明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

プチっと・マドレーヌ? 篠沢教授に全部!訳して欲しかったプルースト その2 幻身=『南華密教・功法入門』より 

2024年08月08日 | 仏教

この記事は、

篠沢教授に全部!訳して欲しかったプルースト 出だしから躓いた「失われた時」

の続編です。クイズダービーと篠沢教授のお話は、上にありますのでクリックしてお読みください。

 

或る冬の日、家に帰って来た私の寒そうなのを見て、少し紅茶を飲む様に、とママが言い、何時もの私の習慣に反するので初めは断ったのだが、何故か私は思い直して其の薦めに応じ、ママは、帆立貝の殻を型にした様な溝の付いた、小ぶりでふっくらとした〈プチッ・マドレーヌ〉と呼ばれる、お菓子を持って来させた、そして私は、鬱陶しかった今日一日と、明日も陰欝な日だろう、と言う予測に辟易とし乍ら、何かを期待する事も無い侭に、マドレーヌの一切れを浸した紅茶を、スプーンで口に運んだ。お菓子の欠片の混じった一口の紅茶が、口蓋に触れた瞬間、私の中に起こって居る異常な事態に気付いて、思わず身震いした、素晴らしい快感が私を襲ったのだ。其れは、脈絡も無く原因も解らない快感で有り、人生の苦難を忘れ、災厄は無害で有り、人生の短さなど錯覚に過ぎない、と思わせた、まるで恋愛の働きと同じ様に、何か貴重な本質で私を満たした、其の本質は、私の中に在る、と言うよりは、私自身=私そのものだった、と言うべきだろう。

 

上記は、有名な「紅茶に浸したマドレーヌ」の描写であり、あまりプルーストを読んでいない人にもよく知られたエピソードです。

いくつかの翻訳では「プチット・マドレーヌ」という表記が見られ、これは菓子店で売られる商品名のようですが、" Petite Madeleine " が、「プチット・マドレーヌ」と読めるかどうか、私には「プチっと・マドレーヌ」と聞こえてしまうのですが、いかがなものでしょうか。

Wikiを見ても、プチ、プティ (petit) は、フランス語小さいという意味。

と書かれており、今時の女子高生などが「プチ家出」などと言った使い方をするようですし、『失われた時を求めて』が初めて訳された時代でも、「プチ・ブルジョワジー」などの使い方は知られていたはずです。

試しに、グーグル翻訳で調べてみますと

https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ja&tl=fr&text=プチット・マドレーヌ&op=translate

リンク先の、スピーカーマークをクリックすると、Petite Madeleine の音声が再生されます。

私の耳には、「プチッッ・マドレーヌ」 

つまり「ト」が抜けたように聞こえます。

日本の若い女性なら、誰でも「プチ・マドレーヌ」と言いそうですが、

最新の、高遠弘美訳でも、「プチット・マドレーヌ」と表記されており、

この人もお爺さんなのでしょうか。 

「クイズダービー」でおなじみの、篠沢教授は、フランス語の発音の素晴らしさでも、よく知られた方で、番組内で披露されたこともありました。

篠沢教授が『失われた時を求めて』を訳してくれていたら、「プチット・マドレーヌ」という表記は、違ったものになったのではないかと思えます。

あらためまして、

篠沢教授に全部!

訳して欲しかった。

と、今更言っても仕方が無いので、自分で訳すことにしました。

 

