武の道へのこころざし

大道塾の横須賀・湘南支部の責任者が、日々の活動に関する出来事や想いを綴っていきます。

全国大会に伴う各種催しを通して感じたこと

2022年06月02日 | Weblog
以下、横須賀湘南支部の指導者である私自身の私見です。

特定の個人に対する批判的な意見ではなく、団体の方針や考え方でもなく、あくまでも私個人の私見であることをお断りしておきます。

全国大会の前日、大会の会場設営のため、そして支部長審査会及び支部長会議のために東京の代々木第二体育館へ向かいました。

二代目塾長となる長田塾長ならびに時期塾長予定の娘婿様である東(旧姓:清水)亮汰氏は、海外でのセミナー開催などの諸事情の都合により不参加となるなか、現在の大道塾の首脳陣による進行で、無事に開催された本大会です。

前日の支部長会議では、また、いろいろな意見が出され、初代塾長の亡き後、二代目塾長を柱に、首脳陣の皆様が力を合わせて、また全国の支部長の方々と共に、しっかりとまとまっていこうという気概を感じています。

本大会を通しても感じる事なのですが、こうした行事を行っていく中で、色々な問題が発生した時に、事細かに一つ一つの出来事に小さな理屈で細かく反応して、団体のルールを作り上げていくことには、私自身はあまり賛成できません。

細かい問題点を少しずつ解決していくことも大切なことながら、何のために、どのような方向に向かって進んでいくのかという大局的な観点からの物事の見方をすべき部分との兼ね合いが難しいところです。

これは支部長会議の中で、ある支部長が語っていた話でもありますが、私も黙ってうなずいていた一人です。


また、ルール作りにおいては、実戦的であることが大切なのか、安全性が大切なのか、大衆に受け入れられる教育的な観点が必要なのか。

他の団体に負けないだけの強さが何よりも大切なのか、社会に受け入れられる誰でも学べるというソフト(いわゆる道場の在り方や稽古体系など)が必要なのか、それとも、政府の認可(体協加盟や法人化など)が何よりも大切なのか・・・


今回の試合の中でも、武道や格闘技の経験のない私の妻が、「なんかあれ嫌!」、「あの攻撃は見ていて汚いし、とても嫌な気持ちになる・・」と話しているシーンがいくつかありました。

素人目とはいえ、支部内ではさんざんに組手を見てきた私の妻でも、大会では実に嫌な気持ちにさせられる攻撃でありながらも、ルールの中で認められている技というものがあります。

おそらくこういう激しいシーンを見せられて、誰もが納得のできる、大衆に受け入れられる競技ルールになりうるのかどうか、見る人がみれば一目瞭然だと思います。

実戦性と安全性、格闘競技としての強さと大衆性、強い選手を作るための格闘技としての練習体系と、社会体育として多くの方々に受け入れられるための武道の稽古体系とは、相容れられない部分もあると思います・・・

どのあたりに重点を置くのかが難しいところですが、現在の運営陣のメンバーが必死に体制固めをされており、我々支部責任者は可能な範囲で協力を惜しむものではありません。

そんな中でも小さな一支部の支部長と言えども、小さな意見でも、なるべく自身の意見を述べつつ、団体の団結力を強固にし、よりより団体を作っていきたいと願っています。



大会の最中に、判定で揉めた際などに、私自身も主審権限内での意見を述べることがありますが、監査役や審判長の判断もあり、なかなか主審の権限が及ばないのは仕方のない部分でもあります。


団体の一支部長であり一審判員の意見として、


新しいルールを設けたり新しい判断を行う場合は、その大会中は選手へ注意喚起に留めて、後に改めて審判員へ周知を行い、次の大会からの正式な適用をお願いしたい。

これは、今大会で見られた内容ですが、世界大会で胸につける日の丸のワッペンは全国大会(世界大会以外の全ての試合を含む)では禁止になるという事や、ズボンのすその長さの厳格な規定、試合中に行われるアピール動作としての道着をはだけるような動作の禁止などの事柄についてです。


