明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

2.照見とは明らかにして見せること『般若心経は間違い?』の間違い(二)

2023年12月31日 | 仏教
『般若心経は間違い?』の間違い (二)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)より
 
「第一章 色即是空と空即是色」(『般若心経は間違い?』P19〜85)

  般若波羅蜜多心経(玄奘訳の原文 P20〜21)
  同上 読み下し文       (P22〜23) 
 

 これは通常用いられているテキストで、特に問題はありません。ただ「受想行識」に「じゅそうぎょうしき」とルビを振っていますが、この「行」は「意志決定」や「行動」のことであり、「修行」のことではありませんから「こう」と読むべきです。
 かたや「行深般若波羅蜜多時」の「行」は「修行」のことですから、もちろん「ぎょう」と読んで当然です。

 読み下し文では、「このゆえに、空というなかには、色もなく、受も想も行も識もなし。」と、ここで文を区切っていますが、「是故空中」は「無色無受想行識」から「無智亦無得」まで全体に懸かっています。つまり、「識もなし。」と切らずに、「識もなく、眼もなく、・・・・」と文を続けるべきです。
 ここは重要なところで、スマナサーラ氏の読み間違いと考えると、『般若心経は間違い?』の「間違い」が分かって来るようにも思えます。
 
 
 
  般若波羅蜜多心経
 
 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
 照見五蘊皆空。度一切苦厄。
 

(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
 求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。

(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー張明澄・掛川掌瑛)
 観自在菩薩は深遠なる智慧を実践した時、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。

 観自在菩薩は、求道者にして聖なる観音、とほとんど同じ意味です。
深遠な智慧の完成を実践していたときに、と、深遠なる智慧を実践した時、も別に変わりません。

 しかし、
「存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれらは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった
 と、言うのと、
 
「存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり」、とでは、意味がずいぶん違ってきます。

 「見きわめた・・・・見抜いた」
 
 というのは、観音が自分で修行して初めて見極めて見抜いたのであり、
 
 「明らかにして見せてくださり」(照見)
 
 のほうは、観音はもともと知っていたことを、衆生に対して明らかにして見せてくださった、という意味になりますから、観音の立場が全く違っています。さらに漢訳のほうは、その結果として、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。と続けており、サンスクリットよりも漢訳のほうが観音をはるかに偉大なものとして描いていることになります。 
 
 
 「観自在菩薩」とは、「観音菩薩」とも言われるように、「虚心に人の話を聞くことができ、柔軟で囚われのない、自在な心で物事を観ることができる修行者」という意味です。「修行者」といっても、すでに「自在心」を持っており、つまりは「空」を悟っていますから、さらに、人々を「悟り」に導くことができ、いずれは「仏陀」とか「如来」になれる、非常に高度なレベルの修行者です。(部派仏教では認めていない、とかいうことは、ひとまずおいて下さい)

 「行深般若波羅蜜多時」は、「深遠なる智慧の完成の行を行ったとき」、つまり「お釈迦様が初めて悟りを開いたとき」と同じシチュエーションと考えたら良いでしょう。あるいは、そのときのお釈迦さまのこと、と考えても同じことです。 

 「照見五蘊皆空」は、「人間であること(自己と他者を分別すること)の五つの構成要素(苦の原因)は、すべて空であることを、明らかにして見せてくださり」であり、
 観自在菩薩が新たに見た、というのではなく、衆生に対して明らかにした、という意味です。
 「度一切苦厄」は、「一切の苦しみや災難をから人々を救うこととなりました」となります。
 この、二句を合わせた意味は、「肉体と心によって自己と他者とを分別することが苦の原因であり、自在な心で、物事に囚われない認識を持つことができれば、あらゆる苦の原因から解放される」ということになります。

 「人間であること」とは、「自己」と「他者」を「分別」できる「認識」を持つことができる、つまり「自己」という「意識」を持っていることが「人間であること」です。
 「自己」という「意識」を持つことで「類」という概念や「他者」という概念を持つことができるようになり、逆に「他者」という概念によって「自己」という「意識」が生まれます。

 それまで、自分の「肉体」は、自然の一部であり、自然が自身の一部だったのですが、「自己」という「意識」の獲得とともに、自然は、自分の身体ではなく、巨大な「他者」に変化します。
 また同時に、自分以外の人間たちも、「他者」であり、かつ「同類」と「認識」するようになります。
 このように、人間が「自己」を獲得することを「疎外」または「自己疎外」と言います。

 人間が、自然から「疎外」され、「自己」を「疎外」し「他者」から「疎外」され、ここから、すべての「苦しみ」が生まれます。
 「疎外」とはすなわち「苦」のことであり、「疎外」の原因は、人間に特有の、「自己」と「他者」という「認識」もしくは「意識」によるものです。
 つまり、「自己」と「他者」を「分別」するものは、「意識」であり、「意識」と「肉体」の集合体である「五蘊」こそは、「苦」の原因ということができます。
 そして、「五蘊」が「空」であるということは、人間が「現象」として「認識」できるものは、すべて「肉体」と「意識」によって生じる「関係」という「認識」であり、人間の「苦」とは、すべて「関係」でしかありません。 
  
