明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

守護仏1-守護仏による救済  仏胎・如来蔵・紫薇斗数

2018年08月29日 | 仏教
守護仏1-守護仏による救済

 ここでご紹介する「守護仏」とは、正しくは「如来蔵」というもので、2世紀ごろのインドで生まれた考え方です。

 人間には、誰でも生まれつき仏様の種(仏胎)が宿っており、人間がよろいのように身に付けてしまった心のカラを破り、本来のあるべき姿に立ちもどれば、その仏様と一体になることができます。
 仏様と一体になれた人は、仏様から守られて、あらゆる苦しみから救われるばかりではなく、他の人々をも苦しみから救うようになります。
 すると、その人は、人々に素晴らしい魅力を感じさせ、尊敬や人気を集めて、社会生活、学問、恋愛、家庭生活など、全てが順調になり、望むとおりの人生を過ごすとができます。
 このような状態は「悟り」とも呼ばれ、本来は、出家して、学問と修行の果てに、限られた人だけが、ようやく得られるものでした。
 そこまでの境地には達しなくても、自分の守護仏がどんな仏様なのかを知り、その仏様のスタイルに少しずつ近づいて行くだけでも、守護仏の加護は得られるのです。

 インドで生まれた「如来蔵」はチベットに伝わり、どの人にどの仏様が宿っているのかを見極めることによって修行に役立てるようになります。
 最初は、高僧が弟子のひとりひとりを観察して、守護仏を決めていましたが、やがて、人の生まれた時間によって守護仏が決まることが分かって来ました。
 これにより、必ずしも出家して修行しなくても、自分で自分の守護仏を知り、守護仏に近づくことが可能になりました。
 生年月日と生まれた時間が分かれば、守護仏も分かるのですが、それには、暦学に基づいた少々複雑な計算が必要になり、一般の方には、なかなか面倒なものです。


   
  第一章 苦しみからの解放
  
 人間が生きて行くということは、苦しみばかりがつきまとうもので、仏教の生みの親であるお釈迦様は、「一切は皆『苦』である」とおっしゃり、次の八種類の「苦」があるとされました。

 1、生まれるときの苦しみ
 2、老いてゆく苦しみ
 3、病気の苦しみ
 4、死から逃れられない苦しみ
 5、愛しいものといつか必ず別れなければならない苦しみ
 6、嫌いな人とも関わらなければならない苦しみ
 7、欲しいものが手に入らない苦しみ
 8、心身の働きが活発であるための苦しみ

 このような苦しみから逃れるために、いったどうしたら良いのでしょうか?
 お釈迦様の「一切は皆『苦』である」と言う宣告は、まるで突き放されているように思えますが、実は、これを理解することこそが、あらゆる苦しみから救われる唯一の方法なのです。


 1、生まれるときの苦しみ(生苦)

 これは、胎児が母の産道を通るときの苦しみと言われておりますが、見ている人からそう見えるだけで、ものごころついた後の本人には記憶がないことです。
 このように、自分では記憶にないことなのに、人から話を聞いたりして、痛みや責任を感じて苦しむことがあります。
 むしろ「産みの苦しみ」などと言われるように、産んだ母親のほうがよほど苦しいのですが、苦しむほどに喜びも大きいものがあり、我が子に対する愛情も、より強いものになります。


 2、老いてゆく苦しみ(老苦)

 老人が大切にされない社会では、確かに苦になりますが、自分たちが若いとき、老人を大切にしなかった報いですから、仕方がありません。自分は大切にしたつもりだと言うかも知れませんが、自分たちが属している社会全体の風潮がそうなっているのは、やはり自分の責任です。
 それでも、医療費が安い、シルバーシートに座れる、もしかしたら年金が貰えるかも知れない、など、少しは良いこともないわけではありません。
 現代の日本では、年寄りを大切にしなくなった、と言われますが、制度だけで見たら昔よりもずっと、年寄りは大切にされています。ただ、制度ばかりで、尊敬の気持ちがなくなってしまいましたから、老人としては、プライドが保てません。
 老いても尊敬されるような人になることも大事なことで、そのような人には、老いの苦しみなど感じられません。


 3、病気の苦しみ(病苦)

