『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

「本末転倒」の語源

2018年03月28日 | 昼行燈より愛をこめて
今年は、明治維新から数えて
150年だそうです。

だから、というわけではないんだけど、
「素読」(ざっくり言えば、音読)の本を読んでいたら、
「明治天皇が、末学重視を危惧している」
という文脈で、
「本学」と「末学」という言葉が出てきた。
現代はもう、それらの言葉自体が消えている。

「本学」と「末学」とは、
本質的な学問と、それ以外の学問、
という分け方らしい。

「本学」は、本質的な学問。
自分はどうあるべきか、
なぜ生きるのか、
というようなことを深めて行く学問。

「論語」や「大学」などの本を読んで、
人格を高めたり、偉人に憧れたりして、
人間まるごとの高まりを担うところ。
今なら、哲学、倫理学が近いかな。
でも、知識が増えることじゃなくて、
行動が変わることを目指す学び。

「末学」は、生きていくのに役立つ学問。
生きる現場によって違うけど、
稼ぎ、暮らし、消費し、暮らしを作る学問。

武士なら、各種武道や政治経済、
女性なら、子育てや、料理、福祉、情報交換、
農民なら、肥料や水の管理、俵や草鞋の編み方、
会社員なら、営業スキルやITスキルなど。

今、たとえば学問を二つに分けると、
「国算理社英」と「美術、音楽、技術家庭」とか、
理系と文系とか、基礎と応用とか
みたいな感じなんだけど、
それ、全部「末学」のジャンルかもね。

想像するに、昔は寺子屋で子どもが本学を学び、
じーちゃんばーちゃんが生き様として本学を示し、
とーちゃんかーちゃんも
囲炉裏ばたの日常会話の中で、
家族共有できる、
本学に絡むストーリーがあったと思う。

今は、その変わりに、
流行りモノのドラマや、
タダで無尽蔵に遊べるスマホのゲーム、
動画サイトなんかが、ひまつぶしをしてくれる。

もっとハードル高ければいいのに、
すぐ手を出して、ボタンひとつで、
というか、もう声ひとつで操作できるから、
「つい」ひまつぶしをしてしまう。

大人時代は、末学を身に着け、
より良く生きるために自分を使う時期だ。
だけど、子供時代や引退世代まで、本学を軽視して、
点数を追いかけたり、快楽を追いかけたりしてたら、
いつ「自分はどうあるべきか」に取り組むんだ?

…と、末学が身につかない私は、思う(^^;)。

教育の根底に「本学」があって、
それぞれの生きる現場で必要な「末学」を身に着けるのが、
本来の姿。

「末学」ばっかり重視して、
「本学」を軽視する、その姿勢が
「本末転倒」という言葉の元、です。

末学、本学、どっちにも取り組むことで、
より人間らしく暮らせると思うんだけどなー。
どっちも中途半端な私。

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