無駄のない行動でスーパーへ向かう。

 夕飯時とあって混雑するスーパー。カートを出しカゴを乗せ足早に進む。カット野菜、肉、ウィンナー、海老、ホタテ、さざえ、小分けされている好きなものを各々放りこむ。立ち止まる人たちをすり抜けながら進むカート。誰かが、口に出して、必要なものを呟くと、一番早く行動を移したものが、売り場へ向かいそれを取り戻ってくる。流れ作業のように必要なものを揃え、長蛇の列を作るレジへと向かい列に加わる。その時間を利用して品物を確認する。列に並ぶ人たちは、カゴを手で持ち今日の晩御飯の分程度の買い物であるようで、列は長くても次々に進んでいく。

 三人はカートをガードするように囲み立っている。私が後ろで左右にキック。何気に前を見ていると、キックの手が鼻の下を細かく摘んでいることに気づく。そういえば、バッティングドームのときもそんな仕草をしていたことを思い出す。鼻毛のチェックか、鼻水でも出てきているのだろうか。そんなことを考えているうちに会計の順番が回ってきた。

 会計を終え、キックがどこからかダンボールを持ってきて台の上に置き、そこへ詰め込む。足場やに、ダンボールを抱え戻り、後部座席に置く。ダンボールからは、食材が混ざり合った匂いが車内に立ち込めた。

「どこでやる?」

 三人が、車に乗り込みゴルフ音が響いている。優希の声に、キックの鶴の一声、四つ石に従い、迷うこともなくヘッドライトが付けられ、車は進む。

 四つ石は、海沿いの突き出た山のようなところにあり、浜辺はないが、石が乱雑した海岸で、そこに、山のように巨大な石が四つ並んでいる。昼間は、釣り客や、観光客や、バーベキューの人で溢れている。海岸から続く階段の先は、公園になっていて、おみやげ屋や、レストランもあり、そこを訪れる人は、そこへ車を停め、急でくねった階段を降りて海岸へ向かう。

 国道をひた走り、四つ石方面へ向かう。灯された街の光が、だんだんと遠く離れていく。民家は、まばらになり、時折現れるコンビニが放つ光が、車内に入り込み照らし通り過ぎていく。

「もう!!さっきから、なに鼻の下触ってるの?」

 コンビニの光が、キックの顔も浮かび上がらせたとき、偶然横を見ていた優希が問いかける。私には、見えなかったけれど、キックは、再び鼻の下を気にするように触っているのだろう。優希もその仕草に気づいていたのか、溜まらず聞いたのだろう、優希の声には、もどかしさが十分含まれていた。

「朝起きたら、鼻の下にニキビが出来てて、それがなんかめちゃくちゃ違和感あって、触ると痛いんだけど、気になってつい触っちゃう」

 キックは、珍しく困り果てた声をだし、以前右手はハンドルから離れている。

「触ると酷くなるよ、ほっとくのが一番」

 優希は、キックの右手をはらう。諦めたキックは、ハンドルへ戻す。

「でも、スーパーで顔みたとき、ニキビ全然目立たなかったよ」

 バッティングドームとスーパーの件を思い出し後ろからキックに話しかける。キックは、ちらりとバックミラーで私を見る。

「小さいけど、気分的には顔の三分の一くらい占領されている感じ」

 再び、右手が鼻の下へ向かおうとしたとき、優希が制す。
 優希は、随分大げさだなと言いながら、携帯の灯りを近づける。白く浮かび上がる横顔は若干不気味であって、一番びっくりするのは対向車だろう。優希が、顔を近づけそのニキビを見つけると、指を伸ばし、ぴんぽーんと言った。

「イタッ」

 ゴルフが、センター車線により慌ててハンドルを戻し、蛇行する。

「爪楊枝の先っちょ程度」

 助手席に座りなおす優希。

「爪楊枝って・・・」

 爪楊枝の例えが適切であるかは定かではないが、有触れたタバコ何個分とか、東京ドーム何個分とかで例えられるよりはマシである。キックは、それを笑うこともなく数ミリ口を尖らせ、続ける。

「なんか、五感が鈍るっていうか勝手が違うというかさあ、アンテナが弱いっていうか」

 五感?と私が聞き返す。

「直感が鈍るっていうかね」

 どんな直感かと聞くと、さあとしか戻ってこない。

「直感ねえ、ラーメン屋の定休日を見抜けなかったとか?」

 優希が笑いを含みながらいうと、キックは答えず、鼻を鳴らし、爪楊枝の先のようなニキビが痛かったのか顔を顰めた。爪楊枝の先っちょ程度のニキビに惑わされているキックが可笑しくて、欲をいえば、チャイムを押したくてたまらなかった。


thank you
つづく・・・

九月の出来事 3

2005年04月13日 | FILM 七八九月
玉露と豆腐【九の三】→→→ コンビニの駐車場に三台車を並べ、そのうち一台は、ルーフの上に長い板が、窓から出されたビニール紐で括られ、アスファルトに置かれた巨大ちょんまげにも見え、違和感を放っている。前を通る客は、自然と視線を向けていく。そんなことを気に留めるはずもなく、冷蔵棚に並べられる色とりどりのケーキを物色していた。三人の意見は、中々纏まらずにいると、そこへ、見知らぬ腕が棚へ伸び私が持つカゴにケーキを入れられ、重くなり強く握り直す。
 ペアルック中村が一人で立っている。
 三人とも、コントのように仰け反り驚き目を丸くする。丸くした目を、元のサイズへ戻すと同時に優希が、胸の支えを取るように、あの男性が誰なのか問い詰める。

「憶えてない?」
「思えだせないから聞いてるの!!このままじゃ窒息しそう」

 中村は、笑いカゴへ棚に並べられている豆腐を入れる。

「あのときの、警察官」
「お花見?」

 キックの問いに、中村は照れながら頷き、続ける。

「偶然会って、なんとなくね、うん」

 なんとなくを、もっと詳しく聞きたい気もしたが、最後に頷かれ、話は強引に幕が引かれる。中村は、勝手に手を振り、レジへ向かい男性が待つ車へ戻っていく。
 それを、ウインドウ越しに見届けると、優希とキックは、納得したように、声をあげ首を大きく上から下へ何度も動かす。私だけが、頷くことが出来ずに取り残される。その後優希が、補足する。男性は、四月のお花見と五月の鈴木の鮭と田川のバーベキューセットで、ちゃんちゃ焼きが出来上がる直前にやってきた警察官だった。
 世の中は、偶然だらけで、中には、こんなうれしい偶然もあるのだと、ポテトチップスをとりながら関心していた。


 車を置き、優希の部屋に入るなり、調子の悪くなった自転車の鍵を取り替えにいく事になった。靴を履いたまま、すでに数字四桁は、ダイヤルにセットされているらしく、そのまま閉めればよい状態になっている。新品の鍵を受け取る。

「前の鍵の番号は何?」
「誕生日四桁」
「月、日?」
「そうそう」

 部屋をでて、廊下を歩き外の自転車置場へ向かう。数台の自転車が並べられ、青いGIANTのMTBが一番端に置かれている。屈み込み、タイヤに付けられた錆びた鍵に手を伸ばす。ダイヤルに何かが絡まっているかのように、回りづらく指の先が擦れる。力を入れると、回りすぎてまた一回りしてしまい、何回か失敗して、誕生日の〇九二四に合わせる事が出来た。金具を、引っ張ってみても、がっちりと固まったままで数ミリも動こうとしない。何度引っ張っても変わらず、一番右側の数字だけ動かし、もう一度セットし直す。状況は、変わらず、自転車の横で屈んだまま、古い鍵を見つめながら考え首を捻る。


 四角い豆腐が、頭の中に浮かび、水の中で話すような篭った声が響く。

「とーふよ」

 その言葉を自然と声に出す。声にだしたその音が、耳の中から入り、頭の中へ再び戻っていく。よりはっきりとした言葉が、一つの光景を、浮かび上がらす。
いつだったかは、思い出せない、みたらし団子を食べていたとき、お茶を啜りながらの会話だった。私が、他人の誕生日が憶えづらいと、漏らしたとき、優希は、こんな言葉を返した。語呂合わせで憶えてしまえばよいと。自分の場合は、とーふよ、と何気に教えながら、みたらし団子を頬張りお茶を啜った。
記憶は、確かに、とーふよと言っている、つまりそれを変換すると、一〇二四。〇九二四ではない。

 新たに、ゼロからイチへとダイヤルを変え、引っ張ってみると、鍵が小さく、カチっと音上げた。タイヤから、外し地面に置き、新品の鍵を取り付ける。
 苦し紛れの見えすぎた嘘を付きやがって。一瞬でも騙されるほうも問題がある気もしないではないが、所詮、友達なんてそんなものなんだろうなとも思い、折角の語呂合わせですら、覚えられなかった自分自身と、それを見透かされことが、可笑しかった。古い鍵を指先でくるくる回しながら、部屋へと向かった。

 一ヶ月早い誕生日祝いを、あまり聞いた事も見たことも参加したこともないけれど、そんなものは、気持ちの持ちようで、来月の二十四日を祝う気持ちがあれば、それは誕生日祝いに値するに違いない。けれど、私自身の気持ちとしては、そんなまだ先の誕生日を祝おうなんて気は、一瞬にして消え、目の前に置かれたケーキは、ただのデザートになっている。けれど、考えてみれば今まで誰が誕生日だろうとお祝いをするなんてことに慣れてなく、いまこうやってコンビニのケーキがただあるだけで、見知らぬ人がみたら誕生日祝いをしているのだと判らないだろう。だから、言い訳がましいが、誕生日を憶えるということも欠落していたのだ。実際、会は始まっているが、相応しい会話は一つもなくすべていつもと変わらないのである。

 パックから、皿に移されたケーキに、緑茶と紅茶が並べられ、各々カップに入れた。話は、今日起きた偶然について急速に傾いていく。

「玉露さんが運ぶ、お茶のトラックもすごい偶然だよ」

 ココアが振掛けられた三角のチョコレートケーキの角にフォークを入れる。ふわりと弾力があり弾かれるようにスポンジが切れる。

「偶然かあ、中村はいいなあ、あんな偶然いいなあ、それとも、赤い糸ってやつかな」

 優希は、羨ましそうにいいながら、茶色いモンブランを一口頬張る。優希は、いつも黄色いモンブランよりもやや豪華な茶色いモンブランを選ぶ。

「玉露さんも、運命ってやつだったのかも」

 紅茶を啜り、再びチョコレートケーキにフォークを入れる。口の中は、ほろ苦く甘いチョコレートが広がっている。キックは、半分飲み干した紅茶の入ったカップの中に、私が淹れた緑茶の急須を持ち傾ける。

「玉露と紅茶が出会った~」

 味覚を疑う行動と、嬉しそうなキックの言葉に見ぬ振りをしたが気にする素振りもなく一番シンプルなショートケーキをパクパクと口に運び、ズルズルっとカップを啜り満足げに頷く。ちなみに、イチゴを一番に食べ、なぜか、真ん中からフォークを入れている。

「出会いかあ、なら、偶然の積み重ねは、必然の一歩手前のようなものなのかも、中村と警官がそうだったように」

 優希は、モンブランを食べ進め頂に到着するとき、フォークでマロングラッセを皿の上に落とした。転がったマロンを食べることなく、クリームをたっぷり乗せたスポンジを一口食べ、そのまま、フォークを持ったまま動きを止める。

「そっかー、やっぱり玉露さんは、偶然あのトラックを運転したわけじゃなくて、その前に偶然の出会いがあって、あのトラックを運転することになったのかもしれない」

 どこまで言っても変化のないチョコレートケーキを半分を食べ終えたとき、大きなスポンジの欠片がぽろりとチョコクリームと共に、皿の上に落ちた。それをフォークで掬い、口へ運ぶ。

「そういえば、中村、冷奴買ってたなあ、二人で食べるのかな、くっそお、ホームセンターの時なんか、接着剤でくっ付いているみたいに、熱々だったしさあ」

 ため息が漏れると突然動き出した優希の腕は、フォークが音をたて上品なモンブランに突き刺さり、スピードをあげ口の中へ吸い込まれていく。

「しまった、接着剤買うの忘れた。ああああ、豆腐も忘れた、くう~嫌なこと思い出してしまった」

 楽しむ事無くチョコレートケーキを食べ終えたとき、豆腐と接着剤を買い忘れた事を思い出し、今日の数ある偶然のひとつは、豆腐のおかげで起きたということをうっかり置き去りにしていた。

「豆腐。うわあ、思い出した、そうだ豆腐だよ」

 キックは、半分に切断さえたショートケーキを、片方ずつ二口で、口にいれ飲み込むと、稀にみる高い声を上げ、優希へ向かい興奮しながら豆腐と連呼した。おそらく、一〇二四に気づいたに違いない。優希は、はにかみながら、最後のマロンを口に入れた。

 生活に張り巡らされた線が重なりあい偶然というスイッチが点灯したとき、それは始まる。もしくは、見えないゴムのようなものが、重なる事無く知らぬうちに、伸び縮みを繰り返すものかも知れない。三人の引き合わせは、どちらかというと、後者に近い気もする。もしそうなら、それは、本当に偶然なのだろうか。偶然と必然の境界線が判らなくなっていた。

 放り出されている携帯が、光を放ちブルブルと触れている。ディスプレイには、自宅からだと知らせていた。


thank you
終わり・・・

九月の出来事 2

2005年04月09日 | FILM 七八九月
玉露と豆腐【九の二】→→→ 安穏を取り戻した車内で、助手席に置かれた携帯電話が、ブルブルと妙な動きをしている。ちらりと着信を確認し、バックミラーへ視線を移しウィンカーを出し歩道に並べられている赤と青の自動販売機の前へ車を寄せ、ウィンカーからハザードへと変える。

 振るえる携帯の液晶には、自宅の表示が出ている。通話マークを押し耳へあてると、母が一方的に話し始める。まず、仕事が終わったどうかを聞き、それを確認すると用件を告げた。ホームセンター横の豆腐屋で豆腐を一丁買ってくるようにとだけ言うと、ツーツーと電話は切れた。私は、帰宅ルートからやや、南へ外れ行き付けのホームセンター駐車場へと向かう。いつも、そこへ停め豆腐屋へ行っていた。

 街で三番目に大きいホームセンターの駐車場は、三番手に相応しい駐車場面積であり、さほど広くもなく、多くのスペースが埋められている。白いバンと、赤いアルトの間が空いているのを見つけ滑り込ませエンジンを切る。陽が暮れ、肌寒く七分袖から腕を摩りながら外を歩く、ガラス越しの照明が、駐車場まで光を伸ばしていた。このまま、豆腐屋へ向かうのも気がひけたので、一週間前に招き猫の腕がぽきりと掛けてしまい、それをくっ付けるために接着剤を買ってこようと考えていたが、まだ実行に移していなかったので、ついでに購入しようと、入口へ向かった。

 安売りのティッシュペイパーを抱えた主婦や、作業服姿の男性など、様々な客層が、各々目的の場所で物色をしている。接着剤は文房具だろうかと考え、店内の天井から吊るされているブルーの看板を見上げる。大雑把な項目が書かれその場所を示す。

 文房具売り場へ行ってみたが、どこを見ても見当たらない。接着剤は、文房具ではない
らしい。仕方なく、工具などがあるフロアへ向かう。棚に並べられた品を見ながら優柔不断に歩く。中央通路を歩き隣の通路に移ろうとしたとき、目の前に材木板が縦通路から中央通路へはみ出している。棚になりそうな平らな木目がはっきりしたもの。横に避け自然と材木の持ち主に目を向ける。
 脇に背丈よりも長い材木を抱え、目の前に並ぶビスへ手を伸ばすキックがいた。気配で顔を横に向けたキックは、間抜け顔で目を丸くする。