 病気は、もちろん嫌なことですが、病気であることが認められれば、なまけものなどと思われずに堂々と休養が取れる、保険金が給付される、自分の苦しみが他人にもある程度理解してもらえる、などの良いこともないわけではありません。
 わざわざ仮病を使って、休んだり、同情を買ったり、不正に保険を請求したりする人もいるくらいですから、病気と言うのもある種の特権と言えないこともありません。
 病気なのに、病気であることを認められないと、ただ苦しいだけで、誰にも理解されず、保険も適用されない、というような事があります。
 逆に、ライ病やエイズなどに認定されますと、不当な差別によって、さらに苦しみがひどくなる場合もあります。
 病気に対して無知や偏見、悪意などを持つ人は、他人を苦しめて、自分も救われません。救われるためには、病気に対する正しい知識を持つことが是非必要です。


 4、死から逃れられない苦しみ(死苦)

 人間ばかりでなく、あらゆる生物は、死から逃れることができません。だれもが知っていることなのですが、ひどく死を恐れる人がいるかと思うと、あべこべに、自分から死を選んだり、全く危険をかえりみない人もいます。
 普通、自殺や自殺行為は、良くないこととされておりますが、何かの目的のため、自ら犠牲になって死ぬ人は、賞賛を浴びたりもします。
 また、レーサー、登山家、消防士、軍人、などの職業の人は、あまり死を恐れない傾向にあります。もちろん、死を恐れていたらつとまらない仕事ではありますが、死の危険や恐怖に挑むことで、ある種の充実感も得られるようです。
 ただ、実態はわかりませんが、賞金目当てとされる自爆テロや、保険金目当ての自殺などは、家族のためとは言え、どうしたって幸福なこととは思えません。
 最近、自殺が増えたり、テロや未成年による凶悪な事件などがいくつか報じられ、人の命を大切にしなくなったなどと言われておりますが、戦前などに比べて、現在のほうが、はるかに人命を大事にするようになっています。
 戦後日本は、憲法上戦争はできないことになっていますから、今のところ戦争による犠牲者は出ていませんし、改憲したとしても「国のために戦死することが最大の名誉」というような考え方が復活するとも思えません。
 交通事故死だって、一時は毎年1万人を超えていたのに、近頃はかなり抑制されています。これは、救急救命の改善や、シートベルト、エアバッグ、安全ボディーなどの対策が効果を上げているためで、人命尊重は建て前ばかりではありません。
 それでも、命を大切にしなくなったというのは、子供が子供を殺したり、イラクで人質が殺されたり、むごたらしい事件のたびに言われます。
 問題にされるのは、人命尊重の意識が強いからですが、スチュワーデスができる救命措置を医師会が既得権を主張して救急救命士にやらせない、サラ金ヤミ金融が多数の借り手を自殺に追い込んでも、業界から献金を受けている国会議員が反対して徹底した規制ができない、などのように、利害がからむ事や、戦争などということになると、急に人命が軽くなることもあります。
 いずれにしろ、人間は、誰でも必ずいつかは死ぬと決まっているのですから、それほど死を恐れる必要はないし、自分から進んで死んでしまうこともありません。
 守護仏と一体になれた人は、肉体が滅んだ後も守護仏と一体ですから、もちろん、死を恐れることなどありません。


 5、愛しいものといつか必ず別れなければならない苦しみ(愛別離苦)

 これには自分が死ぬことによって別れることも含まれますから、やはり逃れる方法はありません。それで、お釈迦様は「愛」を否定し、あらゆるものに執着を持たないことで救われる、とされましたが、考えてみれば、愛しいものがあってこそ人生を楽しめるもので、本当に愛しいからこそ、失う時の苦しみも大きくなってしまいます。
 最近では、犬や猫などのペットを亡くした人が、我が子を失ったように嘆き悲しんで、それこそ病気になってしまったりしますが、普通、ペットにするような動物は、人間よりずっと寿命が短く、自分より先に死なれるのは自然のなりゆきで、最初から覚悟しておけば、それほどの苦しみにはならなかったはずです。
 ペットに限らず、どんなものでも、死んだり、壊れたりすることからは逃れられませんから、自分の産んだ子供は、自分よりは長生きできるはず、だとか、30才も年下の妻なら必ず自分より後で死ぬ、などという保証もありません。自分だって、あと何年は大丈夫などと思っても、明日のことは分かりません。
 別れはいつかやって来ますが、愛しいものは大いに愛し、可愛がり、大切にして、思い切り「愛」を楽しんで、しかしいつか必ず失うことも覚悟しておけば、失ったときの悲しみはずっと小さなものになり、良い思い出だけが残るようになります。


