あ、そうでした。私のバンド・ヒストリーでしたね。ハイハイ(笑)
知り合いのパンクの女性にメンバー紹介された川田氏。
彼とはすぐ意気投合した。しかし私がギターで荒川氏はベース、川田氏もベース。
とりあえずは川田氏はドラムで3人でスタジオに入ってた。
川田氏は多少ドラムが叩けた。このときに私は彼から少しドラムを教えてもらった。
しかし荒川氏が自分のやりたい仕事があり専門学校に通いたいとの事で
バンド脱退を申し出る。彼の音楽センスには尊敬するものがあった為に残念ではあった。
しかしその後も友情は変わらなかった。とうとう私と川田氏の2人になってしまったのだが
色んな募集をかけていた事もありついに正式メンバーが決定する。
ボーカルは野々山氏。ドラムはその友人(名前は忘れてしまいました・・)
バンド名も決定し「THE SIDE ONES」となった(笑)
オリジナルも着実にたまり池袋のサンライズというライブハウスにて
パンク・バンドのイベントで初ライブ。
その後、ドラムの人は脱退するのだが後任に元ガレージアーツのドラムだった
茂呂氏を向かえ新宿アンティノックにてライブ活動。
そしてメンバーでお金を出し合い初めてのレコーディングを体験。
時間は掛かったが5曲入り・・だったかな?
理由は忘れたがこのときのレコーディングではドラムの茂呂氏は不参加。
川田氏の友人の熊野氏に依頼してドラムを叩いてもらいなんとか完成。
当時はCD-RはおろかMDも無い時代。カセットテープにて新宿のUKエジソンにて販売。
納品した20本弱は全て完売。なぜか連絡先は私の家の電話番号になっており
ライブの問い合わせがきた事もあった。
現在の私や学生時代の私を知ってる人には信じられないかもしれないけど
当時の私は恐いと言われてたんですよ(笑)いやマジで(笑)
当時の私はパンクというものにのめり込んでいまして
パンクの思想にポリシーを持ってたんですよ。群れたりしない、対バンは敵みたいな。
今思うと偏った考えですよね。当時はメンバーとはたまに喧嘩してましたもの。
原因はたいがいパンクの思想について(笑)んなのどーでもイイんですけどね今は(笑)
結局このバンド、ベースの川田氏とドラムの茂呂氏は折り合いが悪く
茂呂氏が脱退。新曲を作る際にその方向性に私が疑問も持ち私も脱退する事に。
まぁパンクにのめり込んでいた私も少しづつパンクから離れていく訳ですよ。
STAR CLUBのライブにあれだけ暴れていた私がふと、そのライブに醒めつつある
事に気付いたんですね。あとこの時期、私が好きなアーティストってシオンだったんですよ。
アコギ持ってリアルな歌を歌うシオンが好きになってた。
「自分もアコギ持って1人でやりたいなぁ~」なんて思ったりしてた。
当時、付き合ってた彼女との結婚話もあり少しづつ音楽からバンドから
離れていく自分がいた。学生の頃に思ったようにバンドが出来なかった反動で
東京でバンドを始めたんですけど「もう・・いいかもしれないかな・・」
なんて思ってたかもしれない。
しかしこのときは私はまだ知らなかった・・・
私がこの頃から数年後再びバンド活動を再開しようとは。
この頃はパンクやバンドはいい思い出になりつつあった・・・第1部、完。
まぁ長々と書いてきた私のバンドの目覚めからパンクバンドをやり始めた頃まで。
とりあえず第1部として終了とさせていただきました。
私がパンクバンドを辞めたのが23歳か24歳位の頃ですね。
この数年後にまたバンド活動を復帰するんですが、それは第2部としてまたの機会
に書きたいと思います。まぁかな~りカッコつけて書いてた感があるんですがねぇ(笑)
まぁ久しぶりの友達に「へぇ~そぉだったんだぁ」なんて思ってくれれば幸いでございます。
知り合いのパンクの女性にメンバー紹介された川田氏。
彼とはすぐ意気投合した。しかし私がギターで荒川氏はベース、川田氏もベース。
とりあえずは川田氏はドラムで3人でスタジオに入ってた。
川田氏は多少ドラムが叩けた。このときに私は彼から少しドラムを教えてもらった。
しかし荒川氏が自分のやりたい仕事があり専門学校に通いたいとの事で
バンド脱退を申し出る。彼の音楽センスには尊敬するものがあった為に残念ではあった。
しかしその後も友情は変わらなかった。とうとう私と川田氏の2人になってしまったのだが
色んな募集をかけていた事もありついに正式メンバーが決定する。
ボーカルは野々山氏。ドラムはその友人(名前は忘れてしまいました・・)
バンド名も決定し「THE SIDE ONES」となった(笑)
オリジナルも着実にたまり池袋のサンライズというライブハウスにて
パンク・バンドのイベントで初ライブ。
その後、ドラムの人は脱退するのだが後任に元ガレージアーツのドラムだった
茂呂氏を向かえ新宿アンティノックにてライブ活動。
そしてメンバーでお金を出し合い初めてのレコーディングを体験。
時間は掛かったが5曲入り・・だったかな?
