明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

12.悟りのイメージと効用『般若心経は間違い?』の間違い(十二)

2024年01月11日 | 仏教
古いブログ記事を復刻しています。
 
この回のテーマ
「悟り」のイメージと「効用」
 
 
 
 2007.10.15 Monday
『般若心経は間違い?』の間違い (十二)
 
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より

 実践的に「空」を捉える場合、自分と言えば五蘊ですから、執着はこの自分に対して生まれるのです。それに対しては徹底的に空っぽであること、空であること、実体がないことを観察しなければならない。それができたところで無執着の心が生まれて、解脱に達するのです。悟るのです。
 執着を捨てることは、けっして楽ではありません。・・お母さんは「これは息子が初めての給料で買ってくれたお土産だよ」となんの役にも立たないガラクタを大事に持っていたりする。自分の子供がはじめて切った爪だとかも保存しておく。・・なんの価値もない、なんの意味もないものに感情を入れて、「価値あるもの」に仕立ててしまっているのです。
 執着を捨てるには価値を破らなければいけないのですが、そもそも価値など最初から成りたたないのです。きちんと観察すれば、物事に価値が成り立たないことがわかります。「無価値」という事実が観えるのです。(P.129〜132)


 ならば「仏舎利」などは、真っ先に捨てるべきもの、ということになりそうです。スリランカから授与された「真性仏舎利」を信じて、宗教団体に全財産を寄進してしまった人にも「喜捨」だから、何でも喜んで捨てなくてはいけない、というのでしょうか。

 お母さんが、息子が初めての給料で買ってくれたお土産を、後生大事にとっておくのが「執着」でしょうか。
 確かに、初めて切った爪をとっておくなどというのは、どうかと思います。
 この両者の違いを考えてみると「初めてのお土産」は、子供が親から独立してゆくことを喜ぶ、という意義があるのに対し、「初めての爪切」は、子供をいつまでも子供のままにしておきたい、というニュアンスを感じます。
 母親の子供に対する感情を「執着」というのは、子供だって独立した一個の人間で、親のペットではないよ、といった意味からであって、「初めてのお土産」という「独立のシンボル」まで「捨てろ」という必要があるのでしょうか。そうした記念品を眺めて、子供が自立して、離れて行く寂しさを紛らわせている親だって多いと思うのですが。

 「価値」について言うなら、まず定義が必要であり、古典経済学でいう「価値」は「使用価値」と「交換価値」であり、「労働価値」という考え方が補完的にあります。近代経済学では、「使用価値」と「交換価値」に加えて「効用」という考え方を取っており、ブランド品のように「使用価値」は同じなのに、「交換価値」ばかりが異常に高いものにも、「心理満足効果」という「効用」がある、というような考え方をします。
 すると、お母さんの思い出の品は、「使用価値」も「交換価値」も全くないけれど、「効用」ならあるかもしれません。つまり、そのような性質の商品を企画すれば、「効用」によって「交換価値」が生まれる可能性があります。
 
 「労働価値」というのは、資本主義以前の社会では、「労働」に対する対価が商品の価格である、と考えられており、「労働」にこそ「価値」がある、と考えられてきました。

 「労働」とは、自然に対して、何らかの働きかけを行い、人間にとって有用なもの、つまり「価値」を得ることですが、社会の生産力が大きくなるにつれ、働きかける相手は、農場や工場などのように人間化された自然であり、生みだすものは、もっぱら「商品」ということになります。
 ところが、「価値はつくられた商品に附着する表象であって、労働や労働者に附着するものではない」「労働する人間はこちらがわにあるのに、価値はいつもあちらがわに、いいかえればつくられた商品に附着しており、これを相互に(つまり自然と人間に)架橋するものが労働であるというにほかならない。」(吉本隆明著『カール・マルクス』より)
 これが「疎外された労働」の概念であり、マルクスは、「疎外」からの解放は、労働者の解放という政治的なかたちであらわされるほかはないと考えました。
(“十二縁起ー空と疎外−「悟り」へ”より)

 長老は、「役に立つ」ことは大いに奨励していますから、「使用価値」については否定していないはずですが、「交換価値」については、否定したところで、対価を払わなければ、「役に立つ」ものも手に入りません。
 「効用」について言えば、これこそ「価値」のなかでも一番「実体」のないものですから、恐らく「評価」しないでしょう。お母さんの思い出の品も「捨てろ」というくらいですから。もちろん「ブランド品」などに「執着」してはいけない、というのは、仏教者としては当然です。
 
