『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

月を見ていた

2018年08月27日 | 昼行燈より愛をこめて

満月の夜、海辺を散歩していた。
気持ちよく潮風に吹かれて歩いていた。
満月は、普段よりも赤く大きく見えた。

月は、自ら輝かず、
輝く位置にいる時だけ太陽を反射する。
輝くには、
太陽の光を受ける位置にいることが大切なのだ。

だけど、月が存在するのは、輝く時だけではない。
輝いていない時も、月は存在している。
輝きたいなら、輝く位置にいればいい。
ただ、輝くかどうかは、人からの評価に過ぎない。

月は丸いけれど、
輝きは丸いとは限らない。
見えているものが正しいのとは限らない、
見逃しているものは何なのか。

ところで、海辺には街灯がない。
足下は真っ暗。
進行方向がほとんど見えなくても、
月の光を目指して歩いて行ける。

月まで道が続いているとは思ってないけど、
とりあえず、数歩先が見えれば、
月の方向に歩いて行けるのだ。

月にたどり着くのがシアワセなんじゃなくて、
月に向かって潮風に吹かれて歩いていける。
そのこと自体が、
とても心地よく、シアワセに感じる。

海の駐車場に来た。
街灯のまぶしい光があった。
直後、目がくらんで、
それまで見えていた足下が見えなくなった。

あまりにも明るすぎると、
周りの陰影が、すべて真っ暗に見えるのだ。
恵まれすぎているから、
少しでもそこから外れることが怖い。

夢に向かって一歩ずつ歩いていた場所が、
身動きのとれない真っ暗闇に変わる。
まばゆい光の中に立つことは、
負のコントラストも強まることでもある。

月を見ながらの散歩。
月はあれこれ饒舌に語っていた。
月は、それ自体で、哲学であり、
それ自体で、カンペキな真理だ。

月から何を読み取るかは、見る人次第。
釣り人は、月など見ないで、一心にウキを見、
私は、海も魚も見ないで、一心に月を見ていた。

この時間、残業中の人も、
赤ん坊を寝かしつけている人もいるだろう。
私たちは、同じ世界に立ちつつ、
それぞれの真理の中に生きている。

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