 6、嫌いな人とも関わらなければならない苦しみ(怨憎会苦)

 対人関係の問題は、近年特に深刻で、大人ばかりか、こどもの世界でも、いじめによる自殺があったり、小学生の女児が同級生を殺害するなど、年齢を問わず、広い範囲で社会問題化しています。
 映画評論家の故淀川長治さんは、生前『私は嫌いな人に会ったことがない』という著書を出しておられました。
 つまり、誰でも良いところがあるのだから、嫌わずに好きになったら良い、と言う趣旨の本なのですが、本当に淀川さんは、嫌いな人には会わなかったと言います。つまりこの人には会いたくないと思ったら、面会、対談など、断っていたそうです。
 淀川さんのように、チャップリンとも親交のあった映画界の権威で、つきあう相手も選べる人は良いのですが、普通はなかなかそういうわけには行きません。
 淀川さんだって、若いころには、嫌いな人とでも付き合い、こんな良いところもあるじゃないか、などと考えて、心のバランスをとっていたのでしょう。そうでなければ、あれほどの大家にはなれなかったはずです。
 私たちが他人に対して「好き」とか「嫌い」とか感じるのは、ほとんどが顔の印象から来るもので、それも第一印象が決定的だと言います。これは人間に特有の習性で、生まれたばかりの赤ちゃんが、母親を認識するとき、まだ良く見えない目なのに、ちゃんと顔で母親を見分けることができ、同じように、赤ちゃんにとって心地よい人と不快な人は、顔で見分けられ、記憶されてゆきます。すると、その時に、良い印象を与えた人の顔は「好き」なタイプとして記憶され、悪い印象を与えた人の顔は「嫌い」なタイプとして記憶されます。よく、男性は、母親に似た女性を好きになる、と言いますが、そのような人が特にマザコンというわけではなく、これも赤ちゃんの時の記憶から来るものと思われます。
 つまり私たちが、人の顔をみただけで、「好き」と感じたり「嫌い」と感じたりしてしまうのは、まだ赤ちゃんの心が残っているせいで、本当に、自分にとって利益のある人を好み、害のある人を嫌っているわけではありません。
 こちらが相手を嫌えば、自然と相手もこちらを嫌うようになり、そしてもしそれが、職場で毎日付き合わなければならない相手だとすると、その職場はひどく居づらい場所になってしまいます。
 もともと「一切は皆『苦』である」のに、わざわざ苦のタネを増やしているのが人間なのですが「好き」「嫌い」などという感情は、赤ちゃんの心から来ているのだと知れば、何もそんな事のために人生を苦しくすることはない、ということに気付くでしょう。
 逆に、相手から一方的に嫌われた場合でも、まだ赤ちゃんなんだなあ、と思えばそれほど腹も立たないでしょう。
 「嫌い」という感情の原因は、右のようなことのほかにも、もっと色々あるでしょうが、決して合理的なものではないことには間違いありません。
 この苦しみから逃れるには、「嫌い」という感情を持たないようにするのが一番安上がりですが、できなかったら、嫌いな人と会わなくてすむような環境を整えなくてはなりません。するとかなりの財力や地位などが必要になりますが、嫌いな相手でも、平気な顔で付き合えるような人でなければ、地位も財力もとうてい望めません。


 7、欲しいものが手に入らない苦しみ(求不得苦)

