奈良を中心に巡っています

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千年前の鬼才 平等院鳳凰堂

2020-03-27 18:57:00 | 日記
1円玉の次は10円玉という訳ではないが、久しぶりに平等院鳳凰堂を訪ねた。桜が咲き出したせいか、人手が多い。それも高校生ぐらいの若いグループが目立ち、境内には明るい笑い声が満ちていた。
平等院は相変わらず美しかった。約1000年前に建てられたのに、赤と白のコントラストが鮮やかだ。調べてみると、2012年から2014年にかけて塗装や瓦の交換をしたとのこと。薬師寺東塔のように古色床しいのもいいが、鳳凰堂はやはりこの色がいい。


色もそうだが、翼の造りが尋常ではない。一層目は4mぐらいありそうだが、二層目は1mぐらいしかない。実用には全く適さないが、何というバランス感覚なのだろう、1000年前に建築の天才がいた、としみじみと思わせる。


真正面から見ると、本堂の上部に開かれた丸い穴から阿弥陀如来の光り輝く顔が見えた。
池を巡ると鳳翔館入口と書かれた入口が見える。これは以前は無かった。中に入ると院の歴史がビデオで紹介され、堂の上に対峙する鳳凰の実物が展示されている。また堂内を飾る雲中菩薩像も、52体中26体が公開されている。薬師寺東塔の水煙も本物は保管されており、こうした保護策は適正だと思う。


スタート地点に戻ると、有料だが内部を見学できるという。20人程と一緒に、ガイドのお姉さんに連れられて阿弥陀如来の前に行き、10分程説明を受けた。その度に僕らの頭は左右にそして上に向いた。度々、柱や壁に触るな、持ち物が触れないよう気をつけて、と言われる。そうだろうな、僕なら一般人をここに入れない。壁には薄くなったが壁画がある。鳳翔館ではこの再現図も展示されていた。
来て良かった。やはり百聞は一見に過ぎずだ。

帰り道、参道のお茶屋で茶筒入りのお茶を買うと、お茶を一杯ご馳走された。何これ甘い!砂糖ではない甘さだ。帰って買ったお茶を煎れてみるとこれも美味しい。渋みがなく美味さだけが引き立つ。





石清水八幡宮とおがたまの木

2020-03-27 14:06:00 | 日記
石清水八幡宮は、八幡宮総本社の宇佐神宮から勧進されたという。
仁和寺の僧が石清水八幡宮を一度は参拝したいと願い来てみたが、麓の高良神社と極楽寺を拝んだだけで帰ってしまい、何故みな山を登って行くのだろうと不思議がった。徒然草第52段の有名な話だ。
その極楽寺は神仏分離令で今はない。元はこの頓宮の隣にあったらしい。


高良神社はこちら。


表参道から登り始める。途中、打ち捨てられた石垣が方々に見える。昔は男山48坊と言われたが、その多くは破棄されたらしい。
本殿に至る。国宝だそうだ。


境内には御神木があり、これは楠で樹齢700年とのこと。


こちらは「おがたま」の木。招霊からきた名で、神社に植えてあることが多いそうだ。1円玉の表の植物がこれだと説明書きにあった。


帰りは裏参道を降る。急な傾斜が続き、下りにも関わらず何度も休息を取る。手摺もなく、ともかく転ばないよう石段をしっかり踏み続けた。徒然草の高名の木登りの話が頭の中に浮かんだ。






大和神社はやまとじんじゃではない

2020-03-25 17:46:00 | 日記
天理駅の1つ南の長柄駅の近くに、大和神社がある。こう書いて おおやまと神社と読む。
一見して駐車場がないが、一の鳥居の内側左に数台分の駐車スペースがある。


遣唐使が旅立つとき、この神社にお詣りしていくのが習わしだったそうで、山上憶良の歌には大和の大国魂の神として出てくる。


あの戦艦大和にも当社の分霊が祭られていた。因みに戦艦武蔵に祭られていたのは、埼玉の氷川神社の分霊だ。当社は航海の神のためか、大和は武蔵よりも長く生き延びたのだろうか。
境内は模型を展示した大和資料館や乗組員を祀った祠、大将お手植えの桜など、大和づくめである。




