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のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

いじめは、人に称賛されたいからするのではないか

2012年08月20日 00時28分16秒 | Weblog
いじめで

自殺する子どもというのは、

死を選ぶ前、

すでに心が折れてしまっているでしょう。

〝強くあって欲しかった”

という願いのような気持ちが

湧き起こります。

ただ、同時に、

死を選ばざるを得なくなった子どもを相手に

弱かったというレッテルは、

張りたくないし、彼ら、彼女らに似合わないです。

実際、弱いという印象は、

誤解に基づく場合が多いでしょう。

むしろ死を選ぶ少年・少女は、

強いと言えるのではないか。

強いから引き受けなくていいことまで

引き受けてしまった…

その結果、心が折れ、

死んだのではなかったでしょうか。

ということは、

死んだ子どもに何か言えるとするなら、

死なないために

「反対のもの」を選び取り、

実行すべきだったね、ということです。

それがいじめから身を守る

最も確実な方法だったのです。

具体的には、

いじめっ子たちの

ダメなところを見抜いて、

「見限ってしまえばよかった」

ということです。

見限る必要のある事柄に

適応するから

生き苦しくなったんじゃないでしょうか。

タイトルに書きましたけど、

いじめをしたい欲求に捉えられて

そこから抜け出せない人、

いわゆる、いじめっ子になる人というのは、

評価されたい願望が強いと思います。

注目されたり、

褒められる自分に

酔いたい

という気持ちが強すぎて

自己コントロールが

不能になっているように見受けられます。

教育委員会委員長の

襲撃が

別の意味で

新たな〝いじめ”だと言われるのは、

その襲撃なりが

褒められたい、

称賛されたいという、

もともとのいじめ加害者にあったのに

似た感情傾向が特徴的で、

やはりコントロール不能に近いためでしょう。

そのような、

理性的でない他人の見苦しさから

距離を置く知恵が必要です。

大人が

この点、

いい見本に見せているかと言うと、

残念ながら失格です。

特に日本人は、

ポジティブ・シンキングをし過ぎなんです。

これがよくないと思います。

たとえば、

太平洋戦争は、

我が国にとっては敗戦です。

終戦で区切れるのは、

アメリカです。

日本ではないのです。

それを勝者、アメリカのごとくに

いとも安易に終戦を語り、

ポジティブ・シンキングで

反省すべきことをごまかしてしまうから、

戦争責任が

論じられることもなく、

偽善が蔓延(はびこ)るんじゃないでしょうか。

子どもって、

大人の世界の写し鏡です。

大人の世界にある

嘘を取り込んでしまいます。

しかし、

いくら取り込んでも、

嘘は、虚しいので

心の底からの満足がありません。

それで、

称賛をたとえ得ることがあったとしても

もっと欲しくなる、

餓鬼ですね。

餓鬼の心から脱し得なくなって、

幸せは、

人から与えてもらうもの、

自分の力で、

獲得するものではなくなりました。

そのせいでしょうね、

日本だと、

会社を首になっただけで

自殺する人がいます。

死んだ、その人が弱いのでなく、

国民が全体として

精神的に弱い上にも弱くなっている

気がしてなりません。

権力を弄ぶタイプの人は、

こういう事象が

たまらなく楽しいのだろうと思います。

まさに権力は、

生殺与奪の実質を持ちます。

社長は、解雇を通して

社員の命を握り、

学校長は、

退学の脅しを通じて

子どもにとって

神のごとくであり得ます。

そういう背景のあることが理解できると、

大津いじめ自殺事件で

教育委員会委員長及び学校長の

「加害者にも人権がある」

という歪んだ教育的配慮から

いじめを不問に付そうとした謎が解けます。

自分の称賛を受けたい一心で

傷害、

果ては人殺しさえ辞さない

態度を

加害生徒が示すのは、

怖い半面、

自分に対する忠誠心の表明と思えるのでしょう。

ところで、一個の人間として

強い人って、

子どもの頃の

体験に依存しているようです。

では、どんな体験が

あれば

強く育つのでしょうか、

その条件を言いましょう。

思うに、それは、

親や

周囲の大人から

愛されているのを実感する体験が

あることです。

中学生と言えば、

半分以上、大人です。

大人である特権は、

どこをどう探してもない

愛された思い出、

子どもの頃の見果てぬ夢だった

愛されるという体験を、

自分で創れるということです。

つまり、

思い起こして、

誰にも愛された体験がないならば、

大人になった自分が

子どもの頃の自分を愛してやればいいのです。

それが自分発見の旅です。

要するに、

勝手に自分で〝愛された物語”を紡ぎます。