「キック!!」

 数十分前の私の救世主であるキックが、邪魔な長い材木を抱え突っ立っている。私は、キックに歩み寄り感謝を素直に述べ、バシバシと肩を叩く。その度に、長く邪魔な材木が団扇のように振られ、その空気の流れが、棚に並ぶ小分けされたビス袋を揺らす。
 勢いは収まらず、なぜあんな事態に陥ったかを人目も憚らず語ろうとしたとき、迷惑気味な弱ったキックの視線が、私を通り越していき、あっと声を漏らした。
 あっけなく話の腰を折られ、嫌々後ろを振り向くと、広告に載っていた三段収納ケースを抱えた優希が、中央通路の先に立ち、斜めに抱えた収納ケースから、顔を覗かしている。
 自分の眉間に力強く跡が残る程、皺が寄っている事に気づく。現れた小悪魔に、沈静化されつつあった怒りが、再び燃え上がり始める。おそらく、私の体からは只ならぬ気配が、漂っていただろう。そんな事を悟ったのかは知らないが、優希は慎重に一歩一歩進み、中央通路を渡る直前に、足を止め抱えている収納ボックスを床に置いた。
 優希の表情は、いつもになく引き攣り、無理やり笑いを作り、ヘラヘラと消えそうな声を漏らし、睨む私の視線を俯き加減に見事に逸らした。

「誕生日なんだよね、あ・・・あたし、24日さ」

 完成前のパズルのような自己申告に、深い眉間の皺を戻すことすら忘れ、この言葉をどう返すべきか混乱する。表面は怒りを彷彿させているのだけれど、頭の隅では、そうか誕生日だったのか忘れていたなと、やや反省をしている自分もいて、情緒不安定な表情へ変わっていったに違いない。
 キックの顔を見ると、やや首を傾け考え事をしているようにみえ、ぼそっと豆腐と呟いた。小さすぎて、聞き取りづらく聞き返すと、本人もどうしてそんな言葉を呟いたのか困惑し、さらに首を傾けた。誕生日から真っ白な四角い豆腐が頭の中に浮かび、私まで、その豆腐が胸につかえた。置き去りにされていた優希へ振り向くと、じっと動きを見守っている。

「おめでとう」

 二人は豆腐を浮かべたまま、挨拶でもするように、そんな言葉が口から漏れていた。
 その後の優希は、こんな日に会うなんて、偶然だねえと陽気に話しながら、収納ケースを抱え中央通路から、私達が立つ通路へやってきた。色々なものが、喉に引っかかり何がなんだか判らなくなる頃には、それらがどうでもよくなり、腹立たしさも消えていた。

 一番大きなカートを、ガラガラと押しながら、二人が抱えたものを乗せ、優希の自転車の鍵を求め、通路を移動していく。
 優希は、並ぶ鍵をみながら、どれがいいかなと言い、私とキックが答えると、答えたものでないものを手に取り、カゴに入れる。始から、聞かなければよいのにと思いながら、レジへと私がカートを押す。先頭を歩く優希が、突然足を止め、カートが背中にぶつかるように止まる。体が、前のめりになり、肋骨に食い込み痛みで、声が漏れた。後ろから来たキックが、ビスをカートに入れ、立ち止まる優希の横を通り過ぎようとしたとき、優希の腕がキックの腕を掴み引き寄せた。丁度、棚に挟まれた通路から、レジのフロアへ出ようとしているときで、優希は、キックに判るようにどこかを指差し、棚に隠れるように一歩下がり、カートも押し戻される。私は、カートから離れ、肋の辺りを摩りながら、優希の横へ行き棚の先へと顔を出す。

「手前のレジに並んでいるの、中村だよ」

 フロアへ体が出ないように背中を押さえられながら、優希が耳元で囁く。タンクトップの上にシャツを羽織、ジーンズにサンダル姿の普段着中村が、緑のカゴを提げ、レジを待つ列に並んでいる。

「誰だ?あの横にくっ付いている人」

 中村のとなりに寄り添うように立つ男性がいた。私の問いに二人は答えず考えている。体格は、がっちりし、背は低くもなく高くもない、髪はやや乱雑で、中村同様普段着である。悲しいことに、上着はサイズ違いのチェックの同型に見える。そして、男性は、右手にトイレットペイパーを持っていた。生活臭が、二人の空気を作り上げている。

「どっかでみたことあるような・・・ないような・・・いや、あるような・・・」

 優希のもどかしい言葉の連続で、頭の中を覗いて探してあげたい衝動にかられる。唸りをあげると、優希に続きキックまで似たような事を言い出す始末。私には、まったく心辺りもなく、奥歯に物が挟まった状態が続く。

「二人とも、良く見なよ!!」

 煮え切らない二人に耐えかね、思わず声を張り上げる。三人は、棚から顔を出した状態で、振り向いた中村の視線と合わせるという事態へ陥った。中村の表情は、男性に向けた笑顔から、険しい顔へ変わり、首を棚方向右へ振った。会話が途切れことに不振に思ったのか、入口の方を見ながら話していた男性が、中村の顔へ視線を移動しようとしたとき、それを察した中村は、再び表情を緩め、私達三人へ目じりを下げた瞳の奥から、鋭い眼差しを送り、男性にレジが進んだ事を教えられると、カゴをレジへ置いた。

「これって、お前ら引っ込んでやがれ、ってことかな?」

 私の知らない中村の行動に、驚きながらも、偶然現れたこの光景を楽しみ、言葉は、弾んでいる。
 三人は、不自然な体勢で顔を交互に見合わせ、表情は緩み、呼吸と共に笑いがこぼれていく。中村が、なぜあんな行動を取ったのかは、定かではないが、見られてはいけない関係だったのか、それとも、時代遅れのペアルックを茶化されたくなかったのか、もしくは、一番確率が高いのは、この三人が側にくる事を嫌がったのかもしれない。
 中村が、出入口から出ていき、三人がレジを済ませても、優希とキックは、あの男性が誰だったのか思い出すことが出来なかった。二人が、知っていて、私が知らない人物。そんな駄菓子のくじのような確率に等しく、当たりを見つけることなど出来るはずもない。



thank you
つづく・・・

九月の出来事 1

2005年04月06日 | FILM 七八九月
玉露と豆腐 【九の一】→→→  午前十時、課長に来客があり、ステンレスの棚に挟まれただけの応接ブースで世間話を続けている。二人にお茶を出し机に戻ると、窓の外へ視線を移した。トンボが、通り過ぎていく。空は、夏の空から、秋の空へと移り始めていた。入道雲は、どこにも見当たらず、気まぐれな千切れ雲が、思うまま風に流されていく。そんな事をぼんやり考え、ブースから漏れる声に耳を傾けながら数字が羅列するパソコン画面に視線を戻し、整理していく。冷めたコーヒーを、一口含み、提出用の資料へ手を伸ばし立ち上がる。眠たそうにしている立花の後ろを通り過ぎ、窓沿いのコピー機へと向かう。資料を、コピーに挟みスタートボタンを押す。機械音が鳴り、仕事を始めると、目の前を飛び交うトンボへ再び視線を移し、そのまま地上を見下ろした。ビルを挟み、県道が一本走っている。歩道を、パラパラと通り過ぎていく。

 一台の白い軽バンが、減速し歩道へ車をよせ、ハザードを点滅させ停車した。もちろん、駐車禁止だけれど、多くの人は、警察の目を気にしながら、一時の仕事のために、路駐していく。その軽バンも例外ではなく、車のドアには、紺色の字で、文房具店の名と、電話番号が入っている。見慣れた車だった。
 運転席のドアが開き、使い古され色あせた緑色のエプロンを掛けたキックが、伝票を持ち車から降りる。道路を通り過ぎる車の行き来を確認すると、車後方に回りこみ、後部ドアをあげ、ダンボールの上に伝票を挟み、両手で抱え、ガードレールを跨ぎ、目の前のビルに入っていった。視線をそのままにしておくと、階段を駆け下りてくるキックが、すぐに現れる。ガードレールを勢いよく跳び越え、跳ね上がったドアを閉め、走り抜ける車を見過ごして、小走りで運転席に乗り込んだ。席で何か作業をし、体が前屈みになり、手動の窓が下ろされていく。ウィンカーが、チカチカと点滅し、サイドミラーを覗かずに、自ら後ろを振り向いたとき、キックの視線が、向かいビルを見上げた。
 私は、咄嗟に、右手を上げると、キックは、狂いなく口角を釣り上げ、絵に描いたような微笑みを、私の脳裏に残し、県道の彼方へ消えていった。あの不吉な普段見せない笑顔は、もしかすると営業用スマイルかもしれない。とっくに吐き出され冷え切った用紙を取り、机へ戻り作業を続ける。


 昼休み、弁当を買いに外へ出る。行き付けの弁当屋ランランチで、ランランチ特製日替わりランチ弁当を買い右手にビニール袋をぶる提げ、電信柱の横にある自動販売機の前で止まり、小銭をいれクールマークのお茶を押した。がしゃりと音をたてて缶が落ち、手を伸ばす。冷えた缶に指先が触れたとき、感触に物足りなさを感じた。予感は的中し、しかめっ面のまま、冷えきっていない缶を握り歩き始める。数メートル先、歩道沿いにお茶マークが描かれたトラックが停められている。運転手は、いくつかのダンボールを歩道の上で広げ、クリーニング店の横に並ぶ自動販売機に缶を補充している。私は、自らがかった自販機のメーカーを確認すると、その運転手が補充している自販機と同種のものだった。どうりで、冷えていないはずだ。八つ当たりもいいところだが、やや運転手へ言い掛かり的な視線を送り続けた。手にした缶を、片手お手玉のように、ぽんぽんと宙へ浮かす。運転手は、明らかに目を逸らし作業に没頭している。後ろを通りすぎたとき、一台の青いボックスカーにクラクションを鳴らしていった。周りを歩く人々が、一斉に音の出元を探す。私は、ふいに出されたクラクションに肩を竦め、立ち止まり通り過ぎていく青い車の後ろ姿を目で追う。この車にも見覚えがあり、優希が勤める移動図書館の車だ。それに、優希が乗っていたのだろう。
 右手は缶があったという感触だけ残し、缶は手元から地面に落下し、二、三回跳ね、お茶のマークが歪んだ。ため息を吐き屈み缶へ手を伸ばす。
 温く、へこんだお茶缶を、拾うと突然、後ろめたくなり振り向くこともせずに、そのまま足早に歩き出した。
 それにしても、今日は偶然が重なる日だ。


 定時どおりに会社を出て、ひとつ取引先に資料を届けそのまま直帰することになった。普段通ることのない道を、混雑時に通るのは、予想以上にストレスが溜まる。
 近道を知らずに、ひたすら国道に連なる車の一つになっている。街の主要道路であるせいか上下線共に混雑が止まない。歩道も、駅とオフィス街を行き交う人々で途切れる事無く歩き、信号が変われば横断歩道は、瞬く間に埋め尽くされ、点滅しても迷惑を省みず走りぬける人がいる。

 先頭で信号待ちをし、青へと変わると左折してきた大型トラックが、前を走ることになった。箱の後ろには、デカデカと最近CMでも見かけるお茶のマークがプリントされたものが張られ一際目立っていた。そういえば、今日の昼にみたトラックと同じメーカーだと気づく。あれが、小なら、前を走るのは特大だ。後方扉の下のほうに、運転手のネームプレートが付けられている。名前は、露玉良と書かれている。珍しい名前だと読み方を考える。ツユタマリョウだろうか。それ以外に読み方が思いつかない。
 瑞々しい広告を見の前にし、思わずカップホルダーに置かれたお茶缶へと手を伸ばす。同じメーカーの、その缶のレイアウトに目が釘付けになった。

「はっ!!よいぎょくろ・・・」

 これは、気の利いたギャグだろうか。まさか、偽名なんてことはないだろう。偶然か必然か、このお茶を運ぶのに、もっとも適任な名前の持ち主ではないか。取引先も、一度聞いたら忘れないだろう。どんな人物があのトラックのハンドルを握っているのだろうかと、好奇心が湧き上がる。

 十字交差点。四方に信号待ちをする人だかり。露玉良さんが運転するトラックとはここで別れなければならない、右折するためウインカーを出す。信号が赤へ変わっていたことに気づいたのは、突然加速したトラックが隠していた信号が視野に飛び込んだ時だった。反射的にブレーキを踏んだけれど、車の先は、交差点にほんの少し進入し、車体は、横断歩道の白線の上に止まり左折を知らせるウィンカーがチカチカと点滅を繰り返す。
 バックしようと、ギアを入れるが虚しく響いたのは、歩道の横断を知らせる故郷の空だった。
 流れるに逆らう石のように、車の前後をあからさまに不満を貼り付けた人々が通りぬけ、前を通るサラリーマンが運転席を睨みつけ、口元を動かしながらフロント部分を叩きつけ渡っていく。よいぎょくろムードは一変し、嫌な喉の渇きがお茶を欲しがったが、顔を上げることは出来ず、ハンドルを強く握り俯き続けるほかなかった。ちらりと顔を上げると、横断歩道を渡る人々の流れは、パラパラとなり、左右へ横切る車線を流れる車が通り過ぎていく。その中に、向かって左側から私がいる反対車線に侵入しようとする右折の車が、交差点真ん中までやってきて、横断歩道が空くのを待っている。その車の運転手を頭の中で認識したとき、噴出す汗が、体を凍らせる。

 運転手は、横断歩道から出る車を指差し、口元で三文字を何度も口ずさむ。それは、すぐにどんな言葉を表しているのかわかった。

「で・て・る」

 これを繰り返しクツクツと笑っている。怒りなんてものは、込上げてこない。湧き出るのは、冷たい汗と悲しく恥ずかしく切ない気持ちだ。

「仕方ないじゃん、仕方ないじゃん、玉露が、玉露が・・・」

 手から噴出す汗を握り締め、右折待ちの優希に志離滅裂な言い訳を伝える。窓越しの訴えは、笑い続ける優希に伝わっている様子はなく、横断を知らせていた故郷の空から終了を知らせる二音の繰り返しになり、優希の車は、右折し、反対車線に侵入し私の横を通り過ぎていった。遠ざかっていく優希の車をサイドミラーで追っていた。
 クラクションが、鳴り響く。信号は、青に変わっている。アクセルを踏むが、数メートル先でブレーキランプが付く、この車は、相変わらず、右折ウインカーが出されている。後続車の落胆が聞こえてきそうだ。追い抜くほどの、車線の広さはなく私が右折しない限り、後続車は、進む事ができない。
 潤み始めた眼差しで、対向車線の通り過ぎる車へ救いのたけを送り続け、止まらない車の間に無理やり先端を捻じ込もうとしたが、けたたましくクラクションを鳴らされてしまった。

「バカバカ、優希のバカ」

 今頃になり、優希を罵る。後続車が、待ちきれずクラクションを鳴らす。なんだろう。この理不尽さは、ここは、右折が禁止されているわけでもなく、しかも、迷惑をかけたのは、横断歩道の人々であって、後続車はなんら関係がないはずなのに、なぜにこんな事が、絶対絶命そんな言葉が、汗と共に、額にぺたりと張り付いた。

