こんにちは。
わたしは、死と隣り合わせの生活を、12年送っている。
死に繋がりそうな病気を、精神病で、精神訓練すれば克服できると、親は考えていたが、親が思った以上にわたしは身体が弱く、母親を残して逝くことになりそうだ。
そこで思ったんだ。
偉そうなこと言ってる占い師なんて、所詮何も知らない。うわべの経験で、もったいぶって時間でお金を取る。娯楽ならいい。けれど、死に逝く人間が、もし、「なんで、こんなに痛いのに、まだ生きてなきゃいけないの?」社会的な死を迎え、心理的な死に向かいたくなくて足掻く人に、何が言える。何を答えられる。
所詮、そんなうわべのものなんだ。命に別状がない話は、「当たらぬも八卦当たるも八卦」程度でいいんだよ。
んじゃ、わたしはどうだ。何一つ、博識を誇っても、知らないことばかりじゃないか。
偉そうな精神哲学なんて書ける程、何を知ったと言うんだ。
ただ、どんな時でも、冷静にかえれるだけが取り柄の、つまらない小さな浅慮で、稚拙な人間だ。
そう考えると、何一つ書けなくなったのだ。知らないということを知ったからこそ、書けなくなったのだ。自分の心に引っかかることなんてない。
鬱にならないのは、恐らく、末節を汚したくない一心で、息子達の前で虚勢を張ってるのだからだろう。
「人間の一生は、品性の完成にある」と言う人もいる。
ああ、絶望的だ、遠過ぎて、品性のかけらもない己が恨めしいわ。ホント、子供じみて、情けない程、人間できてねーわ。幽霊には、慣れ過ぎて、スルーすることができて、人の考えを言わずとも読み取ろうが、死期や、妊娠を前もって指摘できようが、幽霊写真かどうかの判断とか色々なんかあろうが、
所詮は、人格者の前に到達することさえできなかったんだ。
だから、つまんねぇ。占いや、霊感商売の上から目線。くだらねーわ。
どうせ、健康な彼らには、「社会的な死」(失業)しか、わかんねーよ。ああ、心理的な死(鬱)も分かるか。
肉体的な死を迎える人の心からの問いに答えられなきゃ、意味はないのさ。
死を受け入れろとか、なんとか、言う奴な。てめえがその立場に立ってみた時、冷静に語れるわけねーだろ。保証してやるよ。振りは、できても、心からできねーよ。
でもさ、こんなに痛い目に遭い続けるだけ、わたしは、悪いことしたんだろうか?
精神性が尊いからですとか、思った奴、殴りに行くから、頭洗って待ってろよ。(笑)
つうか、こんな状態でも、ユーモアがある自分が情けねーわ。ホント。もっと、人らしく、冷静さに欠けてみたかった。それでも、許されたかった。いつも、余裕ぶっこきを期待されて、そんな余裕の陰で、病の追いつきに怯えて怖がる自分を隠してる自分はね。
精神性が尊くもねーし、人に何か言えた義理もねーし。上から目線なんてとんでもない。
知らないことばかりなんだよ。それを、制覇出来ずに死ぬんだろうし、年金も定年も迎える経験も積まずに、死ぬのは、しゃーねーわ。人の死期が見えるってのは、自分の死期も見えるってことだ。
見たくない奴は、見えないってことだ。見えませんって奴は、強いんだ。病の進行に怯えることなく、馬鹿でいられる強さがあるんだよ。羨ましいわ。
馬鹿で死にたくねーし、品性は、もうコンプリートも、到達さえ無理だから、せめて、馬鹿成分だけ、薄めて死ぬわ。
でも、知らねーこといっぱいよ。
人生ってあっという間だったな。もっと、もっと、やっとけば良かった。
まぁ、後悔と分析しか、能がねぇ、自分だしな。
人に偉そうな精神哲学が言える程、エラい人間じゃない。それを知った自分、
おやまた少し、馬鹿成分薄まったわ。
朋
インスタで、ランチ&景色写真撮ってあげてます。麺類が多いことを指摘され、あー麺さんになりそうな、拝金教から改宗を求められている今日この頃。(笑)
これ以上無いほどもがかれている方に言葉はかけられませんが、ご家族初め、大切な方々との時間が少しでも長くなるよう、願っています。