山下泰裕よ!○つの穴の小さい“シナ共産党人”なんか無視しろ!

2012-02-25 | 南京事件B
南京市、中日友好柔道館の記念行事中止を要請

中止しなさい。

別段、どうって事もないし・・・。



日本政府はこんな処に資金を出すなよ!!

日本の失業者対策にカネを使えよ!

中国・南京市に日中友好柔道館が完成

↑:結局さ・・「日本の想い」なんて、全然理解できない民族なんだよ、シナ人は。
恩をあだで返されるのが落ち。



青狐に聞こう!

2008-10-07 | 南京事件B
さて、説明してあげよう・・・。

「目撃した人は居ない」と主張されるなら (青狐)

2006-11-04 03:59:10

>2006-10-26 15:53:10
>一般人等を『虐殺』してる処を目撃した人は居ません。

夏淑琴さんをはじめ、日本語に翻訳されているだけでも数百人の目撃証言があります。

日本人でも日高信六郎氏の以下の証言があります。
「荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう」(広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」より)

「いません」と断定されるなら、それらの目撃証言すべてが捏造だと立証する必要があります。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::

1:夏淑琴・・・・このばあさん、言うことがコロコロ変わるのを知ってるよな?
ばあさんの証言は信憑性が薄い!って言うか、まったくのデタラメだ。
ばあさんが襲われた時間には、日本兵はまだ入城しとらん。
ばあさんの話が「ある程度」本当だと言うのならば、下手人はシナ兵だ。

残念、青狐!

2:>日本人でも日高信六郎氏の以下の証言があります。

↑:これ、目撃証言じゃぁ無いよね!? 伝聞よ、伝聞!!


青狐の嘘がバレる!!

こういったデタラメな伝聞を信じ込んだ日本人が書いた物など、何の証拠にもならんよ。

今は無き青狐・・・。

ワシは寂しいよ。

Apemanは安全区外は無人では無いと言った。

2008-10-07 | 南京事件B
さて、説明してあげよう・・・。

懐かしい人のコメント↓(このころはまだ、ヤツにも負けん気はあった・・。)
:::::::::::::::::::::::::::::::::

では、説明しましょう (Apeman)

2006-11-04 11:07:11

>否定論者がよりどころにする「20万人」というのは、
あくまで南京場内の一角に作られた国際安全区に集まった難民の数であって、
場内の他の地域、場外に留まっていた人々の数については断片的な証言しかありませんが、
無人でなかったことははっきりしています。

::::::::::::::::::::::::::::::::::
Apemanはハッキリと言っている。

1:安全区には難民が「20万人」居た。
2:場内・場外・・無人ではなかった。

安全区の20万人が何人虐殺されたのかを説明し、
且つ証明したヤツは一人も居らんよ。
場内・場外、どちらでも良いが、「難民区」以外に居て、
日本兵に虐殺された!っていうヤツ、
それを証明したヤツは一人も居らんよ。

Apemanに聞こう!

安全区の20万人は、陥落後どうなった!??人数は減ったのか?増えたのか?
場内・場外には難民が何人居て、何人虐殺されたのか???・・と。

絶対に答えられないよ。

Apemanは逃げるだけ。

南京事件、皆さんの感想コーナー。

2006-11-11 | 南京事件B
肯定派、否定派を問わず、感想、意見、恨み節、何でも良いから
言いたい事があれば、最後にどうぞ!

但し、細かい資料はもう必要無し。
誰かに対する質問も無し。

貴方の思いを語って下さい。
ワシへの罵詈雑言でも結構。

だけど、ハンドルネームはキッチリと!
荒らしは無しね。


貴方、言いたい事、いっぱいあるでしょう???
でもワシは、返答は一切致しませんので、あしからず・・・・・

君はルールを守れるかなぁ~???


