『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

見えないものは存在しない?

2020年08月10日 | 『自由の哲学』


今じゃ、何の病気でも
「ストレス起因説」で説明されるほど、
気持ちの問題が大手をふって流通している。

だけど、何百年か前、
「神様のお告げだから」と都合よく振り回された私たちが、
「神様なんかホントにいるんだろうか」、と疑問をもった時、
「見える(五感でキャッチできる)ものだけしか存在しない」
と、神様よりも人間を高らかに信じたのが素朴実在論。
(自由の哲学第7章を読んでいる)。

今思えば、めちゃくちゃ無理な考えだ。
見えないものは、ない。…なんて。
神様はわからんけど、喜怒哀楽や愛憎なんかの、
目に見えないものは、誰の中にも絶対にある。
大きなところでは、星々の軌道も調和のバランスもある。

だから、素朴実在論(見えるものだけがある)をそんな風に、
「古い考え方だ」と笑ったりもできるんだけど、
ふと「あ、でも、私も同じ在り方をしてるわ」と気づく。

私の暮らしの中に、
放射能や水害で苦しむ人の生活も、
戦争を抱えて生きてきた人の思いも、
水や食べ物がなくて苦しむ人の思いも、
追い詰められて自殺した公務員の家族の思いも、
普段は存在しない。

日常の、たとえば、
部屋の電気が切れたとか、
子どものお弁当のおかず買ってこなきゃとか、
庭に蜂の巣があるけどどうしようとか、
そんなことの方が大事なのだ。

たまに思い出した時に、
自分のための免罪符が欲しくて、
本を読んだり、痛まない程度の募金をして、
いい気になって、また忘れる。

それって、
「見えないものは存在しない」という
素朴実在論そのもの。
というか裏返しで同じことをしている。

それが存在することを知っていたら
自分がしんどくなるから、見ないことにする。
つまり、存在しないことにしている。

国やメディアも、
他の気楽なニュースやエサに紛らせて
本当のことを隠したりしてきた。
隠されたことは、私たちの中ではないことになってしまう。
そんなことだらけなのを知っているのに、見ない。

マザーテレサは
「愛の反対は無関心」と言ったけれど、
自分が何かを見るということは、
それだけで愛していることなんだと思う。

いま、高度に発展している科学は、
全部、見えるものだけを証拠として採用してきた。
見えないものは、ないものとして扱っている。

だから、きっと、心とか愛とかは、
誰でも確かに感じられるのに、
数値化できない、再現性がないってだけで
あいまいなものとして退けられているんだ。
心理学ですら統計データがベースだもんなぁ。

学問や教育や科学が、
今の限界を突破するために、
心や精神や愛なんかを取り込む
ふさわしい方法論があればいいのだけれど。

ビッグデータで解析できるような、
集団としての行動分析傾向、
なんかも参考にはなるかもしれないけど、
目的は、唯一無二の、かけがえのない一人ひとりが
生き生きと幸せに自由な行動をして、
願わくば社会に貢献し、幸せに生き、死んでいくこと。

また大きなことを言ってしまった。

せめて、しんどい思いをしている友人の、
笑顔のタシになりたいのだけれど、
それすら、難しいんだよなぁ。

でもそれは、頻繁にアタマをかすめるから、
その都度、祈りを飛ばしている。

彼女の中では、それも
「存在しないこと」にしているかもしれないけど、
想いって物理法則じゃないから、
彼女が開く時には届くと思うんだ。
それが重くなければいいな、と願いつつ。


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