 長い間に亘り、夜中に目を醒まして、コンブレーの事を追想して居た時、浮かんだイメージは、濃い闇の中に、切り取られた断面でしかなく、煌めき燃えるベンガル花火か、電気の照明の様な光が建物に反射し、他の部分は夜の闇に沈んだ侭で有り乍ら、或る壁面だけが光って居る、恰も光で出来た建物の様な、其の広い底面には、小さなサロン、食堂、そうとも知らず私に悲しみを演出して呉れたスワン氏が入って来る暗い小道、其れに続く玄関ホールから、寝室へ昇る、残酷に聳びえる階段は、其れだけで、此の歪んだピラミッドの狭い胴体を形成し、其のピラミッドの頂点に、私の寝室が有り、其の寝室には、ママが入って来る為の、ガラスの嵌ったドアの有る、小さな廊下が付いて居て、一言で言うなら、何時も同じ時刻の場面で、周囲に有った筈の全ての物から孤立し、其れだけが暗闇に浮き出して居た舞台装置、私が演じる着替えのドラマに必要な(例えば古い戯曲の冒頭に、地方公演用と指示されて居る様な)最小限度の舞台装置で有って、恰も、コンブレーとは、狭い階段で繋がれた、二つのフロアだけでしか無く、夕方の七時だけに存在したかの様に。本当を言えば、私に詰問する人には、答えたかもしれない、コンブレーは、未だ他の物を含んで居たし、他の時刻にも存在して居たと。然し、そう言う物から、私が何かを思い出したとしても、其れは意志的な。記憶、理知の記憶に依って齎たらされた物に過ぎないだろうし、そんな記憶が与える過去の情報は、過去の何物をも保存して居ないから、私としては、そんな残骸の様なコンブレーの事など、考えて見る気にも為らなかった。そうした残骸は、既に死んで了ったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 吾々の過去も、其の様な物で有る。過去を思い出そうと努めるのは、無駄な労力で有り、吾々の理知に依る凡ゆる努力は無意味なのだ。

過去は吾々の理知の領域の外に有り、理知の及ばない所で、思いも懸けない物事の中に(そんな物事が与えて呉れる感覚の中に)隠されて居る。吾々が死ぬ前に、其の様な物事に出会うか、出会わないかは、唯だ偶然に依るのだ。

コンブレーに於ける、就寝のドラマと舞台装置、其れ以外の物が全て存在しなく為って以来、既に多くの年月を経て居た、或る冬の日、家に帰って来た私の寒そうなのを見て、少し紅茶を飲む様に、とママが言い、何時もの私の習慣に反するので初めは断ったのだが、何故か私は思い直して其の薦めに応じ、ママは、帆立貝の殻を型にした様な溝の付いた、小ぶりでふっくらとした〈プチッ・マドレーヌ〉と呼ばれる、お菓子を持って来させた、そして私は、鬱陶しかった今日一日と、明日も陰欝な日だろう、と言う予測に辟易とし乍ら、何かを期待する事も無い侭に、マドレーヌの一切れを浸した紅茶を、スプーンで口に運んだ。お菓子の欠片の混じった一口の紅茶が、口蓋に触れた瞬間、私の中に起こって居る異常な事態に気付いて、思わず身震いした、素晴らしい快感が私を襲ったのだ。其れは、脈絡も無く原因も解らない快感で有り、人生の苦難を忘れ、災厄は無害で有り、人生の短さなど錯覚に過ぎない、と思わせた、まるで恋愛の働きと同じ様に、何か貴重な本質で私を満たした、其の本質は、私の中に在る、と言うよりは、私自身=私そのものだった、と言うべきだろう。

 私は、私自身を、類型的で、偶発的で、死す可き存在(単なる生命体)、とは、最早、感じ無く為って居た。此の力強い歓喜は、何処から来たのか? 其れは、紅茶とお菓子の味に繋がっては居るのだが、其れを遙かに超えて居り、同じ性質のものでは有り得ない、と私は感じた。ならば其れは何処から来たのか? 何を意味して居たのか? 何処で把握するのか? 私は、二口目を飲む、其処には一口目以上のものは何も見出されない、三口目は、二口目よりも更に少ないものしか齎たらさ無い、此処で止めるべきだ、紅茶の効力は、はっきりと衰え、私が求める真実は、紅茶の中には無く、私の中に在るのは明らかだった。紅茶は、私の中に真実を呼び起こしたが、其の真実が何者で有るかは知らず、次第に其の力を弱め乍ら、同じ証言を繰り返し、私は其れを解明する方法を知らなかった。せめて其の証言を、もう一度、紅茶に求める事が出来たら、と思い、また其の証言を最初の通りに再現して、決定的な解明に役立つ様にする事が出来たら、と思うのだ。

 

『失われた時を求めて』の中でも、特に有名な「マドレーヌ」の記述です。

人間は、普段の生活における自分の記憶が、認識のすべてだ、と思いがちですが、実は「紅茶に浸したマドレーヌ」のような、なんでもない事柄に出会って、忘れかけていた大きな記憶を思い出したりする、可能性が秘められているものです。

 

 

チベット密教のカギュ派南華密教には、

幻身」という功法があり、プルーストのように「認識と記憶」を解析するルートを、誰でも合理的にたどり、「悟り」に導く方法を示しています。

 

 

