明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

14. 無我と輪廻 『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 

2024年01月13日 | 仏教
『般若心経は間違い?』の間違い (十四)
 
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 修行を忘れて観念論に走る人々は、「一切衆生はもともとから仏性を持っている」とか、如来蔵であるとか、本覚であるとか、本来悟っているとか、哲学っぽいこと、知識っぽいことをいいたがるのです。言っているのは偉いお坊さんですが、「では、なぜあなたは出家しているのですか?」と聞きたくなります。・・・・・・・・・・・・・・・
 仏道は進化の道であって、人格完成の道であって、悟りに達する道なのです。空だけをハイライトして論じることで、それが壊れます。だから初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです。
 パーリ経典には、中部経典の『大空性経』『小空性経』など、空の瞑想を説いた経典がいくつかあります。空を知るためには、哲学思想を組み立てるのではなく、瞑想を通して体験しなければいけないのです。結局、「空だ」と言っても誰にもそれがわかるわけがない。だから修行して空を発見するのです。体験するのです。発見するべきもの、体験するべきものについては、語れないはずです。
 だから、悟り・涅槃・解脱については語れない。語る単語すらないのです。
 無常については語れます。現象は無常ですから、私たちは日常生活で経験する無常を頭で理解できます。ただそれで真理を理解したことにはならないのです。なおさらに修行して、瞑想して、智慧を開発して、「一切は無常である」と発見しなくてはならないのです。
 無常を語ることができるならば、空も現象の説明だから、同じように語れるのではないかと思うかもしれません。しかし、「空について語る」ということはまったく成り立たないのです。言葉をいれたらもう「空 sunna」ではないのですから。空について概念を作ったら、もうとっくに空ではないのです。「空について語る」なんてことは、先ほど触れたように「空」をヒンドゥー教的な実体論の言換えにおとしめない限り不可能なのです。(P.141〜143)

 

 「如来蔵」や「仏胎」というのは、人間には本来、生まれつき「仏性」がある、心の中に仏様を宿している、という考え方ですが、だから修行しなくても良い、ということになるのでしょうか。
 

 「守護仏」または「如来蔵」という考え方は、どんな人でも、心のなかには仏の種(仏胎)が宿っており、仏の種を覆い隠しているカラを取り除いてやれば、誰でも仏と一体になれる、というものです。
 自分の守護仏を知り、信仰と意志によって仏と一体になるということは、つまり知っているとおりに行動できるということになりますから、「悟り」を開いて仏になることとまったく同じ意味になります。
 もちろん、「守護仏」と一体になるためには、修行が必要ですが、本来あるべき自分の姿にもどるだけで、そのモデルもはっきりしていますから、瞑想によって「悟り」を開くことと比べますと、はるかに楽な修行と言えます。
 なぜなら「悟り」は、ある瞬間に得られるもので、いくら瞑想を続けても、いったい、いつになったら悟れるのかわかりませんし、悟る前の人はいつまでたってもただの人で、半分は悟ったとかいうことはありません。お釈迦様だって、悟りを開くまでは、ただの悩み多き青年だったのですから。

 悟った人は、社会生活にも順応でき、自然と人々の尊敬や人気を得られ、出家をやめても困ることもありませんが、まだ悟れない人は、出家をやめたら社会生活が困難なことになりがちです。
 それに対し、自分の「守護仏」を知っていれば、守護仏と一体になれるまで待っていなくても、その仏様の性格や特長に従い、スタイルをまねて生活しているだけで、人々に魅力を感じさせ、対人関係がよくなり、仕事や学業がうまく行くようになります。
(“守護仏1-守護仏による救済  仏胎・如来蔵・紫薇斗数”より)


 つまり、人間に「仏性」があるからといって、修行しなくても良い、ということではなく、その人の個性に合わせた目標を持つことによって、「修行」の効率を上げることを目的とした面もあるのです。
 もともと、知っている通りに行動できない、つまり、悟っていないのは人間だけであり、人間以外の生物は、知っているとおりにしか行動できませんから、「もともと悟っている」のは間違いありません。
 長老は、「すべては無価値だ」と知るのが「悟り」だとも言っています。ならば、人間以外の生物は、もともと「価値」など知りませんから、やはり悟っていることになります。
 人間だって、生まれつき知っている通りに行動できないわけではなく、誰でも赤ん坊の時は、教わらなくても、乳を求めて泣き声をあげることができますが、「価値」などという「観念」は持っていません。
 人間に「苦」が生まれるのは、「疎外」によって「自己」を獲得するのと同時であることは、既述の通りで、その進化の過程は、赤ん坊が、かつては自分と一体だった母親を「他者」と「認識」する過程(分別)と全く同様と考えることができます。