「ぽわ~ん」

 気の抜けた、天使のおならのような救いの音が響き渡る。ワイパーが新品のゴルフが止まり、ライトをチカチカと明滅する。

「キックウ~」

 涙を堪え弱弱しい声を絞り出す。正面反対車線にいるキックのハンドルから離れた指先が、右折方向へワイパーのように動く。私は、ぐしゃりと乱れたた顔に満面の笑みを浮かばせキックへ送りアクセルを踏んだ。キックの表情は、なぜか固まった。私は、バックミラーにいつまでも、走り去ったゴルフを愛しく描き続ける。

 高鳴る心臓が、平常心を取り戻したとき、ホルダーに置かれたままのお茶をとり、喉の渇きを潤すために、ぐいとすべて飲み干し、ぐにゃりと缶を握り潰した。


thank you
つづく・・・

八月の出来事 4

2005年04月02日 | FILM 七八九月
折れたワイパー【八の四】→→→ 「はあ、はあ、はあ・・・」

 三人の息が、弾み続ける。ぎらつく太陽の下、車一台分の道路は、眩しく輝く緑に挟まれ、所々罅割れたアスファルトからは、草がスクスクと成長を続けている。数メートル先のアスファルトは、上昇する熱の中で歪んでいる。その匂いを吸い込みながら三人は、ガソリンメーターの針が振り切れたゴルフを、押し続けていた。手は痺れ、足の膝は笑い、滴る大粒の汗。真夏の太陽は、予想を超えて体力を奪い続けていく。
 ゴルフの尻を、押し続けていると、突然、重くなる。顔を上げると、助手席側を押す優希が肩で息をし立ち尽くし、手を目の上に翳し太陽を見上げている。
 重さに耐えかね、私とキックは、同時に手を離すと、ゴルフはピタリと止まった。

「まったく、あの太陽、ねに持っているんじゃないの。ジリジリと嫌がらせしているのかも、のりがあんな事言うから。太陽は、月と違って、手厳しいんだよ」

 相変わらず、呼吸は乱れ、真っ赤な顔をした優希が、八つ当たりに近い言葉を、私へ投げる。そんな言葉を言われたままにしておくのも悔しかったが、からからの口内は、開かれ、出来るだけ生暖かい空気を肺へ送る事が先決だった。キックは、シートへ手を伸ばしサイドブレーキを引く。
 熱を帯びるボディから、手を離し車道の木陰を指差す。

「ちょっと、休もう」

 水分不足の擦れた声を絞り出す。昨日買ったペットボトルを持ち、影を落とす場所へと向かう。エネルギー不足な上、照りつける太陽のおかげで、目眩が襲う。木々の間を見つけては、草の上へ座り込んだ。アスファルトの温度に比べれば、土の上は、オアシスと言っても過言ではない。地面は、ひんやりと冷たく、日差しを遮り葉の筋が浮かび上がる緑の天井の効果で、気温も幾分下がっているように感じる。三人は、その中で、半分も余っていないそれぞれのペットボトルを一気に流し込んだ。
 立ちはだかるこの現実に、うんともすんとも言えぬ三人は、ひたすら呼吸を整えることに専念する。風が吹き抜ける度に、背の高い木々の葉や生茂る草が、かさかさと音をあげ揺れる。鳥のさえずりが、どこからともなく森の中から聞こえてくる。顎から滴り落ちた汗の粒が、緑の細長い草の上に、ぽつりと落ちた。
 時間がどれだけ進んだのか見当もつかず、閉じた瞼の先に光を感じていると、となりに座っているはずの優希の辺りから、草を踏みしめる音がする、カサカサと必然的に木の葉が擦れ合い、バキッと枝がへし折られた。そして、パサッバサッと数回それは風を切り、緩やかな風が目の前を通り過ぎていく。優希は、何をやっているのだろうと考えながらも、目をあけ確認するまでもいかず、遠ざかる足音を聞き流していた。ゴルフに何かを取りにいったのだろう。しばらくすると、足音が近づき、また、草の上に座る気配を感じた。止まない苦しさに、後悔が浮かび上がっては消えていく。

 なんでこんな事になったんだ、他に方法があるんじゃないか?


 一日の中で、見渡すものが、もっとも白に近づく頃、私は、冷たい石の上で身震いしながら目を覚ました。夜が、消える瞬間だったのかもしれない。音が、聞こえない世界に、足を踏み入れたようだった。体を摩りながら起き上がり膝を抱え、首を振り見える限り視界を確認する。どこを見渡しても近くにあるのは、森で遠くには山が連なっている。闇を照らし続けた月は、見当たらず、白々と森は、東の空が赤く色を変え始めると共に、ゆっくりと緑へと戻されていく。
 東の空が、光を放ち始める。山肌は、目を細めなければ、見ることが出来ない。強さを増し続ける光の中に、目眩がするほどの強烈な太陽が頭を出す。すべての世界が、一瞬で色を変え、長い影を伸ばす。その光の中に、入ったとき、冷えた腕が、陽の温かさを感じた。頭を出した太陽は、止まる事無く力強く昇り続ける。直視出来ない光が、突き刺すように放たれ、無理やり見ようとすると、こめかみがズキズキと痛んだ。視線を移せば、残像は消える事無く焼きつき、視界を多い尽くす。立ち上がり、太陽を正面に、思いっきり息を吸い込んだ。

「こらあ!!太陽!!眩しいだよ!!適度ってもんをしれ!!目が、ちかちかするだろ!!聞いてるのかあああああ!!」

 体をくの字曲げ、絞りだした全身全霊の叫びに、キックは、声をあげ体は跳ね上がり危うく石から落ちかけた。そして、強烈な太陽の光に、目を細めながら、私の顔を不思議そうに見上げている。
 一つ残らず吐き出した息。もう一度、大きく吸い込む。

「太陽!!ここは、いったい、どこなんだああああああ!!」

 全貌を現した太陽は、真っ赤な空をバックに昇り続ける。返答のない太陽を前に、力んだ体を緩め、浅い呼吸を繰り返した。

「帰ろうか?ここがどこか判らないけど、とりあえず、バックで進んでみますか」

 石にいる二人は、同時に声の出された方へ体を向ける。ゴルフの助手席のシートの上にのり、ヘッドレスに凭れ眩しさに目を細めている、いつもと変わらない優希の声。


 草を押し潰している二本のタイヤ痕。それを頼りに、ゴルフはルーフが開かれたままゆっくりと下っていく。
 窮地に陥った猪突猛進型の人間の力は凄まじいもので、その後処理をするということは、非常に困難な作業だった。太陽は、ぐんぐんと昇り続け、共に気温も上昇していく。四時間かけ、ゴルフのタイヤが、アスファルトを踏みつける事に成功した。行き止まりのアスファルトの道路の端に、錆びた看板が刺さっていて、そこには、行き止まりの文字と、山へと向かう林道を指す矢印の下に、Uターンと大きく書かれ、その上に赤く太いバツ印が、べったりと描かれていた。この行き止まった、石が無数に転がるアスファルトから、見過ごしてしまいそうなほどの林道へわざわざ侵入したことが不思議で仕方なかった。
 ゴルフが、進行方向へ頭を向けたとき、エンジン音が、急速に静かになっていき、細かな振動へと変わり、ぷすりと、頼りない音が上がる。ゴルフは、ぱたりと動きを止めた。

「ガス欠かな?」

 ハンドルを握る頼りないキックの声、前屈みにメーターを覗き込む。その姿を見ていたら、冷たい汗が、首筋から背中を滑り落ちた。
 何度エンジンを掛けても、息を吹き返さないゴルフ。こんなところに、他車が来るとは思えず、すぐ近くに街があるとも思えない。再び苦境に立たされたようだ。
 森を横切るように、まっすぐと伸びる古びた道路。この状況から、一歩抜け出すために取らなければならに行動は、おそらく一つだろう。あれこれ悩んでいるのは、迷っているわけでもなく、その行動を取ったとき、間違いなく苦しいはずで、それを考えると踏み切れずにいるだけなのだ。
 三人は、偶然顔を見合わせる。ため息が漏れた。
 言葉にすることは出来ず、立ち上がりドアを開けずに、跨ぎ外へ足をつける。後ろに回りこみ、二人も降り押す体勢に入る。力を入れるが、ゴルフは前へ進まない。前の二人は、澄ました顔で、力を込める、それにつられ両腕に力を注いでみるが、動かず、息を吐き出した。

「あたしはさあ、こうやってゴルフを押している瞬間でも、他の方法があるんじゃないかって後悔しているんだけど、二人は、そんな事とか考えたりしない?」

 二人は、顔を見合わせ表情が緩み、含み笑いをしながら、私の顔を見遣る。場違いな言葉でも言っただろうか。

「さあね、そこはノーコメントで」

 キックが、首を捻りながらさっぱり答え、優希が続く。

「いやあ、考えもしなかったなあ、私は、どちらかというと、超越な類だからなあ」

 今にも、笑いを噴出しそうな表情をしているにも関わらず、バレバレの優等生顔を装い言い放つ優希に、私は、馬鹿にしたように、ハイハイと挑発交じりに返す。クツクツと笑い始めたキックを睨み、車のボディを、コツコツと叩く。二人は、体勢を整え力を入れる。同時にボディへ力を突き出す。タイヤが、アスファルトと擦れる音がし、ゆっくりと前へ進み始める。この焼きつくアスファルトの上を、二コブラクダが、通り過ぎても不自然ではないほど、灼熱の世界が真直ぐと伸びていた。


「はあ、はあ、はあ・・・」

 休憩を終え、呼吸が整っていたのは、つかの間で、事態は休憩前よりも悪化していた。考える余力など失せ、一心不乱で押し続ける。
 一歩進めば進む程、徐々に重くなっていく。俯きながら押し続け頭を上げると、いつのまにか緩やかな坂に入っていた。どうりで、足元を歩いていたカナブンが、ゴルフを追い越していくはずだ。

「さかあ?もう嫌だあ」

 声が裏返り、泣きを入れるが、手を離すわけにもいかず、力を入れ続ける。大きく息を吸い込むことすら出来ず、荒く息切れを繰り返す。熱を上げるアスファルトの上に、ボタボタと落ちる汗の痕が、滲んではすぐに消えていく。ひたすら押すのみ。いつしか、視線を落としていたアスファルトが時々白く霞むようになる。限界が近い。意識も、途切れ気味になる。

「ちょっとお!!どうやったらそんな格好ができるわけえ!!」

 消えそうな意識が、キックの擦れた怒鳴り声に引き戻される。私は、どんな格好をしているのだろうか。これといって、特別な事はしていないように思えるが。うな垂れている頭を上げると、優希が、ドアで鉄棒でもするように、腕を張り掴まっていた。私が怒られたのではないようだ。それにしても、優希は、なぜ、こんな事をしているのだろうか。もしかすると、休憩をしているのだろうか。汗玉を撒き散らすキックは、この休憩を怒っているわけでもないようだ。なぜだ?と、蜃気楼のようにぼやけた頭の中で、巡らせる。疲れた二本の腕で、体重を支え休むなんて業がよく成し遂げられるなと不自然さを感じ、そうでない事にふと気づいた。きっと、優希の体重を支えているのは、以前、私が蹴り上げた窪みに違いない。それを、見抜いたキックは、声を上げたのだ。

 手の感覚がなくなったのかと錯覚してしまうほどすうっと重力がすり抜けた。ゴルフは坂を上りつめ下りにさしかかろうとしている。
 ゴルフは頭を下へ向けると徐々に加速し始めた。優希は姿勢を変えず行く先を眺めている。キックは持ち前の運動神経のよさで、アスファルトを蹴り、横っ飛びでドアを飛び越え運転席に納まった。

 ゴルフ後部は、すでに私の手元から三十五センチ離れている。腕を伸ばしても、空を切るだけ、諦め、ボルトが緩んだ鉄骨のように、関節はがくがくと揺れ力があちこちに飛び散り、体はふにゃふにゃと軟体動物のようになり、それでも必死で地面を蹴り上げる。後ろから、飛び乗ることは、不可能、ならば、サイドドア後部座席から、飛び乗ろうとゴルフの横へ飛び出る。そのまま、全身の力を振り絞り、ゴルフの横を並走することを試みる。さほど、スピードに乗れていないゴルフのドアが、手を伸ばせば届く位置にある。手を伸ばす、爪の先がボディに掠れる。息が漏れ、力が抜けまた差が開く。
 穴に体重をかけていた優希は、ドアを跨ぎすんなりと助手席に座る。キックが、ハンドルを握りながら、振り返る。
 足が、絡まりそうで限界に達していた。息の根が止まりそうなほど、心臓は激しく動き、目からは、汗交じりの涙も飛び散っていたかもしれない。

「跳べ!!」

 キックの視線が、私の藁をも掴みたい揺れる視線を捕らえたとき、叫んだ。アスファルトを、蹴り放し、体から伸ばした腕がドアを捉え、手のひらが窓枠を握り、体を引き寄せる。勢いが、後押しし上半身が、ゴルフの中へ入り込んだとき、体はまだ浮いていた。一秒後には、後部座席に体がバウンドし、前の座席に弾かれ、後部座席の足元へ打ちつけられた。足元のゴムくさい匂いを認識するまでは、いったい何があったのか理解不能に陥り、体があちこち痛みを感じ始め、五感というものが、本来の活動を始めた頃、今の私の居場所を理解する。
 狭いスペースから、体を起こしベタリと張り付いた前髪を払い、立ち上がる。酷く息が乱れている。

「こ・・・こ・・・ころ・・・殺す気かあああああああ!!」

 恐怖と怒りでわなわなと震えた唇。車を停めてさえくれれば、こんな危険を冒すこともなかった。二人は、気を使う素振りも、一ミリもみせずに、大口をあけて、ガハガハと涙を溜めながら笑い続けている。

 ゴルフは、カナブンを追い越しスピードをあげ、蜃気楼で歪む道路を突き抜け、走り続ける。もし、老人が乗った軽トラが横を走っていたら、間違いなくあっというまに追い抜かれていくだろう。

「簡単に死んでたまるか」

 笑いと怒りの中に、優希の言葉が混じる。照りつける太陽は、ジリジリと焼き尽くす。熱風が、通り抜ける。こんなときでも、空腹知らすアラームが、情けない音を上げる。浴びるほど、冷たいビールを飲みたいし、骨付きカルビを、炭焼きで腹が膨れるほど食べたい。プールの中で、のんびりと浮いていたいし、強いシャワーを頭から浴びて泡まみれになりたい、クーラーの効いた部屋で布団の上でぐっすりと眠りたい。巡り続ける想像の中に、優希の言葉が入り込む、私は、深く頷いた。

 坂を下り続け、勢いが途切れたとき、気まぐれなガソリンメーターは、いつの間にか中央を示し、試しにエンジンをかけてみると威勢のよい、やる気満々な音が振い、何事もなく動きだした。こんなことは、よくある事であるのだけれど、さすがに今日は、肩が地面に付くほど落胆し、駄々をこねたい気分だった。
そんなとき、フロントガラスのボディとの境に木の枝が張り付いていることに気づく。

「あれ、山から下りてきたとき、入り込んじゃったのかな?」

 キックに、フロント部分を指差しながら、知らせると、今初めて気づいたらしく見続けている。車を停めることを躊躇い、このまま進もうと決めたとき、優希が、ハンドル横へ手を伸ばす。カチっと音がした。

