母は、のちに記者時代のぼくが複数の政党から「国政選挙に出馬してほしい」と誘われたとき、「おまえ、政治家ごとき、けがらわしい者にするために育てたのやない」と、これも短く言いました。
父は、ほんとうは出馬してほしいと顔に書いてありました。ある閣僚経験者の後援会長だったことがあり、まつりごと ( 政 ) に関心が深かったのです。
いま思えば、自分自身は根っこのところで気が弱いのと、ご先祖から預かった繊維会社を守らねばならないから、政治家にはなれないと父は、考えていたのではないか。
そう感じます。
しかし、わが子に対し鷹揚にして寛容だった父は、一切何も言いませんでした。干渉しませんでした。
そしてぼくは、おのれの考えで出馬の話をすべて断り続けました。
ついに出馬を覚悟する西暦2016年の6月までには、長い時間が流れました。
父は、ほんとうは出馬してほしいと顔に書いてありました。ある閣僚経験者の後援会長だったことがあり、まつりごと ( 政 ) に関心が深かったのです。
いま思えば、自分自身は根っこのところで気が弱いのと、ご先祖から預かった繊維会社を守らねばならないから、政治家にはなれないと父は、考えていたのではないか。
そう感じます。
しかし、わが子に対し鷹揚にして寛容だった父は、一切何も言いませんでした。干渉しませんでした。
そしてぼくは、おのれの考えで出馬の話をすべて断り続けました。
ついに出馬を覚悟する西暦2016年の6月までには、長い時間が流れました。
今もしも、父の命が繋がっていたら、きょう参議院での国会質問も何も言わず、そしてしっかりと熱心に聴いてくれたでしょう。
そして母は「きれいな政治に変えなさい」と、やはり短く、言ったでしょう。
もう父も母も、すでに喪いました。
いまだに、それが信じ切れません。
あのとき、雨中の公衆電話ボックスに立ち尽くしていたぼくと、同じです。
いまだに、それが信じ切れません。
あのとき、雨中の公衆電話ボックスに立ち尽くしていたぼくと、同じです。