
細石神社(福岡県前原市)を掲載しました。
細石神社(さざれいしじんじゃ)
【鎮座地】〒819-1583 福岡県前原市三雲432 旧筑前国 怡土郡
【御祭神】磐長姫命 木之花開耶姫命
【例祭】 10月25日 例大祭
【旧社格等】村社
【御由緒】
細石(さざれいし)神社(旧名 佐々禮石)
伊都国の中心部で、祭神は磐長姫と妹の木花開耶姫(日向第一代ニニギノミコトの妃)の二柱。
元禄八年の「細石神社御縁起」では、天正十五年豊臣秀吉により、神田没収とある。これ以前については、判明していない。
附近の遺跡
伊都国王墓
南小路遺跡(紀元前一世紀の王墓と王妃墓)
鑓遺跡(紀元一世紀の墳墓)
(社前案内板より)
伊都国の中心にあり、以前は神田も多く大社でしたが、太閤検地により田畑を召し上げられ衰退したと伝えられています。
また、細石(さざれいし)や井原(いわら、岩羅)、千代(ちよ、福岡市)などの名や、志賀島神社の神事の台詞から、「君が代」の起源がこの地域にあるという説もあります。
(伊都国散策マップより)
福岡市の西に隣接する、前原市にあります。JR筑肥線「波多江駅」から県道563号線(端梅寺池田線)をおよそ3km南下、三雲の鎮守の森に鎮座しています。
鳥居から拝殿
鳥居をくぐるとすぐに石灯籠、左に案内板から社号標。社殿のある境内はブロック塀に囲まれています。
社号標は裏に「昭和十六年七月吉日 陸軍少将 中牟田辰六謹書」とあります。
当社社殿は東向きに建てられていて、参拝時は夕日で逆光になり写真は良くありません。
拝殿

