Oka-Changと櫻田宗久の往復書簡

迷わず読めよ。読めば分かるさ。

おかやんへ by仕事がえりに

2008-09-29 04:10:25 | Weblog
友達っていいね。おかやん。
なんか、いっぱい飲んで、ちょっとよっぱらってるけど。

正直に書くのって、難しいです。
できるだけ、正直に書こうと思う。
けど、難しい。

なんか、顔色うかがって生きてる感じって、
とてもいやね。

本当のこと。
書くということ。

本当かどうかわかんないけど、
心のままに書くということを考える。

心がきもちいい感じのこと。

それならば、出来る気がするのだけど、
でも、それは、友達に。
心のことを、聞いてくれる人に。

僕は、文章では、まだ、そこが精一杯で、
しかし、それも難しいから、
文章にして、いく仕事の大変さを思う。

ぜんぜんかみ合ってないかもだけど、
こんなことをふと、思いました。

それでも、数少なくても、
こうやって、通信できる友達がいることの、
幸せをかみ締めるわ。

ありゃ、なんと、ありがたい。

すっきりする。

そもそも、過去をわすれがちな俺は、
自分が、モデルをやってたことだったり、
歌を歌ってたことすら、忘れていて、
カメラマンだってことも、つくってないと、
忘れてしまいます。

だから、時折、ものすごく、不安になる。
あれ、作れるのだったっけか、俺は…と。

しかし、そうも言ってはおられず、
作るしかない。

作りたいから。

選んだから、やるって。

そんな思いを、日々、感じながら、
いや、作る!作れないかも…、作る!あれれ??
みたいな。
結局は、作る。んだけど。と思う。

今しか出来ないことを今やって、
また、新しい課題がきて、

いつの間にか、あんた大人になってたな!って、
最近ある友達見て思いました。

シンプルだけど、そういうことだよなぁと思いました。

そして、見てくれる人達は必ずいる。
応援してくれる人。

力及ばずかもだけど、応援してるぜ。

よい風が吹きますように。

宗久

宗久くんへ    無題。

2008-09-29 02:50:35 | Weblog

こんばんは。
眠れないので、連投。&どうでもよい日記のような手紙をば。


調子良かったのはたったの数日で、あとはもうだめだめで。
原稿、すっかり止まってます。

mixiで日記を書いてた頃は、
明も闇(あん)もごちゃまぜでまんまを書いていましたが、
公(おおやけ)のここでは、
意識的に闇の時は発信しない方向でやっていたのだけど、
闇ばかりの昨日今日、考え変えて伝えることにしました。あぁもう真っ暗闇よ。

いったい全体、
みんなどうやって原稿書いて暮らしてるんだろう?

「朝起きて、たとえやる気がなくっても、
一応(書いてる原稿のページを)開く」っていうのを、
遠い昔に誰かさんから教えてもらいました。

明日はそうしてみよう。
起きたら早速ベランダへ出て、
近所の仔猫探してる場合じゃないです。(締め切り二日前)


おか





宗久くんへ  戦いすんで、日が暮れて……

2008-09-23 05:06:58 | Weblog
また間があいてしまった。ごめん。

宗久くん、いかがお過ごしですか?
こちらは先週より、ようやっと執筆体勢に入ってくれたみたい。2本同時に書いてる。
「みたい」なんて、相も変わらず他人事だったりするのは、
普段のあたしの生活が、
ものを書くことを生業としている人たちのそれとは
比べようもないくらい日当たりが良く……
あ、そうそう、
最近は『粉粧楼(フンショウロウと読みます)』って名前のバラがあることを知り、なんて綺麗な名前なんだろうと小さく感動した。
中国産のバラで、それほど希少な品種でもないところも気に入ってて。
わりと小ぶりのまあるいバラ。うつむき加減に咲くそうな。
宗久くんとこの植木は元気ですか?


