孝明天皇の肖像画は描きかえられていた!・・・というお話。
ワシは実に恐ろしい発見をしてしまったのだ。
孝明天皇の肖像画って、そもそもこんな感じの絵だ。↓
泉湧寺所蔵の公式の肖像画:堤哲長(あきなが)画(1827~1969)
或いはこんなのも有る。
平安神宮に祀られている孝明天皇
昔ながらのタッチの絵だ。
ここまでは良い。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に採用されている肖像画がこれ。↓
孝明天皇:写実的な肖像画 『ウィキペディア(Wikipedia)』
かなり写実的だから、実際にこんなお顔だったのかなぁ・・。
と感じさせられる絵だ。
さて、そこで孝明天皇のお子、明治天皇はどうか?と調べてみたら↓
明治天皇の御写真。どことなく似ているでしょ?
孝明天皇 写真で検索すると、あのクソったれ掲示板でも取り上げられている・・。
両天皇の下唇が受け口になっているので、「親子に間違い無し!」と言う意見もあろうが、甘い。
ドナルド キーン の「明治天皇」1の見開きに、
孝明天皇の肖像画の写真が載っている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/ba/5ad541d708a290169384c0726161667d.jpg
ワシはそれを見て、ハッと思った。
ウィキペディアの肖像画と全然違う顔をしているのだ。
松平健の顔に雨上がり決死隊の宮迫の目をつけて怒った様な顔をしているのだ。
そこにはこう書いてある。
“太陽臨時増刊「明治聖天子」(1912、博文館)に掲載された孝明天皇の肖像画。”
“現在どこにあるかは不明。(資料提供・三康図書館)”
・・・と。
「行方不明か・・・?明治天皇と似ていないので、宮内省が隠したのかな??」
ワシはそう思った。
それからワシは飯沢 匡 (著) 「異史 明治天皇伝」を読んだんだ。
そこには、五姓田義松(ごせだよしまつ)という写実的な画風の画家が、
明治天皇巡幸の図を描き、更に孝明天皇の肖像画を依頼されて描いた!とあった。
ワシはここで感づいた。
「はは~~ん、明治政府は歴史を改竄したな!」と。
怒った宮迫の顔こそが本当の孝明天皇のお顔であるが、
下唇の出た優しそうな肖像画は、
五姓田義松が明治天皇(大室寅之祐)に似せて描いたモノに間違い無い!!!・・と。
これで一件落着したかに思えた。・・・・のだが。
大どんでん返しがあったのだ。
更に「孝明天皇・肖像」で検索をかけてみると、宮迫の目の天皇の肖像画の写真がネット上に1枚だけ見つかったのだ。
それがこれ↓
菊の御紋の額縁に収まった孝明天皇の肖像画だ。
「おお!行方不明の肖像画だ!これは恐らく宮内庁にあるんだ。」
正しく、ドナルド・キーンの「明治天皇」にある写真と同じ“構図”だ。
何故か中国語の注釈が書いてある。皇居に入る事を許された台湾人だろうか???
「明治天皇的爸爸
這張是在他去逝之後才描繪的 」(明治天皇のパパ、この絵は彼の死後描かれた物だ。)
(死後に描かれた・・・?うん???むむむ???)
もしかして、五姓田義松なのか??(汗;)
ワシはこの写真をアップにして良く目を凝らしてD・キーンの本の写真と見比べた。
「な、な、なんと、下唇が描きかえられているではないか~!」
行方不明の絵は目と口が微妙に異なっている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/08/63a8574a88d68078c67fe5a4f4b8a650.jpg
つまり、五姓田義松はあの行方不明の(怒った宮迫)孝明天皇の肖像画を模写して、尚且つ明治天皇(大室)の口元に似せた肖像画に書き換えていたのだ!!!