境内に入るとすぐ左に手水、正面に瓦葺入母屋造りの拝殿です。奥に続いて覆屋の中に幣殿、本殿があります。
社前には一対の狛犬に続いて、注連縄柱があります。
社殿全景
当地は、魏志倭人伝の「伊都国」の中心とされ、弥生時代の平原遺跡など伊都国の王墓、その他古墳など多数あります。
創建時代は不詳ですが、筑前國續風土記拾遺には「天正15年(1587)太閤に神領没収せられ、昔祭日にありし流鏑馬も中絶し、、、」とありますので往古はかなりの社であったと思われます。
本殿
御祭神は天孫瓊瓊杵尊のお妃、木之花開耶姫命とその姉君磐長姫命、姉妹が一緒に祀られているのは珍しく、福岡県では当社以外に見当たりません。
境内社
社殿左に並んであります。
福岡縣神社誌には八坂神社(進雄命)、流転神社(菅原神)、龍王神社(豊玉姫命)の3社が記載されています。
八大龍王?
本殿左、境内社の右にあります。
御祭神木花開耶姫の御子、彦火火出見尊(山幸彦)の生誕地と伝わる当社の東200mにあった八竜の森から移設されたとのことです。
筑前國續風土記(貝原益軒)巻乃二十二 怡土郡には
「又三雲村の南に森有。其内に石有。是を八大龍王と称す。一説には、彦火火出見尊爰にて出生し給ふ。其印の石共云。、、、」
とあります。
御神木
拝殿右にあります。
根元に大きな長方形の石があります、なにかいわれがあるかと思われますが不明です。
筑前國續風土記(貝原益軒)巻乃二十二 怡土郡には
「神体は小石のよし云り。故にさざれ石と称するならん。、、」
とありますので、これが御神体の石でしょうか。
上に記した「八大龍王」がこの御神体、この長方形の石が「八大龍王」かとも
思われます。
拝殿から参道
境内は綺麗に整備され、周囲は田園地帯が広がっています。
境内から高祖山
当社正面(東方)の山は、御子、彦火火出見尊を祀る高祖神社がある高祖山から天孫降臨のクシフル岳、さらに右には日向峠と日向神話に登場する地名が多くあります
端山古墳
当社の北北東300mにあります。
古墳時代前期(4世紀頃)築かれた、全長78mの前方後円墳です。
端山古墳 HayamaTomb 前原市大字三雲宇塚廻り
中国の歴史書『魏志倭人伝』に記された「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳です。
前方部は北を向きますが、破壊されて現在は後円部のみが残っています。
1974年(昭和49年)に行われた調査によって、前方部基部の石列が検出され、先端部が横に突出していたことが確認されました。墳丘の規模は、全長78・5m、後円部の直径約42m・高さ約8m、前方部の長さ約38m・幅約23mです。前方部は二段集成、後円部は三段築成で、斜面には葺石が施され、周囲には盾形の周濠が廻っていました。周濠を含む全長は約99mです。
主体部は未調査ですが、周辺から出土した土器から、この古墳は4世紀はじめごろに築かれたと考えられ、この古墳の南にある築山古墳よりも先に築かれたと考えられています。また、古い記録には、付近に「茶臼塚」と呼ばれる古墳が存在したことが記されていますが、その位置は碓認されていません。
この古墳に葬られた人は、弥生時代の「伊都国」の王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深いつながりをもった豪族であったと考えられています
(現地案内板より)
築山古墳
当社の東北東200mほどにあります。
古墳時代前期(4世紀頃)築かれた、全長60mの前方後円墳です。
築山古墳 TsukiyamaTomb 前原市大字三雲字寺口
中国の歴史書『魏志倭人伝』に記された「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳です。
前方部は北西を向きますが、現在、前方部、後円部とも一部破壊されています。
1974年(昭和49年)に行われた調査によって、墳丘の全長約60m、後円部の直径約49m・高さ約8m、前方部の長さ約15m・幅約25m規模の、後門部に比べ前方部が短い帆立貝式の前方後円墳であることが確認されました。斜面には葺石が施され、周囲には盾形の周濠が廻っていたようで、周濠を含む全長は約105mになります。
主体部は未調査ですが、周濠からは壷形埴輪や円筒埴輪が出土していて、この古墳が築かれたのは、今から約1,600年前の4世紀末ごろと考えられ、この古墳の北にある端山古墳に後続して築かれたと考えられています。また、古い記録には、付近に「茶臼塚」と呼ばれる古墳が存在したことが記されていますが、その位置は碓認されていません。
この古墳に葬られた人は、弥生時代の「伊都国」の王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深いつながりをもった豪族であったと考えられています。
(現地案内板より)
細石神社(さざれいしじんじゃ)
【鎮座地】〒819-1583 福岡県前原市三雲432 旧筑前国 怡土郡
【御祭神】磐長姫命 木之花開耶姫命
【例祭】 10月25日 例大祭
【旧社格等】村社
【御由緒】
細石(さざれいし)神社(旧名 佐々禮石)
伊都国の中心部で、祭神は磐長姫と妹の木花開耶姫(日向第一代ニニギノミコトの妃)の二柱。
元禄八年の「細石神社御縁起」では、天正十五年豊臣秀吉により、神田没収とある。これ以前については、判明していない。
附近の遺跡
伊都国王墓
南小路遺跡(紀元前一世紀の王墓と王妃墓)
鑓遺跡(紀元一世紀の墳墓)
(社前案内板より)
伊都国の中心にあり、以前は神田も多く大社でしたが、太閤検地により田畑を召し上げられ衰退したと伝えられています。
また、細石(さざれいし)や井原(いわら、岩羅)、千代(ちよ、福岡市)などの名や、志賀島神社の神事の台詞から、「君が代」の起源がこの地域にあるという説もあります。
(伊都国散策マップより)
福岡市の西に隣接する、前原市にあります。JR筑肥線「波多江駅」から県道563号線(端梅寺池田線)をおよそ3km南下、三雲の鎮守の森に鎮座しています。
鳥居から拝殿