その後、伝えるべきことは伝わった?
あたしは案外伝えてないことが多いな、そういう場合。
「まんま、伝わるはずがない」って、はなから物事を諦めてるふしがある。
昔っからそういう性格なんだよね。
だからかえって、伝えなければいけない場面が苦手で。
なるったけ、人生にそういう局面が訪れないようにうまくやってる。
どうしたらそうなるって具体的な方法があるわけじゃないけど、
なんかこう、空気の隙間をボクサーみたいによけるみたいな……こう、あんだよね、やり方が。


今日はね、夕方雨が上がったじゃん?
メダカの餌持って、屋上にあがってみたのね。
夕焼けがきれいなもんだから「わーーい」つって、
睡蓮が咲いてた池(というか、水槽?)あったじゃん?あそこに向かって歩いていくと、
池のすぐ近くに並べてあるガーデンチェアーに、杖ついたままで座ってるおじいさんがいて。
新宿の方を向きながら、
♪戦いーすんでー、日が暮れてー
って、大声で歌ってるんだな。補聴器つけてた。
邪魔しちゃ悪いなと思って、遠慮がちに近づき、
池の縁に座ってそれでもメダカとグッピーに餌あげたの。
20も30もグッピーが寄ってきて、
ピチピチって餌を食べてるのがほんとかわいくて眺めてるんだけど、
おじいさんはさ……満州に行ってたんかな?「ここはお国のー」って、
あたし、それを聴きながら、目が潤んでしまってさ。
それがなんとも極めて小説的な場面で…… 困ったよ。

今日は他にも、同じく屋上で犬の散歩をしてるおばさんから、
「11月になるとサギがやって来て池の鯉を食べちゃうから、
夏の時期に解禁される屋上プールの方へ、
管理人さんたちが鯉を逃がしてやってる件」とか、
「ここのグッピーも、冬になると死んじゃうから、
地下のたらいかなんかの中に一時避難させてる件」とか、
いろいろブロードウェイニュースが聞けたんだけど、
やっぱりおじいさんの歌の方が今も頭から離れてくれない。
人って、「哀しい」の方が心に残るんだね。

今、書いてるお話、ぜんぜん哀しくないんだよなー……(遠い目で)


そんな秋分の日です。
しばらくこんな調子ですので。

突然寒くなってきたから体気をつけてね。
あたし、今日、セーター出したよ。

Oka-Chang













Oka-Changへ、 伝える

2008-09-09 01:58:28 | Weblog
変則的に、そのまま、書き進めるわ。

ブログやめちった。
おかちんとのこれが始まって、一気に、ブログ熱さめ、
伝えたい人、交流、そのものに、
興味があるんだなぁと、内心思っておりましたが、
なんだか、やっぱり、そうで、
この形で、交流しつつ、発信できることに、
気持ちが、いってるんだな。

そういう事だったのかもしれぬ。

気がつきました。

たとえば、編集者さんとの関係においても、
やっぱりそうで、
人間関係なのだわ。
簡単なようで、難しかったりしつつ、
基本、そんなシンプルなこと。

なんだかな。

いや、それだ。

先日、友達の前で、つい号泣した。
甘えの涙ではないはず。
なんだか、無性に涙が溢れ、
泣いた。
その涙は、状況においての涙だったのだけど、
いろんな、昔を思い出してしまい、
泣いたのだった。

酔っ払ってたせいもあるけど、
あるポイントが、自分の人生のなにか、
負の感情を引き起こさせるものがあって、
そこを、つくものだった。
負?なのか、悲しいポイントっていうか。

大きな視点でみりゃ、たいしたことないんだけど、
癖?みたいな、ものかも知れぬ。

そこは、大切な泉が流れており、
汚さないように、してた場所で、
ちょっとしたことでも、繊細に感じてしまうように、
なってしまって(もしくは、してきた)場所であったから、
泣くのは、当然なのでありました。

そんな難しくはないのかな。
ただ、そうなってしまう。だけかもね。

へんな、ポエム的な文章になってしまうけど、
許して。

そんなことも、あり、
今日も、撮影があったりで、
言葉の重要性というのを、
せつに、感じた日でした。

言葉というか、伝えようとする気持ちというか。

たとえば、モデルの人に、
どうして、もらいたいということって、
言葉で伝えないと、やはり、伝わらなく。
彼氏にだって、やはりそうで、
話さないと、伝えないと、伝わらない。