 「一切衆生」というのは、草木なども含めた、あらゆる生物、という意味に使われていますが、「一切衆生は悟っている」と言う場合、人間だけは含まれない、ということは知るべきです。
 つまり、人間だけは、修行して「価値」などの余計な「観念」を取り除かないと、「悟り」を得られません。

 「仏胎」とか「如来蔵」という考え方は、人間が持ってしまった「自己」「他者」「価値」などの「観念」、つまり「心のよろい」を取り払い、本来持っていた「仏性」を取り戻そうという意義を持っています。

 また、当時から、「出家」しても「悟り」を得られる人は、むしろ少ないもので、「修行」をあきらめた人の社会復帰は、困難なものですから、「僧」の職業化は避けられないものでした。
 日本の仏教は、「葬式仏教」などと揶揄されますが、多くの「僧」は「出家」したのに「悟り」も得られず、もし「悟り」を得たとしても、「職業僧」としての社会生活を送らなければならないことには、変わりありませんから、やむを得ないところもあるのではないでしょうか。タイやスリランカでも似たような事情はあるはずです。
   
 長老は、「空をハイライトにしてはいけない」と言いますが、その反面、修行によって体験することで「空」を発見すれば、はじめて「空」が理解でき、「悟り」を得られるとも言います。
 「空」はそんなに難しいものでしょうか。
 いや、確かに難しいものだったかも知れませんが、『般若心経』は、「色=空」であることを「発見」し、当時はともかく、現代の「認識論」から見れば、非常に平易に「空」を解き明かしました。(まだ理解はされていないかも知れませんが)
 

 “言葉をいれたらもう「空 sunna」ではないのですから。空について概念を作ったら、もうとっくに空ではないのです。”(P.145)
 

 ならば、「空」という「名称」をつけること自体が間違っていることになります。
 いったん「空」という「名称」つまり「概念」を創ってしまったのに、今度は、それを忘れて、修行によって体験し、発見しなおしなさい、というのは、どう考えても、効率の良い方法ではない、ように思えます。
 効率など、どうでも良いと思うかも知れませんが、「出家」したのに「悟り」も得られず、かといって社会復帰もままならず、という、質の悪い「職業僧」がやたらに増えることが、「仏教」の堕落に繋がることも考えないといけません。
 
 既述のように、宗教弾圧のなかで、密かに法灯を守ってきた「南華密教」では、あまり「出家」には拘らず、「在家居士」として、社会生活をしながら「修行」し、「悟り」を得られる学習法や修行法を備えています。「悟り」を得られない人でも、その「情報・知識・知恵」の大系により、より良い社会生活が営める、という利点があります。

 日本の「大乗仏教」ではどうでしょう。新興の宗派を除けば、これといった宗教弾圧に遭うこともなく、むしろ権力から保護されてきましたが、「僧」と言えば「職業僧」ばかり、「出家」といえば「寺院経営者」で、しかもその多くは世襲ですから、ほとんど形式だけになっており、「悟り」を得るどころか、「悟り」のイメージを提示することすらできていません。
 ただ、「修行者」が「職業僧」として健全な社会生活を営める、という点では、そう悪いことでもないのですが、やたらと「戒名料」「布施」「永代供養料」などという名目で、金銭を巻き上げるだけでは飽き足らず、中には、風俗に通う、どころか、風俗営業にまで手を出す「僧」が現れる始末です。
 タイやスリランカでは、そんな堕落した「僧」は一人もいない、と、長老は言うかも知れませんが、どこにでも「破戒僧」はいるものです。
 
 

 大乗仏教で哲学としてあるのは空論と唯識論です。空論はべつに仏教にとってはごく当たり前の話でどうってことありません。
 唯識論は自己矛盾です。阿頼耶識は「認識できない識」なのに、それをどうやって説明できるというのでしょうか?・・・とにかく唯識論はすごい矛盾です。(P.145〜146)


 「空論はべつに仏教にとってはごく当たり前の話でどうってことありません」とは一体どういうことでしょうか。
 つい今しがた“初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです”と言ったばかりではないのでしょうか。
 
 “阿頼耶識は「認識できない識」”と言いますが、本当でしょうか。
 我々の知っている「阿頼耶識」は、「意志」や「認識」や「知識」、つまり「業」を記録して貯える入れ物であり、「輪廻」のベースとなる「識」です。

