
<script language="JavaScript" src="http://www.magicalmaker.com/js/mm.js.php?upwh=323937-1311137627-400-436"></script>

<script language="JavaScript" src="http://www.magicalmaker.com/js/mm.js.php?upwh=323937-1311137472-400-303"></script>
やっと歩けるようになった1歳ぐらいの頃から、4歳ぐらいまで父の仕事の関係で仙台に住んでいた。今だから思えることだけど、母が一番幸せだったときではないだろうか。一番下の弟はまだ生まれておらず、2歳の長女、1歳の私、生まれたばかりの弟。舅姑のいないはじめての借家生活。貧しく子育てで大変だったようだけどまちがいなく幸せな母だったと思う。
「わが身よりこどもがかわいい齢になり、ふるき女房と年を越すなり」その頃詠んだ父の句だ。長女4歳、私3歳、弟2歳の年賀状だ。
仙台市南小泉薬師堂西という住所になっている。20年以上前にこの住所を頼りに住んでいたところを尋ねた。住所は変わっていたし、家もなかった。ただその頃一緒に遊んでいたお魚屋さんのけんちゃんのおうちはあった。
ノブリンの会社の取引先も仙台にある。石巻だ。気仙沼のふかひれスープを送って下さっていたところだ。震災で社屋はきれいに流されてしまったが、命は無事で仕事も続けている。そこの会社の支払いは毎年3月末で、70万ぐらいだったけどノブリンは諦めていたという。でもきちんと振り込みがあった。大変なときなのに。ノブリンも見舞金を送った。
ノブリンの義理のお姉さんも仙台だ。多賀城市。今回は義姉夫婦のお見舞いとノブリンのお仕事もかねての仙台行きだった。
7月18日(月)
義姉のおうちは幸い高台にあるため被害は免れけど、夫である義兄の会社が仙台港の近くで車で避難。渋滞で車が動かない。あと10分遅かったら津浪に巻き込まれていたという。幸い身内で亡くなった方はいなかったけど、知り合いは亡くなられている。
義姉のおうちで、お茶を飲んでからお昼に牛タンを御馳走になった。仙台には牛タンの専門店がたくさんあるけど、「利久」という人気店だ。肉の厚みがありステーキのようで美味しかった。
義兄の運転する車で、松島に行った。奥松島がきれいなところということだったけど、周辺は瓦礫ばかりで奥松島には行けなかった。松島は観光客もいるし、遊覧船もやっていた。五大堂、円通院に連れて行ってもらった。
被災の現状をきちんと見て欲しいと、塩釜、七ヶ浜を通って帰った。仙石線の野蒜駅。新しく開店したばかりのお店。壊れた家。土台。門。瓦礫。ドッチボール大会の楯。ぬいぐるみ。人々の生活のあと。
義姉が、「ここのジャスコの上に避難した人たちが、車や人が流れているのを見ていた」と言う。自分たちの生活していた身近な町の崩壊。
多賀城駅まで送ってもらい仙台駅と直結しているホテルに泊まった。
7月19日(火)
朝、7時30分から、9時30分ぐらいまでノブリンがお仕事。ノブリンが戻ってきてから遅い朝食。
ノブリンは、走って青葉城まで。私は一応安静中なので、バスで伊達正宗騎馬像の前で待ち合わせ。ノブリンは回り道して走って帰ったけど、私は歩いて帰った。近道だと3kmぐらいだった。ちょっと走ってみたけど、走れる。痛かったり痛くなかったり。ノブリンと一緒に走れないのがつまんなかった。
シャワー浴びてから駅前でランチ。オープンテラスのこじゃれたイタリアン。美味しかった。帰りにノブリンの見つけた市場に行った。活気がある。仙台のアーケード街、市場の活気に感動した。生きる力を感じた。
夜もノブリンはお仕事だったので、ひとりで牛たんを食べた。
ノブリンがお仕事モードだったので、私は出帳についてきた愛人のようだった。せめて社長の有能な秘書じゃないと
7月20日(水)
ノブリンの叔母(義母の姉)が亡くなったと連絡があり、お葬式に行くため電車を変更し朝早く帰ってきた。ノブリンは会社に顔を出してから茨城に出かけた。
小さい頃のアルバムを引っ張り出してみた。松島にも行っている。匂当台公園の噴水。野草園。八木山動物園。西公園。広瀬川。東一番町バス停前。藤崎デパート。七夕祭り。桜の木の下の滑り台のある近所の木の下公園。
思ひ出は桜の木の下若き母
すべり台落ちつく先は母の腕
みちのくの思ひ出たどり薬師堂
10月22日 と日付けはあるけど何年かはわからない。20年以上前に仙台を訪れたときのものだ。
http://www.rigoletto.jp/
仙台のイタリアンのお店。調べてみたら銀座、丸の内、六本木、中目黒と東京にいっぱいあるお店だった。今度行ってみよう。