奇跡のコース/奇跡講座で生きる! 愛を阻む障壁を超え、本当の自分を思い出そう【真我なるハート】

2018年10月から奇跡講座の学び実践の奥深さを思い知って、本当の妥協のないプランAの実践で歩むことを望んでいます

「どんな人が目の前に現れたか?」じゃなくて「その人をどのレベルの目で見るか?」問題

2021年11月06日 12時21分00秒 | ACIM奇跡のコースという生き方





私の計算が合ってれば、何気にこの24時間のうち8〜9時間車の運転をしてると思う。
またこの50分後往復2時間運転するので仮眠しなきゃならないのだが、寝れない。 笑
寝るか、食べるか、運転するか、この繰り返し。
その中で四六時中マインドウォッチングしている。

今朝(というか未明)4:30amごろ、撮影現場でちょっと危なっかしいように思えるようなことが起きたのかもしれない。
現場には20〜30人くらいいたのかな。
その中の1人の男性と話しをする必要があって話したら、客観的に見て軽い脅迫じみた言葉を彼から私に吐かれて
特に物理的な危害はなかったけれど、その人のある種の執着心(心の中の怒りが言動化するみたいな感じ)は起きていたようだった。
ラファエルがそう言ってたのだけど、そうだったのかもしれないし違ったのかもしれない。

でも、実は私の中で起きていたことは
その人に何かを話すよりもずっと前から「私がすでに愛されていることを拒絶しないでこのまま受け入れるだけなんだな」
という愛に浸っていた。

私は私のためにこれを拒絶したくない。という想いでいっぱいだった。

それで、ふと、その人に声をかける必要があって声をかけたら
「彼の目は彼のそれではなかった」ただ、そう思った。

必要な声かけをして、彼が内面で怒っているのを見ながら私の中の誰かが
彼の愛と助けの呼びかけを見ていた。そしてこう言っていた。
「私はあなたを知っている」
私の中のその方は、彼に愛を差し出していた。

でも、もう一方で別の声である自我は私と彼、もしくはどちらか一方に罪悪を見たがっていた。
その自我の言い分から、内か外に罪悪を見るか否かは「明らかに私の決断に依存していた」

同時に、罪悪に力を与えることそのものに、価値がないと思っている私がいた。

罪悪に価値を与えたその瞬間、愛に価値をおくことができないのは歴然としていた。

ちょっとした空想的なイメージだけれども
万が一、その怒りの矛先が私の身体に向けられて刺されたとしても
そのままそれを自分の内に包み込みたいと感じた。

外に罪を転嫁して、そこに責任をもたせようとする意欲よりも
内にも外にも罪なんて存在していないんだよ、って自分も外も受け入れて愛によって愛が延長されるままにしたい
そこにのみ自分の平安と幸せと満たされた感覚が維持される、その方法しかないと
私の中のどなたかが知っている。

その方に私の全てを責任とってもらうことこそが私の幸せと感じる。

それは、諦めでもないし、犠牲でもないし、生け贄になることでもない。
ただ単に、自分がそこに価値をみているので、誰による強制でもなく、自分が望み価値をみているそれをそうするだけで

そこに永続する幸せがとどまってくれている。
私のために。





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