奈良を中心に巡っています

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2つの添御縣坐神社

2020-07-28 14:10:00 | 日記
そうのみあがたにいます神社。添という天皇家直轄の地に鎮座する神社、という意味のようだが、この名前の神社は、奈良市三碓(みつがらす)町と同市歌姫町の2箇所にある。
三島神社や厳島神社など、同名の神社は多いが、地名を冠しても同名なのは珍しい。
まず三碓町の方だが、三条通りの西方、生駒市に近いところにあった。


なかなか立派な神社だ。境内の砂は綺麗に掃除されており、末社も5-6社ある。なお、本殿は西を向いている。


社務所にはお守りなども売っていた。祭神はスサノオ、クシナダヒメ夫婦とタケチハヤ。この地の祖神らしい。
境内を出ると辺りは田園だった。
730年の大和国正税帳に「添御縣 稲152束」の記載があることから、土地柄と矛盾しない。

次に歌姫町に行ってみる。平城宮跡を南北に抜ける道があるが、そこを真っ直ぐ北に数キロ進む。この道、奈良ではよくあるのだが、幅員が大きく変わる。中央線や側線があると思ったら急に対向不可になったり道路の真ん中に御堂があったりと、かなり複雑だが車の交通量は結構多い。この道は山城と大和を繋ぐ重要な道路だった。
神社は緩やかな峠の頂上付近にあった。旅の途中、国境で旅の安全を祈願する「手向けの神社」であったことは間違いないだろう。
延喜式の祈念祭の祝詞によると、御縣は代々天皇の御前に野菜を献上したらしい。確かに周りは田んぼがなく、畑と雑木林が広がっており、これも矛盾しない。
因みに歌姫町の名は、昔この辺りに雅楽を担当する女性達が住んでいたかららしい。

参道に入ると石灯籠が並ぶ。


本殿はやや簡素に見え、常駐する人もおらず、お守りなどもお金を箱に入れる方式だった。


祭神を見ると三碓町と全く同じで、この2社が同根であることは間違いなさそうだが、どちらが先かは定かではない。
地名の添は、奈良市を中心とした奈良盆地北部一帯であり、明治には東の添上郡と西の添下郡があった。歌姫町はその境界付近に位置し、三碓の方は添下郡にあったようだが、決め手にはならない。
恐らくこれからも定まらないだろうが、個人的には歌姫町の方に惹かれる。



その名の通りの石山寺

2020-07-26 16:42:00 | 日記
京都のFMを聞いていたら、石山寺の如意輪観音が開帳されるとのこと。普段は33年に一度及び天皇代替わりの2年目に一度、開帳されるらしい。ということは、僕が生きている間、これが最後のチャンスのようだ。


石山寺に着くと駐車場はほぼ満杯。近畿だけでなく、遠方のナンバーもあった。参道はもみじの新緑に幟が立ち並び、両側を細い水が流れる。


やがて右手に「くぐり石」が見られる。


階段を登ると巨大な岩石が広がる。硅灰石という種類の石らしく、石山寺の名称のもととなった。


さて、本堂にお詣りすると、奥に本尊が見えた。靴を脱いで本殿に上がるとやがて本尊前に着いた。半跏で右手に蓮の蕾を持っており、体高約5m。全体に金箔が残っており、宝冠を被っている。如意輪観世音菩薩というらしい。


観音菩薩像は非常に種類が多い。11面観音、千手観音、馬頭観音、数十mもある立像など、とても同じ観音とは思えない。中宮寺の半跏思惟像も伝・如意輪観音だ。そもそも観音とは人々を救うという存在らしく、状況によって異なる姿で現れるという。
近寄って台座を見ると加工されていない自然石だった。裏側には飛鳥時代の胎内仏などが展示されていた。現在の観音像は11世紀頃に作られた2代目であり、初代は焼失してしまったようだ。
山を降りると、プリン屋の前に100人以上の行列ができていた。どうやらここの名物のようだ。




雲甘寺坐楢本神社

2020-07-20 13:05:00 | 日記
平群駅から歩いて10分程の地にあり、うんかんじにいますならもと神社というのが正式な名称らしい。以前は500mほど東に雲甘寺があり、その一画に寺の鎮守社として据えられていたが、明治元年に寺は廃され、その後社はこの地に移されたらしい。
祭神は菊理媛(キクリヒメ)。この神は日本書紀に一度だけ出てくる。イザナギが黄泉の国を脱出し、その境でイザナミと言い合いしているところに現れ、何事かを口にする。するとイザナギがこれを褒め、イザナギとイザナミは和睦したらしい。何を言ったのか、どういう系統の神なのか、触れられていない。
何となくだが、巫女のような役割のように見える。死者と生者を繋ぎ、何事かを喋って生者を満足させる。