「バサア~、バサア~、バサア~・・・」

 フロントガラスを、定期的に擦る二本の青葉がついた枝。よく見ると、折れたワイパーのプラスチック部分に、どこから持ってきたのか針金で、ワイパーぐらいの背丈の枝を括り付けてある。随分と、視界を妨げるワイパーだ。
 あまりの、可笑しさに絶句する。いつの間にこんな事をやったのだろう。しだいに涙が出るほど、力なく笑い続ける。
 ギラギラと、光を降り注ぐ太陽が、今日の主役であり続けることに、初めて感謝した。



thank you
終わり・・・

八月の出来事 3

2005年03月30日 | FILM 七八九月
折れたワイパー【八の三】→→→  光を放つステージ、客席を浮かび上がらす。力が漲る会場を背に、蹲った優希を立ち上がらせ出口を後にした。会場の外は、スタッフが数人いるだけで、閑散としている。伝わり響く歓声と大音量の音楽が遠ざかるたびに、私達を一層暗い闇の中へ落としていく。狭いと感じていた歩道も、今では広く転々とある街灯がその道筋を照らしている。会話を交わすこともなく、ひっそりとした息遣いが繰り返されていた。まっすぐ伸びる歩道の表面を追いながら進んでいく。

 死ぬこと、生きることの確率。私の一年後の確率はどうだろう。百パーセントといえるだろうか、明日にでも、事故に遭い命を落とすかもしれない、それなら、百パーセントなんていえないのだから、九十九パーセントくらいとしておこうか。生きていれば、誰でも突発的な事故や事件に巻き込まれて、一瞬で命を落としてしまう可能性がある。だから、一秒先であっても、生きている確率は百パーセントとは言い切れない。所詮、私が考えるこの確率は、こんなものなのだ。明白でも、真実味もなく只の想像に過ぎない。だから、一秒先を怖いとも思わない。生き続ける事が当たり前だと思い込んでいる。
 けれど、この確率を背負い生活をする人が確かにいる。たとえ、何パーセントだろうが、背負ってしまった時点で、生きる難しさに苦しむ人がいるのだ。

 私は、そんなことを何一つ理解していなかった。今でも、理解していないかもしれない、けれど、今までは、そのことすら気づこうとせず、勘違いを繰り返していた。
 結局、そんな私が、優希にしてあげられる事など何一つないのだ。病院の駐車場から、馬鹿みたいに生きようなんて言ってみたけれど、そもそも、そんな事を言える筋合いでもなく、ただ、優希を苦しめただけだったに違いない。病室から見下ろしていた優希の隠れた表情は、歪んでいただろう。私の事を罵りたかったかもしれない。


 後部座席に荷物を投げ入れ、車に乗り込む。昼の熱気が、幾分残っているのか、車内は蒸し暑い。キックがキーを捻ると、ゴルフはぶるんと振るえ細かな振動を続ける。ステレオから、この会場で歌っているバンドのCDが流れ、キックは、停止ボタンへ手を伸ばす。ステレオの音が消える。幾つかのランプが消えるのを確認し、ヘッドライトが、停められている車を照らし、サイドブレーキが上げられ、アクセルが踏まれた。

 真直ぐに伸びる両側二車線の国道は、多くの交差点があり、何度も信号に捕まる。その度に、ゴルフは止まり青に変わるのをじっと待つ。国道沿いに立ち並ぶ飲食店のネオンが光を放つ。ガラス越しに明るい店内で食事をする家族連れや、カップル、さまざまな人々で賑わっている。突然、焼肉の匂いが車内に入り込む。キックが、窓を開けている。窓淵に腕を乗せ、信号を見つめていた。表情に、動揺は残ってなく無表情に戻っている。焼肉混じりの僅かな風が、前髪を揺らす。
 響くクラクション。後ろから聞こえた。続けて響くクラクション。
 信号を見つめていたキックは、慌ててアクセルを踏み、バックミラーをちらりと見て、ハザードランプを二回点滅させる。信号は、青に変わっていて、となり車線の車は、とっくに信号を背にしていた。後ろにいた車は、ゴルフが走り出すと、となり車線に出るなり追い越していく。
 車内の空気は、ずっしりと重くどんなに窓をあけ換気したところで変わるはずもなく、漂い続けている。これから、どうなるのだろう。後部座席で、ぱちんと消えてしまいたかった。


 車が小刻みに揺れる。ルーフをバサバサと何かが擦れる。いつのまにか、目を閉じていた。張り付く瞼を開けずに、この振動と音が、いったい何なのか考える。下からも様々な音が響く。小刻みだった揺れは、音が大きくなると共に、大揺れへと変わる。溜まらず、瞼をこじ開けると、目の前のルーフは、波を打っている。ゴルフの底が擦れると、シートがバウンドし、体が浮き上がる。

「うわっ」

 戸惑いと驚きの声が漏れる。体がシートにうまい具合に座らせる事が出来ないまま、窓の外へ揺れる視線を移す。ヘッドライトの光が、右往左往し定まらない。けれど、その光に映るものは、間違いなくオフロードのコースそのもので、無造作に転がった石と、脇にある生い茂る木々。道であろう、いや道であってほしい道幅は、極めて狭い。勝手に踊る二本の足に、シートから飛び上がる荷物が、シートの下へと次々に落ちる。押さえ切れない体が、ラグビーボールのように定まらず、体を捻り後部座席のシートにしがみ付く。

「キ・・・キキキックウ」

 ヘッドレスに頭をぶつけ、舌を噛みそうになりながら、シートから振り落とされそうになるのを必死で堪える。ゴルフは、何度も激しく跳ね上がる。その度に、全身に力を入れる。停まる気配を一向に見せない。前の座席に背を向けているので、二人がどんなことになっているのかはわからない。ただ、優希の声が、時々、漏れている。それは、呻き声に近いものばかりだ。このままでは、このおんぼろゴルフが、バラバラになってしまうのではないかと心配になる。タイヤが取れ、ルーフがさけ、ドアがぼろりと落ち、エンジンが火を吹くかもしれない。
 視界に入る景色には、光一つない。頭は揺さぶられ続け、何かを考えようとしても、答えを出すことが出来ない。テールランプの赤い光に僅かに舞い上がる砂埃を照らす。その中に突然現れる二つの光。その光に視線が釘付けになる。頭が揺れているせいか、定まらず残像が泳ぐ。動いたように見えた。地面を這うように近づいてくる。ランプの明かりに浮き上がる埃の中から、突き出た鼻。光るつぶらな目。小さな耳。牙が二本。短い足が、地面を蹴り上げる。

「イノシシっ!!」

 叫びとほぼ同時にゴルフが、うねりを上げる。エンジンの回転数が一揆に上がり、タイヤが鳴る。驚いたイノシシは、前のめりに巨体が浮き、一回転し、砂埃の中へ消える。速度を上げたゴルフは、踏み切り台を蹴り上げるように、一度沈み込み大きく浮き上がり、地面に落ちる。意識が、飛ぶほど激しく揺れる。焦げ臭い匂いが、車内に充満する。何かが擦れたのか、それとも、車が燃えているのかどちらかだろう。それでも、ゴルフは停まらない。ブレーキが壊れているのだろうか。キックが壊れているのだろうか。非現実的なこの状況は、リアルな夢かもしれない。ついさっきの重い空気の車内で、ふいに目が覚めるのだ。けれど、これが本当に夢なら、私はこれから先、夢と現実の世界の区別が出来ずに苦労するに違いない。

 突然、進行方向へ体が引き寄せられそうになる。離れそうな体を、必死で座席にしがみ付き耐える。砂の上をタイヤが滑り、音を上げる。引き寄せる力が薄れ、顔が、ヘッドレスに、再び当たる。揺れが収まり、エンジン音だけが、ブスブスと声をあげ、シュンと消える。ゴルフが、停まった。エンジンを切っても、ゴルフは興奮が収まらないのか、どこからか音を上げる。ヘッドライトの光が消える。ドアが閉まる振動が車体に伝わる。運転席側だろうか。いつの間にか降りたキックが、ドアを閉めたのだろう。後部座席に力なくうな垂れたまま動けずにいた。全身の力が抜けると、喉を何かが遡ってくることに気づき、外へ出ようとドアへ手を伸ばすが、三回空を切った。ようやく、手にし、ドアをあけ外へ出ようと足を地面に付けたとき、ぐらりと体が揺れ、そのまま、外へ崩れ落ちる。ひんやりとしたざらついた地面。手をついた掌に食い込む石。痛みを感じたが、揺れる体と頭、そして、込上げる吐き気。這いずりながら数歩前へ進み、二回吐いた。けれど、胃には、何も残っていなかったのか、口の中に胃液の味が広がるだけ。吐いても、地面はぐにゃりと曲がり、立つことは出来ずに、その場でうずくまる。呼吸を整えようと、唾を飲み込むが、一層気分を悪くする。

「つきい!!聞いているのかあ!!ここはどこだあ!!あたしたちは、どこにいる!!みているんだろう!!おしえろ!!つき!!道がないぞ!!」

 歪んだ顔を上げる。大きい満月が、闇の中で、ゆらゆらと揺れていた。満月の光の中に、月と話すキックのシルエット。揺れ続ける世界の中には、随分と変わった人がいるんだなあと遠めで眺める。キックに罵られ続ける月は、周りに街灯があるのではないかと勘違いするほど、明るく辺りを照らす。月の灯りは、柔らかく包み込むように光を落としていた。車は、草に覆われた狭い広場の中央にあり四分の三は、高い草と森で囲まれ、四分の一は、背丈半分程の平べったい石が、見晴台のように畳み二畳ほどの広さで、月の光に、反射している。そこだけ、木はなく開かれ、遠くの山が見渡せる。背後の森の隙間を、光が通り影を落としている。満月の夜とはいえ、こんなに明るいものなのだろうか。

「なんか、答えろ!!無視かよ!!明るいからって、調子に乗るなよ!!こらあ!!」

 喧嘩の仲裁に入る事はせずに、胡坐をかいて、どっかりとデコボコの座り心地の悪い地面に腰を落ち着ける。世界の歪みが正常に戻り始めた頃、肩を揺らし、息を切らすキック。私は、生まれて初めて、調子に乗っている月を見た。確かに、この明るさは、今までに見たことがなく、夜の闇は、どこかに消えていた。カチッと音がすると、ゴルフのルーフが開かれていく。車内にいる優希が、運転席側に乗り出し、ルーフを上げているようだ。すべてたたまれると、優希は、助手席のシートを倒し車内に隠れた。その時、掌がすくっと現れ月へ伸びた。キックは、何も言わない月に完敗し、石の上に座り、仰向けに寝転ぶ。キックの息遣いが、聞こえた。
 耳元に、羽の音が絡まる。手で払いのけるが、離れたかと思うと、再びやってくる。小刻みに振るえ続ける羽音は、間違いなく、通常の蚊よりも激しく羽ばたく。ピタリと止まったか思うと、腕に黒い粒。思い切り、ぴしゃりと叩く、赤くなる腕から、飛び立つ薮蚊。
 立ち眩みを乗り切り、大きく息を吸い込み吐き出す。空を見上げれば、月の光に押されぎみな星が、瞬いている。耳を澄ましても、自然以外の音は、聞こえず、もちろん、光も見当たらない。社会から追放された気分だ。追放というよりも、逃亡の方がより近い。しかしながら、ここで暮すわけにいかないので、帰らなければならない。そのとき、元の世界に戻れるのだろうかと不安になる。迷ったときは、来た道を戻れというけれど、果たしてそれは可能な事なのだろうか。今、考えてもマイナス思考の連続なので、忘れよう。それよりも、今、一番大事なのは、酷い揺れで荷物が散乱した車内から、虫除けスプレーを探し出す事だった。

「あった、あった虫除けスプレー」

 座席の下に、転がっているスプレー缶に手を伸ばし、脇が攣りそうになりながらも、手繰り寄せ、手にし独り言を言う。

「優希、スプレーするよ」

 倒したシートの上に寝ている優希へ声をかけ、服の上からほぼ全身にスプレーする。表情は、腕を乗せていて見えない。車から降り、キックの元へ向かう。キックは、月の灯りを全身で受けながら、石の上で仰向けに寝そべり、スウスウと寝息をたてている。いつの間にか、寝てしまったようだ。声を掛けずに、スプレーを吹きかけた。誤って顔に掛けてしまい、キックの顔が歪んだけれど、すぐに、寝息を立て始め安心し、キックの横に座ってみる。スプレーに書かれた注意事項を読もうとしたが、読み取れず諦め、缶を置くと、石の上に影が伸びた。

 真ん丸な大きな月は、一回り小さくなり、高いところへ移っている。満月の夜は、血の気が荒くなると言われている。事故や事件も普段よりも多いと聞いたことがある。今日の出来事は、この満月の影響もあったのだろうか。見上げた満月は、そんな素振りはみせず、闇の中に迷い込んだ三人を、そっと、照らし続けてくれている。今、私達は、間違いなくそんな月のパワーに、ほっとさせられているのは確かだった。


thank you
つづく・・・

八月の出来事 2

2005年03月26日 | FILM 七八九月
折れたワイパー【八の二】→→→  連なる人の流れが、平たく広がる席へ散らばり埋めていく。ステージは横一杯まで続き、巨大なジャングルジムのように鉄パイプが組上げられ、多くの照明が吊るされ、両サイドには、黒い壁、高くスピーカーが積まれている。中央には、楽器や機材が置かれ、Tシャツ姿にスタッフパスを首から下げた長髪の男性が、ギターを掛けテストをしている。横目にチケットに書かれた番号と同じ席へ向かう。

「まあまあ、の席だね」

 優希の言葉に賛同する。ステージからやや離れぎみであったけれど、ほぼ中央で無理なくステージを見渡せる。背の高いぬり壁のような人させこなければ十分楽しめるだろう。

「スピーカーの前じゃなくてよかった」

 二人は、スピーカーの前に座る人々を見ながら頷く。何年か前のライブで、見事にスピーカーの目の前になってしまい、始まる前までは、一番前で喜んでいたが、一曲終わるたびに目眩がするほど耳鳴りを起こし、ステージ半分は、機材の影になり見えず、おまけにドラムソロで見事に心臓が口からとびでそうになってしまったことがある。酷い振動に慣れるまで、何度生唾を飲み込んだことか。すっぱい思い出である。
 席に座り、他愛もない会話をし、始まりを待つ。スタッフは、準備を整えステージから消える。スモークがどこからともなくたかれステージから流れ出る。空は、太陽を隠したとはいえまだ、明るく夏の暑さを残している。けれど、オレンジ色の空は、狭くなり濃紺の空が広がりつつある。夜へと向かっていく。

 会場への注意が、アナウスされる。

 優希は、買ったばかりのうちわでパタパタと顔を仰いでいる。私は、その横で水滴がまだつくペットボトルを取り、キャップを捻る。カチリと最後の接合部分が音をあげると、優希の視線がそのボトルを捕らえ、少し頂戴と言葉を載せながら、横から手をだす。優希の気休めなうちわの風が私へ向けられると、思わず、ボトルを渡してしまった。グビグビと喉を鳴らして呑み続ける優希。あらかじめ、少しの範囲を、ボトルで確認しておくべきだったと後悔する。的を得ないうちわの風を時々受けながら、ボトルが戻る事を待つ。
 私のペットボトルを傾け、良い飲みっぷりを披露する優希の姿を見ていたキック。

「ビール飲んでこようかな?大じゃなければ大丈夫でしょ?」
「ビールかあ」

 席には、持ち込み禁止であるが、客席後ろには、出店が並びその中で、ビールも売られている。たしかに、この夏の夜の始まりにビールの一杯でも引っ掛けておきたい。二人で、顔を合わせ頷こうとしたとき、ペットボトルにキャップを絞めている優希が、飲んでいる間に始まったりしてと、口出し固まりそうな決意にヒビを入れる。

