絹屋半兵衛(きぬや はんべえ)、1791年(寛政3年)-1860年(万延元年6月25日)70歳没。江戸時代後期の陶業家、近江彦根の呉服・古着商。
文政12年(1829年)、彦根で古手呉服商の「絹屋半兵衛」が発起し、蔵手代の西村宇兵衛、古着商の島屋平助と乗合商い(共同出資)で有田焼の職人を招いて澤山で「絹屋窯」をひらく。佐和山の麓、近江鉄道本線が走るトンネルを彦根側に出た西側一帯に湖東焼の窯跡が残っている。
文政12年(1829年)、彦根で古手呉服商の「絹屋半兵衛」が発起し、蔵手代の西村宇兵衛、古着商の島屋平助と乗合商い(共同出資)で有田焼の職人を招いて澤山で「絹屋窯」をひらく。佐和山の麓、近江鉄道本線が走るトンネルを彦根側に出た西側一帯に湖東焼の窯跡が残っている。
↑湖東焼窯石碑跡(彦根市古沢町)
「湖東焼」は江戸時代後期、文政12年(1829年)、彦根の商人「絹屋半兵衛」が、当時先端技術の華であった磁器の焼成導入を考えて、伊万里の職人を招き、最初は芹川南岸の晒山で窯が築かれたが問題もあり、場所を佐和山山麓の餅木谷に移し、築いた窯で成功させたのがそもそもの始まりとされている。
湖東(ことう)焼の確立
古着商人であった「絹屋半兵衛」が京都で見た焼物に興味を持ち有田から職人を呼び寄せ「湖東焼」を始めた。経営難のため途中一人になったが、彦根藩からの借入金で事業を継続。
天保13年(1830年)藩命により御用窯(藩窯)「湖東焼」に引き継がれる。
創業の功として「伊藤」の名字帯刀を許される。
「湖東焼」は彦根藩14代藩主 井伊直亮の代の天保13年(1842年)から彦根藩直営(藩窯・御用窯)として生産し、井伊直弼が15代藩主に就任すると窯を拡大し生産規模を拡張した。
国産奨励は諸藩の風潮で、彦根藩は特に強力な援助をし、10年にして彦根焼・湖東焼の名は確立され、天保13年(1842年)、井伊直亮(なおあき)のとき、召し上げて藩直営に移行した。
藩窯は第12代・直亮の代8年、第13代・直弼の代10年が最盛期、第14代・直憲(なおのり)の代2年は終末期で、通算20年の短い歴史に過ぎなかったが、焼成技術は景徳鎮・伊万里に劣らない世界最高の水準で、絵付けに至っては、緻密豪華高尚湖東焼独特の味を完成させたとされている。徹底的に優品をめざし、白く焼き締まった磁器を中心に、金欄手、赤絵金彩、色絵、染付、青磁などの細やかで美しい逸品が数多く作られた。
藩窯は第12代・直亮の代8年、第13代・直弼の代10年が最盛期、第14代・直憲(なおのり)の代2年は終末期で、通算20年の短い歴史に過ぎなかったが、焼成技術は景徳鎮・伊万里に劣らない世界最高の水準で、絵付けに至っては、緻密豪華高尚湖東焼独特の味を完成させたとされている。徹底的に優品をめざし、白く焼き締まった磁器を中心に、金欄手、赤絵金彩、色絵、染付、青磁などの細やかで美しい逸品が数多く作られた。
湖東焼の衰退
盛大におもむき地場産業として定着しかけた矢先、桜田門外の変が起こり世情不安となり、百人近い茶碗山の職人は怯えて四散、彦根生まれの四人を残すのみで創業不能となって藩窯は廃止された。その後、窯場の設備や材料など一切の払い下げを受けた山口喜平らにより民窯となり、明治28年(1895年)まで存続したが、かつての湖東焼の面影を見ることは出来なかった。
藩窯時代は約20年、前後の民窯時代を含めても約60年ほどで途絶えたので「幻」と言われることもある。
藩窯時代は約20年、前後の民窯時代を含めても約60年ほどで途絶えたので「幻」と言われることもある。
「湖東焼」は日本を代表する品質で他大名に贈答していた。しかし、経営は上手くいかず嘉永5年(1852年)に彦根藩は近江国愛知郡(後の日枝村、現滋賀県犬上郡豊郷町)の商人「藤野四郎兵衛」に経営を委託するも、藤野四郎兵衛も2年間で1千両以上の損失を被り経営を辞退した。
安政7年(1860年)の桜田門外の変で井伊直弼が死去すると湖東焼も規模を縮小する。
明治28年(1895年)には民間事業としても「湖東焼」は途絶えてしまった。
明治28年(1895年)には民間事業としても「湖東焼」は途絶えてしまった。
絹屋半兵衛による創業の「湖東焼」は60年余で近江の幻の焼き物になった。
明治時代になると、湖東焼復興の動きが起こり、明治2年(1869年)6月に彦根藩知事となった井伊直憲は明治2年9月、円山(市内南東部の芹川沿い)に窯を築き、京都から陶工の明石屋初太郎や元職人を招き、作陶を始めた。この焼き物は後に円山湖東焼と呼ばれる。
また長浜の医師・西村善吾は明治3年(1870年)に自宅に窯を築いて元職人らに焼き物を作らせ、後に長浜湖東焼と呼ばれた。しかし、円山湖東焼は明治4年(1871年)の廃藩置県で廃窯となり、長浜湖東焼も資金難などで同6年に廃窯となった。
大正9年(1920年)には彦根で陶器商を営んでいた奥村松平が彦根城内(現在の開国記念館の北西)に窯を築き、昭和の初めごろまで製作。「湖東」の銘も入れられ、まからずや焼と呼ばれた。
現在、彦根市内では、新しく湖東焼を再興する動きが始まっているという。
絹屋半兵衛屋敷
住所 滋賀県彦根市元町2−16
<Wikipedia、『あきんど』、彦根市観光協会等を参照>