参道の長さも270mと、大和の263mとほぼ同じだと紹介されている。
折角の歴史を持つのだから、遣唐使関係で押したらいいのに、と思ってしまった。

奈良湖と亀の瀬

2020-03-25 07:14:00 | 日記
山の辺の道を歩いていた時、なぜ平地に道を作らなかったのかずっと考えていたが、それは昔は奈良盆地全体が湖だったからとしか思えなかった。しかし証拠はなく無責任な想像に留まっていた。
ネットでいろいろ探していたら、奈良県のホームページに「300万年前に奈良湖が出現、200万年前に亀の瀬付近が崩れ、大阪方面に水が流れるようになった」旨の記述を見つけた。
その後奈良湖は水位を下げ続けたが、少なくとも飛鳥時代までは、法隆寺の南に直径数キロの湖として残っていた。凡そ標高45mの線だ。
その根拠の1つとして、万葉集の舒明天皇の国見の歌が挙げられる。舒明天皇は天智天皇達の父親だ。
 大和には群山あれど とりよろふ天の香具山登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ蜻蛉島 大和の国は
またこの湖のあった地域には縄文・弥生時代の遺跡が発掘されておらず、当時の豪族の勢力図を見てもこの地域は空白地帯になっている。
また奈良盆地を南北に貫く幹線として上ツ道、中ツ道、下ツ道(平城宮朱雀門から南に伸びた街道)が奈良時代に敷設されたが、下ツ道の西には南北道はない。湿地か湖か、開発できない状態であったと思われる。
更に下ツ道に面する場所に唐古・鍵遺跡がある。


この遺跡はBC200年に遡ることができる集落で、出土した土器にはアワビなどの海産物が記されている。
河面も現在より高く水運に向いており、初瀬付近が外国との交流の拠点となっていたこともうなづける。
逆に、当時は度々の疫病に悩まされていたが、この湖がその原因の一端となったことは想像に難くない。宇治市の西、宇治川が湾曲する内側には、かつて小椋池という湖があった。この池は度々氾濫するに加えて水質悪化が進み、マラリア蚊が大量に発生していた。干拓で農地化されたのはWW2直前である。

疑問は大体晴れたが、亀の瀬が気になる。亀の瀬とは奈良県と大阪府県境付近の地名で地滑り多発地帯として有名だ。本当に遡上できる状態なのだろうか。行ってみたら、それ程の急流ではない。


両岸から綱で引けば1kmもなさそうな流域で、これなら行けそうだ。

高野槙と奥の院

2020-03-24 09:32:00 | 日記
連休3日目、少し早起きして高野山に向かった。高野山は、山の中に突然台地が開け、全体が金剛峯寺境内というイメージを持っていた。しかし実際は、山道が突然広くなり、普通の街並みが現れた、という印象だ。因みに高野山という山はここにはない。この盆地が高野山というらしい。駐車場は満杯だったが偶然入ることができた。


正門から入り左の林を見ると、今まで見たことのない樹相に興味を惹かれる。杉のような樹皮をした巨木なのだが、葉が松のようで、幽玄な感じを漂わせる。近寄ってみるとやはり高野槙だった。


さて金剛峯寺の社内にも入ったが、10畳から15畳の部屋が並んだ様は、寝殿造を想起させ、襖絵、欄干など細心の心配りがされている。


境内を出て左に行くと、寺院が並んでいた。それぞれ◯◯院とあり、合間に土産屋などの民家が挟まる。


更に進むと、奥の院へと続く小径に至る。小径は高野槙の林の間を縫い、両側はびっしりと石碑が占める。


よく見ると島津家や武田信玄など有名な武将の墓石もあり、一般企業の碑も見える。献花台には花ではなく、高野槙の小枝が生けられている。


灯籠の銘をみると、松下幸之助の名もあった。年代を見ると、苔蒸して読めないものを除き、昭和十年から令和まで、連綿と続いている。
この石碑群は過去の遺跡ではない。数百年前から現代まで手を加え続けられている、生きた遺跡である。実に日本人らしい。

帰り道は北の道、国道371号線を下ったが国道とは名ばかり、車一台がやっとで、川側にガードレールのないところも多い。