鳥居をくぐるとすぐに石灯籠、左に案内板から社号標。社殿のある境内はブロック塀に囲まれています。
社号標は裏に「昭和十六年七月吉日 陸軍少将 中牟田辰六謹書」とあります。
当社社殿は東向きに建てられていて、参拝時は夕日で逆光になり写真は良くありません。
拝殿


境内に入るとすぐ左に手水、正面に瓦葺入母屋造りの拝殿です。奥に続いて覆屋の中に幣殿、本殿があります。
社前には一対の狛犬に続いて、注連縄柱があります。
社殿全景

当地は、魏志倭人伝の「伊都国」の中心とされ、弥生時代の平原遺跡など伊都国の王墓、その他古墳など多数あります。
創建時代は不詳ですが、筑前國續風土記拾遺には「天正15年(1587)太閤に神領没収せられ、昔祭日にありし流鏑馬も中絶し、、、」とありますので往古はかなりの社であったと思われます。
本殿

御祭神は天孫瓊瓊杵尊のお妃、木之花開耶姫命とその姉君磐長姫命、姉妹が一緒に祀られているのは珍しく、福岡県では当社以外に見当たりません。
境内社

福岡縣神社誌には八坂神社(進雄命)、流転神社(菅原神)、龍王神社(豊玉姫命)の3社が記載されています。
八大龍王?

御祭神木花開耶姫の御子、彦火火出見尊(山幸彦)の生誕地と伝わる当社の東200mにあった八竜の森から移設されたとのことです。
筑前國續風土記(貝原益軒)巻乃二十二 怡土郡には
「又三雲村の南に森有。其内に石有。是を八大龍王と称す。一説には、彦火火出見尊爰にて出生し給ふ。其印の石共云。、、、」
とあります。
御神木

根元に大きな長方形の石があります、なにかいわれがあるかと思われますが不明です。
筑前國續風土記(貝原益軒)巻乃二十二 怡土郡には
「神体は小石のよし云り。故にさざれ石と称するならん。、、」
とありますので、これが御神体の石でしょうか。
上に記した「八大龍王」がこの御神体、この長方形の石が「八大龍王」かとも
思われます。
拝殿から参道

境内から高祖山

当社正面(東方)の山は、御子、彦火火出見尊を祀る高祖神社がある高祖山から天孫降臨のクシフル岳、さらに右には日向峠と日向神話に登場する地名が多くあります
端山古墳

古墳時代前期(4世紀頃)築かれた、全長78mの前方後円墳です。
端山古墳 HayamaTomb 前原市大字三雲宇塚廻り
中国の歴史書『魏志倭人伝』に記された「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳です。
前方部は北を向きますが、破壊されて現在は後円部のみが残っています。
1974年(昭和49年)に行われた調査によって、前方部基部の石列が検出され、先端部が横に突出していたことが確認されました。墳丘の規模は、全長78・5m、後円部の直径約42m・高さ約8m、前方部の長さ約38m・幅約23mです。前方部は二段集成、後円部は三段築成で、斜面には葺石が施され、周囲には盾形の周濠が廻っていました。周濠を含む全長は約99mです。
主体部は未調査ですが、周辺から出土した土器から、この古墳は4世紀はじめごろに築かれたと考えられ、この古墳の南にある築山古墳よりも先に築かれたと考えられています。また、古い記録には、付近に「茶臼塚」と呼ばれる古墳が存在したことが記されていますが、その位置は碓認されていません。
この古墳に葬られた人は、弥生時代の「伊都国」の王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深いつながりをもった豪族であったと考えられています
(現地案内板より)
築山古墳

