新潟久紀ブログ版retrospective

新潟独り暮らし時代44「鈴木辰治ゼミへの留学生(その1)」

●鈴木辰治ゼミへの留学生(その1)

 鈴木辰治教授のゼミの"学生の主体性に任せる主義"は有り難かったのだが、上級生が居ないゼミでしかもゼミ長として、羅針盤がない船で当ても浮かばないような先行きへの漠然とした不安が募っていた矢先、校内の掲示板に鈴木辰治教授から私の呼び出し状が張り出されていた。昭和の当時は携帯も電子メールも無く、学生との連絡は掲示板にメモ貼りというのが多かった。
 半年過ぎてもゼミ活動の成果の見通しが何ら立たない中で、業を煮やした教授から私への叱責か…などと少し構えて研究室にノックして入ると、相変わらず机に覆いかかるように執筆に精を出されていた教授はこちらを向いて「何か用」とでもいうような怪訝な顔を向けたが、直ぐに自分が呼び出したことを思い出したようで破顔一笑となった。笑顔になれる案件なのだなと、私もとりあえず気が緩んだ。
 「ブラジルからの留学生を我がゼミで受け入れるのでよろしく」と、教授はいつものように前置きなしで必要事項だけを唐突におっしゃった。絶対的な主従関係の下で反射的に「了解しました」と言いそうになるが、さすがにそんな軽いワードでは無く、私は返す言葉に詰まった。ブラジルというと英語ではないよな、ポルトガル語か何かか…、コミュニケーションが取れない相手を「よろしく」と言われて、衣食住の支援など全般が頭を駆け巡り、それは私には無理と、初めて教授に拒否を突き返す反応が出そうになった。
 そんな瞬間で沸騰するような私の心情を知ってか知らずか、教授は笑っているのか怒っているのか時に判別の付かないような細い目のままで言葉を続けた。「そうそう、日系三世で日本語はペラペラ。親戚筋が新潟県内に居て、住まいの確保や生活費など基本的なことは彼らが対応する手はず。君はゼミ長として彼の研究をサポートしてくれれば良いから面倒はないよ」とあっけらかんだ。
 何事にも恐れを知らずに向き合える大学生の頃の私とはいえ、英語をはじめ外国語は長年の学業でもどうしても身に付かずに最大の弱点であったので、一瞬"冷や汗もの"でビビったのだが、日本語が通じると聞いただけで安心して、留学生の相手も面白そうだと思えた。国際化が進む時勢において、外国暮らしの人が向こうから近寄ってきて交流できる機会というのが一気に楽しみになったのだ。
 「わかりました。お任せください」とは言ってみたものの、留学生の対応について、いつ何処でどのような事から始めればよいかとか、具体的にどのような支援をすべきなのか、教授からは具体的な段取りとかインフォメーションは全く示されない。例によって例のごとくで、これまでのゼミ関係の事案と同様に「よろしく」の一言だけなのだ。
 そんな教授に半年過ぎて慣れてきた私も、あれこれと考えずにその場その場で対処していこうと腹をくくった。私は、基本的には何事も、事前の企てをしっかりと詰めておきたい質なのだが、場当たりや現場合わせもアリだと思えて対応できることが多くなったのは、"放置と放任(笑)の鈴木辰治ゼミ"で鍛えられた資質の一つなのかもしれない。

(「新潟独り暮らし時代44「鈴木辰治ゼミへの留学生(その1)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた独り暮らし時代の思い出話「新潟独り暮らし時代45「鈴木辰治ゼミへの留学生(その2)」」に続きます。)
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