伝えないと、傷つくことも、
あったりで。

誤解をうんだりね。

文書も、そういう役割を演じているのでは、
ないのだろうか。

伝えることの大切さを切に感じてます。

そして、泣くとすっきりし、
伝えると、(もしかしたら、一方通行の恐れもあるが)
すっきりする。

伝えようと思う。

伝えるわ。

宗久くんへ  Oka-Changより

2008-09-08 04:03:17 | Weblog

宗くん、こんばんは。
……あ。
この「宗くん」というのは、
先日お会いした内田さんが宗久くんのことをこう呼んでおり、
あたしもさりげなくこの場を借りて真似てみたわけだけど、
人が人を「さんづけ」から「君づけ」、
さらにはあだ名で呼んでみちゃったりする瞬間に起こる微量な化学反応に興味があったりします。
そう考えると、あたしの場合は……一体これなんなんだろね?
いきなり「ちゃんづけ」を強いるという。
たいがいの編集者さんは「おかさん」とか「おかちゃんさん(←はっきりいって、ヘン)」と呼ぶんだけど、
一人、「岡田さん」って、頑なに旧姓で呼ぶ人がいて。旧姓時代に出会ったわけでもないのに。
「さん」から「ちゃん」へ、さらにはあだ名へシフトさせるのが、
実はちょっとだけ苦手だったりするあたしです。
宗久くん、その後いかが過ごしですか?(また戻ってるし)

この往復書簡の中では、「鳳凰」以来だね。
実は一昨日会ってんだけど。

「鳳凰」は本当に楽しみまくってました、あたし。
これ、女子にはよくあることなんですが、
おうちでお化粧してる場面から、楽しんでた。
ひいては前夜、ここで連投してた段階から。
「おうちへ帰るまでが遠足です!」の、遡ったバージョンですね。
そう考えると、
ある出来事の前後も十分、「出来事」の内に入ってて、
それが、ある時はいくつも重なってたり、
そうすれば、宗久くんのいう、

>繋がって、繋がって、いつの日か、
>こんな愉快なことだけが、身の周りを
>しめているという状況に、なったらいいなぁ。

……に、なるんだろうね。
自分も静かにその時を見守りたいと思います。


話変わって、
あたしが唯一好きな作家さんの中に久世光彦さんという人がいるのです。
(ちゃんと数えたことないけど、おそらく3人ほどしかいない。心が狭いから。)
その人の著作の帯に、
『人生は<配役>の問題だ』っていうのがあるのですよ。
これにあたしは心底痺れたのと同時に、
常々自分がぼんやりと、でも、確信として思っていたことがピタッと決まったというか。
作為的にそれ(キャスティング)をやるのははしたないと思ってるから、
もう目の前にそれがぽとんと落ちてくるのを待ってるだけなの。完全に天まかせ。
だから、それ(というか、「人」といった方が分かりいい)が去っていっても、
わりとあっさり「しょうがないか」と思ってしまう。
ある意味、あきらめ上手だったわけですが、
37年も人間やってると、
何度も何度もふるいにかけるかのような場面があって、
(特にあたしの場合、離婚が大きかったな)
今残ってる人たちっていうのは、戦友みたいな感じなのです。同志というか。
仰天するほど少人数だったりするだけに、
今ある人間関係というか、
おともだちとは、今後も丁寧におつきあいしたいなと常々思っています。
「出会うべき人とはもう出会えている」という、
ある種、閉鎖的な考え方はわりと昔っからで、
2003年だかにも、そんな原稿を書いていたりするのですが、
それは今も変わりません。出会うべき人とは、もう出会えている。
……って、とても真面目に気持ちを綴ってることに今やっと気づいて、
脇に汗がツツーーと流れてたりしますが、
まぁ、そんな風に思うとるわけです。
本当に若くないんだ、その辺。ばあさんみたいなの。
「あぁどうもね、ありがとね」って。


だから脅迫しなくても大丈夫、
人生まるごとケネン(懸念)なし、です。(『らき☆すた』のパクリ)


Oka-Chang