理由は忘れたがこのときのレコーディングではドラムの茂呂氏は不参加。
川田氏の友人の熊野氏に依頼してドラムを叩いてもらいなんとか完成。
当時はCD-RはおろかMDも無い時代。カセットテープにて新宿のUKエジソンにて販売。
納品した20本弱は全て完売。なぜか連絡先は私の家の電話番号になっており
ライブの問い合わせがきた事もあった。
現在の私や学生時代の私を知ってる人には信じられないかもしれないけど
当時の私は恐いと言われてたんですよ(笑)いやマジで(笑)
当時の私はパンクというものにのめり込んでいまして
パンクの思想にポリシーを持ってたんですよ。群れたりしない、対バンは敵みたいな。
今思うと偏った考えですよね。当時はメンバーとはたまに喧嘩してましたもの。
原因はたいがいパンクの思想について(笑)んなのどーでもイイんですけどね今は(笑)
結局このバンド、ベースの川田氏とドラムの茂呂氏は折り合いが悪く
茂呂氏が脱退。新曲を作る際にその方向性に私が疑問も持ち私も脱退する事に。
まぁパンクにのめり込んでいた私も少しづつパンクから離れていく訳ですよ。
STAR CLUBのライブにあれだけ暴れていた私がふと、そのライブに醒めつつある
事に気付いたんですね。あとこの時期、私が好きなアーティストってシオンだったんですよ。
アコギ持ってリアルな歌を歌うシオンが好きになってた。
「自分もアコギ持って1人でやりたいなぁ~」なんて思ったりしてた。
当時、付き合ってた彼女との結婚話もあり少しづつ音楽からバンドから
離れていく自分がいた。学生の頃に思ったようにバンドが出来なかった反動で
東京でバンドを始めたんですけど「もう・・いいかもしれないかな・・」
なんて思ってたかもしれない。
しかしこのときは私はまだ知らなかった・・・
私がこの頃から数年後再びバンド活動を再開しようとは。
この頃はパンクやバンドはいい思い出になりつつあった・・・第1部、完。
まぁ長々と書いてきた私のバンドの目覚めからパンクバンドをやり始めた頃まで。
とりあえず第1部として終了とさせていただきました。
私がパンクバンドを辞めたのが23歳か24歳位の頃ですね。
この数年後にまたバンド活動を復帰するんですが、それは第2部としてまたの機会
に書きたいと思います。まぁかな~りカッコつけて書いてた感があるんですがねぇ(笑)
まぁ久しぶりの友達に「へぇ~そぉだったんだぁ」なんて思ってくれれば幸いでございます。
この先も更に色々とあるんですが(笑)
今までの色んな経験は人生の勉強になりました。
今は平和な日々を望んでます(笑)
メンバー脱退、音楽性の違い…
出会い、別れ、成長、後退…
いずれも、時間がたてば大切なものになりますよね。