もう、そろそろ終盤を迎え・・・

2006-11-11 | 南京事件B
今回の「南京大虐殺」の話だが、もうそろそろ終わりにしようかな・・。
平行線ってのは、どこまで行っても交わる事は無い。

それはそれで構わない

ワシは「南京事件」に関しての書物は、肯定、否定派を合わせて
約20冊しかまだ読んでいないから、議論するには足りないのかも知れない。
ま、インターネットで検索して、数々のHPも見たから
肯定派の言い分は大体解ってるつもり・・・・。

そもそも中国大陸って、匪賊、馬賊などの「盗賊」が跋扈する処。
所謂地方の軍閥が、それぞれの地域を支配していた。
張学良や、毛沢東も、蒋介石でさえも、大差は無いと思う。
最終的に武力で勝ちを収めたのが毛沢東だった・・・と云う事。

兵隊は即ち「傭兵」、食う為に兵隊になる事が多かった。
いや、拉致されて兵隊になったのも多かった。
国家意識は薄弱だから、すぐに寝返る。

唐生智が言う様に、シナ兵は、軍規、道徳は低かった。

軍隊の兵と匪賊の兵の区別も付きにくい程のモラルだった。

従って、掠奪、強姦、殺戮、放火などは、概ねシナ兵の仕業の可能性が“大”なり。

暗黒大陸中国の真実 (単行本) この本も面白いよ。
もうひとつの南京事件―日本人遭難者の記録 (単行本) ・・これもお薦め!
もともと、「南京事件」って、1929のシナ兵に拠る日本人等、外国人への襲撃事件を指して言ってた・・。

これらの本を読むと、シナ人ってどういう人種か?っていうのが良く判る。
現在の北京ですら、人民のモラルがどんなモンかが判るので、
行って見ると、体感出来て面白い。

ワシの意見は、やっぱり「南京大虐殺」は無い
軍服を脱いだ兵隊の処刑は、これに当てはまらない。
当時の外国人の証言、本、報道は、殆んど信頼出来ない。
(ベイツ、ティンパーリ、ダーティン、スティール、フィッチ、マギー等)

もう一度、言います。

南京大虐殺を、調べもしないで『あったんだろうなぁ~』って言う人は
勉強不足です!
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

調べた結果、『あった』と思うのならば、それはそれで意味がある。
議論をするのは構わないが、人格攻撃はそれ自体に意味が無い。

潜水艦さんが最後に張ってくれたリンクは、本当にその通りだ。
思考停止の「研究家」。

批判と罵倒を混同するトンデモ「研究家」
引用文:
・・・まして相手の説とは無関係な人格攻撃が、学問の発展にはいささかも寄与しない迷惑行為であることは言うまでもありません。相手をあらゆる手段で叩きのめせば、「勝者」としての自分の株が上がると思っているのでしょうが、そのような行為は良識ある人々を自分の周囲から遠ざけることになります。学界では全く相手にされない鼻つまみ者になること必定です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

絶対に解らん人は居るだろう・・・、しかし、今回の事で
議論をするにも、マナーと方法がある!と気付いてくれた人が
「肯定派」の中に、一人でもいたら、幸いである・・・・。

大分47連隊奮戦記より。

2006-11-11 | 南京事件B
難しい話ばかりだと面白くないので・・・・・・、
『南京作戦の真相』より、大分の草本少尉のお話を一つ。

保定城攻略戦から・・

<便器をオヒツと間違える>

シナの民衆が室内で使う便器をオヒツと間違えて飯を入れた中隊もあった。

ある将校がで顔を洗おうと思い民に洗面器を貸してもらった。

これが例の便器だった。

カンカンになった将校殿が怒鳴ると、

その民はこう言ったそうだ。

『便器でも綺麗に洗ってるから大丈夫よ~。汚くない
将校『いくら綺麗に洗ってあっても、便器で顔が洗えるか~!!

すると、シナの大人(たいじん)はこう答えた。

『ではお尋ねしますが、日本人は風呂に入る時、
           上半身と下半身を別々にして入るのかね?』


将校『・・・・・・・

シナの大人の勝ちである。  

悲喜交々の急行軍を続けながら・・・・・

秦郁彦氏は中国寄りか???

