十二因縁で「私はどうすればいいか」が明確にわかります。・・・・こういう存在の分析はブッダしかやっていないのですから、人間が知るはずもありません。・・・・・・・
十二因縁は生起論と滅尽論がセットです。無明がなくなれば行もなくなる、行がなくなれば識もなくなるー、という滅尽論もあるのです。これによって、私という存在が、苦しみの世界から脱出して解脱に達する道筋が明らかになったのです。(P.78)
「人間が知るはずもありません」というのも驚くべき発言ですが・・・
スマナサーラ長老の捉え方では、「十二縁起」は、一人の人間が生まれてから死ぬまでのようになっています。
すると、「無明」が無くなれば、「行」も「識」も無くなる、というのは、ただ「生まれてこなければよかった」と言っているようなものです。
“十二因縁で「私はどうすればいいか」が明確にわかります”と言いますが、さっぱりわかりません。
すると、人間は「現在三因」の「愛、取、有」、つまり欲望の部分だけを何とかすれば、「未来二果」を残さずに済むようになるはずです。
この見方では、「現在三因」は次の世代にとっての「過去二因」、という捉え方になっており、だからこそ「因縁」と言えるはずです。
しかし、そのあたりは、ただ解釈の違いであり、「十二縁起」とは、「縁起」という「思想」でまとめられた、十二段階の「概念」であることは、異論がない筈です。
ところが、スマナサーラ長老はじめ、仏教徒のなかには異論があるようで、お釈迦様の説いた「法」は、「実在」する「真理」とされているようです。
「法」には「記述としての法」つまり「存在や現象」という意義と、「規範としての法」つまり「理念」という意義があります。
「十二処」「十八界」「十二縁起」などの「法」は、「規範としての法」であり、いくらお釈迦様の説いた「真理」である、と主張したところで、「実在する法」であるというような考え方は、ただ「信仰」でしかありません。
仏陀は、「私(仏陀)の言っていることを疑いなさい。自分を拠り所としなさい。自分自身も疑いなさい」と説いたとされています。すると、仏教徒なら必ず、「お釈迦様の説いた真理」を疑い、自分の信仰を疑い、葛藤しなければならないことになりますが、長老の言説には、それが見当たりません。
ただし、「すべてを疑え」というのは、仏教の専売特許という訳ではありませんし、一生疑い続るとは限りませんから、「仏陀を疑う人=仏陀を信ずる人」というわけではありません。ただ、「仏陀の教えを疑ったことの無い人は、仏陀の教えを信ずる人とは言えない」とは言えるでしょう。
「四聖諦」は「苦諦・集諦・滅諦・道諦」から成る、「存在とは何か」についての説明です。・・・・・・ブッダが言うのは・・・・・「どこにも実体のないことを発見しなさい。悩む自分も実体がないことに気づきなさい」・・・・空だけを取り上げて、哲学的に厳密に空の哲学思想体系を作る必要はないのです。
(P.79〜81)
「四聖諦」にも「自性」はなく、「絶対的な存在」ではないことも間違いはありません。
しかも、「四聖諦」は「規範としての法」であり、「記述としての法」つまり「存在や現象」そのものではありません。
「苦」も現象には違いありませんが、「四聖諦」の「苦」は「苦」という「概念」であり、「苦」そのものではありません。
お釈迦様は「一切皆苦」と説かれたと言いますが、もし「苦」が絶対で、万物は「苦」という「自性」を持って生まれてくる、とするなら、「苦」はすなわち「我」であり、「我」を認めることになってしまいます。
「四聖諦」によれば「苦」には「八苦」があり、その原因は「五蘊」に帰するといいます。また「苦」を無くすには「滅諦」と「道諦」という方法があります。
「五蘊皆空」ですから、「苦」もまた「空」であることは当然です。
仏陀の教えと言えども、「もともと実体はなく」、「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」のような、「哲学的思想体系」を作っても、そこに「実体があると勘違いするから執着するのです」、そして「仏陀の真理」などという、ドグマ(教条)に転化するようになるのです。
