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纏向遺跡は邪馬台国?

2020-02-23 19:22:00 | 日記

大神神社の最寄り駅である三輪駅から1つ北に巻向駅がある。駅名は巻向だが、地名としては纏向になる。

東の三輪山の北側から纏向川が流れ落ちてきて、平野部に至ると大量の土砂を吐き出し、緩やかな傾斜地を作る。扇状地である。

砂利がちで水を蓄えにくく、水田には向かない。1971年、この地に大規模な遺跡が発見された。奈良盆地で遺跡が出るのは珍しくない。むしろ掘れば何か出てくる。

だがこの遺跡、少々変わっていた。



・関東から九州までの土器が広く見られた。

・掘立柱を差すための穴を掘る器具は見られたが、一般の農具はほとんど無い。

・3世紀半ばと思われる紅花の花粉が大量に出土した。

紅花はインド発祥で、中国を通して日本に伝わった。他の発見地は纏向の3世紀後である。



ここから、壮大な仮説論争が始まった。

まず纏向は、農業集落ではない。日本各地の勢力が集まっていた、政治的または商業的な集落だった。楽浪郡を含む中国との交流もあった。ここまではほぼ確実だろう。


だが桜井市は、卑弥呼の邪馬台国がここであったとほぼ断定している。

例によって、このあたりの年表に纏めてみた。

1c後 纏向の建造始まる

239  卑弥呼 魏への朝貢開始

247   狗奴国との交戦

247/3/24  部分日食 

248   卑弥呼死亡

3c前 纏向衰退

3c半  纏向に紅花の花粉発見

280-300 箸墓古墳築造



纏向は、2世紀後半体3世紀前半まで続いたが、突然消滅している。大体時代は合っているが、箸墓古墳を卑弥呼の墓とするには、魏志倭人伝の墓の記述と全く異なっているし、時期も合わない。桜井市は既に卑弥呼の里と断言しているようだが。



それでも、3世紀にこの地に、九州から関東に影響力を持つ政権があったことはほぼ疑いがない。



桜井市立埋蔵文化財センターでは、古墳がどこで始まりどの中心がどこに移っていったのか分かり易く示している。

でもやっぱり北九州ではないの?こちらは二次感染ではないの?史料が見つかっていないことをいいことに一番は頂けない。


中将姫のバスクリン

2020-02-22 20:50:00 | 日記

奈良盆地の南西隅にある、當麻寺を訪れる。こう書いて「たいまでら」と読む。

最初は大麻に関係があるのかと思ったのだが違った。この地域を地盤としていた葛城氏系の當麻氏が氏寺としていたらしい。創建は720年で相当に古い。


この寺はいくつかの点で有名だ。

・中将姫伝説

・国宝が7点

・牡丹の多い庭園

まず中将姫伝説。関東に住む僕らには馴染みが薄いが、浄瑠璃、歌舞伎にも取り入れられており関西では人気の説話だ。その生涯は短くも長いのだが、資料館にあった漫画が分かり易い。



あのバスクリンも、当初は「中将湯」として売り出した。



今も4月14日には「お練り」と呼ばれる供養式が開かれ大人気だという。これは行って見なければ。


国宝の中では、創建時から東西そろって残っているのはここだけという三重の塔の東塔、西塔。高台に立っており、木々の中に聳え立つ姿はこの寺独特のものだろう。



寺にはいくつか坊があるが、中之坊がお勧め。ここは牡丹で有名なのだが、まだ時期には早い。それでも奥の院に行くと寒牡丹が咲いていた。



中之坊にはまた、中将姫誓願桜というものがある。岐阜の願成寺で中将姫が女性の病平癒を願って植えたものだと言われ、山桜より花弁が多く、天然記念物の指定を受けている。ここの桜は、そこから分けて貰ったものだ。



折口信夫もここに一時滞在していたようで、歌碑もあった。僕もここがユースホステルでもあった時代に宿泊した記憶がある。



當麻寺では、各坊毎に入山料として3百円から5百円を求められて鬱陶しい。それでも中之坊ぐらいは見ておきたい。



山の辺の道(北行)

2020-02-21 18:46:00 | 日記

春日大社に参詣した後、新薬師寺に行く。和辻哲郎の「古寺巡礼」の最初に出てくる寺だ。

門を入ると正面に本殿が見えるのだが、この本殿、正面は窓も入口もない。



探してみると、左側(西側)に小さな入口があった。入口の前には黒い布が天井から地面まで掛けられている。

回り込むと、中央に薬師如来の座像が鎮座し、その正面を除いて十二神将像がぐるりと周りに囲んでいた。

堂内は薄暗く、天井から僅かなライトが当てられているが、細部まではよく見えない。写真不可だったので掲載できないが、今まで見たこともない不思議な空気を漂わせていた。これはいいものを拝見させて頂いた。


この新薬師寺から山の辺の道が始まる。奈良から桜井までは27kmなので、中間の石上神宮までは約13km。このルートは山の辺の道(北行)と言われる。今日は、この道を歩く予定だ。山道もありそうなので、4時間ぐらいだろうか。


10時半出発。所々にある道標を頼りに進むが、やがて迷った。



案内の場所を何度も行き来したところ、道路に鉄の柵があり、そこを開けて下に降りるとのこと。鹿防止のためらしい。こうした鹿防止または猪防止の柵は何度か見られた。森に入るとスズメバチに注意との看板も見られる。どう注意するのだろうか?



