おぉーそうだった・・私のバンド・ヒストリーを書いてるんだった。
そぉだった、そぉだった・・。えーと何だったっけ?(笑)
THE STAR CLUBの「PUNK!PUNK!PUNK!」というアルバムと出会いショックを受ける。
曲と曲のつなぎ目がほとんど無く、次から次へと曲が押し迫ってくる。
当時は特に「偶像破壊者」という曲にショックを受けた。
ハードな曲に歌詞も当時の私には凄く共鳴できるものがあった。
そしてCDを貸してくれた友人、荒川氏と初のSTAR CLUBのライブに行く事になった。
今回はTHE POGOのライブのときの教訓で着ていくものは気をつかった。
しかし当時はパンクな服なんて持って無かった為、革のハーフコートを着て行った。
場所は芝浦インクスティック。現在はもう無いライブハウスなのだが。
現地へ友人と行ってみてまたショックを受けた。90%が男の客。
女性はほとんど居ない。いても気合が入っていると思われる女性だ。
しかも全員黒い。ライダースや鋲ジャン、髪はスパイキーヘアやリーゼント。
恐い雰囲気がまざまざと押し迫ってくる。
中に入るとオールスタンディングで人の入る隙間も無い。そしてライブが始まった。
ライブが始まるとモッシュの嵐、ポゴダンスの嵐、ダイブの嵐。
左右に人の波に押され、倒れたら将棋倒しで死にそうになりひたすら倒れないように耐える。
酸欠で倒れそうにもなった。気合の入った連中が次々とダイブする。
女性は前の方で潰されスタッフに担ぎこまれる。
・・・嵐のような時間は終了した。全てがカルチャーショックだった。
「これがロックのライブだよな・・」友人とそう話した。
私は高校生のときに実家でラウドネスのライブを観た事がある。
楽しかったのだがちょっと拍子抜けもした。
ライブというよりもコンサート的なノリだったからだ。
この日を境に私の音楽の趣味、ライフスタイルは一変した。
それまで好きだったハードロックを聴くのを辞めた。
パンクを好きになってからは全てが軟弱に思えた。
ハードロック系の音源は知り合いにあげたり処分したりした。
服装も変化した。上は鋲付ライダースを着込みマーチンの10ホールや
レッドウィングのエンジニア・ブーツを履いた。
チェーンをジャラジャラさせて髪はダイエースプレーでバリバリに逆立てた。
夏でもそのままの服装で出かけた。電車に乗ると普通の人がみんな振り向く。
それが快感だった。
聴く音楽もパンクやガレージ系、ハードコア・パンクなどを聴いた。
そしてパンクを教えてくれた友人、荒川氏にギターを教えた。
彼は飲み込みが早かった。そして2人でバンドを組む事に。
彼はベースを弾きたいと志願した為、私はギターを弾く事に。
私はグレコの白のレスポールを購入した。
私はハードロック・バンドを東京でやろうと思ってたのだが
パンクバンドをやる事になった。当時の私のバンドの考えは
ギターソロはいらない。スリーコードでハードに押す・・そんな考えだった。
早速音楽雑誌でボーカルとドラムを募集。色々会った結果、ボーカルは当時10代の奴、
ドラムは当時20代後半、そして私とベースは20歳だった。
しかしこのバンドは長く続かなかった。まずドラムが下手だった。
そしてボーカルは途中からやる気を無くした。
数回のリハのみでライブをやる事なく終了した。
音楽雑誌のメンバー募集で知り合ったパンクスの女性がいたのだが彼女が
「バンドのメンバーを紹介するから一緒にやってみれば?」と言った。
その人はガレージアーツというバンドをやっておりそのバンドはもうじき解散するとの事だった。
彼女と一緒に原宿へ行った。当時は歩行者天国があり色んなバンドがそこで演奏していた。
ホコテンというやつだった。彼女が紹介してくれた人はそこで演奏しているらしかった。
「ほら、あそこ」彼女が指をさした先にはピストルズのアナーキー・イン・ザ・UK
を演奏しているパンクバンドがいた。
そこでベースを弾いているパンクな男、川田という奴との出会いだった・・・
いやぁ~文章が長くてすんません。でもコレを書いてて楽しんで読んでくれる
人はいるんだろうか・・うーむ。そんな訳で次回に続く・・という事で(笑)
そぉだった、そぉだった・・。えーと何だったっけ?(笑)
THE STAR CLUBの「PUNK!PUNK!PUNK!」というアルバムと出会いショックを受ける。
曲と曲のつなぎ目がほとんど無く、次から次へと曲が押し迫ってくる。
当時は特に「偶像破壊者」という曲にショックを受けた。
ハードな曲に歌詞も当時の私には凄く共鳴できるものがあった。
そしてCDを貸してくれた友人、荒川氏と初のSTAR CLUBのライブに行く事になった。
今回はTHE POGOのライブのときの教訓で着ていくものは気をつかった。