 その時、会場にSEが大音量で流れる。歓声が上がる。興奮を抑えられない客は、席から立ち上がりステージを食い入るように見つめる。スモークは、一層たかれ、そこへ照明が、一斉に踊り始める。軽快なSEが、余韻を残すことなくピタリと止まる。その一瞬の静粛が、ここにいるものの心をくすぐる。ビールへの思いは、跡形もなく消え、たまらず、立ち上がる。SEとは違う激しい音が、爆発するように打ち鳴らされた。スモークの中から、スティックを翳すドラマーが現れ、胸の奥を揺らすような音を打ち鳴らし、ギター、ベースの音が加わる。壁のように積み上げられたスピーカーが震える。
 会場後方から、真直ぐに伸びる二本のピンスポが、ステージを照らす。待ち構えたように、ボーカルが現れ、スポットと共に走り出し、ステージ前ぎりぎりまで進み、客席へ乗り出し煽り立てる。
 会場のエンジンが掛かった時、エレキギターが、聞き覚えのあるラインを刻む。それまでの歓声を掻き消す歓声が上がる。去年ドラマの主題歌にもなった、力強いハイテンポな曲から始まった。ボーカルがセンターに戻り、大きく息を吸い込みマイクへ魂を吹き込める。そして、馬鹿でかいスピーカーから放たれた。
 会場は、時間すら飲み込み興奮し叫びを上げた。

 湧き上がる歓声の連続。ボーカルに息遣いですら客を酔わせる。全身で、歌い続けるボーカルは、生きる証を吐き出していく。空を駆け上がるようなギター、止まる事無くリズムを刻むベース、鼓動を熱く打ち鳴らすドラム。
 ボーカルは、ステージを駆け回り息を切らす、マイクを客席へ突き出す。声を張り上げ歌う客。暗闇の夜に、一際光を放つこの場所が、この闇の中心にさえ思えてくる。
 響き渡る音楽に、体を貫かれ支配される。体の真ん中から、噴出す力を吐き出したい欲望にかられ、押さえきれずステージへ解き放つ。人々は、同調しひとつになる。
 荒れ狂う照明。湧き上がる力に地面が揺れる。降り続くどしゃぶりの雨の中、気にする事無く空を煽り、全身で降り止むことのない、激しく刻み続けるリズムを感じているような気分だった。


「えっ?聞こえない」

 自分の声すら、張り上げなければ聞こえない中、優希の口元だけが動いている。優希の口元に耳を寄せる。

「トイレっ!!行って来る!!」

 何度目かでようやく聞き取れ、こんなときトイレに行きたくなるなんて気の毒だと優希の肩を叩いた。座席に置かれた空のペットボトル。私は一口も飲まないうちに空けられていた。自業自得というやつだろう。優希は、飛び跳ねる観客の間をぬって通路へ向かっていく。視線をステージへ戻し鳴り響く大音響に夢中になる。

 ボーカルが、一休みにドリンクを飲みMCに入ったとき、優希が戻っていないことに気づく。

「優希、遅いなあ」

 となりにいたキックは、今まで優希がトイレに行った事すら気づかずにいた。私は、携帯を取り出し、優希の番号を押す。耳鳴りが酷く、ベルの音がうまく聞き取れず、耳に押し付ける。となりの空席に、優希のバックが置かれている事に気づき、そのかばんの中で青い光が漏れている。携帯を切り、カバンの中を覗くと優希の携帯が、まだ明滅を繰り返していた。

「ちょっと、見てくる、迷子かも」

 迷子になったとは考えもしなかった。けれど、こんな言葉が、咄嗟に出てしまったのは、湧き出る不安を掻き消したかったからだ。ステージの照明が、会場を浮かびあがらせるほど、明るく光、ボーカルの叫びと共に、ドラムが轟き、ギターが響き渡る。ステージに振り向いたキックの肩を、引き戻し顔を近づける。

「荷物っ!!見てて!!」

 キックは、大きく頷く。私は、後半が始まり一気に沸騰し始めた人々に煙たがられながら通路に出る。そして、駆け出していた。

 連なるトイレには、数人の出入りしかなくそこに優希がいるとは思えない。けれど、赤マークが出ているトイレの前で優希の名を呼ぶ。すべてのトイレから、返事はない。辺りを見回す、ステージから一番離れた後ろの席は、指定席ではなくフリーで座れるようになっている。時々、放たれる強い光が、届くたびに観客の顔を確認する。優希の服装は、どんなものだっただろうか。うまく思い出せない。どんな色だったか。トイレに行くと告げたとき、どんな表情をしていただろうか。何度考えても、頭の中が混乱するばかりで、一致せず焦るばかり。とにかく、立ち止まっては見渡し、また、走り出すの繰り返し。

 観客席からさらに奥、多くのコンテナや機材が置かれた場所。光はほとんど届かず、闇に包まれた場所。ステージで一番強い光が出ない限り、浮かび上がらない場所。そこに、不自然なシルエットが薄っすらと浮かんでいた。ギターソロ。髪を振り乱し、一心不乱にかき鳴らしている。ドラムが加わり、腹の底が、ドクドクと持ち上がる。心臓の鼓動は、それに負けないほど、激しく打ち鳴る。
 シルエットに、一歩も近づく事ができない。足が釘で打たれたように動かない。爆発する大音響。地面が揺れる。ステージに備えられた筒の中から、照明に届きそうなほどの花火が吹き上がる。会場が白く光、浮かび上がる。目の前にあるシルエットから、影が伸びる。そして、フラッシュが焚かれたように、明確に浮かび上がらせた。
 一瞬であったけれど、目の前にある事を理解する。歓喜が巻き上がり、会場が震える。込上げる思いをかみ殺す。

 地面にへたり込み、体が震え、何度もしゃくりあげ、肩が上がり、両手で押さえつける涙は、ぼたぼたと流れ落ち続ける。咽返り、口を開けたまま、引き攣り声を漏らす優希。
 全身の力が抜けそうになり、立っていることが苦痛だった。すぐ横で、人の気配を感じ振りむくとキックが立ち尽くしている。照明が届き、キックの横顔を照らしたとき、その頬を伝うものが見えた。汗なのか、涙なのかはわからない。キックの足が、踏み出したとき、その腕を掴む。

「荷物、荷物を持ってきて」

 キックは、厳しい顔を貼り付けたまま、言われるままに席へと駆け出す。

 曲が終わり落とされた照明。誰もが息を切らしているだろう。耳鳴りが、体に残した余韻ともに響き続ける。吹き抜ける夏の夜の風が会場を冷やしていく。風向きが、変わったのか、汗臭い匂いが鼻を掠める。息遣いが整ったのを、計っていたかのように、先ほどと違う、物静かな淡く青い照明が、ステージへ落ちる。
 ステージ中央に置かれたマイクスタンドの前に、ボーカルが立ち、俯き音を待つ。アコギの弦を弾く音が、流れだす。聞き覚えのあるメロディライン。やさしく話しかけるように歌うボーカル。会場が、それに答えるように小さな歓声を上げる。サビへと近づくたびに、やさしさに力強さが加わる。サビに入るとき、すべての音が重なり合う。切ないけど、温かくて、力強くて、たとえば、何か嫌な事があったら、ちょっとだけパワーをくれそうな曲。この場に及んで鳥肌が全身に走り、心が震えていた。あの日、キックの家のとなりの空き地で洗車した日、ラジオから流れてきた新曲だった。

 こんなとき、ドラマなら抱きしめて一緒に泣いてあげたりするのかもしれない。こんな風に泣き崩れる優希の姿を、見たのは初めてだったけれど、優希は、今までも、一人で泣き続けてきたに違いない。今だけではないだろう。彼氏でも、家族でもない私が、抱きしめて、共に泣いたところで、なんの役にもたたないに違いない。

 今、この場所は、優希にとって苦しくて息が詰まる場所に過ぎないだろう。
 一歩ずつ、優希の元へ近づいていく。

「帰ろう」

 優希の隣に、しゃがみ込む。嗚咽は、止まらず、両手は、ガタガタと震え、立ち上がる事も困難なのではないかと心配するほど、危なっかしくて、脆くて、温かさが感じ取れなかった。触れれば、溶けてなくなってしまうのではないだろうかとさえ思った。

 いつも晴れていた空。見上げていた空は、いつもきれいなブルーだった。けれど、本当は、その周りは、どこまでも薄暗い雲に覆われていて、いつも見上げていた青空は、偶々雲が割れて、偶然ぽっかり穴が開き、そこから青空を覗せていただけだったのだ。そんな事には気づこうともせず、天気予報でいえば、晴れなんていえるものでない、曇りや雨だったにも関わらず、見上げた空を信じ続け、そのたびにこんな風に思って、安心を手にしていたのだ。

 今日も晴れだ、良かった。



thank you
つづく・・・

八月の出来事 1

2005年03月23日 | FILM 七八九月
折れたワイパー【八の一】→→→  目が眩むような暑さが連日続き、寝苦しさに耐えかね、クーラーを付けっぱなしで寝てしまう日が多く、朝起きると、異常に体が重く、悪循環を繰り返す。
 食欲は落ち、あっという間に溶けてしまうソフトクリームを避け、カキ氷を食べる事が増えていた。これでは、何のパワーにも変わらず、気休めにでも、クリームカキ氷を注文したりする。
 天気予報は、見るまでもなく連日、高気圧に覆われ晴れマークばかり。天気予報というよりも、気温予報へ変わっていた。雨雲はいったいどこへ消えてしまったのだろうか。

 信号待ち。連なる商店の軒先に、青と赤のカキ氷の旗がゆらゆらと誘っている。息苦しくなり、息を吐き出すとなぜか、ガラスが曇る。外気より車内が暑いということだろうか。背中とシートが、じわりと湿る。恨めしく見ていた旗から、冷風口に目を移す。

「あっちい!!なにっ!!クーラー壊れてるの?」

 助手席と運転席のシートに手をかけ、前のめりに体を起こす。冷風口からは、たしかに風が出ているが、それは、外気と変わらないむっとしたものしか出ていない。溜まらず、声を裏返しながら叫ぶ。

「クーラーつけたら、車のパワーが落ちるから消しているんだよ、停まるよりマシでしょ」
「どれだけ、パワーが必要なのさ、もう、サウナじゃないんだから」
「慣れれば大丈夫、夏なんだから暑いのは当たり前だよ。夏の野外ライブが、凍えるような寒さだったら悲しいでしょ?」

 慣れるではなく、諦めるという事のような気がする。なぜか比べられる野外ライブには納得出来ないが、今、向かっている野外ライブが凍えるほど寒かったなら、間違いなく、暑くなれと天に、跪いているだろう。けれど、クーラーがあるなら、やはり付けてほしいし、もちろん車が停まってしまうのは困るので、半分ずつというのはどうだろう。質問に答えず、うな垂れる。

「仕方ない窓をあけるか」

 優希が、助手席の窓をあけ、キックもつられる。暑苦しい風が流れ込んだ。風の音で、会話は所々吹き飛ばされる。私は、ぶつぶつと文句を並べていたが、二人には、聞こえていないらしい。優希が、髪を靡かせ左手で押さえながら、振り向く。

「まあ、夏なんだし」

 宥められる私であるが、いつから、優希は、夏が好きになったのだろうか。たしか、優希が好む季節は、夏の前の春でなかったか。ちなみに、キックは、もちろん夏好きである。すれ違う車は、すべてと言ってよいほど、窓は閉められ整った髪形で涼しげな表情をし、中には、明らかにファーストフードで買ったホットコーヒー片手にハンドルを握っている輩もいる。これには、腹が立つ。それを持つ手が、膝の上に溢すことをそっと祈る。この車だけが、エンジンや風や声を張り上げ進んでいる。おんぼろゴルフは、エアコン効果なのか、どんどんスピードを上げていく。


 遠くに見えていた積乱雲が、進むほど近づいていることに気づく。激しい上昇気流があるのか、白く霞んだ青空は、グレーの低い雲に覆われ始める。フロントガラスに、ポツポツと雨粒が弾け、次第に間隔は短くなり粒も大きく激しさを増す。雲が光、稲妻が走り、数秒遅れて空気が振動し音を上げる。
 ほぼ、密閉された車内は、唸るような暑さになっていた。

「通り雨だよね」

 激しさを増す雨は、誰が見てもそう思えた。二人は、頷き汗を流している。ゆっくりだったワイパーが、動きを早めた。どうせなら、車を冷やすほど、降れと心の中で毒つく。

「ねぇワイパー吹き飛ばない?」

 口数少なく、ワイパーを見つめていた優希。

「はあ!!雨に負けるわけがないだろ!!」

 逆鱗に触れてしまった感のある優希は、気にすることなくワイバーに釘付けである。
 キックは、いつも以上に無口になり車内は雨音と、ワイパーの擦れる音だけが聞こえる。自然と、早い動きをしているワイパーに目を向ける。よく見ると、大粒の雨に押され気味のように見える。そして、しなってはいけない方向へしなっている。
 ワイパーの話が続けられることはなかったけれど、三人の頭にはまだ残っていただろう。なぜなら、優希はもちろんのこと私ですらそれからずっとワイパーに釘付けであったしキックも心なしか気にしているように見えた。激しさを増し続ける雨。アスファルトは川のようになり、路肩の排水溝へ波になり流れ込む。反対車線を通る車が上げる飛沫が、フロントガラスに覆い被さる。あまりの、豪雨に、背筋に冷たい汗がスルッと流れ落ちた。

 そして事故は起こった。

 前を走る車は、速度が遅く、見る見るうちに近づいてくる、荷台に書かれた工務店の文字。その上はブルーシートで山積みになった何かを覆っていて、雨風に煽られバタバタと端が捲り上がっている。荷台に弾かれた大粒の雨が風圧に飛ばされゴルフのフロントガラス目掛け次々に飛んでくる。只でさえ雨量が多いにも関わらず、それが増え分、ワイパーは一定のスピードを保つことが出来ずに、電池の切れそうな時計の針のように不自然な動きと音をあげ始める。不安が益々膨らんだとき、運良くトンネルへ入り、ワイパーは軽快な動きを取り戻す。弾き飛ぶ雨。それもつかの間、トンネルを抜けると事態は再び悪化する。突然の横風がトラックを煽り横にぶれ山積みの荷物が横ズレを起こす。包んでいたブルーシートの中へ空気が入り込み膨れあがるとそこから、何かが飛び出した。

「あっ」

 優希が声を漏らす。キックの肩が少し上がる。私は、両シートの肩を握る。物体は、ゴムで引き寄せられたかのように、フロントガラス目指してやって来る。咄嗟に目を瞑る。
 優希の悲鳴、フロントガラスにびちゃりと何かがぶち当たる。恐る恐る目を開けると、フロントガラス中央に開いた雑誌がまるでコピーでも取る様にぴたりと張り付いていた。
 熱愛発覚。五十二歳差。妻子持ちの俳優と、お笑い新人タレントの交際を報じている。走り続けるフロントガラスにて。スクープとも書かれている。
 二本のワイパーは、雑誌を挟みながら、仕事をしようと努力はしていたものの、不吉な音をさせ弓のようにしなっている。
 キックの気が気でない寂しい声がひっそりと漏れ、その心配は、現実のものへと変わり、スクープを振り払おうとしたワイパーは、ボキッと折れ、吹き飛んだ。根元だけが残ったワイパーは、今までで一番軽快に動き続ける。
 キックが、路上駐車出来るスペースを見つけ、車を滑り込ませたときには、雨は、小雨になり遠く東の空から青空が現れ初めていた。
 ゴルフを停め、点滅するハザードランプ。ようやくワイパーを止め、フロントガラスに張り付いた、マンションの前で、ふいを突かれた俳優の表情と、真正面にレンズを見据えたタレントの写真が、滲みながらずるりと滑り落ちた。

