「第一章 色即是空と空即是色」(『般若心経は間違い?』P19〜85)
般若波羅蜜多心経(玄奘訳の原文 P20〜21)
同上 読み下し文 (P22〜23)
これは通常用いられているテキストで、特に問題はありません。ただ「受想行識」に「じゅそうぎょうしき」とルビを振っていますが、この「行」は「意志決定」や「行動」のことであり、「修行」のことではありませんから「こう」と読むべきです。
かたや「行深般若波羅蜜多時」の「行」は「修行」のことですから、もちろん「ぎょう」と読んで当然です。
読み下し文では、「このゆえに、空というなかには、色もなく、受も想も行も識もなし。」と、ここで文を区切っていますが、「是故空中」は「無色無受想行識」から「無智亦無得」まで全体に懸かっています。つまり、「識もなし。」と切らずに、「識もなく、眼もなく、・・・・」と文を続けるべきです。
ここは重要なところで、スマナサーラ氏の読み間違いと考えると、『般若心経は間違い?』の「間違い」が分かって来るようにも思えます。
照見五蘊皆空。度一切苦厄。
(“玄奘本”サンスクリットの邦訳ー中村元・紀野一義)
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめた。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いたのであった。
(“玄奘訳”漢訳の邦訳ー張明澄・掛川掌瑛)
観自在菩薩は深遠なる智慧を実践した時、存在するものの五つの構成要素はただの関係(空)であると明らかにして見せてくださり、求道のすべての苦しみや災難を無くすようにしてくれました。
観自在菩薩は、求道者にして聖なる観音、とほとんど同じ意味です。
深遠な智慧の完成を実践していたときに、と、深遠なる智慧を実践した時、も別に変わりません。
しかし、
「見きわめた・・・・見抜いた」
「行深般若波羅蜜多時」は、「深遠なる智慧の完成の行を行ったとき」、つまり「お釈迦様が初めて悟りを開いたとき」と同じシチュエーションと考えたら良いでしょう。あるいは、そのときのお釈迦さまのこと、と考えても同じことです。
「照見五蘊皆空」は、「人間であること(自己と他者を分別すること)の五つの構成要素(苦の原因)は、すべて空であることを、明らかにして見せてくださり」であり、
「度一切苦厄」は、「一切の苦しみや災難をから人々を救うこととなりました」となります。
この、二句を合わせた意味は、「肉体と心によって自己と他者とを分別することが苦の原因であり、自在な心で、物事に囚われない認識を持つことができれば、あらゆる苦の原因から解放される」ということになります。
「人間であること」とは、「自己」と「他者」を「分別」できる「認識」を持つことができる、つまり「自己」という「意識」を持っていることが「人間であること」です。
「自己」という「意識」を持つことで「類」という概念や「他者」という概念を持つことができるようになり、逆に「他者」という概念によって「自己」という「意識」が生まれます。
それまで、自分の「肉体」は、自然の一部であり、自然が自身の一部だったのですが、「自己」という「意識」の獲得とともに、自然は、自分の身体ではなく、巨大な「他者」に変化します。
また同時に、自分以外の人間たちも、「他者」であり、かつ「同類」と「認識」するようになります。
このように、人間が「自己」を獲得することを「疎外」または「自己疎外」と言います。
人間が、自然から「疎外」され、「自己」を「疎外」し「他者」から「疎外」され、ここから、すべての「苦しみ」が生まれます。
「疎外」とはすなわち「苦」のことであり、「疎外」の原因は、人間に特有の、「自己」と「他者」という「認識」もしくは「意識」によるものです。
つまり、「自己」と「他者」を「分別」するものは、「意識」であり、「意識」と「肉体」の集合体である「五蘊」こそは、「苦」の原因ということができます。
そして、「五蘊」が「空」であるということは、人間が「現象」として「認識」できるものは、すべて「肉体」と「意識」によって生じる「関係」という「認識」であり、人間の「苦」とは、すべて「関係」でしかありません。
つまり「苦」とは「空」であり、「関係」でしかないと知ることによって、本質的な「苦」の原因を取り除くことができます。
たとえば「自己」という「関係」は「他者」という「関係」によって生じており、「自己」と「他者」を対立させる「分別」こそが「苦」の原因であり、そのような「分別」を消し去ることで、「苦」を消し去ることができます。
「分別」を消し去ることで「苦」も消えることは、誰でも理解できそうですが、その通りに行動しようとすると、なかなかできるものではありません。
たとえば、同じお釈迦さまの教えを受け継いだ「仏教」なのに「大乗仏教」とか「小乗仏教」とか「部派仏教」とか、「分別」することによって対立し、さらに、自派や自派の教理に「執着」し、他派を排撃することに血道をあげ、かえって「苦」の原因を増やすことになりました。