しかし当時はパンクな服なんて持って無かった為、革のハーフコートを着て行った。
場所は芝浦インクスティック。現在はもう無いライブハウスなのだが。
現地へ友人と行ってみてまたショックを受けた。90%が男の客。
女性はほとんど居ない。いても気合が入っていると思われる女性だ。
しかも全員黒い。ライダースや鋲ジャン、髪はスパイキーヘアやリーゼント。
恐い雰囲気がまざまざと押し迫ってくる。
中に入るとオールスタンディングで人の入る隙間も無い。そしてライブが始まった。
ライブが始まるとモッシュの嵐、ポゴダンスの嵐、ダイブの嵐。
左右に人の波に押され、倒れたら将棋倒しで死にそうになりひたすら倒れないように耐える。
酸欠で倒れそうにもなった。気合の入った連中が次々とダイブする。
女性は前の方で潰されスタッフに担ぎこまれる。
・・・嵐のような時間は終了した。全てがカルチャーショックだった。
「これがロックのライブだよな・・」友人とそう話した。
私は高校生のときに実家でラウドネスのライブを観た事がある。
楽しかったのだがちょっと拍子抜けもした。
ライブというよりもコンサート的なノリだったからだ。
この日を境に私の音楽の趣味、ライフスタイルは一変した。
それまで好きだったハードロックを聴くのを辞めた。
パンクを好きになってからは全てが軟弱に思えた。
ハードロック系の音源は知り合いにあげたり処分したりした。
服装も変化した。上は鋲付ライダースを着込みマーチンの10ホールや
レッドウィングのエンジニア・ブーツを履いた。
チェーンをジャラジャラさせて髪はダイエースプレーでバリバリに逆立てた。
夏でもそのままの服装で出かけた。電車に乗ると普通の人がみんな振り向く。
それが快感だった。
聴く音楽もパンクやガレージ系、ハードコア・パンクなどを聴いた。
そしてパンクを教えてくれた友人、荒川氏にギターを教えた。
彼は飲み込みが早かった。そして2人でバンドを組む事に。
彼はベースを弾きたいと志願した為、私はギターを弾く事に。
私はグレコの白のレスポールを購入した。
私はハードロック・バンドを東京でやろうと思ってたのだが
パンクバンドをやる事になった。当時の私のバンドの考えは
ギターソロはいらない。スリーコードでハードに押す・・そんな考えだった。
早速音楽雑誌でボーカルとドラムを募集。色々会った結果、ボーカルは当時10代の奴、
ドラムは当時20代後半、そして私とベースは20歳だった。
しかしこのバンドは長く続かなかった。まずドラムが下手だった。
そしてボーカルは途中からやる気を無くした。
数回のリハのみでライブをやる事なく終了した。
音楽雑誌のメンバー募集で知り合ったパンクスの女性がいたのだが彼女が
「バンドのメンバーを紹介するから一緒にやってみれば?」と言った。
その人はガレージアーツというバンドをやっておりそのバンドはもうじき解散するとの事だった。
彼女と一緒に原宿へ行った。当時は歩行者天国があり色んなバンドがそこで演奏していた。
ホコテンというやつだった。彼女が紹介してくれた人はそこで演奏しているらしかった。
「ほら、あそこ」彼女が指をさした先にはピストルズのアナーキー・イン・ザ・UK
を演奏しているパンクバンドがいた。
そこでベースを弾いているパンクな男、川田という奴との出会いだった・・・
いやぁ~文章が長くてすんません。でもコレを書いてて楽しんで読んでくれる
人はいるんだろうか・・うーむ。そんな訳で次回に続く・・という事で(笑)
コメント失礼します。
私はマニアックスの初代ベースのtakeと申します
ガレージアーツや、マニアックス懐かしく読ませていただきました。
バーストヘッドの名前も出てきてますが、
元バーストヘッドのボーカルさんとは今でも
個人的につきあいがあります。
私は何気に好きでした(笑)
検索してみましたよ。
うーん私の知らない情報が沢山書いてて興味深く読まさせてもらいました。
私事ですが当時の私は硬派を気取ってたのでホコ天には否定的だったんです。
そして他のバンドとつるむのも拒否してました。
メジャーにも否定的でした。
なので周りからは怖いと思われてました。
何かのパンクのイベントに出ていやいや打ち上げに行ったときは他のバンドにガンつけてました(笑)
今思うとアホですね。
若かった私はそれがパンクだと思ってたんですよね。
川ちゃんからは頭が固いと言われてましたが(笑)
でももともと私はそんな人間じゃないんですよ。
パンクの思想に取りつかれていたって感じです。
パンクスのアンバランスをやりあかったんでしょうね。
最近もとドラムがブログ上げてるの発見しました。
ホコ天 バーニングキッズで検索するとして見つかります。
良かったら探してください
私の記憶がおそらくごっちゃになってるんだと思います。
やっぱりヤンマガですよね!
