よく、神に対してものすごい憎悪がある。とか
イエスに対してものすごい憎悪がある。とか
聖霊に対しての憎悪や怒りがある。とか
そういうことを兄弟たちから耳にする。
どういうわけか、私の中はちょっと違う。
神(実在)に対しては、謝罪の想いがあり
怒りや憎悪の矛先は、自分自身(幻想)に対して向けられている。
確かに、自我は神の上に立つことを欲したが
その神は、すでに幻想の神であって、実在の神に対してではなかった。
実在の神に対しては、いかなる幻想を思い描くことができない。
うまく言えないが、そういう感じなんだなあ。
汚すことができないんだよ。
実在のことも、実在の神の代弁者としての聖霊も、それと同一のイエスのことも
実際に汚すことは不可能。
だから、幻想である夢を見る者が憎悪し怒ることができる相手というのは
幻想の自分自身でしかありえない。
うまく言えないが、そういう感じ。
どう頑張ったって、神に対して投影というのが不可能なんだよな。
だから、神と思っている神は、神じゃなくて
自分で祀り上げた神に過ぎなかった。
彼と思っていた彼は存在していなかった。
一度も汚されたことのない、一度も歪められたり投影されたことのない
実在の神は、ずっとここにいらっしゃったのでした。
なんだろな、そういう感じ。
だから、私は神に怒りを向けることは実際に不可能で
イエスに対しても絶対に不可能なんだよね。
そういう感じ。
その不可能さを、そのまま知覚しているのだろうな。
なんだか、そういうことらしい。
私は、彼を愛することしかできなかった。

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イエスに対してものすごい憎悪がある。とか
聖霊に対しての憎悪や怒りがある。とか
そういうことを兄弟たちから耳にする。
どういうわけか、私の中はちょっと違う。
神(実在)に対しては、謝罪の想いがあり
怒りや憎悪の矛先は、自分自身(幻想)に対して向けられている。
確かに、自我は神の上に立つことを欲したが
その神は、すでに幻想の神であって、実在の神に対してではなかった。
実在の神に対しては、いかなる幻想を思い描くことができない。
うまく言えないが、そういう感じなんだなあ。
汚すことができないんだよ。
実在のことも、実在の神の代弁者としての聖霊も、それと同一のイエスのことも
実際に汚すことは不可能。
だから、幻想である夢を見る者が憎悪し怒ることができる相手というのは
幻想の自分自身でしかありえない。
うまく言えないが、そういう感じ。
どう頑張ったって、神に対して投影というのが不可能なんだよな。
だから、神と思っている神は、神じゃなくて
自分で祀り上げた神に過ぎなかった。
彼と思っていた彼は存在していなかった。
一度も汚されたことのない、一度も歪められたり投影されたことのない
実在の神は、ずっとここにいらっしゃったのでした。
なんだろな、そういう感じ。
だから、私は神に怒りを向けることは実際に不可能で
イエスに対しても絶対に不可能なんだよね。
そういう感じ。
その不可能さを、そのまま知覚しているのだろうな。
なんだか、そういうことらしい。
私は、彼を愛することしかできなかった。

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