捕獲がアマゾン河とあったので種類としてはオオアナコンダと思われますが、この画像が本当かどうかは判りません。
個人的には合成画像と思っています。
三線はベトナムの養殖ニシキヘビで製作しますがこんな巨大なものはいません。
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三線に使用されるニシキヘビはこのくらいの大きさです。
私の三線を置いてみました。(自宅2階から撮影)
三線用に使用されるものは、長さが2m50cm~3m50cmくらいが通常かと。
下は、私が三線用に使用する蛇皮。
これも大きく見えますが、腹部中央から切って広げたものなのでこのように見えます。
実物はテレビなどで見るような大きさです。
そして・・・・
ニシキヘビの皮を使ってこんなものを作ってみました。
小さな額に三線製作に使用して余った部分のヘビ皮を活用して、中央に琉球切手のサンシンを入れてみました。
切手だけだと、しまったままになって忘れ去られてしまうのでこのようにして飾りにしました。
備考
切手 蛇皮線 3¢(3セント:アメリカ$通貨)
発行日:1965年7月1日、発行枚数85万枚
1965年当時の沖縄の人口 93万人
さて、この切手にデザインされている三線ですが、実は今も現存していて、一般の方の手元にあるのです。
そして、この三線にまつわるおもしろいエピソードがあり、下記に追記したいと思います。
少し長くなりますが、もう少しお付き合いください。
切手になった三線 翁長開鐘
はじめに・・・・
この三線は、琉球国17代尚灝王の愛用した三線です。
時は江戸時代、天保の改革(1830年 - 1843年)よりも前で、将軍が徳川 家斉(いえなり)第11代 征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)の頃、琉球王国は、第17代尚灝王(在位:1804-1834)の時代となっていました。
第17代琉球国王の尚灝(しょう こう 在位: 1804-1828)の系図
そして、尚灝王の時代から海外との交易が賑やかになってきます。
1816年にイギリスの軍艦二隻が那覇の泊港に寄港して琉球の人たちと交流をしています。
1821年にはオランダの商船が来航して開港貿易を要求したようですが、その時の琉球は日本の一部とな
っていましたので、交渉に応じる事が出来ませんでした。
1827年にはイギリスの商船も来沖して同じように開港貿易を求めてきます。
さて、三線の話ですが、そんな時代にはすでに存在しています。
その後1872年の琉球処分による強行的な廃藩置県により琉球国は廃され、琉球藩となり、旧国王も東京に移住させられることになりました。
注:「江戸」が「東京」という名称として使われるようになったのは、1868(明治元)年。
琉球処分から72年後、また、沖縄は大変な事態に・・・太平洋戦争です。
1944年の太平洋戦争においては、那覇市が10.10空襲で市街地の大半が焼失したり、1945年の沖縄戦での戦没者は、20万人を超え、国宝も数多く失ってしまいました。
そんな戦前、戦中、戦後の中、この三線は果たして 無事だったのでしょうか?
実は、こんなエピソードが・・・・・
☆無事だった翁長開鐘(ヲゥナガケージョー)☆
昭和10年(1935年)頃、野原昌彦は勝連村平安名で医者をしていたが小学校の同期生だった沖縄工業学校の教師福田恒禎(旧伊礼門)から、尚家が放出した三線が質屋から売りに出ていて、いい三線なので買わないかと連絡があった。
福田はその頃、古典音楽を習っており情報があったらしい。
医者をしていた野原昌彦でもおいそれと準備できる金ではなかったが、辻でジュリユビ、サキヌミ(辻遊廓で女郎買い、酒飲み)をする金を節約したと考えて手に入れたという。
値段は当時40坪の赤瓦の家が建つほどであった。
買った三線はミートゥンダ(夫婦)三線で箱に具志川開鐘と二つ入っていた。
そして、購入後、沖縄は戦争に巻き込まれる。
昭和20年(1945年)4月米軍の上陸で家の近くの墓に避難することになった。
命からがら狭い墓の 中に家族ともども入るので余計な物は持ち込めない 。
十分に吟味した結果医療品と三線を持ち込むつもりであったが、どうしても墓に納まらない。
そこで医療品は戦争が終わればまた買うことも出来るが、三線は失ってしまうと二度と手にすることは不可能と判断し、医療品は残し三線箱だけを抱いて墓に避難した。
お蔭で戦災を潜ることが出来たと言う。
以上の話は、野原昌彦さんが翁長開鐘を購入した経緯について息子の俊一さんが語ったものである。
敗戦直後は五開鐘やその他の名器の消息が不明で名器として完全無欠なのはこの翁長開鐘だけだったので、展示会や名器鑑賞会ではたいへん活躍し、われわれに誇りと生きる力を与えてくれた功績のある名器である。
あの一徹者の昌彦医者も出来ればこの名器を抱いたままあの世 に行きたかったのであろうが、それだけは出来ない相談であった。
以上は宜保榮治郎 「三線のはなし」に掲載されている。
翁長開鐘三線について
型はマカビ型
ティーガに特徴があり、半分だけのティーガである。
また、画像では見えないが、カラクイの先には穴があいていて
ひらひらする飾りを取り付けられるようになっているという。
のちにこの三線は昭和30年(1955年)に特別重要文化財に指定された。
この三線のほかにも「志多伯開鐘」、「湧川開鐘」が指定を受けている。
これら3艇の三線には、「開鐘けーじょー」という特別な名前が付された。
これは、三線の棹の胴に隠れる芯(心)部分に朱書きで「◯◯開鐘」と記されていることに拠る。
一説によると、寺院の梵鐘のように遠くまで聞こえる三線、いわゆる「ユーナヤ(善く鳴る)三線(遠くまで響く三線)」のことをさす。
この三線は、尚灝王の在位した時、すなわち1804年からあったとするならば、2018年の現在から逆算すると、214年間も大切に使われていたということになります。 すごいですね。今も個人が所有していますが、2019年の県立博物館展示会にはお披露目されるかもしれないので、この話も頭に入れながら鑑賞していただければいいのかなと思っています。
さて、話は長くなりましたが、またまた、切手の話に戻りたいと思います。
戦後は、1972年まで沖縄は米軍統治下にあり、通貨はドルでした。
当然、切手もドル表示です。 なんと、私もそのドル時代で生活していました。 古っ!(笑)
この三線が切手になったのはおそらく、敗戦後に最初に現れた三線がこの翁長開鐘で、かつ第17代琉球国王の尚灝(しょう こう 1804-1828)愛用の三線だったということもあり「切手」にする三線として選ばれたのではないかと思います。
この切手は、1965年に発行されたもので、切手の画は洋画家の安谷屋正義氏、切手全体の構成は前野京平氏となっています。
※安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年(大正10年)8月26日 - 1967年7月29日)は、昭和時代に沖縄県で活躍した洋画家ですが、この切手のデザインから2年後1967年に46歳で死去されています。
本土復帰45周年を記念して販売された沖縄切手総カタログの71ページに下記記載があります。
71ページの拡大です。↓
以上ですが、切手だけを見ても、その三線にまつわる話があったなんて誰も分からないかと思い、ブログに残してみました。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
備考
最後に沖縄の毒蛇(通称:ハブ)の画像です。