何か私がパンクから離れつつある頃に見てマニアックスってバンドを思い出したんですよね。
凄いですね!ヤンマガの表紙って。
一体どんな経緯でそーなったんでしょ?
ところで私にガレージアーツやマニアックスを教えてくれた女性の名前がどーしても思い出せないんですよね。
茂呂くんはたしか彼女の事を君付けで呼んでた記憶があります。
あ、茂呂くんはもろちんって呼ばれてたのを思い出しました(笑)
愛媛出身の奴ですから。
ヤンマガの表紙になった時はわたしはマニアックスに加入しており
表紙にも写っています。今でもそのヤンマガは持っていますよ。
ガレージアーツのボーカルの人が九州で有名だったとか聞いた事があるような気がします。
違ってたらすみません。
あ、マニアックスは名前だけ知ってます。
私にガレージアーツを紹介してくれた女性がマニアックスの事を少し話してくれました。
面識はまったくないんで音も知らないんですけどね。
これまた私の記憶が曖昧なんですけどマニアックスって昔、何かの雑誌に出てませんでした?
ヤンマガだったかな?・・・記憶違いかもしれませんが。
川ちゃんが看護師を目指してたのは知りませんでした。交通事故で入院して死にそうになったのは知ってますが。
こーいうのはネットで言うのはなんだろうなとは思いますが・・・川ちゃんは夜の仕事をやってます。
私も再会したのは数年前なんで変わってなければですが。
あの当時原宿ホコ天で初期のPUNKやってたのは
バーストヘッドと言うバンドと
俺らが一緒にやってたマニアックスとか
ぐらいでした。
マニアックスには太一と言うカッコいい
ヴォーカルがいて俺もガレージアーツ解散後
ギターが抜けた事で一時期加入しました。
その当時俺はカッコいいヴォーカル見つけて
売れると思ってましたね。
川ちゃんも多分売れたいと思ってたと思うのですが
そのヴォーカルにも声かけてたと思います。
川ちゃんは看護師目指してたかと思いますが
今も看護師してるのでしょうか?
俺の事は覚えてないんでしょうね
20000Vでライブやってたんですか~。
私がガレージアーツを紹介されたときは結構有名なバンドと紹介されました。
運命というかタイミングって凄いですね。
もしかしたら私とGAMBAさんも一緒にやってた可能性もありますよね。
まぁ当時は私もギターでしたが。
THE SIDE ONESは新宿アンティノックでライブをやってた記憶がありますね。
あとUKエジソンで自主製作のカセットを売ってて完売した記憶もあります。
メンバーチェンジくり返しましたが
私とヴォーカルでメンバー集めながら
ホコ天をやめて
高円寺のライブハウス 20000vで
活動してましたよ。
最初はチケットノルマ分さばけませんでしたが
数を重ねる事に客も増え黒字になっていきましたよ
その時はうれしかったの覚えてますね。
そんな曲がありました(笑)
はっきりとは分かりませんがおそらく私がバンドを抜けた後に川ちゃんがGAMBAさんを誘ったのかな?
川ちゃんと再会したときにギターを探したと言ってましたね…たしか。
私がSIDE ONESを抜けた後に茂呂くんにバンドをやろうと誘われた事もありました。
その時彼はボーカルをやりたがってて、書いた歌詞を見せてもらった記憶があります。
結局、バンド結成は実現しませんでしたが。
途中からベースやりたいとか言い出してその後抜けて行きましたよ。
私も川ちゃんに誘われてサイドワンズのヴォーカルの方と
一度お会いしています。
確かハローハローボディーと言う曲覚えてますね
YouTubeの映像でドラムを叩いてるのは茂呂くんです。彼の事も知ってるのではないですか?
彼は元ガレージアーツではないですか?
私の記憶がいまいち曖昧なんですが川ちゃんが茂呂くんを連れてきたのを思い出したので。
読ませていただきました。
私は恐らくこの日記で見る限りガレージアーツの
ギターです。
と、いうか私が結成したバンドです。
川田 川ちゃんですね。
懐かしい。
もしかしたら私が知ってる方でしょうか。
なんとなくこのページにたどり着きコメントしてみました。