2006-11-10 | 南京事件B
秦郁彦氏は以前、NHK「その時歴史は動いた“盧溝橋事件”」で

『最初の銃弾は、国民党第29軍が発砲したものと考えている。』と言ってた。

中国共産党が撃った!とされるのが、
どちらかと言えば「有力」だと思うのだけど、そんな事は一言も言わず・・・。

彼は、結構、中国贔屓の感が濃厚なり。



まぁ、NHKも“対中国”となると、絶対に批判めいた事は言わないからなぁ・・。
「通州事件」に関しても、“虐殺”だ!なんて絶対言わないし・・・。

歴史を知らないと、あれではミスリードされて行きよる!






ハーグ陸戦法規(昔)と第三ジュネーブ条約(今)。

2006-11-10 | 南京事件B
交戦者の資格は以下の4条件・・・。

1、部下について責任を負う、一人の者が指揮していること。

2、遠方から認識することが出来る固着の特殊標章を有すること。

3、公然と武器を携行していること。

4、戦争の法規並及び慣例に従って行動していること。


国際法から見ると、軍服を脱いで、安全区に潜伏したシナ兵は、
捕虜の資格は無かった、と見て良い。  すなわち、処刑されても文句は言えない!という事・・・・。




唐生智将軍が部下を見捨てて逃げずに、降伏宣言をして、
日本軍の管理下で武装解除していたならば
敗残兵の処刑や、間違って処刑された(かも知れない)民間人被害?等も無かったかも知れない・・・・。

安全区内にシナ兵が侵入していなければ、沢山の兵士の処刑は無かったかも知れない。

その前に降伏勧告に応じていれば、一番良かったのかも知れない。

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秦郁彦(の本)の場合、ワシが変だなぁ・・と思う処は・・・
☆ティンパーリやベイツに関して、全く疑う事無く、信じている様な処、

☆中国の証言者(『南京への道』:本多勝一著など)の言う事を鵜呑みにしている様な処、

軍服を脱いだ兵隊を、敗残兵捕虜投降兵便衣兵などと分類している処、

☆敗走する兵隊を敗残兵と言っている様に聞こえる処。

☆虐殺被害者数を、3.8~4.2万人とすれば、中国側も理解するのではないか?・・・等と、中国に、お伺いを立てている処。

☆何の証拠があって南京陥落当時の第6師団を第16師団と比べ
「お行儀の悪さは甲乙つけがたかったと云うのが事実らしい・・。
と決めているのかが判らない、そんな処。


この人は、満州さえも日本の『中国侵略』だと決め付けている処が
どうも、理解出来ない・・・。
満州は満人の土地であり、漢人(シナ)の土地では無いのに・・・・。

でも、一番面白いのは、11月28日の外人記者会見で、
唐生智将軍が、
『中国軍の多くは訓練と規律に不足するので、不祥事が生じうるかも知れない・・、責任は持てないので、外国人は早々に退去して欲しい。』と言っているのを載せている処。

日本軍は、軍規、軍規と口を酸っぱくして言っていたが、
シナ軍兵士は危ないぞ~!とシナ軍大将が言っている処。
これが全てを如実に物語っているではないか!!?



だけど、ある程度、兵隊の日記等、“第一級資料”を引用している処は、認める。

しかしなぁ・・、ワシは日本軍の婦女暴行等は、どうも考えられにくい。
勤務(掃討)中にズボンを脱いで、パンツずらして、何をするのよ~?お前。
その最中に敵が来たりしたらどうするのよ~~~???

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(親父に聞いたら、「まず、は有り得ないし、当時の日本人(軍人)が、上官の命令を無視する事も、命令外の行為も、とても考えられない(そういう思考回路が無い)」と言っていた。元兵士の証言(爆)^^
・・・小野田さんの話を聞いてもやっぱり上官の命令は“絶対”であったと言うから・・・、まぁ~、考え難いよな~、何せ「勤務中」だもんなぁ・・・。)まぁ、それは南京大虐殺では無いけど・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

問題は「投降した兵」の処断であろうと思うが、
今の今まで“殺しあう相手であったシナ兵”を
急に『保護する対象』として見られないのは、まぁ~致し方無い部分もある気がするのだが?・・・。

