宮城県の小さく綺麗で穏やかな海辺に住む、はげたま(禿頭)おっさんの~ごまめの歯軋り~

子供や高齢者は国の宝、且つ障害者等社会的弱者の人権を尊重し守ってこその先進国。年々逆行する現実に抗し当り前の国にしよう!

★右足に戦場での銃弾が埋まったままの財界人の憲法九条を守れの遺言

2010年09月22日 00時42分47秒 | 政治
【品川正治氏の著書(他に多数あり】

かみさんのホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』

≪品川正治(しながわまさじ)氏の経歴≫=この経歴書は『しんぶん赤旗』に関係ありまへんぞぇ。
※1924年、新潟県加茂市で生まれる。
※1944年、旧制第三高等学校在学中に陸軍に応召。
※中国戦線で激戦中に負傷し、現在も右足に銃弾の破片が残っているという。
※1946年に復員し、日本国憲法草案を報道する新聞を読み強い感動を覚え、それが今に続いていると語っている。
※1949年、東京大学法学部政治学科卒業、同年日本火災海上保険(現・日本興亜損保)に入社し同社社長(1984-1989年)、会長(1989-1991年)を歴任後、1991年より相談役に就任。
※財界活動では1993年から1997年まで経済同友会副代表幹事(専務理事)を務める。
※その後、経済同友会終身幹事に就任し、2004年より財団法人国際開発センター理事・会長も務めて現在に至る。
※当然その経歴からして、実業界・財界人・そして保守系政治家をも含めたバラエティに富んだ大きな人的つながりを持っているものと思われる。

※氏の護憲という共通点から日本共産党が主催する『赤旗まつり』への参加や、同党と共闘関係にある政治運動『平和・民主・革新の日本をめざす全国の会』(全国革新懇)の代表世話人の一員を務めている。
※また活動の様子やインタビューなどが、同党の機関紙『しんぶん赤旗』に掲載される事も多く、全国各地に結成されている『九条の会』の講師を積極的に務めている。
戦争起こすも止めるも人間、財界中枢から発信6年。

【09年10月28日、インタビューに応じる品川正治氏=しんぶん赤旗】


◆9条語り250回。経済同友会終身幹事、品川正治さん行脚。
 財界3団体首脳部の経歴がある品川正治さん(経済同友会終身幹事)が、精力的に講演活動で歩いています。
6年前から「人間・戦争そして憲法9条」というテーマで話すようになって、9月で250回を超えました。
「今、9条を持つ日本が世界史を動かせる時代なんです。主権者であるみなさん方お一人おひとりが動けば、政治も経済も日米関係も変わるんです」。
行く先々で聴く人々の胸に、勇気と確かな希望の火をともしています。

 講演が終わった後の品川さんを囲む懇談の席・・・。
「名古屋のこんな小さな会に来てくれるとは、半信半疑でした」
「財界中枢にいて9条を守れと堂々と主張する。ためらいや葛藤はないですか?」
遠慮のない質問が次々飛びます。

 打ち解けた、こんな語らいの場が品川さんは好きで大切にしています。
「話しを聴いていただく方々を通じて日本と世界、この世の中がまともな方向へ変わり始めているとひしひし感じます。大マスコミではわからない本物の世論のありかが判るんです」
◆島唄通じ
 この日、9月12日午後、品川さんの講演先は名古屋市天白区。
中学校区域の住民500人でつくる『植田9条の会』の「3周年のつどい」です。
 品川さんの話しが始まる前のひととき。
会員が奏でる琴の演奏で110人の参加者が、沖縄民謡『島唄』を口ずさみます。
「でいごの花が咲き、風を呼び嵐がきた~」。
嵐とは沖縄戦を指しています。

 65年前の6月、中国戦線の最前線で戦闘中。
戦死した戦友を弔う夜、隊内で誰とも無く『島唄』を歌った光景が、品川さんの脳裏をよぎりました。
「部隊では、そのころ沖縄の歌がはやりました。沖縄の陥落をそれとなく知りました。『島唄』を通じて、みなさんと気持ちが一つになりました」
1時間半の話しを、こう切り出しました。
◆封印解く
 「人間、戦争、そして憲法9条」。
品川さんの講演のメーンテーマです。
毎回1時間半から2時間。
5年ほど前からは、胸中に封印していた痛苦の戦闘体験を、じゅんじゅんと語りかけます。
「戦争を起こすのも人間。それを許さず止める事ができるのも人間。戦争をできる国にしようとするのは、いったい誰なのか。おれはどっちなのか。これが私の基本軸です」
「日本は憲法9条で、世界でたった一つ、戦争を人間の目で見て許されないと、はっきり自覚した国なんです」

【09年11月1日、栃木県鹿沼市で講演する品川氏=10年9月21日しんぶん赤旗掲載】


 幼少期に父親から手ほどきを受けた謡曲で鍛えた喉の調子は、最後まで変わりません。
「日本国憲法と日米安保体制は、だれが考えても絶対両立できません。沖縄の普天間基地問題は、そのことを明確にしました」
「日本と軍産複合国家のアメリカ。日米は価値観が異なると一言日本が意思表示すれば、外交でも経済でも選択肢が広がるんです。アメリカは世界戦略を変えざるを得なくなる」
◆報道を批判
 語調は尻上がりに強まります。
「世界的大企業の経営者も政治に関しては一票。主権者のみなさん方と同じ力しかない。変えられるのはみなさん方なんです」