菊理媛は、全国の白山神社で祀られている。由緒書きを見ると江戸時代この神社は白山権現を中央に祀っていたとのこと。修験とは縁のなさそうなこの地に何故鎮座するようになったのだろうか?色々と興味深い。

さて、まず鳥居を見ると元禄十二年と刻まれている。境内には石灯籠が多数置かれている。恐らく元の地から持ってきたのだろう。


拝殿は左右非対称だ。不思議に思って中を覗くと、本殿の左に小さな社があった。春日社らしい。



近くに長屋王とその妻吉備内親王の陵墓に立ち寄ってみた。長屋王は天武の孫で、高市皇子の長男。政権の中心にいたが、藤原四兄弟に誣告され、自殺を余儀なくされた。
また、その邸宅からは多量の木簡が出土したことでも有名である。


田園を歩いていると、菊が大量に植えられていた。そう言えば、平群は小菊の栽培日本一と書かれた看板があった。流石に菊理媛とは関係ないよね。


香久山北西麓の2つの神社

2020-07-19 15:20:00 | 日記
今日は久しぶりに空が晴れた。近所のニセアカシアの葉が閉じていた。どうやら強い光に当たると葉を閉じる習性があるらしい。


香久山の西北数百mのところに、畝尾都多本(うねおつたもと)神社というのがある。すぐ近くに畝尾坐建土安(うねおにますたけはにやす)神社があるので、畝尾がこの辺りの地名だったことがわかるが、その他の部分がどういう意味を持つのかさっぱり分からない。


この神社、縁起書きがないので由緒もわからないが、祭神は「泣沢女(ナキサワメ)」だという。イザナミが亡くなったとき号泣したイザナギの涙から生まれた神であり、水の神、延命の神として信仰を集めたようで、万葉集でも歌われている。
『泣沢の神社(もり)に神酒(みわ)すゑ祷祈(いの)れども わご王(おおきみ)は高日(たかひ)知らしぬ』(伝 檜隈女王)
 ‘延命のお願いをしたのに、高市皇子は天を治めることになってしまった’という愚痴の歌だ。因みにこの檜隈女王だが、家系が全く伝わっていない。


さてこの社、拝殿はあるが本殿がなく、本殿のあるべき場所に井戸があるらしい。この井戸が御神体になる。


ここに来るのは夏を避けた方がいい。藪蚊がしつこく、境内を出てからも2、3匹纏わりついてきた。

ついでに畝尾坐建土安(うねおにますたけはにやす)神社にも参拝する。



祭神は健土安比売(タケハニヤスヒメ)で、土の神、陶芸の神のようで、イザナミが死ぬときの大便から生まれた神らしい。


また日本書紀には、天皇が香久山の埴土を取って瓦を作り神々に捧げた記事があり、それがこの地であるという。
ところでこの神社、西を向いている。参道が東から来て左に曲がり、東(左)に向かい参拝する。わざわざ西向きにしたように見える。香久山は南東なので山に向かっているわけでもない。不思議だ。


帰りに近くのコンビニから香久山を望む。夏来にけらし、の季節だ。





賣太神社

2020-07-18 12:35:00 | 日記
賣太(めた)神社。



住所は大和郡山市稗田町136。稗田という珍しい地名だが、ここは古事記の編纂に当たった稗田阿礼の出身地だという。このため、主祭は稗田阿礼その人である。
副神は猿田彦とアメノウズメの夫婦となっている。この夫婦の子孫は「猿女」という姓と養田を天皇から賜り、その田は「猿女田」と呼ばれ、いつしか猿の字を略して「めた」と呼ばれるようになったと社の由緒書きに書かれていた。
となると、当初はサルタヒコとウズメが主神であり、後から出てきた阿礼があまりに有名になったため、主祭になったということなのだろう。

ところでこの神社と集落は、200m四方にギュッと固まっており、周りは一面の田んぼである。そして集落の周りはぐるりと堀が囲んでいる。環濠集落と言うそうで、これだけほぼ完全に残っているのは稀だそうだ。


堀を覗くと大量の亀がいた。


やはり奈良には不思議な場所が残っている。