海北友松(かいほう ゆうしょう、天文2年(1533年) - 慶長20年6月2日(1615年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。
海北派の始祖。姓は源氏、友松は字。近江(現在の滋賀県)の湖北地区に生まれる。名ははじめ「友徳」。「紹益」とも。「如切斎」「有景斎」などと号した。子に同じく絵師の海北友雪。
ヒストリー(伝記)
浅井氏家臣・海北綱親の五男として生まれる(三男説もあり)。
天文4年(1535年)2歳で父が戦死したのを切っ掛けに禅門に入り、京の東福寺で喝食として修行。このときに狩野派を学んだらしい。師匠は狩野元信とも狩野永徳ともいわれているがはっきりしない。
天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し兄達も討ち死にしたのち、還俗し海北家の再興をめざしたが、豊臣秀吉に画才を認められたことから武門を去り、晩年は画業に専念した。
その画は宋元画、特に梁楷の影響を受け鋭く力のこもった描線と省略の多い画法(減筆法)によって独自の画境を開いた。作品は大画面の水墨画が多いが、金碧濃彩の屏風絵もある。
(注)梁楷は、中国南宋の画家。 東平府須城県の出身。13世紀初の嘉泰年間に宮廷画家の最高位である画院待詔となった。金帯を賜与されたものの関心を示さず柱に掛けて帰ったといわれる。酒を好み、画院画家としては型破りな性格で、狂人を意味する梁風子と号した。細密な院体画を描く一方で、減筆体と称される粗放な人物画をよくした
八条宮智仁親王や亀井茲矩、もともと東福寺の退耕庵主だった安国寺恵瓊と親しかった。また、交流のあった斎藤利三(明智光秀の重臣)を謀反人でありながら手厚く葬り(磔にされていた利三の遺体を友松が槍を振って侵入して奪い取ったともいわれる)、後に息子の友雪は、利三の娘である春日局から褒賞を受けている。
墓所は京都府京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)。友松夫妻の墓の横に斎藤利三の墓がある。
友松の作品は年記が乏しいため編年が困難である。ただし、署名の特に「友」字の変化と「友松」印の違いが僅かな手がかりとなる。はじめ「友」字が角張っていたのが次第に丸みを帯び、やがて第1画が直立し上へ長く突き出すと同時に、第3,4画も小さな円状になっていく。また「友松」朱文方印は、真四角な印と右辺が弧を描いて外側に張り出す印の2種類あり、前者のほうが先に使用されたと推測される。
代表作
花卉図(妙心寺)
<Wikipediaより>