満月の夜、海辺を散歩していた。
気持ちよく潮風に吹かれて歩いていた。
満月は、普段よりも赤く大きく見えた。
月は、自ら輝かず、
輝く位置にいる時だけ太陽を反射する。
輝くには、
太陽の光を受ける位置にいることが大切なのだ。
だけど、月が存在するのは、輝く時だけではない。
輝いていない時も、月は存在している。
輝きたいなら、輝く位置にいればいい。
ただ、輝くかどうかは、人からの評価に過ぎない。
月は丸いけれど、
輝きは丸いとは限らない。
見えているものが正しいのとは限らない、
見逃しているものは何なのか。
ところで、海辺には街灯がない。
足下は真っ暗。
進行方向がほとんど見えなくても、
月の光を目指して歩いて行ける。
月まで道が続いているとは思ってないけど、
とりあえず、数歩先が見えれば、
月の方向に歩いて行けるのだ。
月にたどり着くのがシアワセなんじゃなくて、
月に向かって潮風に吹かれて歩いていける。
そのこと自体が、
とても心地よく、シアワセに感じる。
海の駐車場に来た。
街灯のまぶしい光があった。
直後、目がくらんで、
それまで見えていた足下が見えなくなった。
あまりにも明るすぎると、
周りの陰影が、すべて真っ暗に見えるのだ。
恵まれすぎているから、
少しでもそこから外れることが怖い。
夢に向かって一歩ずつ歩いていた場所が、
身動きのとれない真っ暗闇に変わる。
まばゆい光の中に立つことは、
負のコントラストも強まることでもある。
月を見ながらの散歩。
月はあれこれ饒舌に語っていた。
月は、それ自体で、哲学であり、
それ自体で、カンペキな真理だ。
月から何を読み取るかは、見る人次第。
釣り人は、月など見ないで、一心にウキを見、
私は、海も魚も見ないで、一心に月を見ていた。
この時間、残業中の人も、
赤ん坊を寝かしつけている人もいるだろう。
私たちは、同じ世界に立ちつつ、
それぞれの真理の中に生きている。
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