これらは、選手が入場する際に行われるチェック係や、今回の大会での試合を裁く、多くの審判員が認識・判断ができていない内容であり、また、試合の勝敗に関わらない、ルールの厳格適用には少し残念な気持ちがわいてしまいます。


できれば、一度、日本代表選手となった選手が道着に付ける日の丸のワッペンは、それほど大きなものでもなく、本人の誇りになるものでもあり、できればこれまで通り、着用を認められるよう、ルールブックに明記して運用いただきたいと感じています。



また、ある階級の決勝戦で、優勝した選手が自らの道着でアピールするようなジェスチャーを見せたシーンがありました。

研ぎ澄まされたトップ選手が、ギリギリの攻防の中で見せる特異なゼスチャーや、一つ一つの突飛な動作には、その選手が、その戦いの中での大切な何かを感じて無意識に行っている動作である場合もあり、その一つ一つの動作に見ている観客が見入られて、魅了され、その次に起こる展開をハラハラしながら見守る中で、「ピッ! ピッ!」 と笛を吹かれたり、審判の審議に時間がとられることは、折角の、大会一番の見どころに水を差されることになり、大会の魅力をそぐ一因となるような気がします。


裁判官や弁護士が、六法全書の法律を厳格に適用するように、「ルール上でどちらの判断が正しいのか?」といった判断は、大会終了後に行い、選手や審判員の全員に周知したうえで適用し、次の大会から適用しても決して遅くはないと思われます。

こうした話は数え上げればきりはありませんが、こうした意見を述べたくなるのは、私自身、また多くの選手や指導者の方々が、それだけ多くの事を感じ、考え、悩んでいるからでもあります。

団体をより良い方向へ向かわせる為の有意な意見であれば、より多くの皆さんの意見を採り上げていきながら、世に認められ、関わる皆さんが誇りの持てる団体運営が望まれます。





さて、話は変わりますが、大会翌日に先代塾長である「東先生を偲ぶ会」が行われました。

会場では、東先生の経歴を示す数多くの写真を拝見し、来場された多くの方々と、色々なお話をさせていただき、とても多くの情報を得る事ができました。



そこで感じたことは、

団体に係る皆さんが、皆一様に一生懸命で努力されている事。

皆色々と考えながら、それぞれに異なる考えをお持ちである事。

団体としての一致団結には、揺るぎがない感覚を得たことなどがあげられます。


そうした団結は、先代の東塾長の真心が、団体に係る一人一人の皆さんの心に、しっかりと届いているからだと思います。


私自身も数多く、長きにわたり団体に関わってきた中で、多くの不満を持ち、多くの失礼な意見具申もしてきた中で、思わぬ対応や言葉を投げかけられたことで不満を募らせたり、自ら反省もしたり、また人間不信に陥ったことも一度や二度の事ではありません。

それでも最後に言える事は、東先生には恩義があり、この恩義は最後まで裏切らず、貫く覚悟があるという事。


また他にも、そのように考える関係者の方々が多くおられるものと感じています。


自己中心に物事を考える風潮が強い中で、これだけ身を粉にして団体のために、先代の東塾長のために努力を惜しまぬ多くの方々がいる事に、とても暖かい気持ちが沸き上がってきます。



私は、

「大道無門」(一つの道を究めるためには多くの道がある)という言葉を東先生から学びました。

「戦いは言葉の上での理屈よりも現実が示す」(やってみなければわからない)という事を団体から学びました。


そして、

人と語る事、人と交わる事の大切さを学びました。



元々無口な私でしたが、この団体に所属できたことで、言葉がとても多くなりました。

お陰で人生がとても豊かになりました。。。


また、支部内の中高年世代の方々は、そして我が家の家庭内は、とてもとても、おしゃべりで多くを語り、多くの話を紡いでいます。

道場ではその紡ぎが支部の伝統となり、歴史となり、そして関わる一人一人の人生の厚みとなります。

家庭ではその言葉の紡ぎが、家族の何より大切な絆となります。



所で・・・


稽古でも、またこのブログでも、何かと言葉の多い私ですが、

家庭内では、いつも、ほぼ受け身な聞き役となっている私・・・

そんなこんなでバランスがとれているのかもしれません。。。






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