自身が、内なる神に向かい始めた2013年~2014年の間は、特に
相当な「言い訳」の叫びを発し続けていたんだな~。。
ということが、よくわかります。
その言い訳は、
「私、目覚める気なんてないし!分離したまま、お目覚めゴッコするつもりだし!真に目覚めるなんて冗談じゃないんだからね!」
という聖霊への挑戦状のようなものを
頑なに保持し続けていたんだな。
そういう状態でも尚、聖霊はちゃんと誤りの その先を見ていてくれて
嘘は信じず、真理だけを見続けてきてくれていて
決して見放すようなことはなく
その心が受け入れることが可能な分ずつ、ちゃんと導き続けてくれていたんだなあ。。
どんなに愚かな誤りをおかしていても
誰一人として、見放されていないんだな。
全身麻痺状態から、少しずつ、少しずつ、脱してゆく以外にないんだな。。
日々、あらゆる方達とのやりとりから、自分自身の麻痺状態がどのように脱してゆくのかを、
以前の自分は、猛烈言い訳屋さんだったのだということを、
気持ちよく認めてゆける ありがたさを感じています。
自分が、いかに愚かな選択をしてきたのかを認めることは
本当は、負けを認めることではなく(自我にとってはもちろん負けですが、真実において勝ち負けは、無ですね)
すべて(それは表現不可能)を受け取ることができる正気な心に戻る意欲を差し出すことと等しいのではないかな?
そう思うのです。
相当な「言い訳」の叫びを発し続けていたんだな~。。
ということが、よくわかります。
その言い訳は、
「私、目覚める気なんてないし!分離したまま、お目覚めゴッコするつもりだし!真に目覚めるなんて冗談じゃないんだからね!」
という聖霊への挑戦状のようなものを
頑なに保持し続けていたんだな。
そういう状態でも尚、聖霊はちゃんと誤りの その先を見ていてくれて
嘘は信じず、真理だけを見続けてきてくれていて
決して見放すようなことはなく
その心が受け入れることが可能な分ずつ、ちゃんと導き続けてくれていたんだなあ。。
どんなに愚かな誤りをおかしていても
誰一人として、見放されていないんだな。
全身麻痺状態から、少しずつ、少しずつ、脱してゆく以外にないんだな。。
日々、あらゆる方達とのやりとりから、自分自身の麻痺状態がどのように脱してゆくのかを、
以前の自分は、猛烈言い訳屋さんだったのだということを、
気持ちよく認めてゆける ありがたさを感じています。
自分が、いかに愚かな選択をしてきたのかを認めることは
本当は、負けを認めることではなく(自我にとってはもちろん負けですが、真実において勝ち負けは、無ですね)
すべて(それは表現不可能)を受け取ることができる正気な心に戻る意欲を差し出すことと等しいのではないかな?
そう思うのです。