壮烈従容たる谷師団長処刑の報道。

2006-11-09 | 南京事件B
民国36年(昭和23年)4月27日付の南京中央日報は、
谷寿夫師団長の処刑の実況を左の通り報道している。

7億中国人民の憎悪と怨恨を代表して、書いたつもりの中国側司法記者も

「従容たる態度であった。」と絶賛し

「嗚呼、日本一、精鋭の6師団」の最高将帥としての谷寿夫師団長の壮烈な武人としての、あっぱれな処刑の最期ぶりを記述している。

1面トップ7段抜き、超特号活字を並べている。





谷寿夫  昨日銃殺  
   雨花台上 兇魔報いを受け 
        数十万の幽魂 仇を報ず。


南京大虐殺事件の主犯、谷寿夫は、先に国防部戦犯軍事法廷で死刑を宣告され、
25日、午後2時国民政府主席から、刑執行許可の通知あり。

26日午前11時30分、軍事法廷が、被告谷寿夫の人定を行い
雨花台刑場に押送し、法により銃殺した。

刑執行の射手は、国府部警衛第一師班長(分隊長)洪二根で、
刑場を包囲した市民の歓呼拍手の中に、一発で死亡。

弾は後部から前方に貫通し、あお向けに倒れ、鼻口から出血していた。



民国25年(昭和12年)12月、谷は部隊を率いて杭州湾に上陸、
直ちに南京を衝き、雨花台を攻略し、中華門に進み、他の日本軍部隊と共同して
捕虜及び、非戦闘員を虐殺し、また強姦、掠奪、財産の破壊を行い、
我が、無辜の民衆の被害者は数十万に達し、その各種人道無視の暴行は筆舌に尽くし難い。

昨日、この一世の殺人魔王は顔色暗然として、再び雨花台に来り、
受くべき報を受け、雨花台の黄土は彼の永眠、懺悔の場所となった。

9時30分 戦犯法廷検察官陳光呉
書記官及び日本語通訳黄文政、等法廷に臨み、
暫くして被告谷、法廷に入る。

青色の軍服、黒の布靴を着し、憔悴の様子あり、時々眼を開けて両側を見る。

検察官は生命、年齢、本籍を聞いてから、家族からの通信三通を
彼に渡して閲覧させた。
その手紙は妻子及び孫からの物であったという事である。

谷は読み終わってポケットに収めた。
検察官が返信の要否を聞くと、
 「返信を書きたい・・。」
と答えた。 法廷でこれを許可し、彼はポケットから鉛筆を出し、
椅子にかけて手紙を書いた。

10時、陳検察官は、蒋介石主席の許可書を読み上げ、
被告に

「お前の刑は既に執行を許可された!
お前もこの裁判が公平、合理的、合法的である事が、
良く解っているだろう!」  と述べた。

谷は耳を傾けて聞き入り、口を堅く閉じて、鎮静に務めていたが、
不安の状は外面に現れていた。
彼は、
「南京大虐殺は、私とは関係が無い。
法廷で全本件の真相を調査し、明らかにした後、執行して貰いたい!

今、執行したならば、将来後悔ある日があろう!」

と抗弁した。

検察官は、
「お前の要求は私の職権外である。私は只、命に拠って執行するだけである。
被告は家族に対して遺書はあるか?」と問うた。

谷は無言でいたが、再び筆を取って妻子に遺言を書いた。

この時、拘留所の張副所長は煙草を一本、谷にすすめたが、彼は頷いて謝辞し、
従容たる態度であった。

遺言の中には、

「身は異郷に死すとも、魂は祖国日本に帰り、
七生報国世界平和の大義を守る。」の意味の文字があった。

10時45分
勤務兵は、彼の拘留所にある衣服その他、物品全部を法廷に運び点検させた。
その中には、衣服、腕時計、ペン、地図等があり、谷は布靴を脱ぎ、
黒の革靴と換え、品物を二包みに分け、