 ブランド品が欲しい、宝石が欲しい、家が欲しい、車が欲しい、異性が欲しい、こどもが欲しい、等々、きりがないものですが、手に入らないものほど欲しくなるものです。
 特に異性などは、どうすれば手に入れたことになるのでしょうか?結婚して籍を入れたら手に入ったことになるのでしょうか?中には、相手の了承もなく、勝手に役所に行って婚姻届けを出してしまう人がいるそうですが、それで満足できるわけもありせん。
 もっとひどいのは、少女を誘拐して、十年近くも自宅に監禁していた事件がありましたが、とうてい少女を手に入れたという満足感など得られるわけもなく、むしろ、発見されて捕まることを恐れ、少女が自分を好きにならないことに苛立ち、同居していた母親との関係はますます悪くなり、捕まってからはもちろん、捕まる前の十年間も、実際にはひどい苦しみだったはずです。
 こどもが欲しくて、人身売買まがいのことをする人もいますが、実の親だってこどもを所有しているわけではなく、愛しむことによって幸福感を得られるのですが、愛しむものは、いつか必ず失うことを覚悟しなければなりません。
 お金や物品なら、確かに手に入りそうですが、簡単に手に入るものでは、手に入れたときの満足感も小さくなり、手に入れることが難しいものほど、手に入ったときの満足感も大きいはずですから、手に入らないものばかり欲しがるようになり、苦しみを招くのです。
 この苦しみから逃れるには、手に入らないものは欲しがらないようにすることが一番ですが、何とか手に入りそうなもので、どうしても欲しいものがあったら、計画を立てて、手に入れるまでのプロセスを楽しむようにすれば、手に入らない場合でもそれほど苦にはならないものです。
 たとえば、宝くじで3億円くらい当てたいと思ったら、どこの売り場で買うと当たりやすいとか、統計学的にどんな数字が出やすいとか、徹底的に研究して、できるだけ少ない投資で買い続けるようにします。これなら1万円くらいの当たりでも取れれば、ずいぶんと楽しむことができるでしょうし、間違って大金が当たらないとも限りません。


 8、心身の働きが活発であるための苦しみ(五蘊盛苦)

 肉体が健康なほど生理的な欲求が強くなり、満たされないものも多くなってしまいます。
 視覚が良い人ほど、見たくないものも見えてしまいます。
 聴覚が良い人ほど、聞きたくないものも聞こえてしまいます。
 嗅覚が良い人ほど、嫌な匂いに悩まされます。
 味覚が良い人ほど、まずい食物に悩まされます。
 触覚が良い人ほど、手触りや肌触りの悪いものに悩まされます。
 イメージが豊かな人ほど、いやなイメージに悩まされます。
 行動力がある人ほど、何かの決断を迫られます。
 意識や認識を持っていれば記憶も残り、いやな記憶だけを消すこともできず、どうしてもなんらかのトラウマに悩みがちです。
 これらは、結局、健康だとか、感覚が敏感だとか、良いことの裏返しとしての悪いことばかりですから、良い面をだけを楽しむようにすれば、何とか我慢できるものです。
 例えば、味覚が良いほど、まずい食べ物に悩まされ、味覚が鈍感な人ほど、まずいものでも平気で食べられるのですが、味覚が良いほど、ほんとうに美味しいものを味わうことができますし、わずかな味の変化に気がついて、食中毒などを避けることもできるかも知れません。


 以上のように「苦」というものは、人間の生活に付いて回るものですが、「一切は皆『苦』である」ことを知っていれば、いくらでも避ける方法はあり、正しい知識によって、苦にもならないようになります。
 ところが、知っているのにそのようにできないのが人間というもので、いつかは失うとわかっているのに、愛しいものにのめりこみ、手に入らないとわかっているのに、欲しがっては苦しむ。などいうことを繰り返しています。
 ならば、知っているとおりに行動ができれば、苦しみなどというものは何もなくなるのではないでしょうか。

 そこで、お釈迦様が提唱したのが「悟り」というものです。「悟り」とはひどく難しいもののように感じられますが、実は、ただ「知っているとおりに行動する」と言う、至ってかんたんなことで、人間以外の動物は、初めから知っているとおりにしか行動ができませんから、人間のような悩みは持たないものです。つまり生まれつき悟っているのです。
 ところが、人間の持っている知識や情報と言うものは、動物などとは比べものにならないほど膨大なものです。逆に言うと、動物の持っている知識は、生きて行くのに最低限必要な知識だけで、余計な知識というものは何もありません。だから、知っているとおりにしか行動できない、とも言えるでしょう。

