先日、Hongと夕食を食べに行ったのだが、食事中、たわいない話からキリスト教の話になり、以下、2つの点で2時間近く議論となった(Hongはキリスト教徒。私はキリスト教徒ではないが、キリスト教徒の立場となって答えた)。
1.人間は神の助けによって聖書を完全・完璧に理解することができるか?
2.人間は神によって全てコントロールされているか?
私は、キリスト教をこれまで勉強した限りの知識において、
1 人間は聖書を神の助けによって完全・完璧に理解することが「できる」
2 人間は神によって全てコントロールされている
と答えた。ところがHongの答えは、
1 人間は聖書を神の助けによって完全に理解することが「できない」。なぜならそんな人は地球上にいない
2 人間は神によって全てコントロールされていない。神は人間に「出来事」を用意してくれ、人間はその出来事に対して「選択」することができる
であった。
私は、「キリスト教徒にとって神は『完全』、『絶対』、『真実』、『全ての創造主』であるが、そのような神の助けによってなぜ理解できないのか?」と突っ込んだところ、「人間は聖書を神の助けによって完全・完璧に理解することが『できる』」ということには賛成するようになったが、しかし、「そんな人は地球上にいない」と繰り返した。
元々の論点は「人間は聖書を神の助けによって完全・完璧に理解することができるか」である。地球上に理解できる人がいるかいないかは問題点ではない。なぜなら、例えこの地球上に聖書を完全・完璧に理解することができる人がいなくても、それは単に神が誰も助けていないと言えるからである。
「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました(ローマ9・15)」
「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです(ローマ9・18)」
2については、1よりもお互いの認識の違いが際立った。まず前提として(言葉の意味は全て第五版広辞苑より)、神は
完 全 (全て備わっていて、足りないところのないこと。欠点のないこと)
絶 対 (他に並ぶもののないこと。一切他から制限・拘束されないこと)
真 実 (うそいつわりでない、本当のこと)
全ての創造主
である。
「イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを尊いと言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません』(ルカ18・19)」
「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい(マタイ6・48)」
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、間接と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます(ヘブル4・12)」
「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、全てが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです(ヘブル4・13)」
上記の前提に立って、下記のように私の考えを述べた。
「人間は神によって全てコントロールされている。なぜなら、神は『完全』、『絶対』、『真実』、『全ての創造主』であるから、神がコントロールしていない(できない)ものはこの世には存在しない。神がコントロールしていない(できない)ものがこの世に存在するのならば、神は絶対ではない。
『人間は選択することができる』という意味は、人間に自由意志(他から束縛されず自らの責任において決定する意志)があるということである。つまり、神から自由な、神がコントロールできない意志を人間が持っているということである。
しかし、もし神がコントロールできない意志を人間が持っているのならば、神は絶対者ではなくなってしまう。それ故、キリスト教徒は、神が絶対者であるために『人間は神によって全てコントロールされている』ことを認めなければならない。
人間が普段『選択している』と思っていることは、人間がそう思い込んでいるだけで、実は神のコントロールによって選択させられている。はっきり言ってしまえば、人間は神の操り人形なのである。」
この私の考えを聞いたHongはそれに賛同せず(私の英語力の問題もあったが)、
「もしそれが正しいのならば、人間は意思のないロボットではないか」
と否定した。
「キリスト教徒にとって、人間は神の忠実なるロボットである。人間は、神の意志によってのみ生き、神の意志によってのみこの世で活動し、神の意志によってのみ死ぬ」
と私は答えたが、彼女は最後まで納得しなかった。
「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるのでしょうか。(ローマ9・20)」
「陶器を作るものは、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ9・21)」
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです(エペソ2・10)」
「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてがあなたがたのものです(1コリント4・22)
そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです(1コリント4・23)」