(当然、お上から指示されたのだが・・・)
宮内庁は“基の絵”を隠蔽(行方不明)し、菊の御紋の入った額縁に“偽孝明天皇の肖像画(五姓田画)”を填め込み、
大室天皇は孝明天皇の実子だと言い包めようとしたのだ。
今現在、我々が見ている孝明天皇の肖像画は、本当の孝明天皇のお顔では無い。
恐らく、あの「怒った宮迫」の顔が真実のお顔なのであろう・・・。
それにしても、あの菊の御紋の肖像画はいったい何所に保管されているのだろう・・?
そして、あの写真をアップした台湾人(シナ人?)は、一体誰なんだろうか・・?
不思議で不思議で仕方が無い。
知っている人が居れば、ワシに教えて下さいな。
黄泉国(よもつくに)と交信できれば是非、伺ってみたいものだ。
孝明天皇さん、あれが本当のあなたですよね!??
『そうだよ ぼくだよ、
ぼくが
孝明だよ!』
以上、メルヘンなお話でした。
お後が宜しいようで。
このメルヘンを読んで、楽しめた方はクリックして下さい。全然、意味が解らなかった方は右クリックを!!
ナンにも無いけどね。(笑)
ワシは実に恐ろしい発見をしてしまったのだ。
孝明天皇の肖像画って、そもそもこんな感じの絵だ。↓
泉湧寺所蔵の公式の肖像画:堤哲長(あきなが)画(1827~1969)
或いはこんなのも有る。
平安神宮に祀られている孝明天皇
昔ながらのタッチの絵だ。
ここまでは良い。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に採用されている肖像画がこれ。↓
孝明天皇:写実的な肖像画 『ウィキペディア(Wikipedia)』
かなり写実的だから、実際にこんなお顔だったのかなぁ・・。
と感じさせられる絵だ。
さて、そこで孝明天皇のお子、明治天皇はどうか?と調べてみたら↓
明治天皇の御写真。どことなく似ているでしょ?
孝明天皇 写真で検索すると、あのクソったれ掲示板でも取り上げられている・・。
両天皇の下唇が受け口になっているので、「親子に間違い無し!」と言う意見もあろうが、甘い。
ドナルド キーン の「明治天皇」1の見開きに、
孝明天皇の肖像画の写真が載っている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/ba/5ad541d708a290169384c0726161667d.jpg
ワシはそれを見て、ハッと思った。
ウィキペディアの肖像画と全然違う顔をしているのだ。
松平健の顔に雨上がり決死隊の宮迫の目をつけて怒った様な顔をしているのだ。
そこにはこう書いてある。
“太陽臨時増刊「明治聖天子」(1912、博文館)に掲載された孝明天皇の肖像画。”
“現在どこにあるかは不明。(資料提供・三康図書館)”
・・・と。
「行方不明か・・・?明治天皇と似ていないので、宮内省が隠したのかな??」
ワシはそう思った。
それからワシは飯沢 匡 (著) 「異史 明治天皇伝」を読んだんだ。
そこには、五姓田義松(ごせだよしまつ)という写実的な画風の画家が、
明治天皇巡幸の図を描き、更に孝明天皇の肖像画を依頼されて描いた!とあった。
ワシはここで感づいた。
「はは~~ん、明治政府は歴史を改竄したな!」と。
怒った宮迫の顔こそが本当の孝明天皇のお顔であるが、
下唇の出た優しそうな肖像画は、
五姓田義松が明治天皇(大室寅之祐)に似せて描いたモノに間違い無い!!!・・と。
これで一件落着したかに思えた。・・・・のだが。
大どんでん返しがあったのだ。
更に「孝明天皇・肖像」で検索をかけてみると、宮迫の目の天皇の肖像画の写真がネット上に1枚だけ見つかったのだ。
それがこれ↓
菊の御紋の額縁に収まった孝明天皇の肖像画だ。
「おお!行方不明の肖像画だ!これは恐らく宮内庁にあるんだ。」
正しく、ドナルド・キーンの「明治天皇」にある写真と同じ“構図”だ。
何故か中国語の注釈が書いてある。皇居に入る事を許された台湾人だろうか???