 お釈迦さまは、「諸法無我」といいながら「輪廻」は否定しないという立場を取りました。
 
 もともと、「我」というのは、伝統的なインド思想の考え方であり、「輪廻」という「事実」の根拠になる思想でした。
 「我」を否定することは、「輪廻」をも否定することになるはずですが、仏教は「輪廻」を否定しませんでした。
 
 「有」論は、あらゆる事象を「法」に分類し、「我」だけは、どこにも分類することができないから、「我」が「無い」ことを証明しました。
 
 さらに「空」論は、あらゆる事象は「縁起」によって成立しており、「自性」つまり「我」がないことを証明しました。
 
 しかし、「有」論も、「空」論も、「我」なしで「輪廻」を説明することができず、「無我」といっても水掛け論にしかなりません。
 「輪廻」とは「業」の良し悪しによって、「六道」つまり「天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄」という六つの世界を行ったり来たりして、生まれ変わり死に変わる、という考え方です。
 「業」とは、その人の考えたこと、話したこと、やったこと、の記録であり、「三業」ともいいます。
 「業」によって「輪廻」するのですから、「業」を持った「輪廻」の主体がなければなりません。つまり、「我」抜きに「輪廻」を説明するのは、非常に困難なことになります。
 
 この問題を解決したのが「空」のあとに出てきた「唯識論」です。「唯識論」によれば、「輪廻」の主体になるものは「識」であり、「阿頼耶識」すなわち「蔵識」とも呼ばれるように、「業」を記録する「記録装置」と捉えられます。
 「記録装置」ですから、「識」そのものには「自性」はなく、「業」が記録されて、初めてその機能を発揮します。つまり、「阿頼耶識」も「縁起」によって成り立っていることは、言うまでもありません。

 「唯識論」について、長老のように、何か非常に特殊な考え方のように捉えている人がいるようですが、ただ「五蘊」の機能を説明しただけ、と考えるべきです。
 「唯識論」によれば、ある存在や現象がどんな「縁起」であるか、つまり「空」論で言う「関係」は、どのようなものであるかは、客観的に決まっているわけではなく、体験する側や、観測する側によって違う、といいます。

 これは、少し考えてみれば、ごく当たり前のことと言えます。
 たとえば、「父と子」は「縁起」に依る関係であることは間違いありません。
 ところが、「父の父」は「子」から見れば「祖父」であり、「父」から見れば「父」ですから「関係」は同じではありません。
 日本の多くの家庭で「子」から見た「父」は、家中の誰からも「お父さん」と呼ばれ、「祖父」は「おじいちゃん」と呼ばれます。つまり、「子」から見た「祖父」や「祖母」までが、自分の「子」を「お父さん」と呼んだり、「父」から見れば自分の「父」なのに、「おじいちゃん」と呼んだりします。
 たまに、「子」から見た「母」が、子から見た「祖父」に対して「お父さん」などと呼ぶと、幼い「子」は混乱することがあります。
 つまり、あらゆる存在や現象は「縁起」に依る、といっても、「関係」は、その人の「立場」によって、つまり「認識」によって異なり、「認識」抜きにはどんな「縁起」かは決まりません。
 しかも、「概念」は「言語」に依存するものですから、あるものが何であるかは「名称」をつけないと判別できません。

 幼い「子」のいる家庭で、家族の呼び名が「子」を中心に決まっているのは、人間の「認識」の限界を表すものと考えることができます。
 つまり、人間が「現象」を「認識」できるのは、その「認識能力」の範囲内だけであり、かつ、何らかの「名称」なしには「現象」を「認識」することもできない、ということを象徴しています。
 あらゆる「現象」は、「感覚」から取り込まれたイメージが「概念」化し、何らかの「名称」によって、整理されて「認識」されます。「名称」によって「認識」された「現象」とは、「名色」であり、「名色」とは「関係」つまり「空」に他なりません。
 人間にとって、あるものが何であるかは「認識」で決まり、「認識」できるのは「名色」という「関係」に限られます。
 
 「唯識論」は、あまりに複雑化して少々脱線したところもありますが、「我」を排除して「輪廻」を説明し、かつ「空」論の足りないところを補い、現代の「認識論」や「量子力学」「宇宙論」などによって、その意義が再認識されています。