「人間にはお釈迦さまの分析は難しい」、つまり、当時としては優れた理論だったとしても、現代の水準から見れば、普通の人間の考えた「古代哲学」でしかなく、「科学的なありのままの分析、事実」というなら、否定されても仕方がありません。「そこでレトリックを駆使して矛盾無く語れたとしても、ただの無駄話になることは避けられないのです」
「智」や「悟り」も、「得」ようとすれば「執着」が生まれ、むしろ「苦」の原因になってしまいます。
「智慧」も「悟り」も「仏陀」も例外なく、「実体」のあるものではなく「空」でしかないと知らなければなりません。
「諸行無常、諸法無我」は仏教の根本であり、長老の言うとおり、「空」とは「無常」と「無我」を「哲学的に」徹底させた考え方というべきです。
「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などの、当時としてはすぐれた「概念」も、「実在する法」つまり「実有」だと主張するから、「色即是空、空即是色」の立場から見れば、「常」や「我」を認めるものに間違いなく、「無」と否定したと考えるべきです。
『般若心経』の成立年代は明らかにされていませんが、インドで「説一切有部」が仏教の主流だった当事に、書かれたか伝承されたことは間違いないでしょう。経典としては非常に短い上に、自らを「呪文」であると言っているし、古いテキストが残っていないことからも、最初は口伝だけだった可能性もあります。
『般若心経』が「無」とするものは「説一切有部」の教理、すなわち「有」にあり、『般若心経』を批判するスマナサーラ長老の立場が、「説一切有部」と近いのか遠いのか、それすらも曖昧なために、あまり噛み合っていません。
宗教に興味を持つ人は、何かしら苦しんでいるのです。だから宗教は、苦しみに対する答えを出さないといけないのです。「そんな苦しみなんかないんだよ」と言っても、それは答えになりません。だから私の批判しているところは、「空論を語るのはかまわないけれど、語ると、私たち一人ひとりがどうするべきか、ということが言えなくなってしまうではないか」ということです。
・・・・・『般若心経』ではどこまでも、観念を回転させて、結局、修行も道徳も成り立たないところまで脱線してしまいました。・・・・・話の内容がいくら緻密であっても、道徳が成り立たないような結論に至るならば、お釈迦様はそれを「邪見」の類に入れるのです。(P.81〜82)
日本に「阿含宗」という宗教団体があり、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によりますと、
阿含宗(あごんしゅう)は、桐山靖雄(きりやませいゆう)により1978年(昭和53年)4月8日に創設された仏教系の新興宗教。 毎年2月11日、「炎の祭典・阿含の星まつり」という後期大乗仏教の密教に由来する山岳修験道の儀式である護摩儀式の一種大柴燈護摩供を京都花山にて開催することでも知られる。・・・
阿含はゴータマ・ブッダ=釈迦が直接説いた内容をまとめた唯一の教典である、阿含経(アーガマ)を依経とすることを自称したことから名付けられた。スリランカより贈与された「真正仏舎利」(釈迦のご遺骨)を本尊とする。・・・・・・・・・
初期には桐山の念力で護摩木に火を点けるという「念力護摩」が話題になった。桐山は、阿含経の「七科三十七道品」の修行の過程で、釈迦の瞑想法であるクンダリニーヨーガによりチャクラの開発に成功した結果であるとしている。・・・・・。オウム真理教(現アーレフ)が引き起こしたとされる一連の事件が問題になった際、同教団の古参信者の中にかつては阿含宗の信者だった人がいたことが話題になった。・・・・・・・・・・
スリランカでは、経済的困難で教育が受けられない学生への奨学金の授与を十数年間続けてきており、奨学金を受けた学生は1000人を超え、多くの学生を支援しているという。・・・・・
1986年(昭和61年)スリランカジャヤワルデネ大統領より真正仏舎利拝受
~と、いうことになっております。
かつて、私たちの中にも、「阿含宗」に入信して、全財産を寄付し、「苦しみ」から救われた(?)人がいますが、一文無しになったところで、脱会してしまいました。
あのお金は、スリランカの学生たちのために使われているのかも知れませんが、「真正仏舎利」は、それらの資金援助への「対価」だったのでしょうか?
