もしも、それが理解されない日本社会になれば、ほんらいの日本ではなくなると、いま心配しています。
ぼくの鬱屈など、どうでもいいことです。
ただ、暮夜に襲い来る鬱屈の原因の大きなひとつは、ここにあります。
夜明け前に、思い直します。
わが身は捨てているのだから、鬱屈しようがしまいが関係ない、静かに戦うのみじゃないかと、おのれを立て直します。
国会議員となってから毎日毎夜、この繰り返しです。
この頃、いちだんと烈しいですね。
ぼくの鬱屈など、どうでもいいことです。
ただ、暮夜に襲い来る鬱屈の原因の大きなひとつは、ここにあります。
夜明け前に、思い直します。
わが身は捨てているのだから、鬱屈しようがしまいが関係ない、静かに戦うのみじゃないかと、おのれを立て直します。
国会議員となってから毎日毎夜、この繰り返しです。
この頃、いちだんと烈しいですね。
明治のご維新が成ったあと、新政府で要職に就いた木戸孝允は、幕末期には桂小五郎と名乗って龍馬さんたちと連携し戦っていました。
生き残って栄達したこの国士は、暮夜、おのれの成功など一顧だにせず、鬱屈の日記を書き綴っていました。
少年時代にそれを読みました。
おなじ少年時代に読み耽った北杜夫は、旧制高校の同級生みんなに「鬱勃たるパトス」があったと記していました。
いずれも、よく理解できます。
一方で、今のぼくの鬱屈とは違います。共通するところもありますが、違います。
ごく個人的な感慨に過ぎません。それでも時代の闇を映しているのでしょう。
きょうもこのあと、思い直すのでしょう。
生き残って栄達したこの国士は、暮夜、おのれの成功など一顧だにせず、鬱屈の日記を書き綴っていました。
少年時代にそれを読みました。
おなじ少年時代に読み耽った北杜夫は、旧制高校の同級生みんなに「鬱勃たるパトス」があったと記していました。
いずれも、よく理解できます。
一方で、今のぼくの鬱屈とは違います。共通するところもありますが、違います。
ごく個人的な感慨に過ぎません。それでも時代の闇を映しているのでしょう。
きょうもこのあと、思い直すのでしょう。