道中は田舎道または畔道が殆どで、この時期、見るべき所も殆どない。暑さに喘ぎながら、何でこの道が当時の主要道路だったのか考えていた。道は狭いところ、急なところも多く、馬は通れない。重い荷物を背負い、何故こんな道を通ったのだろう。平野部を行かないのには何か理由があったのだろうか。



午後1時、途中の目標ポイントである弘仁寺に着いた。



その後再び地図に載っていない道を通って、午後2時半、石上神宮の裏手にたどり着く。



合計4時間、万歩計を見ると2万5千歩なのでやはり13kmぐらいだろう。

途中、トイレは1つだけ、コンビニはゼロ。十分に準備して挑んでほしい。

山の辺の道(北行)は南行に比べてマイナーだという。確かに歩く格好をしてすれ違ったのは、女子大生風女性と50代と思われる男性の2人だけだった。


天香具山と白い夏服

2020-02-19 19:26:00 | 日記
春過ぎて夏来たるらし

白妙の衣干すてふ天香具山(持統天皇)


この現代語訳は、

《春が過ぎて夏がやって来たようです。真っ白な衣が干してあるようです、天の香久山に。》

とされるが、中々イメージできなかった。

そもそも何故山に衣を干すのか、それが見えるのか、どこから見たのか、当時も夏服は白なのか。

疑問に答えを見つけるため、当地に行ってみることにした。


まず作者の持統天皇である。

天智天皇の娘で幼名は鸕野讃良(うののさらら)。その生涯を年表形式で見てみる。

645年 誕生

672年 天武天皇の皇后に(27才)

690年 天皇に即位(45才)

694年 藤原京に遷都(49才)

697年 文武天皇に譲位(52才)

703年 崩御(58才)

即位したのは690年なので、この歌が詠まれたのは飛鳥時代か藤原京時代か、はっきりしない。しかし若い頃の歌が最も優れているというのもしっくりこない。694年から697年までの間、年齢にして49歳から52歳までの間だったのではと推測する。


では、藤原京はどこにあったか、発掘の結果、大和三山の丁度真ん中にあったことが明らかになっている。藤原京跡に行ってみると、南東方向に香具山が見えた。


意外と近い。しかし何処に衣を干すというのだろうか。見えているのは山の北西であり、衣を干すのは不自然だ。干すなら南側ではないだろうか。また山肌は鬱蒼とした雑木林に覆われている。それとも昔は祈祷所などがあり、そこに干したのだろうか。

仕方がないので行ってみることにした。


車で行ったのだが、香具山の西側にトイレ付きの小さな無料駐車場がある。


そこから山に入り、北に向かうと天香山神社がある。そこを右に曲がるとほぼ真っ直ぐに頂上に向かう。斜面はかなり急で、息が切れる。とても建物が建てられる場所はない。

頂上につくと狭い平地があり、国常立神社があったが、何か神事が行われたとは思えない。


やはり、この香具山のこの方向に布を干す場所はなかったし、干したとしても樹木に阻まれて外から見ることなどできはしない。


結論。香具山に衣を干したとするのには無理がある。


では、あの歌はどう解釈すればいいのだろうか。

前段はいいとして、後段は次のように解釈してはどうだろうか。

《(女官から聞いたところによると、今日は)夏用の白服を干すらしい。(香具山の方を見ると確かに緑が濃くなっている。夏が来るんだなぁ》


少し見方を変えてみる。

当時の持統天皇は仕方なく天皇になったが、いつ譲位するかをずっと思っており、周りからもそう見られていた。

そんなとき、「あのお方もこの頃は随分とご立派に...」とお付きの者に言われる。ああやっと機が熟してきたか、もういいですかね、とひとりごちるのは、耳成でも畝傍でもなく、天の香具山に向けてだろう。

それがこの歌の底流にあるのだとしたら、この歌、結構奥深い。


三輪から山辺の道へ

2020-02-18 22:09:00 | 旅行

ミワ神社


正式には、大神神社または三輪明神という。

大神神社はおおみわ神社と読むのだが、これは明治時代に付けられた名前で、狼とは関係がなさそうだ。

三輪明神の明神とは、仏教側からみた「霊験顕たかな神」という意味だそうだ。

面倒なので、ここではミワ神社と呼ぶことにする。


ミワ神社は、背後の三輪山を御神体としていることで有名だ。

このため、あの大鳥居はともかく、社殿はないのかと思っていたが、実際にはあった。また、祭神もあり大国主命だった。副神はオオナムチ=大国主。そしてスクナヒコナ、大国主命に協力した神だ。つまり出雲系の神を祀っていることになる。


この、御神体と祭神との関係とはどんなものなのだろうか。

似た例は、高千穂の天岩戸神社でも見られる。天岩戸神社では、川を挟んで向こう側に洞窟があり、これが御神体となっている。祭神は複数いらっしゃる。

大きな神社では、鏡や刀などが御神体とされ、拝殿の奥の本殿に祀られる。この本殿が無いということのようだ。




ミワ神社の拝殿は立派な造りをしている。拝殿からは見えないが、その前に三ツ鳥居があり、そこから先は禁足地となっている。

この三ツ鳥居が檜原神社にもあると言う。斎宮を送ったことから伊勢神宮の原型として元伊勢とも言われている。歩いて20分、山辺の道と言うので行ってみることにした。




道は、最初は石畳が敷かれていたが、途中から山道になった。雨後なので足元が覚束ない。檜原神社は、国道から入る道もあるので、必ずしも山辺の道を通る必要はない。

神社に着くと、宮司さんが境内に箒跡を付けていた。祀られていたのはこの三ツ鳥居。後方に社などは無い。




帰り道、狭井神社に寄った。この神社からは、制約はあるものの山頂に行くことができる。またこの神社はご神水(とうすい)があることでも有名だ。社の右後ろに行くと確かにあったが、ボタンを押すと水が出てくる。

美味しかったが、有り難みは左程でもない。


帰りは、門前で三輪煮麺と柿の葉寿司のセットを食べた。これはお勧め。