はっきり言って、奇跡講座(奇跡のコース、ACIM)は、この世界にとっては
都合がよろしくない講座そのものです。
自我もろとも、この夢が消滅してしまいますので^^;
なので、このコースそのものを、曲解したり、薄めたり、横道にそらして解釈してゆきたい時期も
それぞれの兄弟の心のうちでは、生じていったりするわけですね。
そういうことは普通にありますね~。
先日、個人セッションにいらした方が教えて下さったのですが
奇跡講座の続編が、、、今年アメリカで発売された。とのことで
その名も、「愛のコース」というものなのだそうです。
「まあ、ご冗談を。。」という感じなのですが 笑
しかし、、イエスによる、奇跡講座の続編なのかどうか?の真偽は別として
奇跡講座を学び実践していった時に、とても抵抗を感じたり苦しくなったりした時の
休憩所的概念には、もしかしたらなるのかも知れませんね。。
と、思いました。
が、今の私の理解では、
奇跡講座に続編が必要だったはずは無いわなあ。というところが本心です。
なぜなら、本当に奇跡講座を学び実践しつくしたならば
いずれ実相世界を達成してしまうからです。(いつなのかは、それぞれのカリキュラムですね)
それは、愛以外の何も知覚不可能な心の状態の達成です。
その続編として、愛のコースというものが必要あるはずが、、
ありませんね^^
実相世界の次は、
神・天国への帰還です。
しかし、私はどうにか持ちこたえていますが。。。
奇跡講座を真に学び実践してゆけばゆくほどに、
「こりゃ~相当ヘビーだわ!!!!!」
という知覚を体験することは、多々あります。
なので、人々は純粋非二元としてのコースの理論を
非二元に、半二元に、二元に、引き下ろそう、引き下ろそうと、、します。
それも、悪ではないですね。
(けど、最短のコースにはならないんだ。ということは何度自分に強調しても、し過ぎるということは無いだろうな。と、感じています。)
そんな時の、休憩所的な学びとして「愛のコース」というものがあっても良いのかも知れない。
とは、思います。
それは、真の目覚めに至るための「最短の学び」ではないでしょうけれども
本当の目覚めに至る道のりは、いずれにせよ自我からしたら、相当ヘビーな時期もありますので~^^;
私的には、積極的におススメはしませんが、やめた方が良いとも言えません。
ご自身が「必要」と思ったら、続編(?)の概念を取り入れる時期があっても良いですよね。
脱線しますが、
奇跡講座の「贖罪」を、「自分との和解」というニュアンスに、書籍の中で翻訳なさる方もいらっしゃるようなのですが
真に、奇跡講座を学び実践してゆく時には、そういったやんわり翻訳が、かえって障害になってしまいますね。
けど、しょっぱなから「贖罪」という言葉を使って学び実践してゆくのが合わない方も多いですから
それも、学びの最初の段階のうちはNGではないですね。
準備運動の前の準備運動期間は、その方が良かったりしますね。
そして必ず聖霊が、準備が整ってきた者達を、純粋非二元の学びへと導いてくれますね☆
奇跡講座を、真に学び実践してゆくと、、、
神の愛しか無いことは、自然に確信し、体験してゆくことになります☆
自我という障壁が取り消されれば、愛だけが残ります^^
☆ ☆ ☆
奇跡講座テキスト編 P5(中央アート出版社)
このコースにおいては、「贖罪」とは、罪と罪悪感の実在性を信じる信念を訂正することを意味している。
このように、人々に馴染みのある言葉を使ってその意味を変更するというのが、このコースの教育プロセスの一例である。
すなわち、罪悪感や恐れを浮上させる「引き金」となるそうした言葉の使用によって、
自我の思考体系の中の抑圧されてきた側面を受講生たちの心の中で表面化させる。
このやり方で、抑圧されてきたものが直視され、最後には赦されることが可能になる。こうした効果をあげるために、
この訂正プロセスは、私たちの間違った信念や概念が抑圧されずに、認識されることを要求するのである。
したがって、「贖罪」のかわりに、たとえば「和解」や「償い/救い」といった温和な言葉を使用することは、
私たちの間違った想念が私たちの心の中に浮上することを最初から不可能にしてしまい、
それにより、そうした想念を訂正するというこのプロセスを損なってしまうことになる。