 「労働価値」について言えば、自分は「労働」しないで、「労働」する人たちからの「喜捨」で、食べさせていただいている、「出家修行者」が、「労働」に「価値」がないなどと、言えるのでしょうか。
 「喜捨」には「価値」があるか、と考えると、「喜捨」する人の「心理満足効果」がありますから、ブランド品などと同じ「効用」が認められます。しかし、長老は「価値」がない、と言います。

 「仏舎利」や「仏陀の真理」も、一種のブランド品であり、「使用価値」も「交換価値」も「労働価値」もなく、ただ「効用」だけが認められます。
 しかし、それでも、買う人と売る人があれば、売買は成立しますから、「効用」は「交換価値」を創出します。
 それでも、長老は、「価値」がない、と言います。

 長老は、「価値」は「執着」だから認めない、と言いますが、自分たちは、「価値」のなかでも、最もあやふやな「効用」のおかげで、どうにか認められているのに、「あなたがたが大事にしているものには『価値』がありません」と言うのです。

 いや、そうではない、そのような経済学的な「価値」について認めない、と言っているのではなく、「倫理」的な「価値」について言っているのだ、というなら、また別の話です。
 しかし、「思い出の品」は「倫理」的に見て「価値」がない、つまり反「倫理」的なのでしょうか。

 「価値」にこだわるなら、それは確かに「執着」というべきでしょうが、「無価値」にこだわるのも、やはり「執着」であり、「仏教者」は、「価値」、「無価値」という「分別」に、あまりこだわるべきではないと思うのですが。


 最終的に何ひとつ価値のあるものはないとわかったところで、最終的な解脱に達します。(P.133)


 どうして、「価値のあるものは何ひとつない」と分かったら、「解脱」に達するのでしょう。「空」を悟ったから、「空」すなわち「苦」の世界から「解脱」するのではないでしょうか。
 何度も出てくる「一切は空」というのは、「中観」の「哲学」として批判していたと思うのですが、それはおきます。
 「価値」が「有る」とか「無い」とかいうのも、相対論であり、「有価値」のものがあるから、対立的かつ相互的に、つまりは「縁起」に依って、「無価値」なものがあるはずなのに、「すべては無価値」ということは成り立つのでしょうか。

 「解脱」してしまえば、すべては「無価値」という意味では、「仏陀の真理」「法」「僧」「智慧」「悟り」、すべて「無価値」として捨てることができる、というのは、よく分かります。
 「解脱」してしまった人が、いつまでも、「仏陀の真理」は素晴らしい、「悟り」は素晴らしい、「智慧」は素晴らしい、などと語り続けるとしたら、「苦」も素晴らしい、ということになります。
 それでは、「解脱」しても「執着」は消えない、「苦」もそのまま、ということになってしまいます。

 「解脱」したら、すべては「無価値」というのは、『般若心経』の「無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得」と、同じことを言っているとしか思えないのですが、どう考えるのでしょうか。 

 「空」の世界とは、すべてが相対的な世界であり、「有」なのか、「無」なのか、言い切ることができません。「価値」も「有る」のか「無い」のか、誰にも分かりません。

 「生滅」だって、「生」があるから「滅」があり、「滅」があるから「生」があるのですが、ならば「生」や「滅」という「現象」が「実在」するのか、といったら、「生滅」だって、「有る」とも「無い」とも言えません。

 「空」の世界は、すべてが相対的だから「苦」が生まれます。
 なぜなら「楽」も相対的であり、「苦」がなければ「楽」がなく、「楽」がなければ「苦」もありません。
 すると、「空」の世界の中では、誰もが「苦」の解消のために「楽」を求める、ということになります。ところが「楽」を求めるためには「苦」が必要であり、「楽」のためには、進んで「苦」になるような行動を取る人が出てきます。
 たとえば、食事を美味しくするために、わざと空腹にしておく、とか、晩酌のビールを美味しくするために、午後は水分を取らない、とか、やせるために食事を取らない、など、時には危険を冒してまで、「楽」を求めます。
 さらに、過食、拒食、酒、煙草、麻薬、覚醒剤、SMプレイ、バンジージャンプ、ジェットコースター、セルフカット(自傷)、など、事の大小はありますが、いったい「苦」を求めているのか「楽」を求めているのか、自分でも分からないような行動を取るものです。