「明治天皇的爸爸
這張是在他去逝之後才描繪的 」(明治天皇のパパ、この絵は彼の死後描かれた物だ。)
(死後に描かれた・・・?うん???むむむ???)
もしかして、五姓田義松なのか??(汗;)
ワシはこの写真をアップにして良く目を凝らしてD・キーンの本の写真と見比べた。
「な、な、なんと、下唇が描きかえられているではないか~!」
行方不明の絵は目と口が微妙に異なっている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/08/63a8574a88d68078c67fe5a4f4b8a650.jpg
つまり、五姓田義松はあの行方不明の(怒った宮迫)孝明天皇の肖像画を模写して、尚且つ明治天皇(大室)の口元に似せた肖像画に書き換えていたのだ!!!
(当然、お上から指示されたのだが・・・)
宮内庁は“基の絵”を隠蔽(行方不明)し、菊の御紋の入った額縁に“偽孝明天皇の肖像画(五姓田画)”を填め込み、
大室天皇は孝明天皇の実子だと言い包めようとしたのだ。
今現在、我々が見ている孝明天皇の肖像画は、本当の孝明天皇のお顔では無い。
恐らく、あの「怒った宮迫」の顔が真実のお顔なのであろう・・・。
それにしても、あの菊の御紋の肖像画はいったい何所に保管されているのだろう・・?
そして、あの写真をアップした台湾人(シナ人?)は、一体誰なんだろうか・・?
不思議で不思議で仕方が無い。
知っている人が居れば、ワシに教えて下さいな。
黄泉国(よもつくに)と交信できれば是非、伺ってみたいものだ。
孝明天皇さん、あれが本当のあなたですよね!??
『そうだよ ぼくだよ、
ぼくが
孝明だよ!』
以上、メルヘンなお話でした。
お後が宜しいようで。
このメルヘンを読んで、楽しめた方はクリックして下さい。全然、意味が解らなかった方は右クリックを!!
ナンにも無いけどね。(笑)
それは階段の上にあるんだよね、謎の蝉丸と重衝、
東下りに関係あり、嘉禎年間、(かてい禎・旧字)
丹比真人島、安倍朝臣御主人、大伴宿禰御行、
石上朝臣麿、藤原朝臣不比等、
『多武峰曼荼羅』(談山神社)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%87%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
蝉丸が庵を結んでいたという逢坂山は、滋賀県大津市にある。
古来からの交通の要所。琵琶湖がひろがる。
東国を異界と捉え、それに対し京都を現界と思い定めであろう
その明確な概念化の時期を特定せぬ限り、古代伝統の
時間時軸、、、 蝉丸のいたという逢坂山は、異界と現界の
境界として、
長い伝統をもっていた。・・・「淡海」の清き清水、
それは古代人にとって聖なる水への夢想につながった。
・・・そこに住む神々や精霊たちは、絶えず現界との接触を試みていた。
はじめて眼にする光景は清らかな水をたたえた琵琶湖であった。
「大江」という名称は「淡海」に由来するといわれる。
異界と現界の出逢う場所、言祝ぎ・・・、
蝉丸神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%89%E4%B8%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
関蝉丸神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%9D%89%E4%B8%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
小野・・・、
現・蝉丸神社と、蝉丸上神社(大津市)は歴蔵に乗ってるが、
違う↑、佇立し続けた蝉丸であると考えられるべきである。
物乞いをして日々の糧をえているのである。
**『人にはれがら」れるためであり、時には
琴を弾ずることもあったが、(蝉丸は盲目ではなかった)
しょせん物乞いの手段でしかなかった。・・・、
蝉丸の歌は神に献ずる(咒のろうジュ歌)であり、
琴や琵琶は神鎮めの(咒具)だったのである(乞食芸能者。
「賎」というこもりと、高貴な都人との接点をもっていた。
蝉丸は神となるべき資質をはじめから内在させていたのであると。
出自ーー唇ーーうけ口ーー孝明は神になったんか。
都合が悪いから写真嫌い。という事にして隠した禰。
明治天皇?昭和天皇は神でなく人間宣言をしたし。
金星星影ー極北ーー
<英佛露獨位の各語に通じ自由に小説など外國語で書いて
やろうと思っているのだから>
初ノーベル賞の川端、、、文学って哲学とは
表現技能、現実からかけ離れたら脳の知恵
伝わんない(事実)。
神の始石上/綾織
おわりは孝明子孫の、祟りかも今日の惨事はつづくね。
次台風19号は先の18号をたどるという予報です。
特徴異常気象暴風の目あり、
あちこちそっちご注意ください。
>あれ、空気を読んでこういうこと言っちゃいけないのかな?
