野村いくよの最新情報

日々の活動を簡単に報告します。

大阪城周辺フィールドワーク

2009年09月13日 | 活動

9月に入り、なんとなく忙しい日々を送っています。
選挙が終わったので、時間的余裕があるかな・・・と思っていたら、9月議会が始まり、予定外で一般質問することになりました。
会派からの3人目ですので、質問数は少ないですが、最後の締めくくりになりますので、頑張らなくてはなりません。
それと、ライオンズクラブ主催の平和ポスターの取組もあり、ブログを書くのが間があいてしまいました。ごめんなさいm(  )m
5日(土)ですが、枚教組フレッシャーズセミナーで、「大阪城周辺における戦争遺跡と朝鮮人の足跡をたどる」という内容で、塚崎先生によるフィールドワークに参加しました。
大変暑い日で、1時に大阪城公園駅前に集合し、なんとゴールの森ノ宮駅には6時前になっていました。
大阪城公園駅→労働運動者の碑→「アパッチ集落」跡→大阪砲兵工廠水門跡→大阪砲兵工廠本館跡→大阪砲兵工廠化学分析場建物→中国からの略奪品の狛犬→山里丸石垣機銃掃射跡→大阪城に残る1トン爆弾の跡→第4師団司令部→「大阪城に残る戦争の傷あと」の銘板→中部軍と第4師団地下壕の痕跡→陸軍大阪衛戍刑務所跡→教育塔 などお話を聴きました。
(以下、塚崎先生の説名文から)
大阪砲兵工廠は、1870年に操業を開始。次第に拡張され、最終的には、今の大阪城公園・OBP・JR森之宮機関区一帯など広大な敷地となったそうです。とにかく大阪は戦前は、東洋最大の軍需工場のまちだったわけです。
「アパッチ」とは、1957年、朝鮮特需・神武景気の後、なべ底不況が訪れる。大阪砲兵工廠と第二寝屋川を挟んだ荒地に、多くの生活に困った朝鮮人が集まり始めた。1945年8月14日の空襲で廃墟となり、立入禁止となっていた大阪砲兵工廠の跡地に彼らは夜な夜なチームを作り、忍び込んだ。そして、放置されていた金属を掘り出し、切り出し、それを売って生活の糧にした。当時のはやり言葉から、「アパッチ族」と呼ばれるようになった。しかし、警察の弾圧するところとなり、警察官に追われて、メタンガスがわく川に飛び込んで溺死したり、城東線(現環状線)の電車に轢かれるなど、4年間で11人の朝鮮人が事故死した。当事、作家の梁石日氏や詩人の金時鐘氏もこの集落で「アパッチ」を経験した。梁石日氏はその様子を『夜を賭けて』(幻冬舎文庫)にまとめた。
とにかく、私にとっては初めてのフィールドワークで、とても興味深く学ぶことができました。写真は、「大阪城に残る戦争の傷あと」の銘板です。前大阪市立博物館横に1996年に大阪府・大阪市によって設置されました。日本の加害にも触れているものですが、正面ではなく横なので、人はあまり通りません。
その後、交流会があったのですが、私は第七芸術劇場で上映される『朴保(Pak-Poe)』を観にいきました。ちょうどミニライブも行なわれるので・・・
30周年記念でCD発売もされ、朝鮮統一・平和を願う彼の思いがとてもよく伝わってくるものでした。『夜を賭けて』の映画の音楽も朴保が担当していて、私達が訪れたアパッチ集落跡も映画に出ていて、昼の学習がよみがえりました。
朴保の唄は、本当にすごいですよ!!「ケンチャナヨ」という唄も気に入っています。李政美もそうですが・・・すごい!ですよね・・・是非機会があれば、聴いてみてください。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。