 キックは、外へ出て雑誌に手を伸ばしひょいと取り、車内の優希に放り投げ、ふやけた雑誌は優希の手に受けとめられ、足元へ落ちた。キックは、ドアに手を添えながら後ろを振り向く。ワイパーの破片を探しているのかもしれない。けれど、見つかるはずもなく、舌打ちをし、車に乗り込み、シートベルトを締めた。一言も話さず、真っ直ぐ進行方向を見据え、ハンドルを握る。

「雨、治まってきたね」

 控えめに声を上げてみたが、髪が濡れたキックの反応はなく、優希の方へ視線を送る。優希は、窓の外を眺めているように見えたが、サイドミラーに移る横顔は、口元が緩み、間違いなく笑いを堪えている。私は、助手席のシートの裏を足で蹴った。
 しばらくすると、雨はあがり、雲が取り残され、その上には青空が広がった。再び、窓をあける。
 雨上がりの冷えた空気は、雨の匂いを十分含み薄ら笑いを浮かべてしまうほど、心地よかった。太陽は刻々と傾き始めている。


 夕立の後、色濃い西日が、すべてのものをオレンジ色に染め尽くし、その光は眩しく、夕立の僅かに残った雫をキラキラと輝かせている。
 人の波。同じ目的を持った人たちが、見渡せないほど広い駐車場脇の会場へまっすぐと伸びるアスファルトの歩道を進む。アスファルトは、雨になど濡れなかったのではと思うほど乾き熱を放っている。Tシャツ姿で、タオルを首から下げ、人の行くまま進んでいる男や、はしゃぎ、声を張り上げ会話する女達、背広姿で、おしゃれをした彼女と共に歩く彼氏。それぞれが、会場へと向かっていく。駐車場を跨ぎ、橋が架かりそこへ差し掛かる。

「わあ」

 優希の感嘆する声。優希自身、声を上げたことに気づいていないだろう。橋の上は西の空が一望でき、その景色を前に、自然と人の波に弾かれ橋の欄干へ追いやられる。

「綺麗」

 キックは、答えぬまま西の空を正面にまっすぐ見つめ、優希は、欄干を両手で握り寄りかかるように頷き、私は、進んでいた足元を残したまま、上体だけ捻り顔を向けている。
 目の前に広がっていたのは、オレンジ色の空に忘れ去れた千切れ雲が光り、太陽は、山肌の輪郭を浮かび上がらせている。眩しいほどの強すぎる光、けれど、それは、昼間のような容赦ない光ではなく、胸の奥にこの色を焼き付けるようなものだった。
 三人の後ろを、どれだけの人たちが通り過ぎていっただろうか。その人たちは、三人が立ち止まっていたことを気づいただろうか。私達は、飛行機雲もない、虹も掛かっていない、絶景でもない空をなぜか眺めていた。いや、このオレンジ色があまりにも綺麗で、骨抜きにされていたのかもしれない。もしくは、昔のカメラのように焼付ける時間が必要だったのか。


thank you
つづく・・・

七月の出来事 2

2005年03月19日 | FILM 七八九月
青空の下で【七の二】→→→  壁一つ隔てた向こう側は、間違いなくキックの店舗兼自宅であるが、塀をわざわざ乗り越えこちら側に来る人間が不思議に思えてならなかった。優希は、エンジンを切り、外の暑さを忘れたように躊躇いなく車から降りる。ドアは開かれたままで、車内は、あっという夏の空気に入れ替えられる。

「何しているの?」

 優希の呆れた声。キックは、返答することもなく、ブロックの上で屈み、後ろ向きになり両足を投げ出し、注意深く降りる。暴れるホースの後ろに回りこみ取り押さえ握る。水圧で砂煙を上げる地面は、水分を吸い色を濃くし、茶色い水溜りができていく。

「車を、洗おうと思って」

 麦藁帽子のつばで、上半分の顔は影が出来ていている。今の時代、この年齢で麦藁帽子を受け狙いではなく、おそらく利便性を重視して被っている女はいるだろうか。いや、ビジュアルを重視してかもしれない。なぜなら、この姿、絵描きセットを背中に背負っていたら、間違いなく山下清である。実は、ファンなのかもしれない。考えるうちに、額を伝い汗が流れていることに気づき、溜まらず外へ出たが、暑さは変わらない。
 ピチャピチャと茶色い飛沫を飛ばしていたホースの水は、キックの指揮により、おんぼろゴルフに向けられる。ボンネットは、音を上げ水水しく潤っていく。埃交じりの水の匂いが辺りに立ち込める。
 体は、車を羨ましく思うほど、熱く汗が流れ落ちていた。無理もない、天辺にいた太陽が僅か角度を変えただけでは、涼しくなるはずもなく、気温は、急上昇しているに違いない。そんな中、キックはこんな空の下で洗車をしようとし、そして、偶然、居合わせた私達は、車へ戻るわけもなく、この洗車に付き合うことになった。
 通りのアスファルトは、水溜りのような蜃気楼を作り出している。塀の上が好きな野良猫すら木陰に隠れているだろう。こんな時間にいったい何をしようとしているのか。洗車。そんなことは百も承知、けれど、飛んだ巻き添いである。

 のっぺりと水が纏わりつく車体は、ホースを下ろすと目に判るほど急速に乾いていく。麦わら姿のキックは、ホースの先を押し潰す。放物線を描く事無く真っ直ぐと水が飛び出す。車体がバチバチと音を上げる。勢いよく弾ける飛沫が、随分と周りの空気をひんやりとさせているように思える。時々、肌に触れる飛沫交じりの冷えた空気が気持ちよさを伝える。
 暑さで口数少なく動向を見守っていたが、ぽつぽつと言葉が交わされる。

「その麦藁帽子どうしたの?」

 バケツに水を張りスポンジを沈めたり、浮かしたり意味のない作業をしながら問いかける。突然、麦藁帽子で現れたときは、どう声をかけてよいのか判らなかったけれど、目が慣れてくると、以外に似合っていることに気づく。

「あげないよ」

 笑いひとつ浮かべないキック、冗談ではないだろう。ホースを下ろし、優希に手渡す。空き地の端に落ちている汚れたビールケースを持ち逆さにし塀の前に置くと、それに上がりブロックに手をつき上体を浮かし、塀を越えた。向こう側に脚立でもあるのか、がしゃりと踏んだ音が聞こえる。

「ほしくないよねえ」

 小声で言いながら優希を見ると、大げさに三回頷く。

「いつ被るのか迷う」

 優希の疑問を、いくつか想像する。買い物のついでに被る優希、出勤途中に被る優希、旅先で被る優希、どれもこれも、噴出し笑い予備軍である。優希の持っていたホースは、見る見るうちに勢いを失い、ホースはうな垂れて、ちょろちょろとしか出なくなると、キックがスポンジを手にして塀から現れ、上るときは、勢いがあるのに、降りるとき、必要以上に慎重のようだ。
 三人は、追加されたスポンジとブラシに液体石鹸をつけ洗い始める。汗は、滝のように流れ落ちていたけれど、それほど不快感はなくスポーツをしているような感覚になっていた。ただ、運転席側面の窪みを洗っているときは、少しだけ居た堪れなくなり、スポンジに力が入った。キュッキュッと音を上げた。

「あああ、あちい、ホントむかつく!!」

 キックの不満混じりの怒り声。返し方を考える程、機嫌の悪い声音。それは、耳に届いた者の心も落ち込まさせる音。暑さに八つ当たりしているのではないかとふと考える。
 浅いため息。呼吸かもしれない。キックだろうか。優希だろうか。不安が膨れる。
 立ち上がり、言葉を返す事無く、泡まみれになったゴルフを見る。キックは、ブラシでタイヤのホイルを擦っている。優希は、後ろに回りこみ屈み足元しか見えない。聞こえるのは、車体を磨く音だけ。

「部屋にクーラーついているんだから、そこで寛いでいればよかったんだよ」

 向かい側へ声をかける。キックは、ブラシを持ち立ち上がり首を振る。

「壊れてるの!!扇風機もないしさあ」

 始めの語尾は、強いままだった。けれど、ふと気づいたのかもしれない、扇風機からは言葉が柔らかくなっていた。

「麦藁帽子被って、外で体動かしていたほうが、健康的だって」

 キックへ、笑いかけると、キックの目じりが下がった。


 ゴルフは、泡に包まれ、塀の前に置かれたビールケースの一番近くにいた私は、すばやく近寄る。

「水、出してくるね」

 張り切った声。立ち尽くす二人を背に、逆さのケースに上がり、ざらついたブロックに両手をつき、勢いをつけ登る。塀の先には、やはり一メートルほどの脚立が置かれている。ブロック塀を跨ぎ脚立に足を伸ばす、なぜか少し遠い。これは、足の長さの問題なのだろうか。体を出来るだけ伸ばし、方向がずれたのか、脚立の片方の足が浮き上がり倒れそうになる。すぐに気づき足の向きをかえ、なんとか、添える事ができ、ゆっくりと重心を移動させていく。半分以上体重の移動を済ませたとき、ぐにゃりという感触を足の裏から感じた。芝生の上に立っているのでその感触だろうと気にすることなく、庭に下りた。ホースが取り付けてある水道へ向かう。
 オレンジ色の網に石鹸が入り吊るされていた。最近ではあまり見かけない光景。水道を捻る。半分程回したが、さほどホースに勢いがなくもう少しだけ捻る。けれど、出ている雰囲気が感じられない。水圧が弱いのだろうか。結局、回らなくなるまで捻り脚立へ向かう。
 脚立を上り、少し離れたブロック塀に手を伸ばし、顔を出したとき、優希がホースを持っているのが見えた。先ほどと変わらない水量しか出ていないと、優希は顔をあげホースを振って見せ首を傾げて、ジャスチャーしている。キックも優希に近寄る。私は、すでにブロック塀への体重移動は始まっていて、ちょうど脚立を蹴った瞬間だった。ホースの中からぶしゅっと音があがり、上に向けられていたホースの口から、全力の水圧で水が噴出した。届くはずのない空へ向かう。もちろん、頂点までいけば、すべて落下してくる。土砂降りの雨、豪雨、半径二メートル以内でそれに匹敵するほどの水が落ちてきた。悲鳴が上がる。

「虹!!」

 声を上げる、二人には、聞こえない。キラキラと光る水の中に、七色の虹が浮かび上がった。ホースが地面に向けられると一瞬で消えてしまった虹。目撃者は、私一人。あんなに小さな綺麗な虹を、目撃出来なかった二人が気の毒だ。
 水溜りの中にいる二人は、雫を落としながら今月もずぶ濡れになっている。笑おうとしたとき、優希がきつく睨みつけている事に気づく。眉間は、戻ったとき、跡がつくのではないかと心配になるほど溝が刻まれ、眉毛は八の字。私は、ブッロク塀にしがみ付きながら、ケースの上に立ち振り向く。キックが、優希からホースを取り、その手は、ゆっくりと上げられ、狙いを定める。一歩下がってみたけれど、数センチしか下がれず、ぺたりと塀に張り付くだけ。悪者に撃たれる可哀想な人のようだ。勢いよく噴出す水は、キックがホースの先を潰すことにより、秒速を上げたに違いない。数十センチ横のブロック塀を抉る勢いでぶち当たり飛沫を撒き散らす。思わず、両手で頭を抱えた。
 直撃。顔を顰めるほど、勢いがあり、冷たさを感じたときには、肌にべたりとついた服を伝い水が流れて落ちていく、体をくねらせ、くの字になる。そして、水圧は、壁へとずれていく。

「うわっ、恥ずかしいっ!!」

 キックが、100パーセント悪戯声をだす。添加物なし。薄々冷たさ加減で、気づいてはいたけれど、自分の目で確認してみる。上半身は、飛沫程度の濡れで済んでいたが、下半身は、股から下がずぶ濡れ。まるで小さい子がお漏らしをしてしまったようだった。確信的な犯行である。
なんて、幼稚なんだろうと心の中で幾度も念仏でも唱えるように嘆く。優希は、数秒呆気に取られていたが、このばかばかしさに気づいたらしく、自ら水飛沫を飛ばしながら爆笑の中へ落ちていった。突然恥ずかしくなった私はさらに、体をくの字にまげ、小さい子がトイレに行きたい時にする足を組むポーズを思わず取ってしまった。そして、心に、メラメラと怒りの炎があがり、ホース奪還作戦にでるべく、逆さのビールケースから飛び降りた。

「きゃああああ」

 優希の驚きと涙交じりの叫び。自分の車を見つめ声を上げる。ホースの取合いを休戦し、優希の車へと視線を移す。車は、キリンのような泥のまだら模様がつき、世の中にこれほど汚い車は、早々お目にかかれないほど、泥の塊になっていた。
 
 積もった泥と、水の跡は、太陽に照らされ続け、水分は蒸発し干からびてしまっている。
 何気にゴルフへ振り向いてみると、ゴルフも同様だった。泡は、押し花のようにべたりと張り付き、跳ね上がった泥は、洗車する前の車よりも酷く汚れている始末。結局、馬鹿な行動を反省し、心を入れ替え、一からやり直すことになった。

 タオルで乾拭きを、せっせとこなす頃には、あれ程高かった太陽は 私たちをあざ笑うかのように急速にオレンジ色の空へ落ち始めていた。

 人は時々気持ちを伝染させる。
 キックのイライラは、暑さのせいでないのは、予想がついた。こんな暑さの中、どうして洗車などしたのか、いや、この暑さだからしたのかもしれない。ならば、キック自身のもやもやがそうさせたのか?それとも、私の心の片巣に暗く閉ざされた部分がいつのまにか顔をだしていたのだろうか?もしくは、私が気づこうとしなかった、優希の何かがああいった形で伝染したのか。

 ただ、ひとつだけ明らかなのは、私は、あの花火の夜から、何かに気づきながらも見過ごしてしまっていた。
 キックは今、何を感じているのだろう。優希の事を二人で話すことはなく、たぶんこれからもないだろう。

 目眩。ぐらりと地面が柔らかくなり膝を落とす。突然、力が入らなくなる。駆け寄る二人。そこに響いたのは、馬鹿でかい空腹を知らせる音だった。考えてみたら、朝から何も口にしていない。暑さを忘れ、空腹も忘れ、これでは、プールで騒ぐ小学生と変わらないではないか。情けない。いや、子供の特権の乱用などではなく、集中力がそうさせ、うっかり忘れていただけに決まっている。

「お腹と背中がくっ付きそうだ・・・」

 張りを失った声を絞り出すと、二人は、そんなわけないと、見れるものならみてみたいとも言いながら、笑い続ける。今にも、崩れ落ちそうな心の骨組みを、いくつもの笑いが支えていた。不甲斐なく笑いを漏らす私の声も、腹を抱えて笑う優希も、麦藁帽子焼けで顔半分が赤いキックも、ゲタゲタと笑い、それは、私の心同様、二人の不安も打ち砕こうとしているのかもしれない。