ならば、「知っているとおりに行動できる」ようにすれば、人間の「苦」は消し去ることができる筈です。
仏教では、「知っているとおりに行動できる」ことを「悟り」といいます。といっても、「知っていること」が間違っていたら、そのとおりに行動しても、かえって問題が大きくなるかも知れません。
すると、「悟り」には「正しい知識」が、絶対に必要であり、そのため、「仏教」には、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四聖諦」などという「法」があり、「苦」の原因がどこにあり、どうしたら「苦」を消し去ることができるかを学ばなければなりません。
なかでも、「五蘊」には、その他の「法」がすべて含まれており、「十二処」と「十八界」は、ただ「五蘊」を、より詳しく分類したものに過ぎません。
また「十二縁起」は「五蘊」が「苦」の原因であることを、展開して、空間的、かつ、時間的に述べたもので、「五蘊」からはみ出すものではありません。
「四聖諦」は、もっと具体的に「苦」の原因と解決法を示していますが、「五蘊」が「空」であることを完全に理解し、かつ、そのとおりに行動できれば、つまり「五蘊」が「空」であることを「悟り」さえすればよく、結局は「五蘊」から一歩も踏み出すものではありません。
『般若心経は間違い?』の間違い(一)
『般若心経は間違い?』の間違い(二)
『般若心経は間違い?』の間違い(三)
『般若心経は間違い?』の間違い(四)
『般若心経は間違い?』の間違い(五)
『般若心経は間違い?』の間違い(六)
『般若心経は間違い?』の間違い(七)
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照見!『般若心経は間違い?』の間違い(十一)
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『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その1 苦=空=自己疎外
『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その2 10年経っても反論できない?
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序言
『西遊記』でおなじみの、玄奘三蔵法師は、7世紀、唐からインドに取経して、多くの経典を漢語訳し、なかでも、『般若心経』は、大乗仏典の精華と言うくらい名訳とされています。しかし、よく理解されているか、と言えば、実はあまりよく理解されていません。
なかでも、「色即是空、空即是色」という『般若心経』のなかの最も重要な文章は、最も有名であるにも関わらず、理解される、というには程遠いのが現状です。
なかには、「色即是空」は正しいが「空即是色」は間違い、などと、頓珍漢なことを言い出す人たちも現れましたが、『般若心経』を信奉してきたはずの、日本の仏教者たちは、満足な批判を加えることさえできません。
十八世紀、ドイツの哲学者ヘーゲルは「理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」と述べました。この発言は当時から、批判されるばかりで、今でもあまり理解されていません。
ヘーゲルの言う「理性」は、仏教では「分別」と言いますが、ヘーゲルの言うような理想的なものとは捉えておらず、「分別」こそが「苦」の原因であるとします。
「色即是空、空即是色」をヘーゲル風に言い換えると、「現実と見えるものは分別されたものであり、分別されたものは現実と見えるものである」ということになります。つまり、自分が「分別」して「現実」と見えるものを、そのまま「現実」と思い込むから、「苦」が生ずるのです。
2世紀、インドの仏教者、竜樹は、「一切は空である」と、述べましたが、本人も論じているように、「すべてが空」では、矛盾が生ずることがあります。
その点、「唯識」仏教(法相宗)の大家である玄奘三蔵訳『般若心経』では、「一切が空」とは言わず、「五蘊皆空」と述べており、竜樹のような矛盾が生じません。
「唯識」レベルで書かれた経典である玄奘訳『般若心経』を「空」論のレベルで理解しようとすることには無理があり、最低でも「唯識」レベル、できれば「密教」のレベルで、つまりは「唯識」論を踏まえた上で、あらゆる知識を総動員して「緊密」に読み解くことが必要です。
「密教」の「密」とは、「緊密」のことであり、「秘密」という意味ではありません。
『般若心経』の「空」は、ヘーゲルの「疎外」と似ていますが、むしろ、マルクスの「疎外」と等しいものであることを、本書をお読みいただければ、お解りいただけるかと思います。
2021年 辛丑 掛川東海金
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