一つは法廷から日本軍連絡班に渡し、
留居宅に届けて貰う様頼み、
もう一つは、拘留所に残る他の戦犯に与えた。

この時、谷はボウッとして堪えられない様子で、
涙を浮かべていた。

最後に法廷は、他に遺言の有無を尋ねた。
彼は、
「拘留所の人々に感謝する。」
と、答えたのみであった。

11時
谷はラシャ帽を被り、灰黒色の手袋をはめ、軍用自動車に乗せられ、
雨花台に赴いた。

自動車が刑場に着くと、雨がひどく谷は2人の憲兵に伴われて進んだ。

処刑の報を聞いて、見物に集まった市民は非常に多数で、
歓呼拍手の音は爆竹の様であった。

12時45分
刑執行の兵は、彼の帽子を脱し、両側から各々一名の憲兵が
彼の手をとり、銃声一発、谷は地上に倒れた。

この一発で、劫古未曾有の大虐殺の主犯

「身は異郷に死すとも、魂は祖国故郷日本に帰り七生報国、世界平和の大義を守る」
ことになった。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

・・・以上が、谷寿夫師団長の処刑の記事である。
もし、南京大虐殺というモノが『無かった』としたら
こんなに悲しい出来事はあるまい・・・。

A級戦犯だけではない、B、C級戦犯も非常に理不尽な判決に拠って
命を奪われた事になるのである。

勿論、この南京に於ける裁判も、到底裁判の体を為していない、
一方的な復習裁判であった・・。
(被告の申弁無視、被告側証言無く(待たず)、単に中国側人民の告訴、
又は調査のみにして、適確なる証拠不十分であるにも拘らず・・・)

じゃぁ、この不幸は、南京戦の元を正せば、何処に行き着くのだろう・・・・?


谷寿夫中将、第六師団長

2006-11-08 | 南京事件B
この人が谷将軍。

南京裁判で処刑された。

とても素晴らしい人だったらしい・・。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
遺言の一節:
『真実を述べ最後まで努力の限りを尽くし
戦犯行為無しと陳述するも、
中国側に通ぜず一方的認定の下に此処に死刑の宣告を受けて死す!
日本男児として最後のご奉公に終焉した事を喜んで下され度。」


天皇陛下万歳と日本国の隆昌を祈り、時世2首を認めてある

『身はたとえ異郷の土となるとても 心は帰る君の御霊に。』

『戦友の御霊籠もれる雨花台へ 我も入りつつ共に語らん。』




ワシは情に訴えるのが大好きじゃ・・・・。

『南京作戦の真相』熊本第六師団戦記

2006-11-08 | 南京事件B
昭和40年12月12日初版  定価450円。

著者:下野一霍(師団参謀長)

編集:五島広作

発行:東京情報社

物凄く古い本だけども、この本を読んだら、あぁ、南京大虐殺なんて
無かったんだなぁ・・・、って思うと思う・・・。

明日は、師団長の谷 寿夫中将が、如何にして、冤罪の汚名を着せられて
雨花台に散ったかを、ご紹介しましょう。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
五島広作記者

因みに五島記者は、大阪毎日新聞時代、熊本支社に勤務。
従軍記者として、第六師団、北支派遣の時より従軍。

阿羅健一著: 『「南京事件」日本人48人の証言』にも登場している。2001.
紀伊国屋BOOKS
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_ara_02.html

『戦争とは何か。』:ティンパーリ編。

2006-11-07 | 南京事件B
『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』 東中野 修道:著



P137~・・・この「序文」とベイツからティンパーリへの手紙も興味深い・・・。

第6章の文戦闘の結果:「揚子江デルタ地帯に於ける、日中両軍の戦闘の結果、
少なくとも30万の一般中国市民が生命を失った。」と記されているらしい。

差し押さえられた文日本軍の虐殺:「揚子江デルタ地帯、30万人虐殺
テインパーリはわざと、日本の検閲に引っかかる様に、工作し、
差し押さえられる様に仕向けた。
『差し押さえられた』と言う、事実が欲しかった。