 綺麗になった優希の車、帰り道、二人であの麦わら帽子は、自ら買ったものなのか確認し忘れてしまった事に気づき、しばらく討論を続け、そのとき、ラジオから流れたニュースは、今年初めて真夏日を記録した事だった。



thank you
おわり・・・

七月の出来事 1

2005年03月16日 | FILM 七八九月
青空の下で【七の一】→→→  色とりどり咲き誇っていたアジサイが、すっかり元気を失い、醜い色へ変わりうな垂れ始めた頃、降り続いていた梅雨は通り抜け、じめついた空気は、急激に湿度を落としていき、夏の準備が整いつつあった。
 真っ青な空に、積乱雲が現れる日もあり、脱皮したセミは、きっちりと鳴くという仕事をこなし始める。水の張られた田んぼには、緑色の絨毯が風に揺れている。
 そんな夏が始まる休日。前夜の夜更かしもあって、町が鳴らす昼のチャイムが、目覚まし時計になった。目が覚めたとき、首筋や胸元は汗で濡れ、じっとりシャツが纏わりついている。
 張り付く前髪を掻きあげながら、起き上がる。カーテンを引き窓を開ける。雲ひとつない空に、太陽が、ギラギラと照らしている。そのまま、立ち上がり洗面所へ向かう。
 鏡の映る自分の姿は、ズボンのゴムは、不自然に捻れ斜めになり、Tシャツは胸の辺りにSKIPとデカデカと書かれ、鏡の中で反転した文字は、読めたもんじゃない。Tシャツが濡れないように、ズボンの中へ裾を入れる。蛇口を捻り流れ出る水を掬う。温まった体には、ひんやりとした感覚が気持ちよい。顔を適当に洗い、ブラシの毛が不自然に四方八方に飛び出していたが、そこへ、歯磨き粉のチューブをとり、三ミリの板ほどしかないチューブを底からクルクルと丸め何とか搾り出し、ちょろっと押し出された歯磨き粉を毛並みが揃っていないブラシに載せる。歯を磨きながら、跳ね上がる髪をブラシで直す。

 髪を整え、そのまま台所へ向かう。お腹が空いている事を、突然自覚するような匂いが漂っている。ガスコンロの上に、親子丼につかう専用の鍋が置かれたままになっている。母が、昼兼用で作っていたのだろうと、期待を抱き茶の間に向かう。
 ドアのノブを捻り、開く隙間から案の定、部屋は親子丼の匂いが立ち込めている。
 はやる気持ちで、部屋へ入ると、親子丼は二つテーブルの上に置かれていて、母は、すでに半分程食べている。どんぶりから顔をあげ、もう昼よと、弾んだ声で言い、再びどんぶりへと視線を戻す。もう一つの、親子丼も、地層の断面図のようにすっぱりと、半分消えている。消えた半分を収めた人物は、箸を止め、おはようと言った。
 再び、箸を進め残された地層の黄色い表面にぐさりと入れ、割れた黄色い卵と玉ねぎと鶏肉がご飯と共に掬われ、口へと運ばれようとすると、白い湯気が、どんぶりから昇った。その光景に、唾を飲み込み、もうひとつどんぶりがないだろうかと、狭いテーブルの上を探す。恐る恐る母に聞く。返事は、信じられない言い訳が返る。

「あんた、起きてこないし、冷めちゃうから」

 この不条理な言葉はなんだろうと目の前が暗くなる。空腹で目眩がしたのか、優希に親子丼を食べられてしまったというショックからか、腰が抜けたように膝を落とした。

「自分で作ってこようかな」

 怒りたい気持ちを、ぐっと抑え前向きに考える。けれど、そんな前向きな言葉も、一網打尽に粉々に吹き飛ぶ。母から発せられた弾丸は、ご飯、もうないよだった。それは、朝、いってらっしゃいと見送ってくれるときのように、あっさりとしていた。スイッチの入った腹の虫は、鈴虫のように鳴り続けている。

「とりあえず、着替えてきたら」

 米粒一つ残さず、箸を置いた優希は、肩を落とす私に満足顔で投げかけ、立ち上がり着替えに向かおうと、部屋を出ようとした私を呼び止めた。

「シャツを、ズボンに入れるのはいいけど、ゴムの位置上過ぎない?足、七分になってるじゃん」

 母と優希は、気が合うようで声を上げ笑い始める。


 よれたTシャツを脱ぎ、外へ出ても恥ずかしくないTシャツを潜る。馬鹿にされたズボンを脱ぎ、ベットの上に放り、ハンガーに掛けられている7分丈のジーンズを履こうと、左足を上げたとき、ドアが開き優希が入ってきた。不満げな顔を現し、ノックぐらいしろと注意しようとすると、それを察したのか優希は部屋に入ってから壁をコブシで二回叩いた。言葉を飲み込み、ジーンズを上げ、ボタンを締める。

「のりは、いつでも食べれるんだから、別にいいじゃん」

 優希は、ベットの上の放りなげたパジャマを跳ね除け、腰を下ろす。まあねと返したが、これから先何度親子丼を食べようが、今、どんぶりを持ち空腹の胃の中に詰め込みたかった。
 コツっと、窓枠の横の壁から音が聞こえると、突然目覚ましよりも何倍もけたたましい油蝉の鳴き声が響きだす。あまりの音量に空腹を知らせるアラームも掻き消される。
 ベットに座る優希は、背後にある窓へ振り返り、そっと窓から壁の方を覗く。
 もう少し綺麗な音で鳴いてくれさえすれば、気持ちも安らぐものだろうけれど、この油蝉は、どのセミよりも厳つい体つきで、泣き声も濁音が混じりっぱなしのイライラとさせるような耳障りな部類に入っていた。ベットへ上がり優希が覗いている方へ顔を向ける。外壁に止まり、息つく暇もなく、がなりたてている。

「うるさいぞ、セミイチゴウ」

 優希が、ぷっと吹き出し、セミは、私の言葉を理解したのか、ただ居辛くなったのかは定かではないが、プラスチックのような体からセロハンのような羽を広げ、壁を蹴るように飛び立ち、まっすぐ隣の家に外壁に向かい、勢いよく真正面からぶつかり、バウンドし、数メートル降下し、ぱさりと軽い音が響き、突き出しの屋根に落ちた。なんて馬鹿なセミなのだろう。

「自殺?うるさいって言われたから」
「まさかあ、虫だよ虫」

 二人で突き出しの屋根に落ちたセミの動向を静かに伺う。
 始めの音は、詰まり短くジジっと鳴き、その次には、事故に遭う前と同じように本来の鳴き声に戻ると、なぜか、私は、ほっとしていた。たかが、虫。されど、虫。
 横にいる優希の背中を叩き、外に出ようと促す。二人は、立ち上がり部屋を出る。

 玄関から一歩踏み出すと、屋内とは比べものにならないほど、太陽は燦々と光を降り注ぎ、優希の車のボンネットは、触れないほど、熱を放し続けている。熱のせいで、汚れが目立つのか、それとも関係ないのか、とにかく、優希の車は、白くなりこびり附いた泥が無数にあり、雨の跡にも似ている丸い水跡が水玉模様のように模られている。梅雨が明けてから一度も洗車していないに違いない。指でなぞれば文字が書けるドアを開けると車内は、どんよりとした生暖かい空気が立ち込めている。優希は、乗り込む前にキーを回しエンジンをかける。二人で両ドアを開けたまま屋根越しに向き合う。

「車汚いね」

 洗おうと思ったという言い訳を聞き流し車に乗り込んだ。

 空気口から冷風が音を出して吐き出されるとあっという間に、快適な空間へと変わる。

「涼しい・・・」

 気持ちよくシートに体を沈めていると、ラジオから、唯一三人共通に好む、バンドの新曲が流れ始めた。アコースティックのギターの音から始まり、ボーカルがやさしく歌い始める。この曲は、タイアップもなく、発売もまだ先でラジオからしか聞く機会はなく、二人とも曲がフェイドアウトしDJが話し始めるまで一言も発せずにいた。

「いい曲」

 車は、速度をあげ、優希がアクセルを踏み込んだに違いない。黄色から赤へ変わろうとする信号機の下を通り過ぎる。

「きっと、ライブでやるよ」

 夏恒例の野外ライブ。ライブは、来月開かれ、チケットはすでに、キックに郵送されているだろう。この曲を、生で聴けるのかと考えると、想像するだけでゾクゾクする。

 逃げようがなく赤信号に捕まり、優希はブレーキを踏み停車させる。車道沿いの歩道を小学生らしき男の子達が、黄色い水泳帽を被り、海水パンツ姿で、浮き輪を肩にかけ、足元は、スニーカーで歩いて行く。一人の男の子が信号に気づいたらしく、他の子供達に横断歩道が青だと知らせる。それを聞いた他の子供達は、歩道から横断歩道へ斜めに走り込み反対歩道へ駆けていく。点滅し始めた青信号は赤へと変わる。反対車線側の歩道の向こうには、金網越しの市民プールが見える。プールで遊ぶ子供達は、まるで、この暑さが適温なのでないかと勘違いしてしまうほど、気持ち良さそうに、はしゃいでいる。周りで見守る大人は、眉をひそめながら、木陰で肩を落としていた。なにかに、夢中になると暑さも気にならなくなるのだろうか。それとも、子供の特権か。


 県道から逸れ、広くない道を走る。青い屋根の店舗兼住宅の三階建ての家に到着し、その前を徐行し、お隣の放置された土地に車を入れる。整地されず、穴にタイヤが入るたびに車がバウンドする。住宅と空き地との間に背丈程の壁があり、それ沿いにおんぼろゴルフが停められている。キックは、居る模様。車を停めたが、エンジンを切らずにいた。

「呼んでこようか?」

 そう口にしたとき、壁から何か棒のようなものが現れた。口を空けたまま、表情が止まった私に気づいた優希は、私の視線を辿る。
 棒・・・いや、ブラシだ。紫色のブラシが壁を越え空き地に落ちる。青色のバケツが顔を出したかと思えば、また落ち、転がる。壁の向こうで水色のホースの先が見え隠れし、壁の上をするりと越え、だらりと垂れ数秒後には暴れだした。そして、最後に現れたのは、ブロック塀を越えようとしている麦わら帽子に、短パン、タンクトップ、ビーチサンダル姿。
 車のエンジン音に顔をあげ、ブロックの上で仁王立ちし、一方の手を上げる。

「いらっしゃい」

 キック登場である。


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つづく・・・

六月の出来事 4

2005年03月12日 | FILM 四五六月
花火【六の四】→→→ 「さあ。花火するぞ~」

 腕まくりをしたキックは、焚き火に目を留めると、火が弱いよとぼそりと言いながら、積まれた薪を次々に、炎の中に放り込み、すべて入れてしまった。薪の入れすぎで、逆に炎は蓋をされたように弱くなる。キックは、屈み、優希が使っていたパンフレットを取りパタパタと仰ぐ。蓋をされた炎は、隙間をみつけては高く燃え上がり始め、バチバチ音をあげ、メラメラと近くに寄れないほど狂ったように燃え上がる。

 キャンプファイアー並に、辺りを明るくさせる。キックは、木が足らないなと独り言をぼそぼそ呟きながら、灯りの届かない砂浜の方へ歩いていく。

「風の谷のナウシカでも、火は、必要以上に使ってはいかんっているのになあ」

 ふて腐れ気味に、花火のパッケージへ手を伸ばす。優希も、焚き火の暑さに耐えかねて、てんこ盛りの花火の方へやってくる。

「いいじゃん、キャンプファイアーみたいで」

 燃え盛る炎は、辺りを明るくさせると同時に、心までも同じ効果を明らかに上げていた。ナウシカ話を持ち出して、捻くれたのは、なぜ、もっと早くこうしなかったのだろうと後悔したからだ。
 ずるずると何かを引き摺る音が聞こえる。キックが、丸太を引き摺ってくる。

「いいものみつけた、これで、オッケーでしょ」

 電信柱並の丸太。その丸太を、焚き火を踏み潰すように躊躇せず上から落とした。炎は、真っ二つに割れ、火の粉が辺りに撒き散る。私と優希は、悲鳴に近い声をあげる。キックは、笑いながら、丸太をひょいと持ち上げ、丸太の下に石を入れ、傾ける。
 非常に不恰好になってしまった焚き火は、φ(フィー)のような形になった。見様によっては火事にも近いような。けれど、気持ちも、浜辺も明るくなったのは確かで、弁解の余地はどこにもない。私は、花火を袋から出すという地道な作業に没頭する。
 バチバチと音を上げる炎を、聞きながら、熱く燃え上がるキックに、跳ね飛ばされた記憶が、許可もなく勝手に頭の中で浮かび続けていた。



 廊下を歩き、自動販売機の前を通り過ぎ、エレベーターへは向かわず階段へと向かう。人気のない階段を、歩いて降りていたけれど、一階に着く頃には、駆け下りていた。呼吸は、荒くなっていて、体が熱く舞い上がっている。外へ出る自動ドアを目指して廊下をかける。目の前に、白衣が飛び出し、咄嗟に体を捩り避けたけれど、お互いの肩がぶつかり、私は足がもつれ反対側の壁に手を突いた。看護士は、持っていた資料を床に落とし、バインダーからはずれ、散らばった紙を屈んで拾い集めている。

「ゴメンなさい」
 
 何も言わない看護士の背中に、一方的に声をかけ立ち去った。
 自動ドアが、開くとヒンヤリとした空気が頬に触れ、全身を包む。匂いのない新鮮な外気を、肺がパンクするのではないかと思うほど深く吸い込む。体に滲みこんでいくのが判る。入口から、左に病院沿いを歩く。数台停められる駐車場が隣接されている。一番奥に、見慣れた車が停まっていた。自然とその車に足が向かい、どういうわけか、一歩歩くたびに、目の前が霞んでいく。おんぼろゴルフの前に辿りついた時には、整えたはずの呼吸が、苦しくなるほど、全身に力が入っていて、溢れ出そうな堤防を必死で食い止めようとしていた。
 運転席側のドアの前に立ち、右手で色あせたルーフを触る。ポツポツと音が鳴り、ルーフは黒く滲んでいく。小雨が降り始めたのではなく、それは、ダムが決壊し溢れ出した涙だった。飲み込もうとしても、溢れる嗚咽は、辺りに響いたかも知れない。立っている事すらままならず、ゴルフに覆いかぶさるよ
うに体を預ける。自らの泣きじゃくる声に、頭の隅で、恥ずかしいなと思いながらも、止めるすべは見つからない。どうして、こんなに涙が出るのだろうと、考える。この涙はしっかり止まってくれるのだろうかとも考える。
 そんな事を考えていても、吐き気がするほど相変わらず、泣き伏す自分。優希がこんな事になり、悲しいのか、苦しいのか、神様を恨み嘆いているのか、自分自身に憤りを感じているのか、比率は、はっきりしないが、こんな要素が食べ進められた寄せ鍋のように入り乱れていた。けれど、そんな時、頭角を現してくるのは、やはり怒りだろう。立ち上がる為のパワー。込上げる怒りをパワーに変える。漲る力。

「ガツ!!」

 全身に力が入り、振り上げた足は、私をやさしく受け止めてくれていたおんぼろゴルフに突き刺さった。鈍い音と共に、全身をつま先から痛みが駆け上がり、頭のてっぺんの三角のポイントを折り返してつま先へと戻ってくる。顔を顰め、あまりの痛みに片足立ちになる。つま先が折れたのではないかと心配になり、痛みと戦いながら地面につけ動かす。折れていないことを確認し、ヒビが入ったのではないかとまた、心配になる。視界に、おんぼろゴルフのドアが入り、そこに卵が収まりそうな窪みを確認した。ジンジンと熱くなり始めたつま先を、おそるおそる嵌め込む。恐ろしい事に、シンデレラの靴のようにすっぽりとフィットしている。