古墳時代前期(4世紀頃)築かれた、全長60mの前方後円墳です。
築山古墳 TsukiyamaTomb 前原市大字三雲字寺口
中国の歴史書『魏志倭人伝』に記された「伊都国」の中心部に築かれた前方後円墳です。
前方部は北西を向きますが、現在、前方部、後円部とも一部破壊されています。
1974年(昭和49年)に行われた調査によって、墳丘の全長約60m、後円部の直径約49m・高さ約8m、前方部の長さ約15m・幅約25m規模の、後門部に比べ前方部が短い帆立貝式の前方後円墳であることが確認されました。斜面には葺石が施され、周囲には盾形の周濠が廻っていたようで、周濠を含む全長は約105mになります。
主体部は未調査ですが、周濠からは壷形埴輪や円筒埴輪が出土していて、この古墳が築かれたのは、今から約1,600年前の4世紀末ごろと考えられ、この古墳の北にある端山古墳に後続して築かれたと考えられています。また、古い記録には、付近に「茶臼塚」と呼ばれる古墳が存在したことが記されていますが、その位置は碓認されていません。
この古墳に葬られた人は、弥生時代の「伊都国」の王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深いつながりをもった豪族であったと考えられています。
(現地案内板より)
しかも、資料が全部載ってる。(涙)
今「ひもろぎ逍遥」で、神社の伝承を出しています。始めたばかりですが、かつて行った神社の写真なんかないので、こうして、家で見られるのが有り難いです。
もう一つのブログ「姫宮さまたちの物語」で、星座を出しているのですが、手書きで、うまく行きません。プロフィールで、パソコンのプロと知りました。
何か方法があったら教えてください。
すみません。初めてで、ずうずうしく、質問しました。
これからも拝見させてくださいね。
貴ブログ、拝見しました。大変簡潔にまとめられていて、読みやすく素晴らしいです。
>もう一つのブログ「姫宮さまたちの物語」で、星座を出しているのですが、手書きで、うまく行きません。プロフィールで、パソコンのプロと知りました。
パソコンのプロではありませんが、
図形などを描くソフトは各種あると思います。
Windows標準搭載ののアクセサリにあるペイント、マイクロソフトのパワーポイントなど、
その他、フリーソフトのJW-CADも使えるかと思います。
次からダウンロードできます。参考書も市販されています。
http://www.forest.impress.co.jp/lib/pic/piccam/cad/jwcad.html
目的が違っていたらご容赦ください。
今後とも宜しくお願いします。
それに、質問の答えまでいただいて。
超初心者なので、少しずつチャレンジして行きます
これからも、楽しみにしています。
(それにしても、水平線の撮り方がすごいですね。後でゆがんでいる事に気付いて、失敗ばかりです。
感謝申しあげます。
ロマンがありますし、早くから大陸と交流のあった福岡は日本のいつの時代も先端を走っている地区と 思います。
当地には日向神話(古事記)に登場する地名、史蹟など多数あり、興味がつきません。
ご覧のとおり、個人の参拝記録です、主観を入れず、現地案内板等をそのまま記載するようにしています。
今後とも宜しくお願いします。
この細石神社は、私のふるさとの象徴です。
物心ついたときから、三雲剣道の道場に通っていました。誇りのある道場で、神社です。
高祖神社の正面で、確か、この細石神社から、末の娘が嫁に行くとか言う神話がありませんか?それで、神楽が4月26日ごろに毎年あります。
登り旗が立ちます。そして、ワラジが遠くの鳥居のしたの置かれるんです。確か・・・。詳しくないのでよくわかりませんが。
新年は、必ず大晦日、除夜の鐘が終わったら、初詣に行きました。お神酒、お守りが振舞われています。
>高祖神社の正面で、確か、この細石神社から、末の娘が嫁に行くとか言う神話がありませんか?
申し訳ありません、存じません。いろんな言い伝えがあるようですね、今度調べてみたいと思います。貴重な情報ありがとうございました。
今後とも宜しくお願いいたします。