↑:お前はアホか?
実際に自分の感じた意見を素直に述べろ!ば~~か。
あれ、空気を読んでこういうこと言っちゃいけないのかな?
インボーロンの世界は、なんかよく分からんですわ。デビットロックフェラーとかなら確かに悪そうな顔してっけど(笑)
なぜ書かないんだ明治大帝<大室寅之祐」とし
て崇めてたんでしょう。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/09/post_250.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%91%AC
国葬*岩倉具視(神式)。大正天皇?(有栖川)
//明治天皇・・・*~*
列は品川から日比谷までつづいてた。
仏式から神式に大葬…、
明治大帝****大室寅之祐?へ?
昭和天皇の葬儀(旧式)大喪の礼。
ゼンゼン、よろしくオマヘンガナ。
「ワシくんのメルヘン」なお話でした。
ヤレヤレ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E6%B8%85%E6%9E%97
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AA
昔羽?
関取枡鳥
台湾の干支では豚(蓋)/即ちシナ(中国)・・・です
十二支で巳年は蛇・辰年は竜(龍)
ドラゴンポール七玉・・・落とし子
日本では鼠・丑(牛)・寅(虎の子)・兎(卯)・辰・巳
・馬・未(羊)・犬・申(猿)・酉(鶏/鳥)・猪
人に化てごまかす狐、狸をぬいて猫…婆ぬきしてる。
衣へんーー烏帽子・・・成人の儀式
孝明天皇から明治天皇そして大正天皇
明治45年
明治元年秋半ば10月13日
*(1868)
*(1867‐1912)明治天皇の在位期間
天保2年(1831)‐慶応2年(1867)孝明、
孝明天皇の崩御 1867年
明治天皇の在位 1912年
18671852=15
15才で世継して、明治は45年だから、
明治天皇は60歳で死亡した?
(半端な慶応2年(1867)、(1868))
慶応2年を溯って慶応4年とする
(14才で頭に載せた)
元服儀式、加冠を行う者のこと。
初冠とも言われる。
束帯姿は明治5(1872)
明治天皇(1873)
孝明は天保2(1831)-慶応2年(1867) 死去36歳。
の顔と皇子
明治天皇は14才(合体させ描いた明治帝替え玉)
という肖像、なぜ、写真が1枚しかないのかが鍵や。
相撲、
「世の中は桜の下の角力かな」
権力
http://blog.goo.ne.jp/ojisannsama/s/%B6%CC%CB%C8%BF%C0%BC%D2
2009年8月にお参りして、
宮司の旭形さんにお会いして来ました。
名鉄武豊駅徒歩5分程に有る
「玉鉾神社」がそうです。
一度参拝に伺ってみてはどうでしょうか。
私は写実的な絵描くのが得意で、AとBの違いを見分けるのが得意です。
骨格は当然同じですが、口元が完全に違います。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/08/63a8574a88d68078c67fe5a4f4b8a650.jpgこれ
と、
http://www.flickr.com/photos/5810832/295002322/
これ。
http://image.tnm.jp/image/1024/C0066839.jpg
http://webarchives.tnm.jp/archives/img/37567
この漢字は醍湾で高貴な方に使う。
ミステリー隠された肖像画「孝明」
>・・・一体誰なんだろうか・・?
ちょうしゅうめ・・・ 知りたい。