『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

自分たちで読む「自由の哲学」

2021年12月07日 | 『自由の哲学』
「自由の哲学」の読書会を、
毎月1回、有志で続けている。

大先輩のMさんとは、10年以上前から、
7年間かけて、この本の講座を一緒に受けた仲。
先生には、みっちり1文ずつ解説していただいた。
が、今は自分たちで毎月1章、
段落ごとに担当を決めての読書会。

今日は、最終章の15章。
終わっちゃうのもったいないわ~。
「せっかくやから、全ページ読もう!」と、
来月もう一度集まり、補遺や訳者あとがきまで読む予定。

帰りの電車で、M先輩と話していた。
「教えてもらうのと、自分らで読むのって、
全然違う体験やったね」
「教えてもらう時は、下読みもせずに参加してて、
読み解いてもらって“すごっ!って圧倒されてたけど、
自分たちで1章ずつ読むとなると、
嫌でも自分で取り組みますもんね。そこが良かったです」

この読書会、
実はおしゃべりのウエイトが結構大きい。
今日だって、しゃべりまくって、
15章を読み終わる予定が、終わらなかったのよ。

というのも、本の抽象的な文を読んで
「これ、どういう意味?」と考える時、
どうしても、自分の暮らしの中の具体的な例で、
実感できる出来事を探して
「こーゆーことじゃない?」ってシェアすることになる。

「最近の出来事で言うと、こないだ夫と~~~」って、
日々の家族や仕事の具体的な出来事についての話になる。
そしたら、どうしても、また脱線してしまうのよ。
「その時、ダンナさまはどう言ったの?」とか(^^)。

度が過ぎると、
「みなさーーん、そろそろ読みませんか~?」
って、戻そうとするんだけど、
若輩ゆえか、遠慮がちなタイプだからか、
たいして声が届かない(^^)。

でも今日、そのおしゃべりの効用に気付いた。

先生に教えてもらっていた時は、
シュタイナーの哲学的な考察について、
脳みそに汗をかきながら理解する、という営み。

一方、身近なおしゃべりを交えながら、
自分たちで読んでいると、
抽象的な本の記述と、自分の暮らしが、
同じまな板の上に載って見えてくる。

ややこしい哲学書と日々の暮らしが、いつしか
ONとOFFでもなければ、ハレとケでもなく、
頭とカラダでもなければ、高尚と卑俗でもない、
全~~~~部つながった、一続きのこととして読めている。
おお、それはすごい!

それ、本の言葉を使って言うと、
私たちが普段世界を見ている時の見方=二元論
(世界と私、物質と精神、などを分けて考える)で、
モノゴトを理解すると、なんとも殺伐とした感じになる。
それに引き換え、シュタイナーが説く一元論
(世界の中の私、物質を物質たらしめている精神、など
外と内を分けずに同じものの違う面として捉える)で
モノゴトを見た時の、なんと豊かで安心できることか。

「2」より、「1」の方が、
はるかに大きいひとつになり得る。
「アナタ」と「私」じゃなくて、私たち。
「日本」と「中国」じゃなくて、アジア人

「自由の哲学」は、とても多くのページを使って、
「今の世の中みたいに、二元論でモノゴトを見てたら、
世の中間違っていくでー。一元論で見てみやー」
とオススメしてくれている。

私たちの読書会での読み方は、
意図したわけではないけれど、
まさに、一元論的な読み方になっていたのでした。

よりかかったり、縛り合ったりする「私たち」じゃなくて、
1人ひとりが自由に動く「私たち」。
誰もホメてくれないこの読書会は、
私たち一人ひとりの、大人の楽しみの時間です。



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