『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学3章_02

2011年08月13日 | 『自由の哲学』
「考える」という活動が、
「私」という独立した自由な人間の繰りだす活動なのか、
それとも、現在の心理学が説くように、
「私」が自由に考えることはできなくて、
いろんなトラウマだのインナーチャイルドだのの影響を受けたりして、
意識の内にある考えと考えのつらなりのままに考えるのかは、
後で論じることにしたい。

ここでは、ひとつ、次のことが認められればいい。

私たちは、いろんな出来事と出会う。
そして、その、私たちの影響を受けないで起こっている出来事
~たとえば、野球の試合とか、道で咲いている花とか~について
それなりに考えて、なぜそうなったのか、なぜこうなのか、と、
考えと考えの結びつきを求めるものだ。

はたまた、この「納得する考えが欲しい」という欲求も、
私たちそのものからの欲求なのか、
何か、必然のままに求めているのかも、まずは置いておきたい。

とにかく、納得できる考えが欲しいのは、
「私たちが求めるから」ということにしておこう。

物事と出会うやいなや、すぐさま「考え」が授かるのではない。
そのことは、誰でもよく知っていることだろう。
そして、「考え」は誰が授けるのか。
それは、自分の心に向かって考えてみても、
「私たち」が授けている(というか、生みだしているというか)と見える。

さて、何かの物事に応じて、
何かの考えを見出した私たちは、
それで何を得たことになるのだろう。

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