 長老に、つまり「上座部仏教」に言わせると、「唯識論」は「哲学にならない」のだそうです。はて「哲学」は良いことなのか、悪いことなのか、どちらなのでしょう。それはともかく、
 「有」→「空」→「識」という「仏教」の歴史は、お釈迦さまの提唱した「無我」と「輪廻」を両立させるための「哲学的」な苦闘の連続でした。
 「有」論を展開したのは「説一切有部」という、2千年も前に、「上座部」から分かれた「部派」の宗派であり、長老の言う「哲学化」の元凶というべき「部派」です。
 「有」論や「空」論の「哲学」のおかげで、「我」がないことが証明され、「唯識論」のおかげで、「輪廻」の主体、つまり「業」を貯える「識」という概念によって、「我」がなくても「輪廻」が有りうることが証明されました。

 それでは、この2千年余りの間、「上座部」は何をしていたのでしょうか。どんな理屈で「我」がなくても「輪廻」があることを証明できたのでしょうか。
 『般若心経は間違い?』のなかには、「輪廻」について論及している箇所が見つかりませんでしたので、同じく、スマナサーラ長老の著書『仏教は心の科学』という本から拾ってみます。


 そもそも仏教は「輪廻転生する絶対変わらない実体たる魂がある」という概念を断言的に否定しているのです。仏教は、「一切は無常で絶えず変化しつづけるから、またその変化が因縁によって起こるから、輪廻転生が成り立つのだ」というのです。仏教の立場では、すべてが無常でなければ輪廻転生はありえない。すべてが無常でなければ死後はありえないのです。
 因縁論に基づいてものごとを観察するならば、一つの現象が消えていく過程で別な現象が起こるのは当たり前の話です。因果論はすべての現象を説明する全体的な法則です。輪廻転生の概念はその普遍的な法則の一つです。輪廻転生も、無数の現象の中の一つにすぎないのです。だから仏教では「死後があるのだ。転生するのだ」とうるさく叫ばなくてもよいのです。輪廻転生は、常に起きている生滅変化している現象のなかの一つの現象にすぎないのですから。(アルボムッレ・スマナサーラ著『仏教は心の科学』宝島社 P.71)



 これで、「我」を抜きに「輪廻」を説明したことになるつもりでしょうか。こんなことで良いなら誰も苦労しません。
 「上座部仏教」は、「実在論者」や他派との論争を避け、ひたすら「仏陀の教え」だけを、内向きに、守ってきたのでしょうか。

 「輪廻」がひとつの「現象」にすぎないというなら、「輪廻」の前提である「我」も、「業」を引き継ぐという「現象」としては「存在」しうるということです。「現象」として「存在」するなら「空」であり「無」とはいえません。
 「無我」というなら、「現象」としても「我」は「存在」しえない筈であり、「輪廻」の主体が「我」でないこと、つまりどうやって「我」がなくても「業」を引き継ぐという「現象」が起きるのか、を説明しない限り、「我」を否定したことになりません。
 
 スマナサーラ長老の「上座部仏教」は、「ブッダの教え」だけを忠実に守っていると言いながら、「諸法無我」という、その最も基本とすべき「法」について、証明する努力は怠ってきたようです。
 「無我と輪廻」という、明らかな矛盾に、気づかなかったのか、それとも、目を瞑っているのかは知りません。
 しかし、「説一切有部」や「大乗仏教」が、「無我と輪廻」の「矛盾」を埋めるべく、やってきた努力に対し、「ブッダの禁じた哲学化」といって否定し、「矛盾」を放置してきた自分たちだけが「教え」を守った、というのです。

 スマナサーラ長老は、「他人の牛を数え」ているヒマがあったら、ただちに「輪廻」の主体が「我」でないこと、つまり、「業」を引き継ぐものが何であるかを説明するべきです。
 さもなければ「諸法無我」の看板を降ろさなければなりません。 
 

 あまり大乗仏教ばかり批判するのもフェアではないので、一つテーラワーダ仏教の「弱み」というか、面白いエピソードを紹介します。
 テーラワーダ仏教には、大乗仏教と同じように、遠い未来に現れるブッダである弥勒仏(現在は弥勒菩薩)の教えがあります。
 そこでは、「現代のお釈迦さまは智慧を中心に教えを説かれたけれど、未来に現れる弥勒仏陀は慈悲を中心に説かれるのだ」と語られています。こういう伝説の裏には、「お釈迦さまの教えはすごいけど、知識的過ぎてたいへんだなぁ」という仏教徒の気持ちが反映されているかもしれません。(P.147〜148)


