明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

色は物質ではない・雑阿含経「牧牛経」色=他人の牛と自分の牛を区別する・分別=色=空

2018年09月02日 | 仏教

牧牛図 


日本印度学仏教学会が発行する「印度學仏教學研究」の記事

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/59/2/59_KJ00007183114/_pdf

 

この中に、次のような記述があります。

 

仏 教 の 修 行 者 (比 丘 ) の 修 行 生 活 の 心 得 を, 牛 群 を 放 牧 し て 暮 ら す 牧 牛 者 (gopalaka) の 心 得 に 喩 え る 2 経 典 が あ る (」V .33 MahE − gop 五taka−s.uttarp 牧 牛 者 大 経 Ml . pp.220− 224 ;A .Ekadasaka−Nipita 18 [ v 「1’Gopala −suttarp 牧 牛 者 経] A .V .pp.347−353 ). と もに 同 じ 内容 で あ る が , 後 者 に は 前者 の 最 初 の 4 行 と末 尾 の 2 行 が な い . こ れ に 対応 す る 漢 訳 の 3 本 もほ ぼ 同趣 旨 で あ る 〔求 那 跋 陀 羅 訳 『雑 阿 含 経』 巻 第 47 (1249 : 牧 牛 者 経 ): T.2.No .99,342c−343b , 鳩 摩 羅 什訳 『仏 説 放 牛 経 』: 7:2.No .123,546a−547b, 僧 伽 提 婆 訳 『増 壱 阿 含 経 』 巻 46,放 牛 品 第 49.1 : T.2.N 。 .125,794a−795a). こ こ で は ま ず心 得 の 悪 い 例 11 箇 条 か ら 説 き始 め て , 次 に そ の 反 対 に よ い 心 得 11 箇 条を 列 挙 して 説 法 を 締 め 括 る . そ の 最 初 が と もに 「色 を 知る も の で な い (na nipa−iiiiO・h・ ti)」 と い う. 牧 牛 者が 「色 を 知 る もの 」で な け れ ば な ら な い と い う 「色 」 と は , 註 釈 書 に よ れ ば , 牛 の 数 を 数 え て , 逃 げ た 牛 を 探 し求 め , 自 分 の 牛 か 他 人 の 牛 か を 確 か め る た め の 「色」 で あ る . 牛 に つ い て 白 い ・赤い ・黒 い な ど と, 色 彩 (valna ) を 知 る こ と に も 関 連 し て い る (・IM .H .p.258,AA .V .pp.87−88).

 

自 分 の 牛 か 他 人 の 牛 か を 確 か め る た め の 「色」 で あ る .

これを読みますと、『般若心経は間違い?』の間違い(十三)  で書いた事を思い出します。ー以下に引用します。

 

 

 『法句経』「第一章」にある、「他人の牛を数える」という喩え、
多義を誦習すと雖も、放逸にして正に従わずんば、牧の他牛を数うる如し、沙門の果を獲難し」 
 これを意訳すると、次のようになるのだそうです。 おそらく、漢訳からではなく、パーリ語からの訳ではないかと思います。
 「たとえためになることを数多く語るにしても、それを 実行しないならば、その人は怠っているのである。−牛飼いが他人の牛を数えているように。彼は修行者の部類に入らない」(岩波文庫「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳より )
 「たとえ多くの教えを語っても、その実行者でなく、放逸な人であれば、牧童が他の人々(雇い主)の牛々を数えつつあるようなものであり、沙門の分け前(解脱)に与れない」(ダンマパダ(法句経)講義DVDカタログ(1)、講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老)

 「他人の牛」の意味が、多くの解説では「牧童が他人から預かった牛」とされているのですが、「他人から預かった」というのは、どこから来ているのでしょうか。長老の講義でも「他の人々(雇い主)の牛々」となっているようです。