突き詰めて考えて

そこのところを納得できたら、

いじめられっ子ではなくなるでしょう。

だって、

本当に強い人間は、

いじめられようがないんですから。

今、いじめられている方、

もう一歩です。

周りに適応するのを止めて下さい。

ネガティブ・シンキングでいいんですよ。

「男前やのに

男後ろやってるやんけ~。

心は、

ダイヤモンドやのに

すぐ泣くし…

青春じゃのうて、春苦(ハルク)じゃ。

う、う、うお~っ」

そんなに駄目なタイプだから、

愛されるに値するんです。

自分に対し、

太陽のように

いっぱいいっぱいの

愛情を注いであげて下さい。

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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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子供にとってはやはり難しそう・・ (obichan)
2012-08-21 19:19:14
> 強いから引き受けなくていいことまで
> 引き受けてしまった…

これは「強い」というのとは少し違う気がします。
ごめんなさい、うまく説明できないのですけど…
強ければ引き受けないのではないかな・・と思ったのです。


駄目な子ほど可愛いっていうのを理解するのはやはり、
今の兄弟が少ない子供たちにとっては難しいものなのでしょう。

昔はガキ大将のまわりに大きな子から小さな子まで従えて遊びまくっていたのをよく見かけたり、
あるいは兄弟が沢山で上の子が下の子の面倒を見なければならない、
そういう行動こそ、駄目な子ほど可愛いというのを理解するのに必要な行動だったんだなあって思います。

私も自分の子供の頃は自分が嫌いなネガティブな人間の一人でした。
中学生と高校生の時、何度か過去をふり返ったこと多々ありましたが、やはり好きにはなれませんでした。
自分を好きになりだしたのはやはり子育てを経てから、つまり大人になってからですね。

とりあえずは自分というものをしっかりと持つ、どんな自分でも好きになれなくとも、
「人間だものこんなやつもいるよ」と認めるということが大事なのだと思います。

返信する
☆obichanさんへ (忠太)
2012-08-21 20:49:31
自殺した中二の少年を「弱かった」で済ましてはいけないという気がしました。少なくとも、いじめっ子達よりは強かったのではないでしょうか。

女性の強さとして語られる「受け入れる」という方面での能力は発達していたのではないか、と思うのです。もし、受容力が少なければ、不審な動きを見せ、重篤化する前に周りもいじめに気付けたと思うのです。

ただ、いじめっ子との比較という意味での〝相対的”強さは認められても、一個の人間としての〝絶対的”な強さは、obiさんが言うようになかったんだろうと思います。

絶対的な強さは、昔なら大家族制度の下、自然に体得し得たのかもしれないですね。今は、親に頼るしかない状態ではないかと思います。

obiさんがまさか「ネガティブな人間の一人でした」とおっしゃるとは思いませんでした。意外です。人間はかわるということなんですね。

僕も変わるぞ~~~♪
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補足 (忠太)
2012-08-21 23:42:12
ある人間と関係を断つとき、相手が立ち去るよう仕向ければ、恨みが残らないです。しかしそうするには、自分が充分に人格上の発達を遂げていないと自然にはできないでしょう。その意味では、obiさんが指摘なさったように、「子供にとって難しい選択です」。ただ、難しいと言って流れに身を任せたら、殺されます。それで、次善の策として、苦しいだろうけど見限ってはどうかと、提案してあげたく感じたわけです。

「見限る」方は、人間的に未熟でも行えます。僕だっていろんなこと見限ってます。決して楽ではないです。しかし、実行に移せなくはないのです。次のブログ記事の橋下氏の「自分を偽れ」という提言も、中身においては僕がここでしたアドバイスに近いものを含んでいるな、と思いました。

実際問題としては、中二の少年はもう死んでしまっているので忠告できませんが、似た状況にいる人は、僕の言葉に耳を傾けて欲しいと思います。
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補足―2 (忠太)
2012-08-22 00:14:24
ただ、いじめっ子と付き合いが無くなっても、トラウマのように虐められ体験が蘇るかもしれません。そのときは、心の中の出来事ですし、正面対決を恐れずに、本文に記した通り、〝大人特権”(たとえ中学生であっても、難を離れた範囲で大人になったと考えます)として自分を慈しめ、という要求を宿題として自身に課して欲しいです。
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