もし、スリランカの「真正仏舎利」が無かったら、全財産を寄付するほどまでには「信仰」しなかったかも知れません。
スリランカでは、「上座部仏教」が「国教」に順ずる扱いで、この近年は、少数のヒンドゥー教徒やイスラム教徒に対する、差別や迫害、テロ行為、反発する少数民族側からの自爆テロなどと打ち続く紛争が、大きな問題になっています。
「阿含宗」の「真正仏舎利」が、仏教者ではなく、スリランカ大統領から授与された、というところも、スリランカ仏教の事情を物語るものなのでしょう。
スマナサーラ長老は、「道徳」と言いますが、それなら「道徳」の基準を示すことも必要です。
スリランカ・テーラワーダ仏教の「実践」は、スリランカと日本の人々の「苦しみ」をどのように救うのでしょうか。
『般若心経は間違い?』の間違い(一)
『般若心経は間違い?』の間違い(二)
『般若心経は間違い?』の間違い(三)
『般若心経は間違い?』の間違い(四)
『般若心経は間違い?』の間違い(五)
『般若心経は間違い?』の間違い(六)
『般若心経は間違い?』の間違い(七)
『般若心経は間違い?』の間違い(八) 密教と記号類型学
『般若心経は間違い?』の間違い(九)龍樹「一切皆空」のパラドクス
『般若心経は間違い?』の間違い(十) 中観(一切皆空)と般若心経(五蘊皆空)
照見!『般若心経は間違い?』の間違い(十一)
『般若心経は間違い?』の間違い(十二) 悟りのイメージと効用
『般若心経は間違い?』の間違い(十三) 竜樹の「空」と般若心経の違い
『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻
『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外
『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その2 10年経っても反論できない?
2021-07-19
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密教秘伝
般若心経
《空と疎外》
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序言
『西遊記』でおなじみの、玄奘三蔵法師は、7世紀、唐からインドに取経して、多くの経典を漢語訳し、なかでも、『般若心経』は、大乗仏典の精華と言うくらい名訳とされています。しかし、よく理解されているか、と言えば、実はあまりよく理解されていません。
なかでも、「色即是空、空即是色」という『般若心経』のなかの最も重要な文章は、最も有名であるにも関わらず、理解される、というには程遠いのが現状です。
なかには、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、などと、頓珍漢なことを言い出す人たちも現れましたが、『般若心経』を信奉してきたはずの、日本の仏教者たちは、満足な批判を加えることさえできません。
十八世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」と述べました。この発言は当時から、批判されるばかりで、今でもあまり理解されていません。
ヘーゲルの言う「理性」は、仏教では「分別」と言いますが、ヘーゲルの言うような理想的なものとは捉えておらず、「分別」こそが「苦」の原因であるとします。
「色即是空、空即是色」をヘーゲル風に言い換えると、「現実と見えるものは分別されたものであり、分別されたものは現実と見えるものである」ということになります。つまり、自分が「分別」して「現実」と見えるものを、そのまま「現実」と思い込むから、「苦」が生ずるのです。
2世紀、インドの仏教者、竜樹は、「一切は空である」と、述べましたが、本人も論じているように、「すべてが空」では、矛盾が生ずることがあります。
その点、「唯識」仏教(法相宗)の大家である玄奘三蔵訳『般若心経』では、「一切が空」とは言わず、「五蘊皆空」と述べており、竜樹のような矛盾が生じません。
「唯識」レベルで書かれた経典である玄奘訳『般若心経』を「空」論のレベルで理解しようとすることには無理があり、最低でも「唯識」レベル、できれば「密教」のレベルで、つまりは「唯識」論を踏まえた上で、あらゆる知識を総動員して「緊密」に読み解くことが必要です。
「密教」の「密」とは、「緊密」のことであり、「秘密」という意味ではありません。
『般若心経』の「空」は、ヘーゲルの「疎外」と似ていますが、むしろ、マルクスの「疎外」と等しいものであることを、本書をお読みいただければ、お解りいただけるかと思います。
2021年 辛丑 掛川東海金
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張明澄師 南華密教講座 DVD 有空識密 智慧と覚悟
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