 別に「弥勒仏」の話を、「伝説」として持ち出すまでもなく、「阿含経」に拠れば、ブッダは自分の過去世について「三十六回天帝釈となり、また数千回、転輪聖王となり、四天下を領地とし、正しい法によって統治し莫大な財力があった。千人の子供があって、皆勇敢で健康であった」などと語っております。
 その他にも「輪廻転生」を「事実」として語る記述は多数あり、ある家で飼われている犬の前世が、その家の主人の父親だと見抜いた話だとか、相当に支離滅裂なことが「阿含経」には記されています。
 これらがすべて、何かの「喩え」だと考えるにしても、「他人の牛を数える」のように、行われている解釈が、必ずしも正しいものとは限らず、「初期経典」に忠実だということが、「価値」はともかく、どれほどの意義があるのか、疑問を持つのも仕方がないのではないでしょうか。

 ともかく、「経典」を信じるなら、ブッダ自身が「過去世」とか「輪廻」は、はっきり認めているのですから、まずやるべきことは、「我」がなくても「輪廻」の主体があることを証明しなくてはいけません。



<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外

 

エッ!「空即是色」は間違い? 2007-02-04

『般若心経』−漢訳とサンスクリットの違い 三蔵法師が漢訳した現存最古の般若心経発見

 

『般若心経は間違い?』の間違い(一) 空即是色 般若心経を理解する 2007-09-11

『般若心経は間違い?』の間違い(二)照見は明らかにして見せること

『般若心経は間違い?』の間違い(三)Apple is a fruit.

『般若心経は間違い?』の間違い(四)無我=空なら色=無我

『般若心経は間違い?』の間違い(五)「空」を悟れば「苦」が消える

『般若心経は間違い?』の間違い(六) 法=規範と記述

『般若心経は間違い?』の間違い(七) 中村元さんの間違い?

『般若心経は間違い?』の間違い(八)

『般若心経は間違い?』の間違い(九)龍樹「一切皆空」のパラドクス

『般若心経は間違い?』の間違い(十) 中観(一切皆空)と般若心経(五蘊皆空) 

『般若心経は間違い?』の間違い(十一)空即是色という呪文

『般若心経は間違い?』の間違い(十二) 悟りのイメージと効用

『般若心経は間違い?』の間違い(十三) 竜樹の「空」と般若心経の違い

『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻

『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外 2007-10-31

『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その2 10年経っても反論できない? 2007-10-31

 

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『西遊記』でおなじみの、玄奘三蔵法師は、7世紀、唐からインドに取経して、多くの経典を漢語訳し、なかでも、『般若心経』は、大乗仏典の精華と言うくらい名訳とされています。しかし、よく理解されているか、と言えば、実はあまりよく理解されていません。

なかでも、「色即是空、空即是色」という『般若心経』のなかの最も重要な文章は、最も有名であるにも関わらず、理解される、というには程遠いのが現状です。

 なかには、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、などと、頓珍漢なことを言い出す人たちも現れましたが、『般若心経』を信奉してきたはずの、日本の仏教者たちは、満足な批判を加えることさえできません。

十八世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」と述べました。この発言は当時から、批判されるばかりで、今でもあまり理解されていません。

ヘーゲルの言う「理性」は、仏教では「分別」と言いますが、ヘーゲルの言うような理想的なものとは捉えておらず、「分別」こそが「苦」の原因であるとします。

 「色即是空、空即是色」をヘーゲル風に言い換えると、「現実と見えるものは分別されたものであり、分別されたものは現実と見えるものである」ということになります。つまり、自分が「分別」して「現実」と見えるものを、そのまま「現実」と思い込むから、「苦」が生ずるのです。

 2世紀、インドの仏教者、竜樹は、「一切は空である」と、述べましたが、本人も論じているように、「すべてが空」では、矛盾が生ずることがあります。 

 その点、「唯識」仏教(法相宗)の大家である玄奘三蔵訳『般若心経』では、「一切が空」とは言わず、「五蘊皆空」と述べており、竜樹のような矛盾が生じません。

 「唯識」レベルで書かれた経典である玄奘訳『般若心経』を「空」論のレベルで理解しようとすることには無理があり、最低でも「唯識」レベル、できれば「密教」のレベルで、つまりは「唯識」論を踏まえた上で、あらゆる知識を総動員して「緊密」に読み解くことが必要です。

「密教」の「密」とは、「緊密」のことであり、「秘密」という意味ではありません。

 『般若心経』の「空」は、ヘーゲルの「疎外」と似ていますが、むしろ、マルクスの「疎外」と等しいものであることを、本書をお読みいただければ、お解りいただけるかと思います。

 

  2021年 辛丑               掛川東海金

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