穴水町に太平洋戦争終戦間際の一時期、旧海軍の潜水学校があったそうです。
海軍潜水学校は潜水艦の乗員として必要な技能を教授する学校で旧海軍の拠点のひとつ広島県呉軍港内にあったそうです。昭和17年に大竹分校を開設、同年本校を大竹に移転し呉を分校としています。昭和19年には山口県に柳井分校を開設しましたが、戦争も末期に近づくにつれ米軍による本土爆撃が激しくなり、大竹や柳井での訓練が難しくなり昭和20年6月1日七尾分校を開設し学校自体を疎開させています。
穴水町中居・波志借・比良が面する七尾北湾(穴水湾)は水深が20m~40mと深く潜航訓練ができ、沿岸部には寺院が多く校舎や宿舎として利用できるため疎開先として選ばれたようです。※当時世界最大で潜水空母として知られるイ(伊)400型潜水艦の第1潜水隊も七尾湾で訓練の後、太平洋に出撃しています。
七尾分校には練習用として大型の伊号や呂号・波号など10数隻の潜水艦が広島県の大竹本校から手配され岩車(穴水町中居の対岸)沖に停泊している様子が目撃されています。(能登半島の先端珠洲市禄剛埼沖で舞鶴の海軍基地から七尾分校に向かう途中の潜水艦が米軍の潜水艦と交戦・撃沈されて全乗組員が戦死しています。)
七尾分校は終戦までの2ヶ月半間という短期間しか存在しなかったため記録はあまり残されていません。防空用に訓練生の手で掘られたトンネルが今もあるそうですが、この頃の日本には大規模な基地を作ったり新たに学校を建てる余裕は無く、ここに潜水艦の学校があったことを示す痕跡はほとんど残されていません。
海軍潜水学校は潜水艦の乗員として必要な技能を教授する学校で旧海軍の拠点のひとつ広島県呉軍港内にあったそうです。昭和17年に大竹分校を開設、同年本校を大竹に移転し呉を分校としています。昭和19年には山口県に柳井分校を開設しましたが、戦争も末期に近づくにつれ米軍による本土爆撃が激しくなり、大竹や柳井での訓練が難しくなり昭和20年6月1日七尾分校を開設し学校自体を疎開させています。
穴水町中居・波志借・比良が面する七尾北湾(穴水湾)は水深が20m~40mと深く潜航訓練ができ、沿岸部には寺院が多く校舎や宿舎として利用できるため疎開先として選ばれたようです。※当時世界最大で潜水空母として知られるイ(伊)400型潜水艦の第1潜水隊も七尾湾で訓練の後、太平洋に出撃しています。
七尾分校には練習用として大型の伊号や呂号・波号など10数隻の潜水艦が広島県の大竹本校から手配され岩車(穴水町中居の対岸)沖に停泊している様子が目撃されています。(能登半島の先端珠洲市禄剛埼沖で舞鶴の海軍基地から七尾分校に向かう途中の潜水艦が米軍の潜水艦と交戦・撃沈されて全乗組員が戦死しています。)
七尾分校は終戦までの2ヶ月半間という短期間しか存在しなかったため記録はあまり残されていません。防空用に訓練生の手で掘られたトンネルが今もあるそうですが、この頃の日本には大規模な基地を作ったり新たに学校を建てる余裕は無く、ここに潜水艦の学校があったことを示す痕跡はほとんど残されていません。
自分は、父親が太平洋戦争末期、呉海軍工廠で働いていましたので、当時の穴水に潜水艦学校が、大竹から移設する話は、聞いてました。
こうした記録は本当に貴重です。
平成24年8月から、当時の父の呉の足跡を一冊の本に纏めております。
題名は、「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇蹟 第4版」と云います。(自費出版・非売品)石川県も金沢市、小松市、羽咋市、七尾市に第4版、輪島市に第3版が登録されております。全国では、北海道の北見市から鹿児島県まで、140ヵ所に登録されております。
一度、是非ご覧下さい。アニメ映画「この世界の片隅に」の時代の話です。
この度の震災、お見舞い申し上げます。
私の母が戦時中、小5、6の頃、疎開で能登の祖母の姉のうちに預けられた時の潜水艦の話を思い出します。能登には母型の祖母の親戚が多く、母の叔父は東京にいたようでしたが、長浦の母の叔母宅にいたようです。船に乗って島(大島水越島の間?)に海水浴に行ったおりとおもわれるとき、沖合を大きな潜水艦が通過してしばらくすると、とても大きな波が来て大変だった、とよく話してました。このWEBのお話だと、終戦間際のことだったのかもしれませんね。西岸までの通学の話は始終していました。
長浦、輪島、そで、西岸、和倉。今回は海沿いも被害が出ているようで所縁の地名の中にも被害の話題があり、心配です。
阪神大震災の折は、結局自力で始末をつけないとことが進みませんでした。当時からは行政サービスも向上したかとは思いますが、行政には証拠写真と領収書を頼りに、いち早く再起を自力で起こすことが元気の元になります。大変とは思いますが、お身体最優先にされてください。