以下、『密教秘伝・功法入門』(掛川東海金著・張明澄記念館)より抜粋

仏教に限らず、西洋でも同様で、

ドイツの大哲学者ヘーゲルは、

理性的ものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と述べています。

ヘーゲルの言う「理性」とは、仏教で言う「分別」のことであり、

「自他の分別」と、ヘーゲルの「自己疎外」とが、ピタリと一致する概念と言えます。

 少し違うのは、ヘーゲルの言う「理性」は、非常に肯定的な表現であるのに、

仏教でいう「分別」は、非常に否定的な表現になっていることです。

ところが、ヘーゲル学派から出た、マルクスの言う「疎外」は、「疎外された労働」と言うように、否定的な概念であり、仏教の言う「分別」や「空」や「苦」という概念に、非常に近いものになっている上に、「疎外」の克服によって、人間の幸福を実現する、という共通性も持っています。

仏教は、「悟り」によって、「苦」即ち「疎外」を克服しようとするから、平和的な思想で、マルクスは、「革命」によって実現しようとする、暴力的な思想だ、などという誤解もあるようですが、これもまた「幻」であり、実際には、チベットで仏教が国家を乗っ取ったように、あらゆる思想や宗教(民主主義、自由主義、平和主義、博愛主義なども含む)は、権力を握って、何かを実現しようとするものです。

 

そのほか、構造主義の認識論や、ホーキングの宇宙論など、

いずれも人間の認識には限界があり、

人間が「見た」「聞いた」「嗅いだ」「感じた」などと思っているものは、

いずれも、ものごとのある一面に過ぎず、

「分別」や「理性」によって、「客観的事実」などと思い込むだけで、

人間が、現象や存在の、あるがままを認識することは、

不可能であることを示唆しています。

 よく言われるように、

人は見たいものしか見ない、とか、見たくないものばかり見てしまう、   

 というのも、人間の認識の限界を表わすものです。

 

ところが、あらゆる存在や現象という「幻」には、何らかの根拠があるもので、その根拠を見ることができれば、より正しい認識に近づくことができます。

認識が正しければ、

知っている通りに行動することができるようになり(知行合一)

すなわち、「智慧」と「悟り」に達することができます。

「幻身」の功法は、そのためのものです。

 

  瞑想

「幻身」の功法は、「瞑想」によって「自己」の「幻身」をたどることから始まります。   

 

〇清心瞑想

静坐して、親指を除く、左右の4本の指を組んで親指を合わせ、

静かに丹田の前に置き、目を閉じます。

鼻から深く息を吸い込み、吸った息を、腹部まで降ろし、

少し息を止め、口から息を吐きだします。これを二回繰り返し、

次は、普通の呼吸に戻します。       

あらゆる雑念を持たず、雑念を取り払いもせず、取りあわず、

ひたすら自分の呼吸を観察します。 

次にまた、鼻から深く息を吸い込み、吸った息を、腹部まで降ろし、

少し息を止め、口から息を吐きだします。これを二回繰り返し、

普通の呼吸に戻し、呼吸を観察し、雑念を無視し、心を静かに休めます。

 心が静かになったら、  

できるだけ幼少のころまで遡り、今までに、自分がした、良いこと、悪いこと、

失敗したこと、よくやったと思うこと、恐かったこと、人を傷つけたこと、

傷つけられたこと、などを、次々と走馬灯のように、思い浮かべ、

それらのことを行った自分は、どのような人間か、どの程度の人間か、

自分にはどの程度のことができるのか、などについて、見極めて、

自分の人生と、才能や人柄などについて、しっかりと確認します。

悪いこと、善いこと、過大評価も過小評価もせず、ありのままに見つめてください。

 

人間にとって最初の「幻」は「自己」であり、

「自己」とは、「自他の分別」つまり「自己疎外」によって生じたものです。

「自己疎外」の始まりは、赤ちゃんが、「ママ」とか「パパ」とか、

言葉を発し始めた時と言えますが、

初めて言葉を話した時の記憶など、誰も覚えていないかもしれません。

それでも、思い出せる限り思い出して、

「自己」という「幻」のルーツを探しあてるようにします。

 

 

 空観

 あるものごとが存在するようになったり、存在しなくなったりするのは、

他のものごととの「関係」に依るものです。   

 「関係」が変わってしまえば、存在や現象も変化してしまうもので、

 存在や現象というものは、確かなものでは有りません。

    

