「本当に目覚めてゆく」
っていうことは、相当なこと。
比喩ではなく、
世界が本当に本当に消え去るのですから。
それを、遠い未来、他人ごと、
のように思えているうちはいいのだけど
「意識」にとっては、それは生半可な話しではないんですね。
だから「本当に自分は目を覚ましたいのか?」と
もう一度確認するといいですね。
いわゆる非二元、ノンデュアリティのような
「目覚めた意識」になることが
純粋非二元の目覚めじゃなく
「本当に夢から目覚める」「夢が消滅する」
ことが純粋非二元の、真の目覚めなんですね。
実際、本当にそうなるんです。それが目覚めです。
「とんでもない。」
と思っている部分が「私」の中にあります。
しかし、それは全くの狂気の声です。
それは、偽りの詐欺師の声に過ぎません。
目を覚ましてゆけば、覚ますほどに
幻想のすべてに、一体性が見えてきます。
本当に夢を見ているのは、一者なんだ。ということが
何だかわからないけれど、わかってゆきます。
他者なんて、自分じゃない部分なんて、
どこにも無かったんだ。
と、だんだんと、一体性を認めてゆきます。
すべてが「私」で、すべてごと「私」が神の愛の中に溶け込んでゆく
そうやって幻想が終わってゆくんです。
それは恐ろしいことでも、なんでもなく、すでにそうなった
超自然的なことで、真の幸せの復活。という最後の夢なのだろう。
そう感じています。
それには、すべての想いを捧げてゆくこと。
「赦し」はとてもとてもシンプルなことなんですね。
昨日(2015.10.01)の勉強会で取り上げさせていただきました、JACIMさんの質問82
とても同感でした。
たゆまぬ努力で実践を繰り返してゆくほど 赦しは大変なものではなく、超シンプルになってゆき
自然なことになってゆきますね。
http://www.jacim.com/acim/?p=5705

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っていうことは、相当なこと。
比喩ではなく、
世界が本当に本当に消え去るのですから。
それを、遠い未来、他人ごと、
のように思えているうちはいいのだけど
「意識」にとっては、それは生半可な話しではないんですね。
だから「本当に自分は目を覚ましたいのか?」と
もう一度確認するといいですね。
いわゆる非二元、ノンデュアリティのような
「目覚めた意識」になることが
純粋非二元の目覚めじゃなく
「本当に夢から目覚める」「夢が消滅する」
ことが純粋非二元の、真の目覚めなんですね。
実際、本当にそうなるんです。それが目覚めです。
「とんでもない。」
と思っている部分が「私」の中にあります。
しかし、それは全くの狂気の声です。
それは、偽りの詐欺師の声に過ぎません。
目を覚ましてゆけば、覚ますほどに
幻想のすべてに、一体性が見えてきます。
本当に夢を見ているのは、一者なんだ。ということが
何だかわからないけれど、わかってゆきます。
他者なんて、自分じゃない部分なんて、
どこにも無かったんだ。
と、だんだんと、一体性を認めてゆきます。
すべてが「私」で、すべてごと「私」が神の愛の中に溶け込んでゆく
そうやって幻想が終わってゆくんです。
それは恐ろしいことでも、なんでもなく、すでにそうなった
超自然的なことで、真の幸せの復活。という最後の夢なのだろう。
そう感じています。
それには、すべての想いを捧げてゆくこと。
「赦し」はとてもとてもシンプルなことなんですね。
昨日(2015.10.01)の勉強会で取り上げさせていただきました、JACIMさんの質問82
とても同感でした。
たゆまぬ努力で実践を繰り返してゆくほど 赦しは大変なものではなく、超シンプルになってゆき
自然なことになってゆきますね。
http://www.jacim.com/acim/?p=5705

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