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ひめゆり 平和への祈り「沖縄戦から65年」

2010年12月24日 | 活動
12月19日(日)大阪人権博物館(リバティおおさか)で開かれている「ひめゆり 平和への祈り」展で「今、次世代へ伝えたいこと」と題して、ひめゆり平和祈念資料館副館長宮城喜久子さんの講演を聴きに行きました。
新聞でも取り上げられていて、たくさんの来場者でした。私たちは、予約していただいていたので、時間ぎりぎりでしたが、座ることができました。

1945年、沖縄では軍民混在の地上戦がくりひろげられました。鉄の暴風と呼ばれる砲爆撃が約90日間も続き、20万人以上が命を失いました。
沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒240人は、その過酷な戦場に学業半ばで動員され、沖縄陸軍病院の壕で負傷兵の看護に当たります。彼女たちは戦後、ひめゆり学徒隊と呼ばれました。沖縄戦末期、沖縄本島南端に追い詰められた彼女たちの半数以上が、砲煙弾雨の中で亡くなりました。
二度と戦争を起こしてはならないという思いから、ひめゆり同窓会は、1989年、ひめゆり平和祈念資料館を設立しました。それから20年、生き残った学徒たちは自らの戦争体験を語ることで、戦争のむごさと平和の大切さを訴え続けています。(チラシから引用)

喜久子さんのお話を聴くのは4回目です。
いつも何といっていいか、過酷な内容に、戦争のむごたらしさを確認しています。
沖縄本島最南端の荒崎海岸では、今でも写真を写すことができない、と喜久子さんは言われます。一緒にいた学友が即死、混乱のうちに手榴弾の栓が抜かれる中生き延び、米軍に収容されました。227人の大切な人の命を失って、初めて戦争の恐ろしさ知った、と。
戦後27年間忘れたいと慰霊祭にも行かなかったそうですが、戦後初めて荒崎海岸に行った時、ゴミの多さにびっくりし、これが戦争の風化なのかと思ったそうです。
しかし、その後も教職に就いていたにもかかわらず、生徒にひめゆりのことは語らず、40年ぶりに荒崎海岸を訪れた時、遺骨の山を見て、遺骨の収集を始められました。
そしてひめゆり平和祈念資料館の建設に携わり、証言員として来館者に戦争体験を訴え続ける一方、館外での講演活動も行っておられます。
次の世代が生きていくことができる社会をつくるのが、私たち大人の役割であり、平和でないと生きられない!と訴えられました。
63年ぶりに、荒崎海岸で沖縄県立第一高等女学校の校章が見つかりました。見つかった岩場は、ひめゆり学徒11名が亡くなった場所です。過酷な戦場でも最後まで大切に持っていたであろう校章。何を語っているのか…

その前日18日は、9条連(憲法9条ー世界へ未来へ 連絡会)・近畿の2010総会と講演会に参加。9条連の代表でもある浅井基文さん(広島市立大学広島平和研所所長)が「日米軍事同盟と平和憲法」と題して講演されました。
国際的な視野でのお話に、民主党批判も含めて共感するばかりでした。
力による平和観と力によらない平和観、さてどちらが本当の平和をつくるか。
私たちは、主権者としてどのような国をつくりたいのか。
国民が主権者として問題意識、自覚を持たないと根本的に日本の政治を変えることができない、だからこそ、主体的能力を高めておかなければならない、と強調されました。

真の平和を・・・私たちは自分自身の手でつくっていかなければなりません


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