ふだん私たちは、
自分の快・不快で相手を決めつける
という、ずいぶん荒っぽいことをしています。
これが欲しかったのに違うものをくれた。
わかってないな~。
もっときっちりするべきなのに
ノリで動かれたら迷惑だわ~。
などなど。
これって、
自分の想いと重なってるかどうかだけの話で、
相手の意図にも想いにもまったく無頓着に
判断を下しているだけの話です。
いつも、そういう感じなのですが、
植物観察をしながら、
「対象的思考(後述)」を一緒に学んでいる人たちと、
今日、お話をしている中で、
「それじゃ、ホントのことはわからんままやなぁ~」
と思いました。
というか、知ってたけど、改めて。
毎月1回、この集まりの日にそう思います(^^)。
Kさん、そして一緒に学ぶみなさま、
ステキな時間をありがとうございます。
「対象的思考」は、
対象に寄り添うことで、対象が語り出すのを待つ
という思考方法(と言っていいのかな?)です。
考える時に、
自分の今まで持っていた既成概念にあてはめて、
「こういう意味なんだね~」って思うんじゃなくて、
出来るだけ相手に寄り添ってみる、という方法。
たとえば、
冬至の日にあの人とこんな話をした。
今日、ふと時計を見たら誕生日の時間だった。
それを、単なる偶然だと思ってもいいし、
これは何を教えてくれてるのかな?って考えてもいい。
誰でもいつでもどこでもできる思考方法なんだけど、
最初にやり始めたのが、植物観察。
単純に花の名前を覚える、とか、
形の特徴を見る、とかではなくて、
その先が「植物観察」のおもしろいところです。
今日は、
夏の間に日の光をいっぱい浴びていた花が、
冬になって実になった、
ということに寄り添ってみた人の話をきっかけに、
どんどんふくらんでいきました。
春から秋にかけて、自分に光がいっぱい注がれる間は、
それを浴びて花が咲き続ける。
冬になって、光が弱くなってくると、
だんだん硬くなって、実が出来る。
光の経験が結晶化したのが実だとして、
それを、人がアクティブに動ける春~秋の時代と
人生の冬の時代(老年期)と重ねるなら、
冬になるにつれて結晶化していくから、
痴呆状態は、もしかしてすごい結晶なんじゃないか、とか。
花の時代を生きている間には、
「花じゃない」から実の状態が理解できないとしても、
実の中にはすんごい経験が詰まってるし、
それをお茶にして飲むことができたら、
また結晶化されていた光がほどけて、
飲んだ人が「ふぅ~~」って、
いい時間が過ごせるんじゃないか、とか。
「現実は、そんな簡単な事じゃないよ」ってわかるけど、
ならば、「理想」はどうなんだ?
って、考えてみる可能性も
そういう寄り添い方の可能性もあるかな、とか。
理想なんか考えてもどーにもならないし、
気持ちがしんどくなるだけ、かもしれません。
花にとって、実は理解不能ですが、
いずれ自分も実になるわけだし、
その実が
自分にとってどういう意味があるのか、
と考えてみるのは、
もしかして、そのお茶を飲むことであり、
それは、気持ちの栄養になり得るかもしれません。
目の前ではそんな簡単なことじゃないよ、
ということと並行して、
離れた時に、可能性として、ね。
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