奥州一宮・塩竈神社。
神社はどこも少なからず謎を秘めてますが、塩竈神社ほど謎の多い神社はないと思います。
まず祭神が分からなくなっていた。
現在祀られている神は、塩土老翁、タケミカヅチ神、経津主。「塩竈神社の祭神はこの三神」と定めたのは仙台伊達家四代当主の伊達綱村公です。いや、正式には伊達綱村公に組織された塩竈神研究チームですかね。
どう言う事かと言うと、塩竈神が何方なのか分からなくなってしまって、伊達綱村公が「これじゃマズイ」と思い様々な文献を調べ研究させて定めたと言う事です。
塩竈神社はその祭祀料1万束と言われてました。確か800年代に祭祀料として米1万束を時の政府から受け取っていたんです。
伊勢神宮、出雲大社、出羽三山等々、そうそうたる神社の祭祀料が2千~3千束です。塩竈神社はその3倍以上の祭祀料を受け取っていたのに、祭神が分からなくなっていた。これは異常事態ですね。
それで詳しくは覚えていませんが、伊達綱村公研究グループが1600年代後半から1700年代にかけて調べ上げ、「塩竈神は塩土老翁、タケミカヅチ神、経津主神に決定」と相成った訳です。
しかし、その後、分かりました。本当の祭神が。
実は私、その内容が書かれていた本を持っていたんですが、震災でどっかのダンボールに入れてしまって、行方知らずになっちゃったんです。
確かタイトルは「塩竈神社」で塩竈神社の宮司だった方が書かれていたと思うのですが、ちょっと記憶が曖昧です。自信がないです。だから今まで書かなかったのですが、その本から内容を多分抜粋して書かいたと思われる本を手に入れたので、これまたその本から抜粋して書きたいと思います。
その塩竈神に付いて書かれている本は「ゆりかごのヤマト王朝 ➀照井党の巻 千城央」。
この本によりますと「1868年の秋頃、伊達藩元家老であり、陸前栗原郡川口二千石の城主でもある後藤文七郎允信という人が、塩竈神社の宮司に就任。そしてひょんな事から大昔に盛党が塩の神様として塩竈に祀っていた志波彦神社が、当時の大和朝廷により七北田川河畔の岩切村に移され朽ち果てていた。そしてその志波彦神社があった塩竈の跡地に塩土老翁・タケミカヅチ神・経津主神を祀り、塩竈神社として建立されている事を知ります。"そりゃマズイだろ"と言う事で志波彦神社と塩竈神社の氏子たちが談合。"天下の一大事"として宮司の後藤文七郎が明治天皇に直訴。明治天皇は"そりゃホントに一大事"と言う事に相成り、官費で遷座を決定。そして現在の地に志波彦神社を移し、新たに建立。めでたし、めでたし」と相成りました。
ここで注目なのは明治天皇が事の重要性(何れ話します)を認識していた点です。天皇家は呪い・祟りに敏感です。私だってお金があったら明治天皇と同じ行動を取ります。
また、ここに出てくる盛党ですが、モレの一族となります。アテルイの盟友のモレです。モレの本名は「盛多賀嶋」。因みにアテルイの本名は「照井建麻呂」というみたいです。
当然ですがモレは蝦夷です。そして東北は蝦夷の地です。蝦夷と言うと縄文人をイメージするでしょうが、この時代の蝦夷は大和言葉も喋れます。アテルイなんか孫子の兵法を読んでいたとも言われてます。そして蝦夷にも神を祀る文化があった。社を築いて祀るようになった。
その後、蝦夷は大和朝廷に降伏。モレの一族が築いた志波彦神社は大和朝廷に岩切へ移された。そしてその跡地には何らかの神社の形跡があったが、祀っていた神共々忘れられたと言うのが真相となります。
ここでちょっと疑問なんですが、塩釜市と多賀城市は隣接してます。そして塩釜はモレのテリトリーだった。
そして多賀城市の「多賀城」。これってモレこと盛多賀嶋の城だったって事でしょうかねぇー。まさかねぇー。これ、何れまた調べたいと思います。
さて、ここまでの話でこれまで、私の過去の記事を読んでいただいている奇特な方はご存知だと思いますが、志波彦神は阿須波神であるとされています。吉田東伍さんがそう述べています。私もそう信じています。
っと言う事は「塩竈神社って鬼渡神社じゃないの?」となります。それがどう言う意味か。それはまた鬼渡神を通して書きたいと思ってます。
私の集中力ではいっぺんに書けませんので、小出しにして。