 〇般若心経

 

 色不異空  色は空に異ならず

 空不異色  空は色に異ならず

 色即是空  色は則ち是れ空

 空即是色  空は則ち是れ空

 受想行識  受想行識

 亦復如是  亦復た是れの如し

 

感覚で感知できる存在や現象は、すべて関係(の認識)に他ならないし、関係もまたすべてが存在や現象と違いません。

存在や現象は関係であり、関係は存在や現象であるのです。

これと同じように、感覚による情報の取り入れ、情報によって生ずるイメージ、自分の言動を決定するエネルギー、一生の思考と言動の記録、これらもみな関係(を認識すること)でしかありません。     

 

 〇『金剛経』  

仏告須菩提    仏が須菩提に告げるは

凡所有相皆是虚妄 凡そ所有の相は皆是れ虚妄

若見諸相非相。  若し緒相の相に非ざるを見れば

則見如来。    則ち如来を見る      

お釈迦様が須菩提に告げて言います。

あらゆるすべての相(形のある存在や現象)というものは、すべて虚しくて間違いです。

もしも、あらゆる相を見て、その相に囚われない判断ができれば、如来を見ることができるようになります。

 

若心取相      若し心が相を取れば

則爲著我人衆生壽者 則ち我人衆生壽者を著すと為す

若取法相      若し法相を取れば

即著我人衆生壽者  即ち我人衆生壽者を著す

心の中で、相(見かけ、存在感)というものを採用したなら、我相(自己)と人相(他者)、衆生相(大衆)と寿者相(エリート)に、囚われていることになるからです。

 何故かと言うと、もし、存在感のなさに囚われていたら、我相と人相、衆生相と寿者相に、囚われていることになるからです。

                

 つまり、『金剛経』の言わんとするところは、あらゆる存在や現象は、実体の無い「幻」であり、「自己と他者」、「大衆とエリート」、などといった「分別」も全く当てにならないもので、そのような「分別」に囚われてはならない。というものです。

 「自己」という存在も、「幻」であり、「分別」による思い込みに過ぎないのです。

 

 

※「真性境」は「本性境」とも言います。

プルースト・雨の描写に見る 本性境=大手印・認識の構造 『南華密教・功法入門』

プルーストの思索は、密教の考え方に近いものがあります。

--------------------------------------

だが、私たちは、無意味としか思われない生活上のあれこれの事柄から見た場合ですら、受注条件明細書や遺言書のように、誰が見ても同じであとはただ各自が目を通せば内容がわかるといったたぐいの、物質的に構成された単純な一個体として存在しているのではない。私たちの社会的人格は、他人の思考によって作り出されたものだ。私たちが「知っている人に会う」と表現する、ごく単純明快な行為でさえ、ある部分では理知的な行為である。

『失われた時を求めて』(電子書籍版・光文社・高遠弘美訳)より

-------------------------------------

 

 

別義幻身―――参禅 

 修本尊身

 対生本尊

 本尊鏡映・自身鏡映・自尊合映     

自生本尊

 自身鏡映・本尊鏡映・自尊合映

 

密義幻身―修密

 堅固増長  大日如来が無限に膨張・縮小

 色相即本尊 物理(エネルギーの法則)=仏理(仏教的法則)  

 声音即真言 聞いた言葉はすべて真言になる                 

 妄念即法性 思いついたことは何でも真理かもしれない  

 

識義幻身―――仏胎

 静慮法

持気静慮法     征魔天・吉祥天・弁財天・明妃

後滅静慮法

 世間化入有情 世の中のすべてが動物に例えられる。車=市虎、二輪=狂犬等

 有情化入自己  動物を手本にする。象、狼、犀、犬、猫、虎、等

 自己化入諸天  征魔天・吉祥天・弁財天・明妃

 諸天化入艷花  諸天が艷な花に変る

          

序義幻身

十二幻喩――分かりやすい「幻」の例 

 1、幻人----幻としての人。自己・他者。英雄、偶像。単なる誤解だけではない。   

 2、水月----水中月。反射。

 3、色彩----光線、色温度、反射率。

 4、陽炎----温度、湿度、空気レンズ。蜃気楼。

 5、夢境----夢と現実が不可分。

 6、音楽----音がつながって聞こえる。

 7、谷響----こだま。

 8、雲彩----水蒸気が結露して浮遊。

 9、虹霓----光と小雨、スペクトル分解。

10、雷電----稲光。静電気。

11、沤流----水の流れ。水がつながって見える。

12、鏡景----鏡に映った景色。

 