 「他人から預かった牛」なら、頭数を数えるのが当たり前であり、数えなかったら、牛を10頭預かっても、9頭返せば良いことになってしまいます。
 銀行のように「他人の金を預かる」商売では、さらに深刻な問題になり、銀行が預金を数えなかったら、金融不安で誰も安心して暮らせません。
 この場合、銀行員は「雇われ人」であり、自分が預かった金でもないのに、銀行の立場で、預かった金を数えなくてはなりません。
 雇われている牧童という立場なら、雇い主の牛は、自分の牛と全く同じであり、「預かった牛」と同様に責任を持ち、常に頭数を数えて確認するのが当然です。
 もし、自分の牛でないからと、頭数も数えないで、ほったらかしにしておくなら、牛主の損失は大きく、牧童はクビになるか、牛主が潰れてしまいます。
 
 この「喩え」の意味は、「せっかく多くの教理を学んでも、戒律を実行せずに、やりたい放題にしていたら、修行の成果を得ることができない」ということの筈です。
 すると、「他の牛を数える」というのが、「無駄に教理を学ぶ」ことに対応しているのですから、「他の牛を数える」こと自体が、無意味なことでなくてはいけません。
 すると、「他の牛」というのは、「他人から預かった」り、「雇い主の牛」のような、当然、自分が責任を持つべき牛ではなく、自分と関係のない、他の牛飼いの牛か、他の牛飼いが預かった牛、でなくてはおかしなことになってしまいます。
 つまり、牧童が、自分の責任を負っている牛を数えずに、自分と関係ない「他人の牛」の数をかぞえている、と考えないと、意味が通りません。
  つまり、この喩えの意味は、
 「せっかく仏教の教理を学んでも、学んだとおりに実行せず、やりたい放題にしていたら、牧童が自分の管理する牛を数えずに、自分と関係のない他人の牛を数えて、多いの少ないのと言っているのと同じようなもので、とうてい修行の成果を得られません」
 と、なるべきです。

 牧童が自分の管理する牛を数えるのは、仏教の修行者が、教理を学んでそのとおりに実行するのと全く同じことであり、それが悪いなどと誰が言うのでしょうか。
 牧童が、他人の牛を数えて悪いのは、自分の管理する牛を数えないで、自分に関係ない他人の牛を数えて、うちの牛より多いとか少ないとか、無駄なことをやっていると、自分の牛の管理がおろそかになるからであり、これが、修行者が教理を学んでも実行しない場合と同じだ、といっている筈です。
 もし「他人の牛」を預かっても、自分のものではないから、数える必要がない、というなら、そんな「不道徳」な話はありません。

 このように考えると、この「他人の牛を数える」という「喩え」は、「間違っている」というべきですが、それは、お釈迦様が間違えたのでしょうか、それとも長老や、多くの解説者が間違えたのでしょうか。
 漢訳から見るかぎり、「他人から預かった牛」とか「雇い主の牛」というニュアンスは全くありませんから、あるいは、パーリ語の原文が、そうなっているのかも知れません。
 その場合は、お釈迦様の「間違い」か、「法句経」を伝承した人の「間違い」ということになります。
 もし、何も「間違いはない」というなら、仏教は、銀行はじめ、あらゆる預託に関する職業を否定している、ということになりますし、借りたものに対する責任は負わない、ということになります。

 仏教に限らず、「修行」とは、他人の子弟を預かって「修行」させるものなのに、「他人の牛」だから「数えない」、などという話があるものでしょうか。
 それでは、どこかの国の「国技」のようになってしまいます。

 「他人の牛を数えるな」というなら、「自分の牛を数えろ」というのが「対」になるべきで、つまり、「他人のことより、まず自分のことをしっかりやりなさい」という意味になるはずです。

 

 南華密教では、「経典」は「悟り」に役に立つ、つまり肝心なところだけを読む、ということになっており、経典研究に嵌まり込んで、どれが仏陀の説いた真理だなどと言うことはしません。

 しかし『雑阿含経』を読んでいる人なら「牧牛経」も当然読んでおり、『法句経』「第一章」にある「他人の牛を数える」という話の「他人の牛」が「他人から預かった牛」ではなく、「自分の牛では無い他人の牛」であることは、自明と言うべきです。 

 「色」とは「分別」であり「空」と等しく、「空」とは「疎外」であり「色」と等しいものです。
 「疎外」とは「自他を分別」することであり、「自己疎外」とも言い、これが人類の「苦」であり、「空」と等しいものです。
 

 

 

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