 お釈迦様は、ネパールに近いインドの小国の王子として生まれ、なにひとつ不自由のない王宮で育った、ということになっていますが、現代の学者の研究では、本当はあまり裕福な王室ではなかったようです。十六才で迎えたお妃との間に一子をもうけた他に、三人の妃がいたとも言います。
 その後、お釈迦様は、城を抜け出して修行の生活に身を投ずるようになりますが、その原因となったのは、城の四方の門から外出しようとして、老人、病人、死人、出家者に遭遇し、自分の進むべき道を直感したと言われています。
 案外、継母やお妃とうまく行かなかったり、王室の内情が火の車だったのかも知れませんが、苦しみからの脱却が目的だったことは間違いありません。
 出家したお釈迦様は、六年間にわたって、非常に苦しい修行を続け、ついに倒れたところに通りかかった村娘=スジャータのくれた、乳のおかゆで命が助かり、この時「なんだこんなに苦しかった修行よりも、一杯のおかゆのほうがはるかに素晴らしく、私の命を救ったではないか」と瞬間に「悟り」を開き、「仏陀」になりました。
 「悟り」を開いたお釈迦様は、さらに瞑想を続け、「悟り」は苦行で得られるものではなく、瞑想によって、ある瞬間に得られることに気付きます。
 よく、お釈迦様は生まれつきの貴種で、白象の夢を見て妊娠した母親のわきの下から生まれ、生まれたとたんに七歩歩いて上下を指差し「天上天下唯我独尊」と言った、ということになっていますが、本当は、ごく普通の悩める青年が「悟り」を開いて「仏陀」になれたことにこそ、仏教の素晴らしさがあるのです。

 こうして、「悟り」という究極のノウハウを持つ仏教は、世界の三大宗教と言われるほどに普及するようになりましたが、一般の人にとって、出家・修行して「悟り」を開くということは、とても容易なものではありませんし、出家したからといって、誰でも「悟り」を開けるわけでもありません。

 はじめにお話ししたように、「守護仏」または「如来蔵」という考え方は、どんな人でも、心のなかには仏の種(仏胎)が宿っており、仏の種を覆い隠しているカラを取り除いてやれば、誰でも仏と一体になれる、というものです。
 自分の守護仏を知り、信仰と意志によって仏と一体になるということは、つまり知っているとおりに行動できるということになりますから、「悟り」を開いて仏になることとまったく同じ意味になります。
 もちろん、「守護仏」と一体になるためには、修行が必要ですが、本来あるべき自分の姿にもどるだけで、そのモデルもはっきりしていますから、瞑想によって「悟り」を開くことと比べますと、はるかに楽な修行と言えます。
 なぜなら「悟り」は、ある瞬間に得られるもので、いくら瞑想を続けても、いったい、いつになったら悟れるのかわかりませんし、悟る前の人はいつまでたってもただの人で、半分は悟ったとかいうことはありません。お釈迦様だって、悟りを開くまでは、ただの悩み多き青年だったのですから。

 悟った人は、社会生活にも順応でき、自然と人々の尊敬や人気を得られ、出家をやめても困ることもありませんが、まだ悟れない人は、出家をやめたら社会生活が困難なことになりがちです。
 それに対し、自分の「守護仏」を知っていれば、守護仏と一体になれるまで待っていなくても、その仏様の性格や特長に従い、スタイルをまねて生活しているだけで、人々に魅力を感じさせ、対人関係がよくなり、仕事や学業がうまく行くようになります。つまり信仰さえあれば、出家する必要もありません。



 第二章 自分の守護仏を知る


 守護仏は、大きく、次の三種類に分けられます。

     如来
     菩薩
     明王

 如来は、仏の道をすべて完成し、真理そのものを代表する、次の六柱の仏様です。

     釈迦如来
     成就如来
     大日如来
     宝生如来
     阿弥陀如来
     薬師如来 

 菩薩は、仏の道を歩み、他人も一緒に仏の道に導こうとする、次の八柱の仏様です。

     観音菩薩
     地蔵菩薩
     金剛菩薩
     虚空菩薩
     文殊菩薩
     普賢菩薩
     勢至菩薩
     弥勒菩薩

 明王は、如来や菩薩を助け、その代理をつとめる、次の五柱の仏様です。

     不動明王
     孔雀明王
     軍荼明王
     愛染明王
     三世明王

 誰でも必ず、これら十九柱の仏様のどれかが、その人の守護仏に該当します。これらの仏様は、違う名称で呼ばれることがありますが、ここでは、より一般的と思える名前に統一してみました。
 次に、自分の守護仏が、このなかのどの仏様であるかを知らなければなりません。

 

 

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エッ!「空即是色」は間違い?2007-02-04

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『般若心経は間違い?』の間違い(十五) その2 10年経っても反論できない? 2007-10-31

 

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           ☎Fax 0267-22-0001

 〒384-0801 長野県小諸市甲4655-15 中国占術研究所

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