 つまり「苦」とは「空」であり、「関係」でしかないと知ることによって、本質的な「苦」の原因を取り除くことができます。
 たとえば「自己」という「関係」は「他者」という「関係」によって生じており、「自己」と「他者」を対立させる「分別」こそが「苦」の原因であり、そのような「分別」を消し去ることで、「苦」を消し去ることができます。
 「分別」を消し去ることで「苦」も消えることは、誰でも理解できそうですが、その通りに行動しようとすると、なかなかできるものではありません。
 たとえば、同じお釈迦さまの教えを受け継いだ「仏教」なのに「大乗仏教」とか「小乗仏教」とか「部派仏教」とか、「分別」することによって対立し、さらに、自派や自派の教理に「執着」し、他派を排撃することに血道をあげ、かえって「苦」の原因を増やすことになりました。
 このようなことは、誰でも分かることで、「分別」や「執着」を捨てることで「苦」を一つでも減らすことができるのですが、「分かっちゃいるけどやめられない」のが人間なのです。
 ならば、「知っているとおりに行動できる」ようにすれば、人間の「苦」は消し去ることができる筈です。

 仏教では、「知っているとおりに行動できる」ことを「悟り」といいます。といっても、「知っていること」が間違っていたら、そのとおりに行動しても、かえって問題が大きくなるかも知れません。
 すると、「悟り」には「正しい知識」が、絶対に必要であり、そのため、「仏教」には、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などという「法」があり、「苦」の原因がどこにあり、どうしたら「苦」を消し去ることができるかを学ばなければなりません。

 なかでも、「五蘊」には、その他の「法」がすべて含まれており、「十二処」と「十八界」は、ただ「五蘊」を、より詳しく分類したものに過ぎません。

 また「十二縁起」は「五蘊」が「苦」の原因であることを、展開して、空間的、かつ、時間的に述べたもので、「五蘊」からはみ出すものではありません。
 「四聖諦」は、もっと具体的に「苦」の原因と解決法を示していますが、「五蘊」が「空」であることを完全に理解し、かつ、そのとおりに行動できれば、つまり「五蘊」が「空」であることを「悟り」さえすればよく、結局は「五蘊」から一歩も踏み出すものではありません。
 
 
 
<次回に続く>『般若心経は間違い?』の間違い(三)
 
 

『般若心経は間違い?』の間違い(一)

『般若心経は間違い?』の間違い(二)

『般若心経は間違い?』の間違い(三)

『般若心経は間違い?』の間違い(四)

『般若心経は間違い?』の間違い(五)

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『西遊記』でおなじみの、玄奘三蔵法師は、7世紀、唐からインドに取経して、多くの経典を漢語訳し、なかでも、『般若心経』は、大乗仏典の精華と言うくらい名訳とされています。しかし、よく理解されているか、と言えば、実はあまりよく理解されていません。

なかでも、「色即是空、空即是色」という『般若心経』のなかの最も重要な文章は、最も有名であるにも関わらず、理解される、というには程遠いのが現状です。

 なかには、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、などと、頓珍漢なことを言い出す人たちも現れましたが、『般若心経』を信奉してきたはずの、日本の仏教者たちは、満足な批判を加えることさえできません。

十八世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」と述べました。この発言は当時から、批判されるばかりで、今でもあまり理解されていません。

ヘーゲルの言う「理性」は、仏教では「分別」と言いますが、ヘーゲルの言うような理想的なものとは捉えておらず、「分別」こそが「苦」の原因であるとします。

 「色即是空、空即是色」をヘーゲル風に言い換えると、「現実と見えるものは分別されたものであり、分別されたものは現実と見えるものである」ということになります。つまり、自分が「分別」して「現実」と見えるものを、そのまま「現実」と思い込むから、「苦」が生ずるのです。

 2世紀、インドの仏教者、竜樹は、「一切は空である」と、述べましたが、本人も論じているように、「すべてが空」では、矛盾が生ずることがあります。 

 その点、「唯識」仏教(法相宗)の大家である玄奘三蔵訳『般若心経』では、「一切が空」とは言わず、「五蘊皆空」と述べており、竜樹のような矛盾が生じません。

 「唯識」レベルで書かれた経典である玄奘訳『般若心経』を「空」論のレベルで理解しようとすることには無理があり、最低でも「唯識」レベル、できれば「密教」のレベルで、つまりは「唯識」論を踏まえた上で、あらゆる知識を総動員して「緊密」に読み解くことが必要です。

「密教」の「密」とは、「緊密」のことであり、「秘密」という意味ではありません。

 『般若心経』の「空」は、ヘーゲルの「疎外」と似ていますが、むしろ、マルクスの「疎外」と等しいものであることを、本書をお読みいただければ、お解りいただけるかと思います。

 

  2021年 辛丑               掛川東海金

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