ではでは。
神社はどこも少なからず謎を秘めてますが、塩竈神社ほど謎の多い神社はないと思います。
まず祭神が分からなくなっていた。
現在祀られている神は、塩土老翁、タケミカヅチ神、経津主。「塩竈神社の祭神はこの三神」と定めたのは仙台伊達家四代当主の伊達綱村公です。いや、正式には伊達綱村公に組織された塩竈神研究チームですかね。
どう言う事かと言うと、塩竈神が何方なのか分からなくなってしまって、伊達綱村公が「これじゃマズイ」と思い様々な文献を調べ研究させて定めたと言う事です。
塩竈神社はその祭祀料1万束と言われてました。確か800年代に祭祀料として米1万束を時の政府から受け取っていたんです。
伊勢神宮、出雲大社、出羽三山等々、そうそうたる神社の祭祀料が2千~3千束です。塩竈神社はその3倍以上の祭祀料を受け取っていたのに、祭神が分からなくなっていた。これは異常事態ですね。
それで詳しくは覚えていませんが、伊達綱村公研究グループが1600年代後半から1700年代にかけて調べ上げ、「塩竈神は塩土老翁、タケミカヅチ神、経津主神に決定」と相成った訳です。
しかし、その後、分かりました。本当の祭神が。
実は私、その内容が書かれていた本を持っていたんですが、震災でどっかのダンボールに入れてしまって、行方知らずになっちゃったんです。
確かタイトルは「塩竈神社」で塩竈神社の宮司だった方が書かれていたと思うのですが、ちょっと記憶が曖昧です。自信がないです。だから今まで書かなかったのですが、その本から内容を多分抜粋して書かいたと思われる本を手に入れたので、これまたその本から抜粋して書きたいと思います。
その塩竈神に付いて書かれている本は「ゆりかごのヤマト王朝 ➀照井党の巻 千城央」。
この本によりますと「1868年の秋頃、伊達藩元家老であり、陸前栗原郡川口二千石の城主でもある後藤文七郎允信という人が、塩竈神社の宮司に就任。そしてひょんな事から大昔に盛党が塩の神様として塩竈に祀っていた志波彦神社が、当時の大和朝廷により七北田川河畔の岩切村に移され朽ち果てていた。そしてその志波彦神社があった塩竈の跡地に塩土老翁・タケミカヅチ神・経津主神を祀り、塩竈神社として建立されている事を知ります。"そりゃマズイだろ"と言う事で志波彦神社と塩竈神社の氏子たちが談合。"天下の一大事"として宮司の後藤文七郎が明治天皇に直訴。明治天皇は"そりゃホントに一大事"と言う事に相成り、官費で遷座を決定。そして現在の地に志波彦神社を移し、新たに建立。めでたし、めでたし」と相成りました。
ここで注目なのは明治天皇が事の重要性(何れ話します)を認識していた点です。天皇家は呪い・祟りに敏感です。私だってお金があったら明治天皇と同じ行動を取ります。
また、ここに出てくる盛党ですが、モレの一族となります。アテルイの盟友のモレです。モレの本名は「盛多賀嶋」。因みにアテルイの本名は「照井建麻呂」というみたいです。
当然ですがモレは蝦夷です。そして東北は蝦夷の地です。蝦夷と言うと縄文人をイメージするでしょうが、この時代の蝦夷は大和言葉も喋れます。アテルイなんか孫子の兵法を読んでいたとも言われてます。そして蝦夷にも神を祀る文化があった。社を築いて祀るようになった。
その後、蝦夷は大和朝廷に降伏。モレの一族が築いた志波彦神社は大和朝廷に岩切へ移された。そしてその跡地には何らかの神社の形跡があったが、祀っていた神共々忘れられたと言うのが真相となります。
ここでちょっと疑問なんですが、塩釜市と多賀城市は隣接してます。そして塩釜はモレのテリトリーだった。
そして多賀城市の「多賀城」。これってモレこと盛多賀嶋の城だったって事でしょうかねぇー。まさかねぇー。これ、何れまた調べたいと思います。
さて、ここまでの話でこれまで、私の過去の記事を読んでいただいている奇特な方はご存知だと思いますが、志波彦神は阿須波神であるとされています。吉田東伍さんがそう述べています。私もそう信じています。
っと言う事は「塩竈神社って鬼渡神社じゃないの?」となります。それがどう言う意味か。それはまた鬼渡神を通して書きたいと思ってます。
私の集中力ではいっぺんに書けませんので、小出しにして。
ではでは。