 「価値」というのは、手に入れば「楽」ですし、入らなければ「苦」になります。
 ところが、いったん手に入れてしまうと、保持することが「楽」で、失うことが「苦」になりますが、保持しなければならない、という「苦」も生まれます。
 「価値」の最たるものは「貨幣」つまり「お金」ですが、「お金」には、「交換価値」だけがあって、「使用価値」はありません。すると、使わなければ「楽」が得られないのが「お金」なのですが、使うと、減るのが「苦」になります。逆に、一気に使ってしまうことで、ストレスを発散させる、つまり「楽」を求める人もいますが、やはり後で「苦」になります。
 「お金」を持っていない人は、何も買えないし、生きてゆくのに支障があり、非常に「苦」になりますが、「お金」を持っている人は、失うことが「苦」であり、もともと持っていない人よりも大きな「苦」と感じます。また、時には「守銭奴」、逆に「浪費家」などと言われて「苦」になったりします。
 結局「お金」とは、あってもなくても、「苦」の原因になることは間違いありません。
 
 このように、「空」の世界では、「価値」も「空」ですから、「価値」とは、「有る」ものか「無い」ものか、誰にも分かりません。 
 「空」の世界から「解脱」すると、「価値」は「有る」のでしょうか、それとも「無い」のでしょうか。
 しかし、ほとんどの人類は、「空」の世界にいるのに、「価値」は「有る」と信じており、その「価値」は相対的だ、とは知っていても、「悟り」ではありませんから「知っている通りに行動する」ことはできません。
 すると、「解脱」した人が、「価値」は「有る」、と言っても、今と同じではないか、と思うだけです。
 すると、「解脱」した人は、後に続く人のためにも、「価値」は「無い」と言わざるを得ないことになります。
 すると、「解脱」するために、すべては「無価値」である、と言うことは、「顛倒」ということになりますが、そのほうが、早く「解脱」できる、というのであれば、それはそれで良いのかも知れません。
 ただ、長老や、長老の指導で修行する人が、そこまで承知していなかったなら、長老の『般若心経』や「空論」に対する批判は、天に唾することになります。
 逆に、承知してやっているなら、長老の批判は、「ためにする批判」ということになってしまいます。
 
 
 空論を語る人は「na 無」という言葉を使いません。それは「無」と「空」がまるで違うからです。・・たとえば「私に角がない」と言う場合は「無」です。無いのだから論ずる必要はまったくない。・・
 蜃気楼を見て「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。私に苦しみが「無い」と言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。空と無はまったく違うもので、無を使った時点で空論は成り立たないのです。
(P.137~138)


 同じ一冊の本のなかで、こんなに反対のことを言うのもどんなものでしょう。  
 ブランド品を見て、「あれは無価値だよ」と言ったところで、「価格」という「価値」は有るように見えるのだから「無価値」じゃないでしょう。ブランド品は「無価値」だと言ったって、実際には「価値」という現象があるのだから、「無価値」ではないのです。

 「無」も「有」もないのが「空」の世界であり、「解脱」した先には「無」の世界が待っているのでしょうか。 


 解脱に達した人は一切は空であるとわかっていますが、世の中は空であると知りながら、涅槃に入るまでは生活するのです。べつに悟っても死ぬまで修行しなくちゃいけないという意味ではありません。修行は終わったのです。自分で発見した真理でまた生きている。そのような感じです。それが初期仏教で語っている空の教えです。(P.133)

  
 このへんは、日本の「大乗仏教」には見られない、「部派仏教」の素晴らしさです。つまり、「解脱」とか「悟り」とはどのような状態を言うのか、日本の「仏教」が、全くイメージを提示できないでいる問題です。
 
 私たちの学んだ「南華密教」や「雲門禅」なら、「悟り」のイメージは明確であり、その点では、スマナサーラ長老のお話はよく分かるのです。

 ただ、中国の宗教弾圧のなかで、在家居士らが法灯を守ってきた、「南華密教」では「出家」は必要とは考えておらず、「悟り」を開いても、市井の一市民として暮らすなかで、「智慧」や「知恵」を生かしてゆくというスタンスを取っています。
 一市民としての生活ですから、「価値」に「執着」しないだけで充分であり、「出家者」のように、すべて「無価値」だと考える必要はありません。
 
