にじの木通信

小さな家族の日々のこと。
安心安全栽培の菜園も、カメの歩みで一歩ずつ。

見境なくなっておばさん化進む

2014-05-16 00:23:15 | 私のメモ帳
4月、我が娘に関わることで、二度も(二人に)「ママ~」と言わせてしまう事件を起こしてしまいました。

キーワードは、「うちは外、外はうち。」


一度目、次女の制服のブレザーの袖のボタンを、外側に縫い付けるべきを内側に付けてしまった状態で中学に送りだし、二度目、三女の小学校の参観に行ったときに、ワンピースを裏返しに着て行って、帰り際に同クラスのお母さんに教えてもらったのでした。(その日子供がいるのに身近な人にこれをネタにして笑ってもらってしまった。。。)

娘たちはメンタルが強くて優しいので、私を追い詰めたりしないけれど、恥ずかしい思いを。


事前に確認したつもりだったのに、こんな間違い起こすはずがない、ということをわざわざ公の場で、しかも私一人が人に笑われるのではなく、次女のことと、三女の舞台でしてしまったのでした。


それで、今年度の最初にこんなことをするなんてどういうことなのかなあ。私の内側(素の私・家庭での私の姿みたいな)のことを外側(ご縁ある人とのかかわりなど)に出していくみたいなことかなあ?と、ちらと予感がしたものでした。



でも以降日々に精一杯でそんなことも忘れていましたが・・・、最近、生きるの楽になったなあと思う場面がたくさんあります。

中で自分でおかしいのは(人との距離感では結構悩んきたのですが)、たまたまご一緒した顔見知りの方に話しかけられては、また昔からの知り合いに話しかけては、子供の関係のお母さん方・ご近所の今までほとんど挨拶しかしていなかったおばさんと偶然お会いしては、話しが長くなるんです。。

普通に話をしているのです。
今までは話すときにはもっと、言葉づかいを気にしていたのになあと。でも話し終わって気付くんですが、このところ気をあまり使ってないような、まんまに近い。まんまかも。人を見たら?足を止めて話すなんて、なんだか見境なくなっている?ほんまにおばちゃんだなあと。


私は20代の最初の仕事のときに、接客業で、精神的なサービスは何かを考え、頭を打ち、お客様は‘神様’だと思うようになりました。
自分は‘人’。

それを絶対的な位置関係として、それから素の自分を置いてきた。それまでの友達との思い出の写真もほとんど捨て、仕事をわかってくれる友達以外は(自然に)距離を置いたものでした。


結婚してからは家族(逆に自分を出しすぎできたと、本当に申し訳ないのですが)や畑を共にしたような仲間の子供達、それからヘンなミスをしてしまう私を、「天然」だと言って笑ってくれるお友達など、本当に一部の人にしか私を出してはいけない、と思ってきたのになあ。

時が来て、癒されて、ここで10数年夢見た‘地域が家族のように’が、感覚的にですが、なんだか急速に、何の活動もなしに、そんな感じになってきていると感じる・・。(私は仕事で得た心のくせを、仕事で癒され(‘癒し’は、本来の状態に戻るという意)、知らずに作ってきたこだわり、壁などあれこれを手放し?そこから今があるようでもあります。)


皆様はいかがでしょうか、みんなが癒しの時期にきるのかなとも、思えているのですが。












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