詳しくは「ご本」を買って、読みましょう~。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
ダーティン記者は中央宣伝部の董顕光副部長とは旧友だった。
フィッチ師は、呉鉄城と交流があり、妻は、蒋介石婦人と「親友」。
娘のマリオン・フィッッチは虐殺写真の提供者。
ベイツは中華民国政府の顧問。
ティンパーリは中央宣伝部の顧問。

・・・・と、書いてある。

東京裁判当時、単行本『戦争とは何か』とベイツは何ら関係が有るとは思われていなかった。

ベイツ氏は、東京裁判で
『城内で12000人の男女及び子供が殺され、更に3万の兵士が降伏して武装解除されてから72時間後に機銃掃射により射殺された』と、証言した。


☆ベイツ氏、その半年後、南京での声明
「日本軍の南京占領の最初の2,3週間に殺された非戦闘員の男女子供の死者数は、どんなに少なくても12000であり、武装解除された軍服姿の男の死者数は、35000であると確信した。・・・・・。

 4,5万、数万は、ここら辺りから来てるのかなぁ・・・??


P227
やっと判明した:『戦争とは何か』が中央宣伝部が制作した宣伝本であった事、その他、数点・・。 
もしも、日本の弁護団が今日判明している事を、把握していたならば、恐らく
東京裁判の展開は、違っていただろう・・・。


・・・・と、書かれてある。

東京裁判でアメリカ側は、
南京大虐殺「数万」という起訴状を読み上げた。
2年半後、「20万以上」という「判決」が朗読され、
その翌日には、「10万以上」の責任を問う「判定」が下された。

そして松井石根は、刑場の露と消えた・・・。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

しかしねぇ・・、ワシ、思うんだけど、
董顕光という国際宣伝処のオッサンは大したモンだわ~。
敵ながら“アッパレ”だ!・・・頭が良い。
流石、「孫子の兵法」を持つシナ!
情報戦で、完敗を喫した日本・・。

プロパガンダ戦で負けたのだから、それは仕方が無い事だ・・・。
今度は、我々「今を生きる日本人」が、その真実を暴く努力をする番だ。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::
本の内容を、あんまり何でもかんでも書いてしまったら面白く無いので、この辺にしよう・・。
後は、大体以下の事が書かれてある。

国民党と外国人の親密な関係。

安全地区が安全地区の体を成していなかった事。

国際委員会に重大な落ち度があった事。

開戦前の人口が20万人と云う共通認識があった事。

安全区に逃げたシナ兵が、捕虜の資格が無かった事。

日本人とシナ人の区別がつきにくいので、勘違いの可能性があった事。

国民党も外国人も、その場その場で、
発表する事柄を、巧みに使い分けていた。

東中野氏、井上久士氏

2006-11-07 | 南京事件B
東中野氏が、、井上久士氏の本を読んでなかった処で、
別に問題ではない。・・・・読めば済む話。


東中野氏が、逆質問したのら、それにも答えれば良い。
「意味の無い質問だ!」と
質問された方が、打ち消す事の方がおかしい。
時間切れならば仕方がないが・・。



「実際に被害に遭った人が証言している。」のでは無い。


「実際に被害に遭った!」と証言している人が居る!のだ。

その証言が事実かどうかを確かめる事が肝要なり。

「中国の旅」の被害者や、「従軍慰安婦」も、同じだ。

マギー牧師の東京裁判での証言。

2006-11-06 | 南京事件B
P117&P224  

マギー牧師は東京裁判に出廷して多くの殺人が南京で起きた!と証言した。
しかし、実際のところ何件の殺人を目撃したのかと問われると、牧師は
『ただ、僅か一人の事件だけは、自分で目撃しました。』と、証言した。

ところが、彼は、日記に

「その殺人が現実に起きた時、我々はそれを見ていなかった。」と書いている。

・・・、そうなると、マギー師が見たと証言した「一人」の事件ですら疑われてくるのである。

また、マギー師は、みずからの証言を裏付ける為、何枚も写真を撮ったと言っていたが、そのフィルムを証拠として提出する事も無かった。

一件と云うのは、・・・一件だ。・・ただ一件・・・。疑わしき目撃談一件。