 共義幻身

瞑想

  静坐して、親指を除く、左右の4本の指を組んで親指を合わせ、

静かに丹田の前に置き、目を閉じます。

鼻から深く息を吸い込み、吸った息を、腹部まで降ろし、

少し息を止め、口から息を吐きだします。これを二回繰り返し、

次は、普通の呼吸に戻します。       

   あらゆる雑念を持たず、雑念を取り払いもせず、取りあわず、

ひたすら自分の呼吸を観察します。 

次にまた、鼻から深く息を吸い込み、吸った息を、腹部まで降ろし、

少し息を止め、口から息を吐きだします。これを二回繰り返し、

普通の呼吸に戻し、呼吸を観察し、雑念を無視し、心を静かに休めます。

   心が静かになったら、  

できるだけ幼少のころまで遡り、今までに、自分がした、良いこと、悪いこと、

失敗したこと、よくやったと思うこと、恐かったこと、人を傷つけたこと、

傷つけられたこと、などを、思い浮かべます。

 幼稚園に入園前のこと 

 幼稚園に入園したときのこと

 幼稚園のときあったこと

 小学校入学前のこと

 小学校に入学したときのこと

 小学校一年の担任の先生のこと

 小学校一年の同級生のこと

 小学校二年、三年、四年、五年、六年のときの

 担任の先生や、同級生との関係、できごと

 中学校入学前のこと

 中学校に入学したときのこと

 中学校一年の担任の先生のこと

 中学校一年の同級生のこと

 中学校二年、三年のときのこと

 高校入学試験のこと

 高校入学のこと

 高校生活のこと

 高校卒業ころのこと

 

 次に、

元に戻って、

幼いとき、誰にどんなことを言ったことがあるか、

何を考えたことがあるか、

できるだけ思い出します。

最後に、

そのようなことを言い、

そのようなことを行い、

そのようなことを考えた、自分について、

どう思うのか、

誇らしいのか、恥ずかしいのか、自己嫌悪か、

じっくりと考えます。 

仕事をするようになってから、

どんなことを言ったか、

どんなことを行ったか、

どんなことを考えたか、

同じように、思い浮かべ、自分についてどう思うのか、

じっくり考えます。

  

 次に、

異性との出会い、

異性との関係、

良かったこと、良くなかったこと、

異性との別れ、別れなかったこと、

何故別れたのか、別れなかったのか、

一人一人の異性との、

出会い、関係、

良かったこと、悪かったこと、

別れたこと、別れなかったこと、

覚えている限り、

何人でも思い出します。

 

対生本尊

静坐して、親指を除く、左右の4本の指を組んで親指を合わせ、

静かに丹田の前に置き、目を閉じます。

鼻から深く息を吸い込み、吸った息を、腹部まで降ろし、

少し息を止め、口から息を吐きだします。これを二回繰り返し、

普通の呼吸に戻し、呼吸を観察し、雑念を無視し、心を静かに休めます。

   

心が静かになったら、観想を始めます。

  

二面の鏡が向かい合わせにあり、

大日如来(本尊)の像を、互いに映し合い、

はっきりと、鮮明に、万華鏡のように、

数え切れないくらい、無限に映りこんでいます

像がだんだんと、白く薄くなってきます

ついに何の像だか、わからなくなります  

また像が見えるようになります。

だんだん鮮明になり、無限に映り込んでいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

もし、プルースト が、この「幻身」の方法を知っていたら、

あんなに苦悩することは無かったかも知れませんしれません。

その代り、私たちは、この大傑作を読むことができなかったでしょうから、

どちらが良かった、とまでは言えません。

 

--------------------------------------

 
新刊・販売開始!         
 南華密教
功法入門  
カラー図版多数掲載
   
 掛川東海金著  
売価22,000円(税込)  
張明澄記念館
 
 
 
 
*張明澄記念館・販売サイト

 

   お申し込み先  

日 本 員 林 学 会 

 代表 掛川掌瑛(東海金)

 ☎Fax 0267-22-0001

E-MAIL  showayweb◎msn.com 

   ◎を@に換える


 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 篠沢教授に全部!訳して欲し... | トップ | プルースト「雨の描写」に見... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教」カテゴリの最新記事