リバーリバイバル研究所

川と生き物、そして人間生活との折り合いを研究しています。サツキマス研究会・リュウキュウアユ研究会

迷いクジラ 愛媛新聞コラム 地軸から

2007-03-15 16:13:28 | アユの流し目/雑記帳
 愛媛県明浜では寄鯨と呼ばれ、天保の飢饉では村人を救ったという。
たぶん、昔、鯨が今よりづっと多かった頃には、迷い込んだ鯨は人々にとっても大切な「資源」だったのだと思う。

 学生時代のこと知人がスジイルカの胎児の水銀汚染の研究を行っていた。スジイルカを解剖して胎児の組織を分析する。イルカはそのまま焼却していたそうだ。

 ある人が、丁度秋の学生祭のころだったから、学生祭の目玉で販売することを思いついて、2,3頭食ってしまった。
 たらふく肉は食えたらしいが、臭い消しの醤油とショウガに随分と金がかかって余り儲からなかったという話だ。人から聞いた話だよ。
 

コラム地軸 愛媛新聞オンラインより

☆テキスト版

コラム地軸2007年03月15日(木)付 愛媛新聞
迷いクジラ

 白いマッコウクジラに片足を奪われた船長の執念の復讐(ふくしゅう)を描く米国人作家メルビルの「白鯨」は、実話をもとにしている。一八一九年に起きた米捕鯨帆船エセックス号の事故だ▲
 ガラパゴス諸島西の太平洋で群れと格闘中、一頭のオスに反撃される。その体長二六メートル。今だとありえない大きさだが、実に百万頭を乱獲した十九世紀もまだ前半、未知の巨体がいたのかもしれない。くたびれた木造船は二度の体当たりでたちまち沈み、乗組員は地獄の漂流を味わう▲
 何しろ母船からこぎ出すボートに手銛(もり)の時代。宝の塊は暗黒の深海から来る怪物でもあったろう。商業捕鯨が遠ざかり、忘れがちだったそんな畏怖(いふ)を呼び覚まされる思いだ。宇和島市の漁港に迷い込んだマッコウクジラの救出作業で一人が亡くなった▲
 テレビの空撮映像には目を覆った。一五メートルほどの体がくねると漁船が木の葉のように一瞬で転覆、人も投げ出された。クジラだって死にものぐるいにちがいないが、ふた世紀も前の惨劇が想像されて言葉を失う▲
 迷いクジラは古来「寄鯨(よりくじら)」と呼ばれ、浦々には予期せぬ恵みだった。きのう姿を現した西予市明浜町では、天保の飢饉(ききん)で困窮する村人を救ったとされる。それを鯨塚にまつり、大名格の戒名まで与えて「鯨様」とあがめてきたほど縁は深い。クジラにはあずかり知らぬことだろうけれど▲
 間近で見る姿には胸躍る。ただ鯨様を無事外洋へ帰したいと願うのが現代人。そこに犠牲も強いられるなんて、神秘の出合いにも思いは複雑だ。
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