奈良を中心に巡っています

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法隆寺(東院)

2020-05-31 07:03:00 | 日記
さて東院である。
この日に法隆寺を訪れたのは、救世観音(ぐぜかんのん)が開帳されるからだ。僕が奈良に越した来た理由の半分はこの像にある。長年秘仏として布にぐるぐる巻かれており、岡倉天心とフェノロサがこれを取り払った時、僧たちはこの世が終わると叫んで逃げ出した話は有名だ。
今でも普段は公開されておらず、春と秋それぞれ1ヶ月ほど公開される。

この救世観音、容姿が一見して異様だ。仏像といえば大抵は半眼なのだが、この像は杏状の目を大きく見開いている。また、唇が厚く肉感的だ。とても聖なる仏像という雰囲気ではない。
更に、頭の背後にある光背だが、通常は仏像から独立して後ろに置かれているが、この像では分かれておらず、長い釘のようなもので後頭部に打ち付けられている。仏像というよりは、子刻参りの形代とでも言った方がまだイメージが近い。
今日やっと実物を拝むことができる。どのような展示方法なのだろうか。


夢殿の中心にそれは安置されていた。堂内は照明がなく薄暗い。宝具に囲まれ、救世観音は胸部から上をぼんやりと見ることができた。全体に金色が目立つ。だが詳細は分からない。隣にいたカップルが「何だか下膨れかな?」とマスクの下から呟いていた。
これが正しい鑑賞の仕方なのだろう。


その後、中宮寺の半跏思惟像を拝む。
説明は録音で分かり易かった。


法隆寺(西院)

2020-05-20 19:47:00 | 日記
4月11日(土)朝9時、開門に合わせて法隆寺の門を潜った。東院の夢殿には、秘仏 救世観音が安置されているが、普段は非公開で、春と秋の2回公開される。この菩薩を見るために奈良県に移住したようなものだ。
まずは中門を遠望する。通常、寺の中門の通り道には柱がないが、法隆寺では真ん中に柱が立っている。哲学者の梅原猛はここから「法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込める為の寺だったのではないか」という仮説を『隠された十字架』の中で滔々と述べている。


さて境内に入ると回廊のエンタシスが美しい。
唐招提寺もエンタシスとされるが、肉眼では識別しにくい。対して法隆寺のそれははっきりと分かり、上部と下部が細くなっている。その柱を見ると当て木だらけで、千年以上に渡って大切に修復され続けていることが見て取れる。


金堂の釈迦三尊像を拝んだ後、五重塔の内部を見る。昔見たときは泣き叫ぶ阿羅漢蔵が印象的だったが、今回見ると少し印象が変わった。皆塑像なので白っぽいが、何だか洞窟の中にいるようだ。何処かで見たと思ったら、それは薬師寺西塔の内部に似ていた。西塔内部は、全体が茶色く着色され、釈迦が金色に塗られていた。それは見る者を圧倒し、僕の後から入ってきた若者グループは、何だこれは、ぱねーっを繰り返していた。僕も同感だったが何故こんな前衛的なものを西塔に置いたのか疑問に思っていた。しかしこれは前衛的なのではなく、法隆寺の内部を新しく再現したものであることに気づいた。恐るべし法隆寺。

大宝蔵院で百済観音(レプリカ)を見る。本物は東京に貸し出し中だ。身長2mを超え、腰から下が緩やかに前傾していてほっそりしており、手には水差しのようなものを持っている。このような造形は他に類がなく、思わず見惚れてしまう。
この仏像、百済観音というが本体の木は日本産である。また長く本寺を持たず、法隆寺に安置されたのは最近のことである。


宝物館でもう一つ驚いたのは、玉虫厨子(複製)だった。本物はこの通り茶色く変色し、色はよく分からない。


だが複製は色が見分けられた。鮮明ではないが、当時を彷彿とさせた。写真禁止なので現物は載せられない。



筒井筒と在原神社

2020-05-17 11:34:00 | 日記
天理インター付近を散歩していたところ、小さな社寺を見かけたので入ってみたところ、意外なものを見つけた。筒井筒だ。


側にはあの有名な相聞歌が書かれていた。

筒井筒の井筒にかけしまろが丈 過ぎにけらしな妹見ざるまに
くらべこし振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべき

非常にロマンチックで、しかも情景が目に浮かぶような視覚的な歌だ。男の歌はまだ探りを入れるようなビクビクした感じだが、女(紀有常の娘らしい)の返歌は「遂に来た!このチャンス逃しはしない!」という迫力が感じられる。歌の内容も技巧的で、くらべる、過ぎぬ、と男の歌をうまく取り入れており、相聞歌としては格別の出来だろう。
さて、立札の説明文を読むと、謡曲「井筒」の一節の「大和国石上の在原寺の旧跡」が当所と言われるとのこと。確かにここは石上町だ。何でもここは寺が主で神社は従であったが、明治の神仏分離令で寺部分が廃棄され、祠だけが残ったらしい。
(余談だが、この祠は西向きだ。この辺りでは西向きの社は多く、北向きの神社もある。鹿島や宮島も北向きだし、昔はあまり方角を重視しなかったのだろう。)


確かに入口には在原寺の石碑があったし、境内にも鳥居はない。


そうか、ここがあの筒井筒の舞台か。今は昔、もう1,100年以上も前の話だが、今日は良いものに巡り合えた。


宇陀 八咫烏神社

2020-05-15 17:27:00 | 日記
八咫烏神社というものがあるとは知らなかった。
続日本紀に、”慶雲2年(705年)9月、宇太郡に八咫烏の社を置いた”との記述がある。現在の八咫烏神社は宇陀市にあり、まず同一の神社とみて間違いない。これは是非行かなくては。

宇陀市は、神武一行が迷ったという吉野から北西方向、長谷寺から東に位置する。宇陀市役所から南に向かう県道を行くと、道の右手に突然白い鳥居が現れる。その100m位先に八咫烏神社があった。


祭神は武角身(たけつのみ)命。彼が八咫烏に顕現したとのことだが少し怪しい。武角身は山城の加茂氏の先祖とされ、本来はこの辺りとは関係がないし、記紀にも武角身と八咫烏との関係を示唆する記述はない。当社の縁起文によると、8世紀頃から加茂氏の勢力がこの地で勢力を増し、同氏の祖先を崇拝の対象としてしまったのだろうとのこと。
さて拝殿だが一風変わっている。壁が全くないのである。その先には石段が続いており、立ち入りは禁止されていないようだ。


羽虫と蜘蛛の巣に悩まされながら登ると、赤い神殿が現れた。ここが本殿のようだ。


境内に降りて右手には、八咫烏のユーモラスな像があった。頭にサッカーボール⚽️を乗せている。これはこれでいい。


社務所を覗くと酒樽が供えられていた。その名も八咫烏。こういう乗りは好きだな。





葛城一言主神社

2020-05-08 19:39:00 | 日記
古事記を読むと、「一言主」というかなり異質な神が現れる。
雄略4年、天皇が葛城で狩りをしていたところ、天皇やその供と同じ服を着た一行に出会う。雄略が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主の大神なり」と返答があり、恐れ入った雄略は、弓矢や、供の服を脱がせ、一言主に送ったという。天皇がまるで臣従したかのような記述だ。
日本書紀にもこの話は出てくるが、対等の関係として書かれており、その後の歴史書では逆に一言主が四国に流された、というように段々と立場を低められていく。

雄略天皇は、自分の兄や皇子を殺し、天皇になった暴略の人だ。即位後は武力を背景に諸国を支配し始めた。生前はオオハツセまたはワカタケルと呼ばれ、ワカタケルの名は古墳から出土した剣の銘にあり、倭の五王の「武」だと言われている。これが本当だとすれば、5世紀後半、飛鳥時代の約200年前になる。
征服路線に舵を切った雄略が、何故臣従するような行動を取ったのだろうか。
更に即位前の皇統係争時、目弱王らが葛城に亡命したのを追って討ち、葛城の5or7領を接収したらしいのだが、何故全てを接収しなかったのだろうか。そして目弱王が逃げ込んだ先が何故葛城だったのだろうか。正史に載せるのなら何らかの意味があるはずだが、この逸話は分からない事だらけだ。

検索してみると、葛城一言主神社がヒットした。ここが一言主神社の本社らしいので、行ってみることにした。
国道24号線を右に取り、葛城路に入る。葛城路は山の標高100m位を蛇行しながら進む、幅3m位の細い路。googleを見ると標高100m前後。ここも山の辺の道と同じだ。と言うことは、この辺りが古代奈良湖の水面だったのかもしれない。
神社への路は多難だった。右に鳥居が見えたが鳥居の間は恐れ多く、その左の狭い隙間は運転技術の低い僕では抜けられそうにない。結局大回りして辿り着いた。
境内へ続く石段の右に亀石がある。


社殿はややおおきめの鎮守という感じ。ここは入場料を取らず、願いが一言なら何でも叶えると信仰されている。


眼を引いたのは乳銀杏だった。樹齢1200年と言われ、幹の中央辺りが膨らみ、鍾乳石のように垂れさがっていた。


分かったのはここまで。依然として一言主については何もわからなかった。