 その反面、布教のためには、「出家」や寺院経営も必要であり、「チベット密教」のノウハウに加え、「中国禅」や「儒教」「道家」「道教」などの知識を重層的に組み合わせている「南華密教」には、寺院の経営法から、政権奪取の方法まで、多くの実践的な知識が集積されています。
 「密教」の「密」とは、秘密の「密」ではなく、むしろ「緊密」の「密」であり、「密乗」とは、「密教」の知識だけではなく、あらゆる「情報」「知識」「知恵」をつなぎ合わせて、どんな時でも「最も良い方法」を知り、かつ「知っている通りに行動する」ことができる、最上の「悟り」を得るものです。
 「最も良い方法」を知っていても、「知っている通りに行動する」ことができなければ、何もなりませんし、「最も良い方法」ではないのに、「知っている通りに行動」したら、「悟り」も役に立ちません。


<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(十三) 竜樹の「空」と般若心経の違い

 

2021-07-19

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                                     序言

『西遊記』でおなじみの、玄奘三蔵法師は、7世紀、唐からインドに取経して、多くの経典を漢語訳し、なかでも、『般若心経』は、大乗仏典の精華と言うくらい名訳とされています。しかし、よく理解されているか、と言えば、実はあまりよく理解されていません。

なかでも、「色即是空、空即是色」という『般若心経』のなかの最も重要な文章は、最も有名であるにも関わらず、理解される、というには程遠いのが現状です。

 なかには、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、などと、頓珍漢なことを言い出す人たちも現れましたが、『般若心経』を信奉してきたはずの、日本の仏教者たちは、満足な批判を加えることさえできません。

十八世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」と述べました。この発言は当時から、批判されるばかりで、今でもあまり理解されていません。

ヘーゲルの言う「理性」は、仏教では「分別」と言いますが、ヘーゲルの言うような理想的なものとは捉えておらず、「分別」こそが「苦」の原因であるとします。

 「色即是空、空即是色」をヘーゲル風に言い換えると、「現実と見えるものは分別されたものであり、分別されたものは現実と見えるものである」ということになります。つまり、自分が「分別」して「現実」と見えるものを、そのまま「現実」と思い込むから、「苦」が生ずるのです。

 2世紀、インドの仏教者、竜樹は、「一切は空である」と、述べましたが、本人も論じているように、「すべてが空」では、矛盾が生ずることがあります。 

 その点、「唯識」仏教(法相宗)の大家である玄奘三蔵訳『般若心経』では、「一切が空」とは言わず、「五蘊皆空」と述べており、竜樹のような矛盾が生じません。

 「唯識」レベルで書かれた経典である玄奘訳『般若心経』を「空」論のレベルで理解しようとすることには無理があり、最低でも「唯識」レベル、できれば「密教」のレベルで、つまりは「唯識」論を踏まえた上で、あらゆる知識を総動員して「緊密」に読み解くことが必要です。

「密教」の「密」とは、「緊密」のことであり、「秘密」という意味ではありません。

 『般若心経』の「空」は、ヘーゲルの「疎外」と似ていますが、むしろ、マルクスの「疎外」と等しいものであることを、本書をお読みいただければ、お解りいただけるかと思います。

 

  2021年 辛丑               掛川東海金

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『般若心経は間違い?』の間違い(一)

『般若心経は間違い?』の間違い(二)

『般若心経は間違い?』の間違い(三)

『般若心経は間違い?』の間違い(四)

『般若心経は間違い?』の間違い(五)

『般若心経は間違い?』の間違い(六)

『般若心経は間違い?』の間違い(七)

『般若心経は間違い?』の間違い(八) 密教と記号類型学

『般若心経は間違い?』の間違い(九)龍樹「一切皆空」のパラドクス

『般若心経は間違い?』の間違い(十) 中観(一切皆空)と般若心経(五蘊皆空) 

照見!『般若心経は間違い?』の間違い(十一)

『般若心経は間違い?』の間違い(十二) 悟りのイメージと効用

『般若心経は間違い?』の間違い(十三) 竜樹の「空」と般若心経の違い

『般若心経は間違い?』の間違い(十四) 無我と輪廻

『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外

『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その2 10年経っても反論できない?

 

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