 舌打ちをし、三歩下がって、見守ってみても、スポンジのように戻る気配もなく、頭は真っ白になり、眺めていた。太陽の光がゴルフへとあたり、その窪みには三日月型の影が出来ている。こんなところに、あるべき影ではないのに、くっきりと作り上げている。

 とりあえず、今日のところは、何かを埋め込んでやり過ごそうと辺りを見渡す。涙のおかげで、未だ辺りはサンドグラスのようにぼやけている。車の助手席側には、アスファルトと芝生の境で花の咲いていない花壇がある。車の前にでて、その花壇の辺りを探す。
 その時、黒い影がイノシシの如く一直線に突き進んでくる。霞んだ目を、手で拭う。拭わなければよかったと数秒後に後悔した。
 スタタタタ・・・と、どこかで百メートル走の計測でもやっているのかと思うほどの軽快かつ力強い走り、けれど、体とは一変し、表情は、血管が切れるのではと心配するほど、目を吊り上げ血走らしたキックが、ものすごいスピードで近づいてくる。
 スピードを緩めないキックに、危険を察知し、後二メートルといったところで、ひょいと横に飛んで避けたつもりだった。
 キックは、巧みなステップで方向転換し、雪崩のように私に覆いかぶさる。
 私は、キックに轢かれた。

 浮いた体は、花壇をゆうに飛び越え、芝生の上に着地し、クルクルと力の行くままに転がる。やがて、ぴたりと止まり、芝生まみな、ちくわのようにうつ伏せで寝そべる。土と青臭い匂いが、鼻につき、芝生は予想以上にちくちくとしている。衝撃で、地球が揺れているのか、自分自身の頭が揺れているのかは定かではないが、とにかく、頭を上げると世界はゆらゆらとしていた。

 肩で息をする仁王立ちのキックが、立ちはだかっている。

「何をしているの!!何を考えてんの!弁償しろ!!」

 ここが、家が所狭しと立ち並ぶ下町だったら、地区全体の人が駆けつけてくるかもしれない。それほどに、息巻いている。

 言われるままに、キックの顔を見上げ、キックは、怒りを収めることなく続け、勢いで一歩体が動いた。
 キックの背後にあったのは、三階の一箇所だけカーテンが風で揺れ出ている部屋。そこから見下ろす優希だった。

 こんなに早く、キックが駆けつけたのは、上から見ていたからだろう。そして、すべて、見られていたに違いない。優希の表情は光の加減で見えない。何か言わなければいけない。こんなにも情けない姿は、これから先、優希が確率の中の一パーセントに入ってしまう事を嘆いているようにしか見えかねないだろう。必死で言葉を探した。

 キックの激憤をBGMに、体を起こし芝生の上に正座する。腿に手を乗せ、肩を使って思いっきり息を吸い込み吐き出し、目を閉じた。

「とりあえず、生きよう」

 目を開け、三階にいる優希へ頼りない声を上げる。優希へこの言葉が届いただろうか、表情は、見えず、となりにいるキックの耳にすら届いていない気がする。

 かつてこの言葉を、こんなに真剣に使ったことなど一度もなく、立派な大人が聞いたらこいつはなんてとんでもない事を口走っているのだと、口をあんぐりあけて呆れ果てるかもしれない、けれど、私には、この言葉の使い道が、正しいのか間違っているのかわからない。それどころか、疑いすら抱かなかった。ただ、死という文字が、ジャガイモのでんぷん文字のように、薄っすらと浮かび上がり、生きるという文字も共に姿を現し始めたのは確かだった。そして、その意味は、辞書程度にしか理解していない。



「どんっ!!」

 優希の右手に握られた、年末にもらうカレンダーとほぼ同じくらいの筒の先から、白い煙が、燃え盛る焚き火の灯りに映し出される。言葉を失い、立ち尽くしている。そのシルエットは、コロシアムで聖火を掲げる選手のようだ。

 三十秒前、花火をしようと言ったキックに賛同し、私は、景気を付けようと一番大きな筒の花火を手にした。それを優希に、アイスでも握らすようにスムーズに差し出すと、優希は何の疑いもなく握る。キックが、焚き火から枝を抜き、筒の導火線へと傾ける。
 ちりちりと煙をあげて、曲がる導火線。

「掲げて、高く掲げて!!」

 私は、耳の穴に指を突っ込み一歩ずつ後退し連呼する。優希は、何かを叫んでいたが耳を塞いでいるので、すべて聞き取れない。ちょうど、正面で同じように後ずさりしているキックの馬鹿でかい声が同じような事を叫んでいる。私達の線上の中心で、アタフタと足をバタつかせ、何かを叫ぶ優希。耳に届いた言葉といえば、オモチ。お餅?いったい何のことだろうと、やや耳に突っ込んだ指を浮かせると、その言葉がなんなのか理解した。

「手持ち?手持ち?」

 縋るような言葉でも、返答はなく導火線は焼き進む。
 筒の先に白く光った瞬間、空気が重く振動した。ドラムの一番低い音と似ている。黒い空を、光が駆け上り、消えた瞬間光の塊が花開く。パチパチと音をたて消えていく。とても、きれいな花火だった。

 白い煙が止まった筒を握り締めたままの優希。キックが、綺麗だったと絶賛しながら優希の元へ近づき、筒を受け取ろうとする。優希の目は突然、現実の世界へと戻り手を伸ばしたキックをきつく睨み、筒を一瞥し、渡すことなく強く握りつぶした。分厚いはずの筒は、ぐにゃりと折れ曲がる。

「書いてあるでしょ。日本語で!!手で持たないようにって!!読めないの?ねえ!!馬鹿!!ホント!!救い様がないバカだ!!」

 鼻息は、荒く、鼓膜が破れるのではと心配になるほど、喚き散らす。連続花火のように、咲いては余韻を残しながら新たに咲く怒声。

 優希は、言葉だけでは物足りず、腕を大きく振り被り、曲がった筒を全身全霊、渾身の力を込め、浜に投げつけた。砂浜にも、所々に石が砂に埋もれている。けれど、それは、さほど多くない。だから、投げつけた筒も、ぐさりと砂浜に食い込むはずだった。ところが、偶然にも、筒の着地地点には、石があり、見事に跳び箱の踏み台の役目を果たしてしまい、筒は、跳ね上がり、弧を描くように宙を舞い、焚き火の上に落ちた。筒はもうゴミ同然であるのだから、そのまま燃え尽きてしまっても危険もなく問題ないはずだ。ところが、これまた偶然にも、筒の落ち方が不味かった。勢いをつけて落ちた筒は、燃え盛る炎を叩きつけ、火の粉を撒き散らす。何もない砂浜なのだから、火の粉が多少飛ぼうがこれといって困った事もないのだけれど、これまた、偶然にも、その無数の火の粉が、てんこ盛りの花火の上にパラパラと降りかかった。

 一番に動いたのは、キックだった。砂浜をけり花火へと駆け寄る。火の粉を振り払おうとしたのかも知れない。
 ところが、キックの足元で緑の光が現れる。キックは気づかない。

「点いてるよお!!足元!!」

 危険を感じ、声を振り絞り叫ぶ。私の声に気づいたキックは、足元へと視線を移し足で踏みつけて消そうとしたとき、その花火からシューっという音が聞こえ光は増す。

「駄目だ!!」

 キックは、言葉を置き去りにし、踵を返し躓き、掌が砂浜につき、無理やり体を起こし駆け出す。一歩も動けない私と優希の元へ、全力で駆け寄り、停まる事無く横を通り抜けていく。

「逃げろ!!」

 その場に残されたのは、キックの言葉と駆け抜けた風だった。無数の光が、蛍のように飛び交う。赤い閃光が、砂浜を滑るように駆け抜ける。怯み一歩後ずさりし、キックの背中を追う。優希の横を通り過ぎるとき、優希の腕を掴み引き寄せる。優希は、うそぉと呟き花火に背中を向け走り始める。

 振り向く余裕などなく走り続ける。後ろでは、尋常ではない無数の花火の音が鳴り響く。来るな、来るなと願わずにはいられなかった。けれど、その願い虚しく、空気を裂く音速が近づき肩を竦めると、あっというまに光線が落ちこしていき、キックの背中に当たり弾け、弾丸に撃たれたかのようにバタリと倒れた。

「いっやああああああ」

 キックの惨劇に、声を上げずにはいられない、キックに当たってしまったことに叫んだのではなく、自分に当たったときの事を想像した叫びだった。
 波際に倒れているキックに駆け寄る。というよりも、これ以上先には進めず立ち止まったというのが正しい。
 優希は、砂をかき集め山を作っている。私も咄嗟に、湿った砂を手に取る。目の前に二十センチほどの高さがある山が出来上がり、波を背にうつ伏せになった。状況は、頭隠して尻隠さずだろう。けれど、防災頭巾程度の役目はあるに違いない。
 三人は、川の字に並び、花火が通りすぎるたびに、小山に隠れる。

「もう、何なのよお、のりがあんな花火持たせるからだよお」

 うろたえ、涙声の優希は、投げ出した足で、ごつごつと私の足を蹴る。

「大丈夫だって」

 何が大丈夫なのか、いや、全然大丈夫な状況でもないような気もするが、八割方気休めではなく、本当に大丈夫だと考えていた。頭をあげ、様子を伺う。黄色い閃光が真っ直ぐと近づく。やばい・・・。
「下げろ、頭!!」
 キックの声。突然、後頭部が何かに打ち付けられ、ずざっと音をあげ、顔が砂に埋もれた。閃光と共に、やってきた音は、頭の上で止まる。顔をあげようか迷ったとき、パンッと響き、耳の奥に痛みを感じる。火薬の匂いが鼻につく。少しだけ顔を上げると、小山の頂上に細い棒が突き刺さっていた。やはり、あまり大丈夫ではないかも知れない。全身に鳥肌が駆け抜けた。
 その時、背後から近づく何かの気配を感じる。優希が、波と一言、嘆く。
 冷気と共にやってきた波に、逃げることも出来ずに飲み込まれる。白波と一体化した私達は、当分の間塩分を控えめにするべきだ。
 幾度となく、波に浸り、ひたすら伏せ待ち続ける、そして、荒れ狂っていた花火の音は消えていた。


 海の匂いを放ち続ける体を、恐る恐る起き上がらせ様子を伺う。燃え盛るのは、焚き火のみで、どこを見渡しても火花は見えない。
 終わりを、確認し、深いため息が吐き出される。
 三人は、やっとの思いで立ち上がり、海水を滴らせながら、足跡を残し焚き火へ向かう。足跡は、すぐに波に飲み込まれていく。焚き火と、波際の丁度真ん中の地点で、燃え尽きた花火の中で、小さな光がチリチリとひっそりと音を上げている事に気づいた。両脇の二人の腕を掴む。足を止めじっと見守る。
光は、閃光へと変わり、ひゅうと音をあげ、空き地側へと進んでいく。力が入りきった体から、息と共に緩み、肩を撫で下ろす。

 空き地に進む閃光は、しばらくして、パンと弾けて終わるはずだと、誰もが思った、いや、そうだと決め付けていたから、考えもしなかったという方が正しいだろう。でも、その閃光は、偶然にも、草を生やした軽トラにぶつかり、僅かな火の粉を撒き、三百六十度の方向転換をし、一直線に戻ってくる。
 緊張が解かれた体は、海水に錆びたように判断が鈍り、眺めている。閃光は、猛スピードでやってくる。手遅れな危機感が、一気に高まり、私は、頭を抱えしゃがみ込もうと体を沈ませるているとき、キックの、ファイティングポーズが流れるように視界に入る。いったい、何と戦おうとしているのか。砂浜に膝をつくと、優希の体が、不自然に後ろへ重心が掛かり、柔道でいうなら受身の姿勢になりつつあり、もしくは、マトリックスと言っても良いだろう。海水に濡れた服のおかげで、動きづらい上に、石にでもすべったのかなと思う。音は、すぐ側まで近づいている。
 音が消えた。うっかり抱えていた頭を上に上げる。目の前が、色とりどりの光が突然開き、送れて空気が低く振動し、バチバチと音をあげ火薬が色をかえ弾ける。花が咲き乱れ、やがて光を失い消える。火薬の匂いと、そのカスと、残像と、耳鳴りが残り、呆然と見上げ、浮かしていた尻が砂浜に沈んだ。寄りによって、最後に降りかかった花火は、打ち上げ花火だった。砂浜に押し寄せる波の音と、相変わらず燃えている焚き火。花火の残像は、随分と長い間、どこへ視線を動かしても映し出されていた。一瞬の光が、目の奥に焼きついていたのかもしれない。

「山盛りの花火、朝までかかると思っていたんだけどなあ、予想もしないよ、こんな様に終わるなんてさ、気づいたら始まっていて、もう、どうしようもなくて、考えている暇すらない、それでも、花火は勝手に進んでいるし、落ち着いたら、すっかり終わってる」

 優希は、打ちつけた腰を摩りながら、上半身を起き上がらせ続けた。

「こんなものなんだろうね」

 キックは、上げていた両腕を下ろし優希の方へ振り向く。私は、尻餅をついたまま、両腕を浜につけ、両足を伸ばし、顔だけ優希に向ける。何が?そんな事は、聞けない。
 キックの表情は、変わらず無表情でただ優希を見下ろいている。けれど、突然踵を返し、スタスタと歩いていく。焚き火の横にある、山になった花火の燃えカスを足で蹴飛ばしていく。何をしているのだろうか。蹴飛ばすのをやめ、その中に手をいれ、戻ってくる。
 キックは、何か手に持っている。それを私達に翳す。ひょろっと細長い紙。

「線香花火?」

 私は、その形が何であるか、疑いながら口にする。長さが不均等で、所々黒く焦げているけれど、束になった線香花火だった。

「スリル満載の花火も楽しいけど、ゆっくり線香花火をするのもよいよ、やろう」

 キックの背中が、焚き火へと近づいていく。

「あはははっ、はははははっ」

 スリル満載その言葉が、今までに降りかかった花火の出来事を頭の中で繰り返させる。思い出し笑いである。突然笑い出した、私に優希もつられ、笑い始めた。

「内容が、濃すぎるよね」

 頬をヒクヒクとさせながら、優希に問いかけると、ホントだよと笑い混じりに言う。一瞬の記憶でも、鏡を写したように、その記憶は、焼きついていた。


 膝を抱え、線香花火の灯りに映される優希の横顔は、真っ直ぐと弾ける花火を見つめ、真っ白な肌が、なんだかとても不安にさせた。チリチリと小さな花が小さくなっていき、赤い玉がジリジリ音をあげ、ポツリと砂の上に落ち黒い塊になる。優希は、落ちる瞬間、小さな声を漏らした。

 心の中で、暗い影が膨らみ始めていた。その事に、気づき始めていたのかも知れない。姿を現すことなくひっそりと隠れている恐怖。それを、見てみない振りをする。あの日、駐車場から三階を見上げ放った言葉は、届いているわけがないと、思い込もうとしていた。


 翌日の夜からまた、梅雨の雨がしとしと降り続けた。しとしとと降る雨は、人の涙と似ている。ならば、誰の涙なのだろう。



thank you
終わり・・・

注意:打ち上げ花火は、しっかりと取扱方法を、読んだ上、広い場所で上げましょう。