宗くん、こんばんは。
……あ。
この「宗くん」というのは、
先日お会いした内田さんが宗久くんのことをこう呼んでおり、
あたしもさりげなくこの場を借りて真似てみたわけだけど、
人が人を「さんづけ」から「君づけ」、
さらにはあだ名で呼んでみちゃったりする瞬間に起こる微量な化学反応に興味があったりします。
そう考えると、あたしの場合は……一体これなんなんだろね?
いきなり「ちゃんづけ」を強いるという。
たいがいの編集者さんは「おかさん」とか「おかちゃんさん(←はっきりいって、ヘン)」と呼ぶんだけど、
一人、「岡田さん」って、頑なに旧姓で呼ぶ人がいて。旧姓時代に出会ったわけでもないのに。
「さん」から「ちゃん」へ、さらにはあだ名へシフトさせるのが、
実はちょっとだけ苦手だったりするあたしです。
宗久くん、その後いかが過ごしですか?(また戻ってるし)
この往復書簡の中では、「鳳凰」以来だね。
実は一昨日会ってんだけど。
「鳳凰」は本当に楽しみまくってました、あたし。
これ、女子にはよくあることなんですが、
おうちでお化粧してる場面から、楽しんでた。
ひいては前夜、ここで連投してた段階から。
「おうちへ帰るまでが遠足です!」の、遡ったバージョンですね。
そう考えると、
ある出来事の前後も十分、「出来事」の内に入ってて、
それが、ある時はいくつも重なってたり、
そうすれば、宗久くんのいう、
>繋がって、繋がって、いつの日か、
>こんな愉快なことだけが、身の周りを
>しめているという状況に、なったらいいなぁ。
……に、なるんだろうね。
自分も静かにその時を見守りたいと思います。
話変わって、
あたしが唯一好きな作家さんの中に久世光彦さんという人がいるのです。
(ちゃんと数えたことないけど、おそらく3人ほどしかいない。心が狭いから。)
その人の著作の帯に、
『人生は<配役>の問題だ』っていうのがあるのですよ。
これにあたしは心底痺れたのと同時に、
常々自分がぼんやりと、でも、確信として思っていたことがピタッと決まったというか。
作為的にそれ(キャスティング)をやるのははしたないと思ってるから、
もう目の前にそれがぽとんと落ちてくるのを待ってるだけなの。完全に天まかせ。
だから、それ(というか、「人」といった方が分かりいい)が去っていっても、
わりとあっさり「しょうがないか」と思ってしまう。
ある意味、あきらめ上手だったわけですが、
37年も人間やってると、
何度も何度もふるいにかけるかのような場面があって、
(特にあたしの場合、離婚が大きかったな)
今残ってる人たちっていうのは、戦友みたいな感じなのです。同志というか。
仰天するほど少人数だったりするだけに、
今ある人間関係というか、
おともだちとは、今後も丁寧におつきあいしたいなと常々思っています。
「出会うべき人とはもう出会えている」という、
ある種、閉鎖的な考え方はわりと昔っからで、
2003年だかにも、そんな原稿を書いていたりするのですが、
それは今も変わりません。出会うべき人とは、もう出会えている。
……って、とても真面目に気持ちを綴ってることに今やっと気づいて、
脇に汗がツツーーと流れてたりしますが、
まぁ、そんな風に思うとるわけです。
本当に若くないんだ、その辺。ばあさんみたいなの。
「あぁどうもね、ありがとね」って。
だから脅迫しなくても大丈夫、
人生まるごとケネン(懸念)なし、です。(『らき☆すた』のパクリ)
Oka-Chang