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都合がよろしくない講座そのものです。
自我もろとも、この夢が消滅してしまいますので^^;
なので、このコースそのものを、曲解したり、薄めたり、横道にそらして解釈してゆきたい時期も
それぞれの兄弟の心のうちでは、生じていったりするわけですね。
そういうことは普通にありますね~。
先日、個人セッションにいらした方が教えて下さったのですが
奇跡講座の続編が、、、今年アメリカで発売された。とのことで
その名も、「愛のコース」というものなのだそうです。
「まあ、ご冗談を。。」という感じなのですが 笑
しかし、、イエスによる、奇跡講座の続編なのかどうか?の真偽は別として
奇跡講座を学び実践していった時に、とても抵抗を感じたり苦しくなったりした時の
休憩所的概念には、もしかしたらなるのかも知れませんね。。
と、思いました。
が、今の私の理解では、
奇跡講座に続編が必要だったはずは無いわなあ。というところが本心です。
なぜなら、本当に奇跡講座を学び実践しつくしたならば
いずれ実相世界を達成してしまうからです。(いつなのかは、それぞれのカリキュラムですね)
それは、愛以外の何も知覚不可能な心の状態の達成です。
その続編として、愛のコースというものが必要あるはずが、、
ありませんね^^
実相世界の次は、
神・天国への帰還です。
しかし、私はどうにか持ちこたえていますが。。。
奇跡講座を真に学び実践してゆけばゆくほどに、
「こりゃ~相当ヘビーだわ!!!!!」
という知覚を体験することは、多々あります。
なので、人々は純粋非二元としてのコースの理論を
非二元に、半二元に、二元に、引き下ろそう、引き下ろそうと、、します。
それも、悪ではないですね。
(けど、最短のコースにはならないんだ。ということは何度自分に強調しても、し過ぎるということは無いだろうな。と、感じています。)
そんな時の、休憩所的な学びとして「愛のコース」というものがあっても良いのかも知れない。
とは、思います。
それは、真の目覚めに至るための「最短の学び」ではないでしょうけれども
本当の目覚めに至る道のりは、いずれにせよ自我からしたら、相当ヘビーな時期もありますので~^^;
私的には、積極的におススメはしませんが、やめた方が良いとも言えません。
ご自身が「必要」と思ったら、続編(?)の概念を取り入れる時期があっても良いですよね。
脱線しますが、
奇跡講座の「贖罪」を、「自分との和解」というニュアンスに、書籍の中で翻訳なさる方もいらっしゃるようなのですが
真に、奇跡講座を学び実践してゆく時には、そういったやんわり翻訳が、かえって障害になってしまいますね。
けど、しょっぱなから「贖罪」という言葉を使って学び実践してゆくのが合わない方も多いですから
それも、学びの最初の段階のうちはNGではないですね。
準備運動の前の準備運動期間は、その方が良かったりしますね。
そして必ず聖霊が、準備が整ってきた者達を、純粋非二元の学びへと導いてくれますね☆
奇跡講座を、真に学び実践してゆくと、、、
神の愛しか無いことは、自然に確信し、体験してゆくことになります☆
自我という障壁が取り消されれば、愛だけが残ります^^
☆ ☆ ☆
奇跡講座テキスト編 P5(中央アート出版社)
このコースにおいては、「贖罪」とは、罪と罪悪感の実在性を信じる信念を訂正することを意味している。
このように、人々に馴染みのある言葉を使ってその意味を変更するというのが、このコースの教育プロセスの一例である。
すなわち、罪悪感や恐れを浮上させる「引き金」となるそうした言葉の使用によって、
自我の思考体系の中の抑圧されてきた側面を受講生たちの心の中で表面化させる。
このやり方で、抑圧されてきたものが直視され、最後には赦されることが可能になる。こうした効果をあげるために、
この訂正プロセスは、私たちの間違った信念や概念が抑圧されずに、認識されることを要求するのである。
したがって、「贖罪」のかわりに、たとえば「和解」や「償い/救い」といった温和な言葉を使用することは、
私たちの間違った想念が私たちの心の中に浮上することを最初から不可能にしてしまい、
それにより、そうした想念を訂正するというこのプロセスを損なってしまうことになる。
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