 最近は、「日米は共通の価値観」からの報道を展開する大メディア批判にも力が入ります。
「鳩山由紀夫前首相が、普天間基地の移転先は国外、最低でも県外と言ったとき、大マスコミが一言『鳩山頑張れ』と背中を押してあげたら、その後の状況は変わった」
 品川講演の真骨頂は、対立軸をはっきり示して、聴く者が納得できる方向性を、理詰めで語るところにあります。
平和憲法の国の経済人として
◆人間の目で
 品川さんは、損保大手の日本火災(現・日本興亜損保)社長、会長を経て、経済同友会副代表幹事(専務理事)を1993年から97年まで4年間務めました。
政府の金融、財政関係の審議会など諮問機関に数多く名を連ねました。

 『財界の論客』と知られた品川さんは、財界活動の第一線当時から「人間の目で経済を見る」という、平和経済論で話題を呼びました。
「経済運営の軸足を企業に置くのか、あるいは国民の生活に置くのか。平和憲法の国の経済人としてどちらを行うべきか。正面から問うて行かざるを得ない」

 政治へも冷静な視線を向けていました。
97年当時の品川さんを取材したときのメモに「経済界に保保連立政権(大連立)の待望論が台頭している。とんでもない」という言葉が残っています。
◆行動する人
 論客であるとともに行動する人へ奮い立つには、転機がありました。
政治が改憲をめざす『保守二大政党化』の流れが加速、古巣の財界団体がそろって9条改憲へ急傾斜し、アメリカにもの言わぬ姿勢をいちだんと強めた、そんな事態へのいらだちと危機意識でした。

【主催・平和と革新をめざす杉並懇話会での講演=ひらのゆきこ氏2007年10月16日janjan掲載】


 講演を本格化させた05年前後、経済同友会「憲法問題調査会」意見書(03年4月)、日本商工会議所「憲法改正についての意見書」(04年12月)、日本経団連「わが国の基本問題を考える」(05年1月)など、財界団体は立て続けに9条改憲へ、のろしを上げました。
 政治の場では、衆参憲法調査会報告書(05年4月)、自民党新憲法草案(05年11月)、民主党憲法提案(05年11月)と、自民・民主両党主導で改憲機運の盛り上げをはかりました。

 改憲世論は戦後のピークに達しました。
「読売」調査(04年3月)は「憲法改正するほうがよい」65%で過去最高、「改正しないほうがいい」23%で過去最低を示しました。
そんななかで「9条の会」が04年6月に発足しました。

 6年経って今年の憲法状況は、打って変わりました。
「読売」調査は08年に逆転。
「改正しないほうがいい」が上回り、今年はほぼ拮抗。
 9条に関しては「守る」「これまでどうり」合わせて60%まで戻しています。
品川さんは、この間の講演行脚の確かな手ごたえを、いま感じています。
◆7万人聴く
 実は、品川さんが一般市民を対象に語る「講演デビュー」をしたのは99年10月8日です。
出身業界である大阪損保革新懇(二十一世紀の平和・民主主義・損保の民主化をめざす大阪損保革新懇話会)が用意した会合でした。

 この時点から数えると講演活動はまる11年、300回を大きく上回ります。
近所の奥さんから頼まれた15人ほどの茶話会、卒業した旧制三高同窓会、財界人、経営者の会合、弁護士会、医師会の公式行事、九条の会、革新懇など2千人を超える大集会まで、ざっと7万人が品川さんの話しを聴いた勘定になります。
     ◇
 12日の名古屋行き。
品川さんの右足には、戦時に被弾した弾が埋まったまま。
腰椎のうずく痛みを鎮痛剤2錠で抑えて出向きました。
 夜、帰京する新幹線の中。
「僕は行く先々で、これが遺言だと思ってお話ししているんですよ」
               
                 2010年9月21日(火)しんぶん赤旗(井上 協)
◇   ◆   ◇
 さてさて最後まで読んでくれた方に、まず感謝したいずら。
読んで、どんな感想を持ったか知りたいものでごじゃる。

 したが品川正治氏は凄い人だと思いませぬか。
普通、おらみたいな下々は、財界人と聞いたら保守的で自己保身に汲々としているエリートを思い浮かべるんじゃが、品川正治氏は全く当て嵌まらんのじゃ。
尊敬すべき人とは、右も左も無く戦争を憎む人こそそれに値するち思うちょる。
そして己を表現し行動する・・・・・凄い人でっせ。

 ところでおらの今は亡き父方の伯父に、頑固もんがおったじゃがや。
明治生まれで、それはそれは気骨の満ち溢れておる人やった。
よく喧嘩をしたもんじゃが(おらが生意気じゃったせいもあるんじゃが)、晩年はひと(他の人)の言葉は聴かんかったが、不思議におらの話しだけは聴いて信じてくれたっけなぁ。
何故か今夜は、ごっつう懐かしか。

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